№1069 人事異動事務   

 保育所の担当になって三年目を迎えようとした一月終わりころ、上司より新年度の職員配置について取り掛かってみないかと勧められた。入所受付事務多忙であり経験もしたことも無いことでもあり断っいた。しかし上司は「いずれかは避けて通れない業務なので受けて欲しい。」とのことであった。

 人事異動業務は、総務課の人事担当が各課長から聞き取りをしたものを参考に原案を作り、上司と協議し決定するのが通例だそうである。しかし保育所は出先機関で職員一人一人の素質や性格等を把握するのは困難で、所長から聞き取りをすれば終始が付かないくらい、様々な要望等があり参考にできならしい。当時、保育所の全職員は60数名くらいであったが、福祉課長と言えども全職員を掌握できなかった。

 その中で保育事務担当者は常日頃より所長より各職員の仕事ぶりを聞かされたり、職員と接する機会も多く、全職員の顔と名前が一致することが出来た数少ない人材であった。そうは言っても全職員の仕事ぶりやすべて掌握しているわけではないが、上司によると微に入り細言いに入り知りすぎていると、かえって難しいので大まかに分かるくらいが丁度良いとも助言してもらい、気分的にずいぶん楽になった。

 年度末に近く他の事務も多く移動作業ばかりに専念できないが、時間の合間を見つけては少しづつ整理していった。最初に各保育所ごとに職員の在職年数を分別することから取り掛かった。職員の異動は毎年行われているので極端に同一保育所で長期間在職している者は居ない。恒例では三年を目途に移動であるが、中には極まれに五年くらい同一保育所に在籍の場合も見受けられた。このような例は少ないがそれなりの理由がある場合に限られるので、より慎重に対応する必要があった。

 ある程度移動候補者を抜粋すると、以前の在職保育所を調べ可能な限り異なる保育所に配置するよう配慮する。とは言え町内は五保育所のみなので何年かすると以前在職した保育所に配置されるのはや無得ないことである。現在まで在職したことが無い保育所に配置、過去に在職したことの保育所に配置する場合は一定の期間が開いていること等を考慮することは困難であった。

 職員の年齢と保育の経験年数も考慮が必要である。ベテランから、経験の浅い者とバランスよく配置が必要である。
 自宅から職場までの通勤時間も保育所ごとのバランスも必要であった。保育所は延長保育もあり早朝からや夕方遅くまでの勤務もあるため、早出・遅出など出勤当番割当の考慮が必要なためである。

 職員にはそれぞれ個性もあり、責任感の強い職員・ほどほどの職員、安心して任せられる職員・そうでない職員、保育所や所長の方針に沿う保育を行う職員・革新的な考えの職員、職員間で誰とも公平な職員・トラブルばかり起こす職員、保護者との対応が上手な職員・保護者からクレームの多い職員等様々である。これらを見極め、一保育所に集中しないようバランスよく配置す必要がある。

 所長の考えによっては、同じ保育大学卒・配偶者が廿日市町役場勤務者が重なるのは困ると言うのもあった。過去このような例があり支障があったことがあるのだろうか。

 いずれも配慮が必要であるのだろうが、これらすべての条件を満たすのは不可能であろう。たとえ満たしたとしてもすべてが満足な人事配置など不可能であろう。
 むしろ、あまり深入りせずほどほどの条件を満たせば良いのだろうと思ったのが本音である。無い知恵を出しながら、苦労した「新年度保育所は職員配置案」は上司に町長にも「原案通り」と了承してもらえるのが通常であった。

 現在では変わっているかも分からないが、新年度になる三月末一週間前くらいに「新年度職員配置」に内示があった。役場職員には就業時間間際位に一人一人課長から移動対象者に内示があった。
 保育所関係分は、当日三時ころ各所長に集合してもらい一斉に公表し伝えていた。移動内容を見て各所長は言い分があっても余り聞かないことにしていた。内示が出た以上、内容が気に入らなかったり言い分があっても変更することは不可能である。
 
