ローマ 1:5
わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。
洗礼を受けてクリスチャンになったなら、ほとんどの人は神に従って生きていきたいと考えるのではないでしょうか。つまり、すでに信仰の従順へと導かれているのです。神さまは、信仰の従順へと導いてくださったのです。礼拝に出席する、聖書を読む、祈る、これらは信仰の従順の歩みをしている証しということができます。
でも信仰の従順といえば、神さまの教えに従ってこその従順と人は考えると思います。そして、神の教えに従うことがどれほど達成できているのかを考え、自分なりに達成していると思える時、人は従順に歩めていると考えるのではないでしょうか。そして達成できていないと思う時、自分は従順ではないと考えるのではないでしょうか。
達成ということを抜きにしても、自分の中に罪の思い、神の教えに反する思いがあるのを知っているので、自分は信仰の従順とは無縁であると考える人も多いのではないでしょうか。
人はキリスト者になっても、自分の心の中に罪の思いが湧いてきたり、神の教えに反する思いを抱くのは当然のことと私は考えています。信仰者が生きている限り、これらの思いから完全に解放されることはありません。悪しき思いを抱くのはキリスト者にとって当たり前のことなので、このことのゆえに信仰の従順は、自分とは関係ないと考えるのは間違いであると私は考えます。悪しき思いが湧いてくるかもしれませんが、それでもなお神さまの教えに生きて行こうと考えるのがよいと思います。自分は信仰の従順とは関係ないといって、神さまの教えに従うことを諦めるなら、やめてしまうなら、それはクリスチャンであることをやめることになるのではないでしょうか。
キリスト者が神の教えに従うことができず罪を犯すゆえに、信仰の従順は自分とは無縁である、あるいは自分は従順ではないと考える人がいると思います。そもそも神さまの教えに従うことができるなら、キリストによる救いなど必要ありません。キリスト者になったからといって、完全に神さまの教えに従うことができるわけではありません。
罪を犯すのはキリスト者にとって当たり前のことです。だから悔い改めの祈りをし、赦しを神さまに求めます。
キリスト者がどれほど神さまの教えを実行できているのか、その達成度によって自分が信仰の従順の中にあると判断するのはよくないと私は考えます。達成度によって信仰の従順は自分とは関係ないと考えるのもよくないと思います。神さまの目から見れば、私たちの達成度は、満点にはほど遠いと思います。
大切なのは、神さまに従おうとする思いを抱き、従おうとする歩みを続けることです。従順に生きようとする努力、これが大事だと私は考えます。大事なのは神さまに対して忠実に生きていこうとする姿勢です。常に忠実に生きようとすることです。それが信仰の従順であると私は考えます。この信仰の従順は、洗礼を受けたキリスト者すべてに与えられています。
心の中に悪しき思いが湧いてこようと、実際に神の御心に背くことをしても、それでもなお神さまに従おうとする歩みを続けるのが信仰の従順であると考えます。
神さまに従おうとする歩みをあきらめないで下さい。自分は神さまに従うことのできない罪深い者なのだと考えて、従うことをあきらめないで下さい。神さまに従おうとする心を持ち続ける、それを神さまは喜ばれると私は信じています。

サザンカ