クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

男声合唱曲の思い出

 先日バスに乗っている時、スマホで youtube にどんな動画があるのか検索していました。すると「いそべとし男声合唱団創立45周年記念演奏会」という動画のあることが分かりました。

 私は大学生の時、男声合唱サークルに属し合唱を楽しみました。磯部俶という方は男声合唱曲を作曲していることで男声合唱をする人にはよく知られている方です。私もこの方の作曲した「遙かな友に」「ふるさと」を学生の時に歌いました。「遙かな友に」は合唱する人にはよく知られた曲だと思います。「ふるさと」は室生犀星の「ふるさと」という詩に曲をつけたものです。「ふるさとは遠きにありて思ふものそして悲しくうたふもの」。家に帰って動画を見ました。素晴らしいハーモニーで懐かしく、感動しながら聞きました。
 そして学生時代、合唱サークルで色々な歌を歌ったこと、そして「遙かな友に」「ふるさと」という素晴らしい曲を歌えたことを思い出しました。自分が歌っている時はいい曲だと思っていましたが、それだけでした。でも今合唱を聴くと本当に心に響く曲だと思います。そして今、この二つの曲を歌えたことはいい思い出だと思わされました。
 歳をとり、新しい思い出を作ることは少なくなりましたが、過去を振り返り、思い出を振り返る時、この人生を生きることができてよかったなと思うことができるのは幸いです。思い出を振り返ることは、この人生を神さまに感謝することにつながるのではないかと思いました。

遙かな友に

静かな夜ふけに いつもいつも
想いだすのは おまえのこと
おやすみやすらかに たどれ夢路
おやすみ楽しく こよいもまた

サザンカ 萬葉植物園

 

過ぎ去った日々を覚えて 牧師隠退に至る経緯

詩編 143:5
私は過ぎ去った日々を思い起こし、
あなたの行ったことを一つ一つ思い返し、
御手の業に思いを巡らします。
(聖書協会共同訳)

 60才後半になって牧師の働きから隠退することを考えるようになりました。隠退など考えず、できる限りは牧師の働きを志す方もおられます。でも私の場合は、年を重ねて務めを続けることにしんどさを感じるようになっていました。特に教会員の葬儀に関わることに肉体的なしんどさを覚えるようになりました。たとえば深夜に亡くなったとの知らせを受けると病院または自宅を訪ねて祈り、それから葬儀屋さんに来てもらって葬儀の打合せをします。打合せが終わって教会に戻ったら夜が明け始めていたということもありました。そして慌ただしくも前夜式、葬儀の準備です。若い時は頑張れたのですが、年をとってくると大変さを覚えます。それで隠退を考えるようになりました。世間的にいえば、60才後半は、定年退職をしている年齢です。

 大学卒業して一度も同窓会に出たことはなかったのですが、どういうわけか一度だけ出ておこうとある時考えて金沢から東京に出かけました。その折りキリスト教書店に立ち寄り、「ミニストリー」という季刊誌を目にし、牧師の隠退を特集していることがわかり、購入しました。それを読んで、70歳になったら隠退をすることを決めました。私は神の導きを感じました。

 これまで一度も行ったことのない同窓会に行くことにし、立ち寄ったキリスト教書店で、隠退を特集する季刊誌に出会ったことは偶然ではなく、隠退していいよとの神さまのメッセージと受けとめました。隠退する予定の一年半前には長老会、教会総会で牧師辞任の件を承認してもらいました。後任の牧師が備えられるように教会全体で祈り始めました。

 隠退後どこに住まいを定めるか、大きな課題でした。妻の母が金沢市内の老人施設で生活していましたので近隣の小松市に転居を考えました。長女が小松に住んでいたのです。転居先を探している時、次女が双子を妊娠したことが分かり、手伝いに行く必要があると判断しました。すると妻の母が、暮れに亡くなり、翌年の4月に次女の住む奈良に転居できました。母を残して金沢を去ることはできないと思っていましたが、母が亡くなったので奈良に転居することができました。