 公表後、所長には5時になって対象者個々に内示を行うよう指示した。人事異動は職員ににとっては大きな関心ごとで、所長がいつ保育所に帰るのか・自分は異動対象なのか落ち着かないらしい。はやくから公表すると、移動対象者は保育業務に支障が生じるので時間厳守とした。

 公表が済むと職員により様々で、移動を予想し淡々とした者。中には涙が出る者。所長に泣きつく者。人事を変更するよう訴える者。千差万別である。

 例えば原保育所に移動となった場合、「あんな遠くには通勤できない。何とか近くの保育所に変更して欲しい。」と言ううようなこともあったらしい。
 現在では廿日市も広くなり、廿日市地区から吉和地区」への異動では分からないでもないが、狭い廿日市町の中、原保育所が遠方過ぎて通勤できないなど他の自治体の人が聞けば笑いものになりそうである。「井の中の蛙 大海を知らず。」とはこのことであろう。

 当日か、翌々日位の夕刻に他の業務で残業していると保育所の職員から「話があるので遅くなっても待っていて欲しい。」と電話が入ることが良くあった。
 内容は聞かなくても分かるが「他の保育所への移動内示を取りやめて欲しい。」と訴えるのが常であった。電話で「話は聞けない。」と言うことも出来るが本人にとっては一大決心で電話したことは推測できるので話を聞いていた。

 話を聞くと、泣きそうになりながら様々な訴えをされる。本人からすれば重大であろうが、聞いてみれば例のごとくと言うか自分の思いを喋りまくり、それに対してそれなりの回答をして、後味の悪い別れをしたものである。

 こうした天下の一大事のようなことがあった後も、何事も無かったような日々が過ぎて、年度末に同じようなことが繰り返されているのだろうか。

# by hirosan_kimura | 2026-01-23 13:47 | Comments(0)

№1068 保育所入所受付事務   

 保育所関係事務は様々の業務があったが、中でも新年度の入所受付事務は多くに時間を費やした。担当業務を担った当初は、事前に保育所に配布した申込申請書を保育所に提出していた。受付終了後に回収し点検すると、記入漏れ・添付書類の不足が多々ありこれを整理するのに多くの手間と時間を費やしていた。このため保育所ごとに日時を定め、担当者が保育所に出向き申請書を保護者より受け取ることにした。書類を受領する際、記入漏れや添付書類・不備事項を点検することにより大幅に改善されるようになった。併せて新入児は必ず親に同伴してもらい、保育所長が面接を行っことにした。保育を始めてから子どもに問題が見つかり、後々保育に支障をきたすという問題も解決することとなった。

 ある年の受付状況を見ると、1月21・22日 廿日市保育所、23・24日平良、25日原、28・29日 宮内、30・31日 地御前、21日役場で受付を行っている。定員の少ない原保育所を除き二日づつ行っている。最後の日は保育所で受け付けできない場合を想定し、夕方5時から8時まで役場で受付を行っている。受付状況は廿日市保育所定員220名、受付数277人、57人定員超え。平良140・157・17。原90・88・△2.宮内232・273・41. 地御前180・195・15。総数では定員853人・申し込み990人・128名の定員超えとなった。申込者は辞退、新規申し込みがあり日々変動している。

 締め切り後に保育所ごとに一覧表を作成し、民生委員に送付した。民生委員は自分の担当区域の児童宅を訪問し、家庭の状況・保育に欠ける理由等を綿密に調査してもらった。その後2月12日午前 平良保育所、午後 廿日市、2月13日午前 原、午後 宮内、2月14日午前 地御前保育所と、各保育所に民生委員・保育所長・保育事務担当者が参集し、児童一名づつ入所可否の審査を行った。

 毎年、保育所の入所受付時期になると開業医のお医者さんが「この時期になると急にお年寄りの診断書の請求が増える。お年寄りが病気で子どもの保育が出来るかどうか証明して欲しいと言われる。病気状は書けるが、保育が可能かどうかまでは書けないので困っている。役場で良く指導して欲しい。」と言われていた。入所審査の際、民生委員はあの老人は健康でピンピンしておられる。保育が出来るかどうかは別として病気とは信じられないと言われたり。

