この作品は「ワン・バトル・アフター・アナザー」にも見受けられるような時代の潮流に対する答え合わせとしての側面を抱えているが、違いを挙げるとすればこの「アフター・ザ・ハント」におけるZ世代の若者たちの描かれ方はひたすらに「面倒臭い奴ら」としての印象が強く、ウォーク的な価値観に対しては明らかに挑発的だ。主人公のアルマ(ジュリア・ロバーツ)が自身の過去と未来の縦軸、そして現代での人間関係の横軸という構図において上下左右から静かに圧迫され続け文字通り身動きが取れなくなる物語のプロットは、「正しさ」に対してある程度の見切りをつけなければ描けないものが生じてくるだろうという作り手側の切迫感とリンクしているようでやはり切実さを感じさせる。この全方向からの圧迫がピークに達する瞬間の、素朴な人間の良心が闇の中で小さく光を放つかのような病床におけるショットは美しかった。主人公と作り手、そして作品を鑑賞する我々の抱える緊張感がひとつに折り重なると同時に断ち切られる大胆なエンド、さらにはその後のEverything But The Girl “Nothing Left To Lose”はひとつの年代への鎮魂歌としても響く。
「見はらし世代」鑑賞後メモ
棲み分けについての作品なのだろうと思う。過去の出来事を自分自身から切り分けて透明な壁で隔てながら望ましい方角に歩み直すような、ある種の人間の成長プロセスを都心部の再開発の光景と重ね合わせていくような映像の見せ方になっており、特に象徴的に映し出されるのは渋谷のMIYASHITA PARK 。今では多くの若者で賑わうこの場所だが、旧宮下公園にはかつて多くのホームレスが暮らしていたという事実もある。切り分けるもの、残すものを選んで線を引き、新たなものを構築し始める。その無数の繰り返しによって都心には「清潔」な建物や通りが増え続けていく。
ただ、そもそも人間はそういった都心部の再開発工程のようにあらゆる物事を自身の中で棲み分けながら生きていくことが本当に可能なのかという疑問がおもむろに浮かび上がり始める。実際、主人公である高野蓮(黒崎煌代)は物語の序盤において疎遠になっていた父の初(遠藤憲一)との再開を果たすタイミングで一度は激昂するもその少し後になるとひとり車中で泣き出すといったような具合で、家族に対する複雑な心情を消化しきれないまま生きていることが端的に示される。
しかし、そこからの展開がまた今作の特徴的な面でもある。かつて蓮やその姉の恵美(木竜麻生)がまだ幼かった頃の家族旅行で立ち寄ったサービスエリアは作品冒頭において電球の光の明滅とともに印象的に描かれるが、その10数年後に再び同じ場所で家族が集まることになる。そこでは特に感情的なやり取りが生まれることはなく、初は黙々とカレーライスを食べ、蓮もそこに共鳴するかのようにレバニラ定食(だと思う)を美味そうに食べ続ける。そしてそれを麻生はただ黙って見守る。簡単な解決や関係性の修復に着地することはなく、思い出の地の景色がただ気になっていたからとりあえず確認をしに来ただけのようなある種の呑気さがそこにはある。
先述したような「家族に対する複雑な心情」のような感情的な問題を、時間の経過による忘却に近いようなある種の身体性が上回っていく瞬間が、理性的な棲み分けという概念と対になるように描かれているようにも思える。その対称性がピークに達するのは、電動キックボードに乗る若者たちを映し出すエンディングのシークエンスなのではないだろうか。移動を重ねることでかつて見ていた景色が後景化していく、「見はらし」と化していくかのような終わり方。
「ワン・バトル・アフター・アナザー」鑑賞後メモ
現代の政治状況を前提とするための風呂敷を広げるのにものすごい手間をかけている作品だなと、最初の1時間くらいを観ながら感じていた。
