碌山美術館 碌山と黒光 そして「女」

碌山と黒光

碌山美術館 (ろくざんびじゅつかん)

 

碌山美術館外観

▼ 美術館案内 (「碌山美術館リーフレット」より)

▼ 道路に面した美術館入口

▼ 「碌山館」正面

▼ 「碌山館」を四方から眺める
碌山館はロマネスク様式を基調にした重厚な石造風のデザインである。特に赤レンガを主体とし、丸窓やアーチ型の窓が、落ち着いた宗教的な雰囲気を漂わせている。赤レンガ造りは、信州の山々の緑に映えるように設計されている。
碌山美術館は1958年、30万人の寄附と支援により開館された。
 
「碌山館」館内の様子
内部は、高い天井と柔らかい自然光を取り入れる窓の配置により、彫刻作品を荘厳に引き立てている。中央には代表作《女》をはじめとするブロンズ像が展示され、教会の祭壇を思わせる空間構成になっている。木材とレンガの温もりを感じさせる内装が、作品と調和するように工夫されている。

▼ 「文覚 (もんがく)
文覚は平安時代末から鎌倉時代初期にかけて活躍した僧侶。元々は武士の出身。愛した女性 (袈裟御前) を誤って殺してしまい、その罪の意識から出家したとされる。以降、彼は「文覚」と名乗り、厳しい修行を行った。強烈な個性を持ち、気性の激しい僧侶として語られている。
文覚の苦しみは碌山の苦しみに似ていると捉え、碌山は文覚の姿を借りて自分の苦しみを表そうとしたと思われる。

▼ 「デスペア」
《デスペア》は「絶望」をテーマにした人物像。うずくまるように全身を丸め、両手で顔を覆う姿勢をとった裸体像が、内面の深い苦悩や孤独感を表している。
碌山はフランス留学中にロダンの影響を強く受け、「人間の内面」を彫刻で表現することを追求した。その成果の一つがこの《デスペア》であり、日本近代彫刻の重要な転換点とされている。
《デスペア》は文展に出品するが、ポーズが悪いという理由から落選してしまう。

▼ 「北條虎吉像像 (ほうじょう とらきち ぞう)
《北條虎吉像》は、碌山が信州で親交を結んだ実業家・北條虎吉をモデルにした胸像。
写実的でありながら力強い造形で、碌山の肖像彫刻の代表的な一作とされている。

 「女」  

制作中の女性の全身像に、碌山は自分の思いの全てを込めて命を注いだ。寒い冬の間、造りかけの《女》の像を凍らせないために自分の着る物や毛布など、身の周りのあらゆるものをかけ、自分は寒さに震えていたという。
《女》は彫刻として碌山の最後の作品となった。日本近代彫刻の最高傑作と言われ、量の流動、密度、構成が見事であり、表情に見られる内的な情感が美しい。相馬黒光に似ていると言われている。


周辺の建物

▼ (左) 受付・ミュージアムショップ  (右) 杜江館 (もりえかん)
「杜江」とは、荻原守衛が郷里の先輩・井口喜源治に宛てた書簡のなかで使っている筆名。

▼ (左) 第1展示棟  (右) 第2展示棟(奥)と事務棟(手前)
▼ 左の建物:休憩室「グズベリーハウス」

▼ (左)「労働者」  (右) 「杜江 (もりえ) の水」
「労働者」は出品した文展終了後、作品に締まりがない、両手、両足に囲まれた空間がどうしても間が抜けていると感じ、まず左手を切り取り、次いで両足の膝から下を切り取ってしまった。その方が作品としての調和が取れていると碌山は見ていた。

▼ 高村光太郎の詩碑

高村光太郎は荻原守衛にとって最も重要な親友の一人で、ニューヨーク、ロンドン、パリ、東京で交友を重ね、互いに芸術観を高め合った。
この碑に刻まれた詩は、親友・荻原守衛の死を心から悲しんだ高村光太郎が、1936年(昭和11年) 「荻原守衛」と題してうたい上げたものである。
     
    (前略)

粘土の「絶望」はいつまでも出来ない。
「頭がわるいので碌なものは出来んよ。」
荻原守衛はもう一度いふ、
「寸分も身動きが出来んよ、追いつめられたよ。」

四月の夜ふけに肺がやぶけた。
新宿中村屋の壁をまつ赤にして
荻原守衛は血の塊を一升はいた。
彫刻家はさうして死んだ。… 日本の底で。
 

碌山と黒光

碌山とは

本名は荻原守衛 (おぎわら もりえ)碌山 (ろんざん) ※1 はその号。1879-1910年 享年30歳。
日本の近代彫刻を切り拓いた彫刻家です。
絵画の基礎を学んだ守衛ですが、フランスに留学し、ロダンの彫刻に衝撃を受けて彫刻の道に転向しました。
日本に帰国後、西洋近代彫刻の技法を取り入れつつ、日本的な感性を生かした作品を制作し、その作品からは圧倒的な生命感と情緒が感じ取れます。
30歳という短い生涯のなかで、彫刻を通じて「内なる生命の躍動」を表現し、多くの後進に影響を与えました。