 「母親が病弱で子どもの保育は不可能」とあっても、あの奥さんは元気で子どもはほったらがらしで、いつもパチンコばかりしておられる。とか

「内職が忙しく、子どもが十分保育できない。」とあっても賃金の明細をみると月に数千円の収入しか記載がなく、子どもの保育料にも満たない場合もある。

 保育所の入所は「母親が就労、その他の理由により子どもの保育が出来ないこと。」が必須条件であるが、働いて収入を得るのは二の次で、保育に欠ける理由をあの手この手を使い苦労される保護者も多いいようである。まともな仕事をされない方に「幼稚園に入園されたらどうですか。」と進めると「幼稚園が保育料が高い。」とか「朝は遅く、午後は早く帰るのでやりたいことが出来ない。」と言われる人もある。

 こうして書類の中身、民生委員の意見を参考に審査し入所の可否を決定する。大半の保護者は入所理由がはっきりしているので心配しないが、問題は嘘の証明書を出したもの、無理やり入所理由を作り上げた保護者は、入所決定通知が届くまで冷や冷やしておられることだろう。

 2月17日土曜日に入所決定通知を発送している。決定の決まった人は安堵されるばかりであるが、入所できなかった人は先ず黙っておられない場合が大半である。通知を平日に郵送すると早い人は翌日に怒鳴り込んで来られるので、大抵の場合は土曜日に発送していた。
 受付の締め切り日には128名の定員超過であったが、幼稚園と両方に提出している人も多く、子どもがもう少し大きくなってからとか、転出者・その他の理由もあり「入所不可」の通知をしたのは70名くらいであったと思われる。

 月曜日になるとたくさんの人が怒鳴り込んで来られるので、役場を欠勤したい気分でいっぱいであったがそうもいかない。出勤すると早くも何人かの母親が待ちかねておられる。
 一人ひとり対応しなければならないが、入所できなかった理由を懇切に説明しても「よくわかりました。」と言われることは先ず無い。入所理由がはっきりしている人は問題ないが、入れなかった人は薄々自分が不利なことは分かっているので、最初から大声をあげる人は先ず無い。いろいろ言い訳をされるがそれでもだめなら、自分のことは棚に上げ「何処どこのだれだれは働いていない。」とか嘘の証明書を出しているとか、中には泣き崩れたりこちらが泣きたくなることも多かった。いくら言い訳をされても同じ説明しかできず、中にはあきらめて帰られる人、「町会議員に言いつける。」「あなたは駄目だから町長室に連れていけ。」「女と思ってバカにしている。今度主人を連れてくる。」など様々である。

 中には後日町会議員を同行してこられることもあった。町会議員も様々で説明すれば「良く分かった。」と言われるのが通常であるが、中にはいくら説明しても納得されず「あんたでは話にならない。町長に言いつける。」など脅される議員もあるが、こういう時こそ町会議員としての資質が良く分かるものである。

 遠い昔のことであるが、さまざまな経験をした頃が懐かしい。

# by hirosan_kimura | 2026-01-20 11:39 | Comments(0)

№1067 嘘のような話   

 水道事務所から厚生課に配置転換になったが、働き始めて最初の上司・水道事務所でも一時上司であった方と再度一緒になり心強かった。また最初の部署で一緒であり保育所所長を経験された方も同じ課で随分お世話になった。この方は見かけは厳ついがユーモアもあり人付き合いの良い方であった。お酒も好きで何かと声を掛けてもらい鍛えてもらった。保育所の保母と言えば優しい女性を連想するが、お酒の好きな豪快な人もあった。中には煙草を吸いながらコップ酒を飲み干すような人もあり最初はびっくりしたものである。