テロリズムによる革命闘争を行う集団である”フレンチ75”におけるリーダー格の女性であるペルフィディア(テヤナ・テイラー)と、彼女によって偶然にもその固有の性癖を強く刺激させられてしまった軍人のロック・ジョー(ショーン・ペン)のふたりが関係を持つことによってその集団をめぐる事態が徐々に拗れていく様子が割としっかり描かれる。爆弾テロや銀行強盗を行う際に彼らが口にするのは人種差別的な被害を受け続けている者たちによる、否定しようのない真っ当な社会的メッセージなのだけれど、これがどこか間抜けな調子に響くように設計されているのはウォーキズムの過渡期をすでに経たが故であろう。かといって、いわゆるトランプ支持者のような層に属する人間たちが美しく見えるわけではなく、これもまた今にも底が抜けそうな脆弱性を孕んだ見え方になっている。左も右もなんだか疲弊し切った世界、という前提が1時間くらいかけて視覚化され、構造として示される。
冒頭の場面から10数年が経過し、主人公であるボブ(レオナルド・ディカプリオ)とその娘であり高校生になったウィラ(チェイス・インフィニティ)との関係を中心に据えたパートが始まる。ペルフィディアは革命闘争の末に失踪しており、ボブとウィラは樹木に囲われた人目につきにくい家に暮らしている。ウィラが通う空手教室にはベニチオ・デル・トロ演じる”先生”がおり、作品中盤から始まるボブの逃走劇においてはある意味主人公よりも面白い存在として活躍する。プエルトリコ出身のデル・トロ先生が中心となって連携を行っている移民の人々らによるコミュニティは確固たる信頼をベースに関係性が築かれており、警察による不法移民を取り締まる強制捜査が行われる場面における彼らの情報伝達や避難先への移動、安全の確保を行う作業の迅速さと精度の異常な高さには思わず笑みがこぼれてしまう。ボブが逃走を強いられることになるのも序盤で描かれるペルフィディアとロック・ジョーの拗れた関係性に起因するものであり、ここにおいて今作の主題は昨今の政治状況を前提とした”血”を巡る争いであることが明確になっていく。
社会を生きる中で自身や他者のイデオロギーについて思いをめぐらせることはもちろん重要なことではあるはずだが、それだけをベースに築かれたコミュニティの脆弱な側面を”フレンチ75”という集団におけるある種の交通性の悪さを通して描いており、結果としてボブを生かすのは先生が信頼と敬意によって築き上げたコミュニティの柔軟性となっている。ただ、この作品が(特に中盤以降)面白いのはそれらをさらに超えた偶然性の身も蓋もなさが展開をドライブさせていくところであり、そこに先述した要素が絡み合うことであらゆる戦いが次から次へと絶え間なく発生する活劇となっている。
「劇場版『チェンソーマン レゼ篇』」鑑賞後メモ
ここ最近映画館で見た作品には何故かどれも共通して海が出てきた。美しく広がる景色として、あるいは現在地とまだ見ぬ世界とを隔てる大きな境界線として。作品によりさまざまな意味合いを含んでいるが、「劇場版『チェンソーマン レゼ篇』」においては、主人公のデンジとレゼが身と心を寄せ合う場として象徴的に描かれている(ふたりが初めて水の中に一緒に入るのは真夜中の学校のプールだが)。その場面だけ思い出すと透き通るような美しさのラブストーリーみたいな印象だけ残ってしまいそうだけれど、そもそもデンジはマキマに好意を抱いていたりパワーの胸を揉んでいたりと、現代の価値観からすれば純愛的な美しさからは遠くかけ離れた側面を抱えてもいる。アヴァンタイトルでデンジが夢から目覚めた直後に映し出されるアキの部屋のリビングのように彼の欲望は散らかり放題で、整理が追いつかないままぐちゃぐちゃにあらゆるものが混ざり合っていく場としての海でもある。