 一連の出来事を振り返る時、神さまの導きの中にあったことを思い、感謝でした。今、奈良に来て8年たちました。牧師のいない教会に説教奉仕をする機会も時々与えられて、これも神さまの導きと感謝する日々を送っています。私の人生を導いてくださった神さまを崇め、たたえます。

ロウバイ 散歩道

 

キリスト者は聖なる者

ローマ
1:7 神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。

 福音を聞いてイエス・キリストを信じた者は、「聖なる者となった」とあります。洗礼を受けてキリスト者になった人は聖なる者になったとあります。不思議な変な話しに思えます。聖なる者、ですよ。

 あなたは洗礼を受け聖なる者とされたんですと言われて、どう思うか、です。ほとんどのキリスト者は自分が聖なる者とされたなんて、信じられないと思います。そこで「聖なる者」を正しく理解することが大切です。

 聖書には、「聖別」という言葉が出てきます。あるものを聖なるものとして他のものとは区別するという意味です。神殿に用いられるさまざまな道具は、清めの儀式を通して、聖なるものとされます。儀式を経ないものはただの道具で日常生活に使われます。

 神さまは洗礼を受けてキリスト者になった人と洗礼を受けていない人と区別されます。神さまはキリスト者を聖なる者とし、洗礼を受けていない人と区別されます。キリスト者は聖なる者であり、神を礼拝し、神を信じて生きていきます。聖なる者とは、神を信じて生きる者、との意味です。行いが立派な人、聖人という意味ではありません。この「聖なる者である」という自覚は大切で、キリスト者は聖なる者とされているので、少しでも神の御心にかなう信仰者になるべく努力をします。

 キリスト者は罪を犯しますし、神の御心に反するような思いが心に浮かんできたり、罪を犯すこともあります。自己中心的に物事を考え罪深いことは確かです。でも神さまは、あなたは聖なる者であり、それゆえ、聖なる者として歩みなさいと励ましてくださいます。

 聖なる者、これはキリスト者のアイデンティティーです。神の子であり、義とされた者、これらもキリスト者のアイデンティティーです。自分の目には、キリスト者であっても罪深い者ですが、神さまは、キリスト者のことを聖なる者、神の子、義とされた者と見てくださることを喜び、それゆえ、そのアイデンティティーにふさわし歩みを心がける、それがキリスト者であると私は信じています。

スミレ。買物の帰り道の道端で

 

イエス・キリストのもの

ローマ 1:5~6
わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。

パウロは福音を宣べ伝えました。それはイエス・キリストを信じた異邦人(ユダヤ人でない人々)をイエス・キリストのものにするためとあります。

 異邦人キリスト者である私たちは、イエス・キリストのものとなるように召されているというのです。私はイエス・キリストのものとして生きているのでしょうか。そもそもイエス・キリストのものとはどういうことなのでしょうか。

 奴隷制が存在していた時代、奴隷は主人のものでした。主人のもの、つまり主人の所有物でした。それゆえ主人に対して絶対的服従を強いられました。それゆえイエス・キリストを信じた者、つまりキリスト者はイエス・キリストに対して絶対的服従を強いられるのでしょうか。それだったらキリストのものになるなんて絶対にいやです。

 イエスは次のように語ります。

マタイ 16:24
それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

 キリストのものになるとは、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスに従うこと、絶対的な服従を意味しているのでしょうか。「キリストのもの」は奴隷制ではなく、別のイメージを考えるとよいと思います。それは羊飼いと羊のイメージです。

詩編23:1~2
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。

 キリストは羊飼いであり、キリスト者は羊です。キリストという羊飼いに養われることによって羊は幸いなのです。羊は羊飼いなしでは生きていけません。迷子になり、飢え死にするかも知れないし、獣に襲われて死ぬかもしれません。羊は羊飼いなしでは生きていけません。羊は羊飼いのもとで生きていきます。羊飼いと羊の関係、それがキリストとキリスト者の関係なのです。