 酒好きな所長と保母が同じ職場にいれば、気の合う同士でグループが出来 何かにつけ飲酒をしておられた。このグループはかなり年配の人ばかりであったが、男性一人で女性は数人であった。こうした中、保育所担当に若い男性が配属されたので何かにつけ誘い込まれアルコールを鍛えられた。酒を飲みながら手拍子で歌ったりすることが多かったが、合間には同じ保育所関係者ばかりなので思い出話に花が咲いた。当時の保育所環境と比較すると何もかも珍しく、中には作り話ではないかと思うようなことが多く、信じられないような話ばかりであった。

 昭和22年に児童福祉法が制定され、昭和22年に文部省より保育要領、昭和25年に厚生省より保育所運営要領が定められたとはいえ、細部にわたる定めもなく極めて不十分なものであった。戦時中は保育は許可制で近隣では「連教寺」のみだった。このように各法も未整備であり、各自治体の財政も厳しく、保育施設もみすぼらしいものであった。

保母が集金しないと給料が払えない。
 給料日になっても町の金庫が空っぽで、給料が払えないので保育料の滞納を職員が集金してやっと給料をもらうことが出来た。滞納世帯も顔なじみの人ばかりなので集金に行くのが嫌だったそうである。

一人の受け持ち児童が多かった。
 保育係をしていたころは、三歳児は20人、四・五歳児は30人の子どもに一人の保母が基準であったが、40~50人受け持つのは普通だったそうである。保母が休んだ時でも代わりに職員は配置されず一人で80人くらいの子どもを保育することもあった。

折り紙一枚で子どもを飽きさせない。
 当時は行政の財政は厳しく玩具の購入などしてもらえなかった。絵本なども少なく家で不要になったものを譲り受けていた。折り紙一枚あれば子どもを飽きさせないのが保母の役目などと役場から言い渡されていた。

定員より多くの児童を受け入れるのが当たり前。
 当時は保育施設も不十分であったが、入所を希望する子どもの数は多く認可定員を上回って子どもを保育していた。県の監査で見つかれば大問題になるので監査がある日には見つからないように子どもの持ち物などを隠すのが大変であった。当日は定員を上回る子どもは見つからないように外に連れ出し、県の職員が帰ったのを見計らって子どもを保育所に連れて帰った。

屋外遊びが主流
 廿日市保育所は昭和21年、原・地御前保育所は昭和26年にお寺の建物を使用して開設している。屋外保育が重点で、地面にお絵かき・鬼ごっこ・木登りなどをしていた。遊具と言えばブランコと滑り台のみであった。木の葉っぱ・どんぐり拾いなど、自然のものを工夫して遊ばしていた。

お寺の本堂が保育室
 雨の日は外で遊べないのでお寺の本堂が保育室であった。いくら静かにしなさいと言っても子どもたちは駆け回っていた。鐘を叩いたりご本尊の周りで悪戯するので住職にいつも怒られていた。祭壇に何故か遺骨の入った木箱が積み重ねてあり白布で覆いがしてあったが、覆いの白布がずれ落ちたり子どもが引っ張り落さないか冷や冷やしていた。

保育終了時の子どもの見送り
 保育が終了すすると子どもを何組かに分け、保母が付き添って家の近くまで送っていた。阿品では朝、電車駅に集合し阿品在住の保母さんが保育所まで付き添った。帰りは保育所から阿品駅まで同行していた。古い子供に聞くと「阿品駅」で解散していた。いや阿品の一番遠い家まで保母さんが付き添っていた言うものもある。保母の見送りは職員の負担が大きいのと、交通量の増加で危険なので、いつの間にか廃止され送迎は保護者の責任となった。

粗末なおやつ
 おやつも限られており、子ども一人に飴玉一つと言うことも珍しくなかった。保護者が見かねてサツマイモなどを差し入れることもあった。調理員は居ないので保母が蒸かして食べさせた。