作品終盤のデンジとレゼのバトルにおける各キャラクターや画面の動きも象徴的で、台風の悪魔が発生させる竜巻によりあらゆるものが回転しながら前後左右に動き続けながらバトルが展開される。動きのみならず、時折画面の色彩が反転するようなエフェクトや血飛沫の代わりに極彩色のペンキが飛び散るようなビジュアルの演出も混ざり合うことで、人体の切断描写や内臓が飛び出る瞬間が多くあるにも関わらずそれが気にならなくなるほどに過剰でポップなぐちゃぐちゃ感がエスカレートしていく。
そのはずなのだが、作品のトータルの見応えとしてはなんだか不思議とあっさりしている。単純に主人公のデンジは悩まない体質のキャラクターというのもあるが、それ以上に物語としてはテレビシリーズの続きの内容という域を出ない原作通りの構成であり画角も基本的には同じ(米津玄師の”IRIS OUT”とともに描かれるデンジとアキがパワーを引きずりながら出勤する様子は原作では省略されている部分だったのでここは個人的に見ていてとても楽しかった)。そういったことは鑑賞前からある程度想像はつくことでもあってそのつもりで劇場まで足を運んではいたが、いざ実際に見てみると実写映画から感じられるようなカタルシスは皆無でそれよりも深夜テレビでアニメをぼーっと見ていた時の陶酔感に近い安らぎを暗闇の中で久々に思い出した(実際アニメを見ていたわけだが)。
手書き感を残したまま実写の人間に近い身体の揺れ動きをも見せるアニメーションのクオリティの高さはもはや言うまでもないが、そもそも近年のアニメーション作品においては声優陣の声質の透明感とそれを伴いながら繰り出される台詞が織りなすフロウ、そしてそれらのアンサンブルの心地よさが音楽的な快楽性をも付与している側面があるのではないか、要はミュージックビデオにも近いのではないかと思えた。「ぐちゃぐちゃ」と「透明感」が静かに同居する海の中に自分はいた。
「海辺へ行く道」鑑賞後メモ
先月見たウォルター・サレスの「アイム・スティル・ヒア」に続いて横浜聡子の「海辺へ行く道」もまた、自分がこれまであまり見たことがないタイプの映画だった。複数の主要な登場人物により展開される物語とそれらが表象するテーマやイシューが、直線で具体的な辻褄を伴いながら繋がっていくというよりは物語の舞台となる島を中心にそこからまるで水面に広がる波紋の如く円形に広がり続けていくかのような印象を抱いた。同じ島を舞台とした3つの物語によるオムニバス形式が採用されているのも特徴的であり、また主人公の南奏介(原田琥之佑)をはじめとした登場人物らの内面や、度々巻き起こる出来事の顛末に関する描写も省略されている部分が多いため、ある種心地の良い空白を感じながら観客が想像を自由に膨らませることも出来る余地が残されている。
鑑賞前にSNSなどで散見された感想にはアートとお金に関する作品だという印象を述べたものが多く見られたが、実際に鑑賞してみると静的な作品のトーンと相反するかのようなとてつもない情報量の多さにも圧倒された。芸術と経済という領野がある意味では共通して抱えているある種の欺瞞性に関する言及が中心にありながらも高齢化社会とそれに伴う介護者やヤングケアラーの存在、キャンセルカルチャーをはじめとした「善」と「悪」という二項対立の構図を現代の感覚でどう捉え直すかといった問題提起も同時に為されている。画面のアスペクト比は全編通してスタンダードサイズであるが窮屈さを感じることはなく、省略話法的な語り口によってむしろ作品を鑑賞している自分自身の中にまで物語内で提示されるイシューの緊張感が波及し、新しい思考の領域が開かれていくかのような感覚さえあった。「真実」と「嘘」を自在に行き来するかのような脚本と演技、物語の構成や舞台設定は相反するふたつのモノ同士を隔てている(と思わされている)境界線それ自体をも作品内部に丸ごと取り込んでいってしまう。
「アイム・スティル・ヒア」鑑賞後メモ