 イエスご自身、自分が羊飼いであると語っておられます。

ヨハネ 10:11
わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

さらにイエスは語ります。

ヨハネ 10:14
わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。

 羊飼いは羊のことを良く知っていてくださいます。羊が迷子になっていなくなれば、見つかるまで探してくださいます。そして羊も羊飼いを知り、羊飼いに信頼します。信仰とは、羊飼いなるキリストに養われることです。羊飼いなるキリストに従うことです。羊飼いと羊の関係性に生きる、それがイエス・キリストを信じると言うことです。

 キリストを羊飼いとして生きるように、私たちは召されていると信じます。私はキリストのもの、アーメンです。

寒い雨の中、咲いています。教会へ行く途中

 

信仰の従順について

ローマ 1:5
わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。

 洗礼を受けてクリスチャンになったなら、ほとんどの人は神に従って生きていきたいと考えるのではないでしょうか。つまり、すでに信仰の従順へと導かれているのです。神さまは、信仰の従順へと導いてくださったのです。礼拝に出席する、聖書を読む、祈る、これらは信仰の従順の歩みをしている証しということができます。

 でも信仰の従順といえば、神さまの教えに従ってこその従順と人は考えると思います。そして、神の教えに従うことがどれほど達成できているのかを考え、自分なりに達成していると思える時、人は従順に歩めていると考えるのではないでしょうか。そして達成できていないと思う時、自分は従順ではないと考えるのではないでしょうか。

 達成ということを抜きにしても、自分の中に罪の思い、神の教えに反する思いがあるのを知っているので、自分は信仰の従順とは無縁であると考える人も多いのではないでしょうか。

 人はキリスト者になっても、自分の心の中に罪の思いが湧いてきたり、神の教えに反する思いを抱くのは当然のことと私は考えています。信仰者が生きている限り、これらの思いから完全に解放されることはありません。悪しき思いを抱くのはキリスト者にとって当たり前のことなので、このことのゆえに信仰の従順は、自分とは関係ないと考えるのは間違いであると私は考えます。悪しき思いが湧いてくるかもしれませんが、それでもなお神さまの教えに生きて行こうと考えるのがよいと思います。自分は信仰の従順とは関係ないといって、神さまの教えに従うことを諦めるなら、やめてしまうなら、それはクリスチャンであることをやめることになるのではないでしょうか。

 キリスト者が神の教えに従うことができず罪を犯すゆえに、信仰の従順は自分とは無縁である、あるいは自分は従順ではないと考える人がいると思います。そもそも神さまの教えに従うことができるなら、キリストによる救いなど必要ありません。キリスト者になったからといって、完全に神さまの教えに従うことができるわけではありません。

 罪を犯すのはキリスト者にとって当たり前のことです。だから悔い改めの祈りをし、赦しを神さまに求めます。

 キリスト者がどれほど神さまの教えを実行できているのか、その達成度によって自分が信仰の従順の中にあると判断するのはよくないと私は考えます。達成度によって信仰の従順は自分とは関係ないと考えるのもよくないと思います。神さまの目から見れば、私たちの達成度は、満点にはほど遠いと思います。

 大切なのは、神さまに従おうとする思いを抱き、従おうとする歩みを続けることです。従順に生きようとする努力、これが大事だと私は考えます。大事なのは神さまに対して忠実に生きていこうとする姿勢です。常に忠実に生きようとすることです。それが信仰の従順であると私は考えます。この信仰の従順は、洗礼を受けたキリスト者すべてに与えられています。

 心の中に悪しき思いが湧いてこようと、実際に神の御心に背くことをしても、それでもなお神さまに従おうとする歩みを続けるのが信仰の従順であると考えます。

 神さまに従おうとする歩みをあきらめないで下さい。自分は神さまに従うことのできない罪深い者なのだと考えて、従うことをあきらめないで下さい。神さまに従おうとする心を持ち続ける、それを神さまは喜ばれると私は信じています。

サザンカ

 