見慣れない子ども
 当時は一人の保母の受け持ちが少なく、子ども一人一人に目が行き届かなかった。保育中に見慣れない子どもが居るのでどうしたのかと思ったら、だれかが近所の子どもを連れてきたらしかった。帰らすわけには行かないので、その日は保育が終了するまでそのままにしたことがあった。当時は保育所の定員も限られており、昼間一人ぽっちですごす子どもも多かったらしい。

 これ以外にも作り話では無いかと思われることを聞いたが、遠い昔のことなので覚えていないが今考えると記録でもしておけばと悔やまれる。
 当時、年配の保母さんが「今の若い人は苦労が足らない。言いたい放題である。」と愚痴っておられることが多々あった。比較にもならない遠い昔と比べられてもたまったものでないと聞いていたものである。このような時代錯誤の話を聞かせてもらえる人も僅かとなってしまった。

# by hirosan_kimura | 2026-01-17 11:02 | Comments(0)

№1066 間際らしい呼称    

 保育所の担当になった時の所長は、平良・原・宮内保育所は男性町職員であった。廿日市保育所所長も男性であったがお寺の住職さんであった。地御前保育所の所長は女性であったが、住職であった先代の所長が交通事故で亡くなられ、後を継がれた女性の所長であった。現在では市の保育所は全員女性であるが代々男性所長の中、最初の女性所長であった。

 廿日市保育所長とは一年限りの縁であったが、当時若かった自分にとってとても苦手な思い出が残っている。事務連絡その他で保育所に行く機会は結構あったが、その都度「木村先生」と呼ばれるので「先生ではありません。木村と呼んでください」と頼んでも、「先生」「先生」と呼ばれるのには閉口していた。また所用が済んで帰ろうとすると「お茶を一服差し上げます。」と言われるのが常であった。もちろん正式な茶道具は無く、抹茶茶碗に湯を注ぎ茶筅で混ぜるだけであるが、お茶の心得などなく形だけの作法で頂くだけであるがとても苦手であった。暫くの間お茶を点てられてもいい顔をしなかったので、その内いつの間のかお茶を進められなくなったのでほっとしたことが記憶に残っているが、何だか気の毒なことをしたと暫く後味が悪かった。

 昭和26年4月に「佐伯郡保育連盟」が発足しているが、徳沢所長は昭和29年から昭和44年度まで長きにわたって連盟の会長を務めておられる。昭和58年度まで男性所長が会長を務め翌年初めて女性所長が会長となっている。副会長には早くから女性所長も就任していたが長きにわたり男性優位の職場であったものである。

 当時、廿日市で唯一女性であった地御前保育所の所長は、先代住職の後を継いで所長になられたがお寺の娘さんだけあって、当時若かった自分にとってはどこか突起きにくい思いがした。穏やかそうな物腰の方であったが、議論をしていても自分の考えを曲げられず押しとおされるので苦手な人であった。しかし長い付き合いの中で段々打ち解けて、当初考えていたより気が合うようになっていった。

 庁舎内では「所長」と称していたが、子どもたちや保護者は「園長先生」と呼称していた。保育園職員間でも「所長」と「園長」と呼ぶものもあり間際らしいことこの上も無い。また保母も職員間では「保母さん」と「先生」とまちまちである。幼稚園は「園」で保育所は「所」と何とかならないのでは思うばかりである。
 ちなみに「所長」は施設の運営管理を行い。「園長」は保育の質を高めるのが役割らしいが何を根拠としているのか分からない。

 廿日市で全保育所所長が女性になった年代は分からないが、昭和51年には5保育所すべてが女性所長となっている。当時の保育所職員は所長5名、主任保母5名 保母49名 調理員5名の64名であった。この当時は保母は全員有資格者であったが、以前は有資格者が限られており無資格保母を雇用せざるを得ない時期もあったようである。古い時代には無資格保母もたくさんいたようである。待遇面・給与面で有資格者と格差があるのは当然であるが、差別があるわけではないが無資格者はみじめな思いをしたようである。