※1 碌山
「碌山」の名は中央公論に発表された夏目漱石の小説『二百十日』の登場人物「碌さん」に由来する。パリ滞在中に愛読していた守衛は、この碌さんの性格を気に入り、友人たちからも碌さんと呼ばれていた。それが転じて「碌山」となった。
「碌」は中国古典や禅語に見られる語で、「平凡」「ありのまま」「素朴」という意味を含む。「碌山」には「ただの山のように大きく、そして飾らない存在でありたい」という思いが込められていたと考えられる。

 

黒光とは

相馬黒光 (そうま こっこう)※1 。本名は星良 (ほし りょう)
1876-1955年 (戸籍上は1875-1955年)。仙台市旧屋敷町の士族に生まれる。
明治から昭和にかけて活躍した女性実業家・文化人で、新宿中村屋の創業者です。
幼少の頃からその非凡なる才を発揮し「アンビシャス・ガール」とあだ名されることもありました。
宮城女学校 (現・宮城学院)、フェリス女学校 (現・フェリス女学院)、明治女学校 (1908年閉校)と転学を重ね、明治女学校卒業後の1897年、相馬愛蔵※2 と結婚し穂高に嫁ぎます。
1901年上京、本郷に中村屋を開店します。
やがて新宿に移転した中村屋を、夫の愛蔵とともに努力を重ね、商才を発揮して発展させました。
中村屋には多くの芸術家や文化人が集い、後に中村屋サロンと呼ばれ、黒光はその中心的存在でした。
『黙移』『穂高高原』などの著作も残しています。

※1 黒光
ペンネーム「黒光」は、明治女学校の恩師・巌本善治 (いわもと よしはる) 「煌 (きらめ) く才能を包め」との戒め (「溢れる才気を少し黒で隠しなさい」という意味) から名付けられた。

※2 相馬愛蔵
穂高白金村出身の実業家であり、社会事業家として知られる。東京専門学校 (現・早稲田大学) に入学し、在京中にキリスト教に入信、洗礼を受け、内村鑑三らに教えを受ける。
卒業後、郷里に帰り養蚕の研究に没頭し、蚕業界の進歩改善に貢献した。
孤児院基金募集のため仙台に出掛けた際、仙台藩士の娘・星良 (黒光) と知り合い結婚。妻の黒光は養蚕や農業に携わったが健康を害し、療養のため上京。愛蔵も上京し、黒光とともに新宿中村屋を創業。一流商人としてだけでなく、社会的弱者たちを支えたことでも有名。

 

碌山と黒光の二人

 出会い 

1896年、守衛は16歳の春に心臓を病みます。きつい肉体労働は無理な守衛ですが、常念岳などの山は絵の好きな守衛に感動を与え、絵筆を取らせました。
1897年春、山を見て写生している守衛に声をかける女性がいました。田舎には珍しいパラソルをさし、にこやかに話しかけてくるその女性を見て、守衛は胸の高鳴るのを覚えました。その女性こそ、相馬愛蔵と結婚し穂高に嫁いできたばかりの相馬黒光だったのです。
それからの守衛は、よく相馬家に出入りし、本を借りたり、黒光とは文学や芸術、信仰などについて話を交わしました。
そして、絵を描くということが人間にとって大事な意味を持つように思われ、二十歳の誕生日を目前に、「絵描きになろう」と守衛は東京に出たのです。

 

 その後  

守衛は1903年に渡仏し、パリでロダンの影響を受けますが、帰国後の生活は決して楽ではありませんでした。その中で黒光は、守衛の芸術活動を経済的・精神的に支え続けました。黒光が経営していた「美術倶楽部」や自宅サロンは、守衛の発表・交流の場となり、彼の作品が世に出る後押しをしました。
黒光は著作『黙移』の中で、守衛との出会いや交流を率直に記しています。彼女は守衛を「魂の芸術家」として深く理解し、彼の芸術的苦悩を共に背負おうとした姿勢が読み取れます。
二人の関係は単なる芸術家と支援者という枠を超え、精神的な共鳴と深い信頼で結ばれていたと考えられるのです。

 

 「女」 

碌山の代表作《女》は、黒光をモデルにしたと言われています。
女性像の強い精神性や存在感は、黒光の気高さや芸術への献身を映し出したものとされ、碌山にとって黒光は単なるモデル以上の「芸術的インスピレーションの源」でした。

 