問いかける聖書

 私が礼拝出席している奈良高畑教会の夜の祈祷会では、聖書を読んで各自が感じたこと、思ったこと、考えたことなどを分かち合っています。最初に司会する牧師から聖書箇所についての簡単な説明があります。

 昨日は、私にとって大切な聖書箇所が選ばれました。内心うれしく思いました。ローマの信徒への手紙1章1~7節でした。

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 1:1 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――
 1:2 この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、
 1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
 1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。
 1:5 わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。
 1:6 この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――
 1:7 神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
~~~~~~~~~~
 パウロは、神の福音を宣べ伝えるために使徒として選ばれたこと、福音は御子イエス・キリストに関するものであること、御子はダビデの子孫から生まれ、活動の末に死にましたが死者の中から復活しました。使徒パウロは御子イエス・キリストを宣べ伝えます。

 パウロが異邦人に福音を伝えるのは、異邦人を「信仰の従順」へ導くためでした。信仰を得た者は「キリストのもの」となるように召されているとあります。さらに信じた者は召されて「聖なる者」になったとあります。

 パウロは福音を世界に広める努力をして、ローマにいる信徒たちを励ますためにこの手紙を書いています。この手紙は、ローマの信徒に向けて書かれています。そしてパウロの宣教は、代々の教会による宣教へと受け継がれました。そして日本にまで福音は宣べ伝えられ、私たちもキリストを信じる者とされました。

 つまり、キリストを信じる私たちは信仰の従順へと導かれ、召されてキリストの者となり、召されて聖なる者となったと聖書は告げていることになります。私は、信仰の従順に生きているのか、キリストの者として生きているのか、聖なる者として生きているのか、問われていると感じました。

 そこで私は祈祷会で「信仰の従順に導かれている、キリストのものとなるように召されている、召されて聖なる者にされている、とあります。あなたはどうなの、と私は問われたような気がします」と私の感想を話しました。

 感想を互いに語り合い、その語り合いが深まることを願い、祈っています。

木立ダリア

 

礼拝説教 お言葉どおりこの身になりますように

昨日、礼拝説教奉仕を行いました。その説教を紹介します。

新約聖書 ルカ福音書1章26~45節
説教 お言葉どおりこの身になりますように

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0.はじめに

→天使がマリアにあなたは男の子を産むと告げました。
そしてマリアは、「お言葉どおりこの身になりますように」と告白しました。
私たちも「お言葉どおりこの身になりますように」との告白をしてもよいのではないか、と私は教えられました。
今日はそのことをお話ししたいと思います。

1.聖書から天使とマリアのやりとり

→6ヶ月目に天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされたとあります。
6ヶ月目というのは、天使ガブリエルが祭司ザカリアに、彼の老いた妻エリサベトが子を宿すと告げたときから、6ヶ月目ということです。
天使は、子供を産むには年を取り過ぎたエリサベトが子を産むことを告げたのです。
聖書には、子を産めない女性が神から子を授かるという話が幾つもあります。
授かった子は後に神さまに用いられる働きをします。
今、神は天使ガブリエルをガリラヤの町ナザレに遣わします。
天使は、ダビデ家に属するヨセフの婚約者マリアのところへ行きます。

ルカ 1:28~29
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。

→これを聞いてマリアは戸惑いました。
いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだとあります。
こんなことを言うなんて、この人は何者、と思ったに違いありません。
聖書は天使ガブリエルと書いています。
そのことはマリアには分かりません。
目の前の人が神に遣わされた人であるなんて
考えもしなかったと思います。

→「あなたは恵まれた方。主があなたと共におられる」。
具体的にどういうことが言われているのかわからず、マリアは戸惑います。

→マリアが考え込んでしまったので、天使は同じ事を繰り返します。

1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。

→そして天使はさらに続けます。

1:31
「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。

→マリアは心の中で思います。
<私はヨセフと婚約しているから、結婚して子どもができたらイエスと名付けなさいと言っているのかしら>。

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