 無資格者は保母資格取得のために努力したようであるが、資格試験に何度挑戦しても合格できないものもあった。他の無資格者が有資格となり、新採用の若い職員は有資格者ばかりの中で年長の自分が無資格で、日々情けなくみじめでたまらないと涙ながらに語られると、こちらの方がたまらない思いをしたことが再三あった。無資格といえども保育に関してはベテランであるが、他の職員や保護者が陰で悪口や後ろ指を指していると自分を卑下していると訴えられるが、「がんばって一日も早く保母資格を取得してください、」と慰めるしかなかった。

 現在では認可保育所では「無資格者」は居ないであろう。かって法では「保母」の名称であった。「男性保母」と矛盾していることもあったが、現在では「保育士」と定められている。

# by hirosan_kimura | 2026-01-15 11:43 | Comments(0)

№1065 保育業務   

 水道事務所より配置換えとなった厚生課福祉係の業務の中にも様々な事務があったが、中でも児童関係が主要業務であった。その中でも保育所関係の業務が大半の事務量を占めていた。
 当時は旧町村単位に五か所の保育所が設置されていた、旧町村時代は財政規模・人口数も異なり保育所施設・定員も異なっていた。

廿日市保育所 
 大正13年4月に連教寺が幼稚園として開設したが三年後に閉鎖され、昭和3年に同寺が定員30名の慈恩幼稚園として再開している。昭和17年に戦時保育所に変わったが、原爆投下により建物被害により一時閉鎖され翌年4月に「私立廿日市保育所」として再開した。昭和23年には児童福祉法による「廿日市保育園」となり昭和27年には町に移管され、「廿日市町立廿日市保育所」と改称された。定員は150名であったが、定員を上回る児童が措置されていた。昭和45年には当時としては近隣では見られない、冷暖房完備の鉄筋コンクリート造りに改築された。
 
地御前保育所 
 昭和26年4月に認可定員50名で開設された。当初は正行寺の寺院の建物を使用していたが、雨の日は外で遊べないので寺の本堂で保育することもあった。子どもたちはお構いなしに駆け回り本尊に悪戯したり住職を困らしていたそうである。翌年には隣接地に「地御前村立地御前保育所」として移転した。昭和29年には定員150名と定員増となっている。昭和42年に現在地に新築移転されたが、昭和63年には更に改築され現在に至っている。

原保育所 
 昭和26年に「原村立原保育所」が定員90名で立善寺内に開設された。昭和31年に近隣に新築移転している。当初は敷地も狭く運動場も狭く、子どもたちは窮屈な場所で走り回っていた。その後、隣接地の畑を買収したが園舎敷地とは段差があり、しかも変形の敷地であった。以前と比べると比較にならない広さであったが、他の保育所と比べると見劣りがしていた。昭和56年には原小学校の隣接地に新築移転している。 

平良保育所
 昭和27年4月に「平良村立平良保育所」として定員90名で現在地に開設された。昭和41年には改築され定員140名となり、三歳未満児の保育も開始された。昭和62年に改築され定員180名となり、0歳児保育も行われた。 

宮内保育所
 合併前の5ケ町村の中で一番裕福と言われた宮内村であったが,保育所の開設は昭和31年4月で一番最後であった。場所はバイパスの傍で現在「くさのみ園」の施設のある場所である。隣接の地御前村では先駆けて保育所が開設されていたので、宮内村の何人かの子どもたちは「地御前保育所」に通所していたと聞いたことがあるが、異なる自治体の保育所に入所できたのか分からず事実かどうかは分からない。
 宮内地区は宅地開発等で人口が急増し、保育所の定員増が何回もあったがそれでも対応できず串戸保育所が新築開設されたり、昭和53年には「宮内小学校」隣接地に新築移転し定員増が図られ現在に至っている。

 昭和45年10月に保育園担当となった際は以上の五保育所であった。その後、何か所かの保育園が施設され、移転改築もあった。今振り返ってみると、長いお役所勤めの中でこの時代を一番懐かしく思い出す今日この頃である

# by hirosan_kimura | 2026-01-11 11:21 | Comments(3)