実話ベースのドキュメンタリー的でドライな筆致と、映像作品としての豊かさとが半々で構成されているような、個人的にはあまり観たことがないような不思議な作品。70年代の南米において軍事政権による独裁的な行為がどのように横行していたのかを映像として垣間見ることが出来るだけでも勉強させてもらえるいい機会なのだけれど、そこに主演のフェルナンダ・トーレスらをはじめとした俳優陣の演技と光り輝くリオデジャネイロの海辺が特に印象に残るような映像美も添えられている。
女性たちによるやり取りが中心となる場面が多い作品でありながらも押し付けがましいフェミニズムはそこにはなく、ひとつの役柄に悪の象徴としての役割を担わせることで生まれるような単純な対立の構図があるわけでもない。安易な紋切り型に陥ることを丁寧に避けているような印象を受けた。性別や年齢を問わず皆それぞれ(犬も含めて)が優しさと思いやり、そして無念を抱えてその時代を生きている様を基本的にはゆったりと穏やかなトーンで描き出している。
軍事政権に対する反抗の戦術として反体制組織による大使の誘拐が実行されていたそうなのだが、それにまつわる極端に辛い直接的な描写は作品中ではほぼなく、あくまで婉曲的な仄めかしを通して当時の凄惨な状況が伝えられる。
作品を鑑賞しながらこれらの点に意識が向けられることでこれはひとつの映画として「記録する」という概念や行為の持つある種の普遍性について改めて思考を促そうとする側面を持つものでもあると感じられた。作中の登場人物によって8mmカメラによる家族や友人らとの思い出を記録した映像が差し込まれるのも非常に印象的で、他者の記憶と自分の意識とが接続する瞬間の強い結びつきの力がそこで強調されているようにも思える。そこにこそ「記録」という行為が持つ普遍性が宿っているのだと言わんばかりに。
ちなみに、以下の記事が鑑賞時やこの文章を書く際など非常に参考になりました。
「私たちが光と想うすべて」鑑賞後メモ
真面目に対話をして、他者の考えに想いを馳せながら同時に自分自身の視点も相対化して見つめ直すことを試みる。それは時間と労力をたっぷりとその場に注ぎ込む必要があるような、現代においてはもはや贅沢な行為にも思える。タイパ、コスパという名の強迫観念が体感時間を加速させるような社会において、おそらくは性別や国籍、年齢や貧富の差を問わず誰もがそういったことに対しては似たような煩わしさを少なからず感じてしまうことが多いはずだ。まるで校庭に引かれた、土埃で薄くなって消えかけたファウルラインを土台に草野球の試合を始めなければならないかのような気怠さ。ただ、今はその線をあまりにも不用意に飛び越えていくかのような言葉が多すぎて、本来あるべき形での試合進行はまるで滞っている。効率性だけでは成立しない関係性はある。草野球の試合はまずグラウンドを整備して試合用のユニフォームを着た状態で、対戦する球団同士が礼をするところから始まる。要は根底に相手を尊重する心があった上ですべてが成り立っている。それがないのなら、ただ殴り合いをするのとなんら変わりはない。
インドの都市ムンバイにおける目まぐるしい都市開発と格差社会を背景としながら医療従事者である女性ふたりのシスターフッド的な繋がりを描いた「私たちが光と想うすべて」には特に草野球についての描写はないが、今やひどくありきたりで非効率的で陳腐と見なされていそうな些細で静かな人間同士の対話を描いている。そう、思わず笑ってしまいそうなほどに穏やかでゆったりとしている。ただ、いくらでもシリアスな作品として提示出来るような主題を掲げたうえででかなり快適な「ちょうどいい感」にまとめてあるところに、現代のアメリカやヨーロッパの作品には無いような懐の深さを感じた。雨が降るムンバイの情景と穏やかにじっくり見せるやさしいセックスのシーンはどちらも本当によかった。