 碌山の死 

1910年に守衛が30歳という若さで早世すると、黒光はその死を大きな衝撃として受け止めました。
彼女は遺作展を開催し、守衛の名を世に残すため尽力しました。この遺作展がきっかけで碌山の名は広まり、近代日本彫刻史にその存在が確立されていったのです。
即ち、黒光は碌山にとって「支援者」であると同時に「精神的伴侶」であり、彼女なくしては碌山の芸術が世に知られることはなかったと言えるでしょう。

 

碌山と黒光 二人の生い立ち

荻原守衛(碌山)の生い立ち(年表)

1879年12月1日
長野県東穂高村矢原に農家の五男として生まれる。

1894年(15歳)
地元の「東穂高禁酒会」に入会。相馬愛蔵 (後の新宿中村屋創業者)、井口喜源治らと交流が始まる。

1896~97年頃(18歳前後)
相馬愛蔵に嫁いだ (後の相馬黒光) と出会い、彼女が持参した長尾杢太郎 (ながおもくたろう) の《亀戸風景》※1 に衝撃を受けて美術志向を強める。

※1 亀戸風景
相馬良に贈られた結婚祝いの風景画。相馬家の応接間に飾られていたこの絵を観た荻原守衛が画家を志すきっかけになった。

1899年(20歳)
上京し、小山正太郎の不同舎で学ぶ。青木繁らを知る。

1901~04年(22~25歳)
渡米の後、渡仏。パリでロダン《考える人》に触れて彫刻へ転向を決意。

1906~07年(27~28歳)
高村高太郎を知る。アカデミー・ジュリアン彫刻部に学び、ロダンに面会。

1908年(29歳)
帰国。新宿角筈にアトリエ「オブリビオン (忘却庵)」を構える。常に新宿中村屋に赴き、相馬家の家族との親交を深める。相馬黒光への愛情に苦しむ。《文覚》が第二回文展に入選。

1909年(30歳)
《デスペア (絶望)》を制作 (代表作群の一つ)。しかし、文展ではポーズが悪いとされ選外となる。

1910年
3月中旬、絶作《女》を完成。同年4月20日中村屋で吐血し、4月22日未明、30歳5ヶ月で永眠。のちに《女》は第4回文展に出品される。

 

相馬黒光の生い立ち(年表)

1876年9月12日 (戸籍面では1875年9月11日)
宮城県仙台市に生まれる。本名は(りょう)、旧姓は。星家の四男四女の三女。

1887年
幼少の頃からその非凡なる才を発揮し「アンビシャス・ガール」と呼ばれる。

1895年
明治女学校に入学。のちに巌本善治 (いわもと よしはる)「黒光」の筆名を与える。(「煌(きら)めく才能を包め」との戒めから名付けられる)

1897年
相馬愛蔵と結婚 (牛込の教会で挙式の後、夫の郷里・穂高へ嫁ぐ)。

1901年
9月上京。12月、本郷・東大正門前のパン店「中村屋」を買い取り創業 (後の新宿中村屋の起点)。

1907年
新宿に支店開設 (1909年 現在地・新宿 へ本店移転)。新宿の支店には多くの芸術家や文化人が集い、後に中村屋サロンと呼ばれる。

1908年
碌山帰国。芸術家との交流が始まる。

1910年
次男襄二を亡くし、同年に碌山も急逝。以後も中村屋サロンの女主人として文化人を支える。

1915年
インド独立運動のラス・ビハリ・ボースを匿(かくま)うなど国際的な文化・社会活動にも尽力。

1955年3月2日
永眠

 

二人の関係 (年代順)

1896~97年
荻原守衛、相馬良 (黒光)と出会う。良が嫁入り道具として持参した長尾杢太郎《亀戸風景》は、守衛が洋画へ惹かれる決定的きっかけとなる。

1899年
守衛が本格的に芸術修業のため上京。以後も相馬夫妻との交友が続く。

1901~07年
守衛が渡米・渡欧。制作の方向性が絵画から彫刻へと転じる (黒光は東京で中村屋創業・拡張を進める)。

1908年
守衛が帰国し新宿にアトリエを構える。中村屋に足繁く通い、相馬夫妻をはじめ多くの芸術家が集う“中村屋サロン”の核となる。

1908~10年
《文覚》《デスペア》《女》へと至る一連の制作が始動。黒光への思いが作品理解の鍵とされ、とりわけ《女》には黒光の面影が“心象のモデル”として表れると解説されている。

1910年
《女》完成直後に守衛が急逝。のちに碌山美術館 (1958年開館) が安曇野に設立され、守衛作品と“中村屋サロン”ゆかりの資料が保存・公開される。

 

 碌山の芸術観 

碌山が口癖のように言っていたとされる言葉です。

 Love is art, Struggle is beauty.

 「愛は芸術なり、悶えは美なり」


愛することそのものが芸術的な創造であり、生きる上での苦悩や葛藤 (悶え) が、人間や作品の美しさにつながるとの碌山の芸術観が表れています。

▼ 参照資料