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前回申し上げた「産土神」や「氏神」という概念の他に、日本の神様には大きく分けて二つの系列がございます。それが「天つ神」と「国つ神」の二つに分類されます。天つ神とは天上界に住む神、そして国つ神とは日本各地の土地に宿る神を指します。この概念は「古事記」や「日本書紀」などの神話に描かれている神です。たとえば、古事記では天地創造の際、天上界の高天原に天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)と高皇産霊神(タカミムスビノカミ)、神皇産霊神(カミムスビノカミ)という天つ神が現れたと書いてあります。そして、天つ神の最後の神として伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)によって日本の国産み、神産みがなされたと記されています。ここで生まれた天照大神(アマテラスオオミカミ))が孫の瓊瓊杵命(ニニギノミコト)に地上界を治めるように命じられ、国つ神であった大国主命(オオクニヌシノミコト)から国を譲られたという事になっています。そして、瓊瓊杵命の子孫が神武天皇であると記紀では記されております。 ところが、ここに記されている神々の系譜は現在の神道の神様の数から言うと本当に少ない数でございます。すなわち、日本の神様はもっともっとダイナミックに分類できるんですな。たとえば、全国一のシェアを誇る「八幡宮」、「天神」などは記紀には全く登場しません。また、靖国神社や護国神社、さらには「明治神宮」や「乃木神社」などの現存した人が神になっている事例もございます。 そう考えると、現在は「神の系譜」と呼べるものがあったとしたならば、およそ三つになるだろうということです。すなわちその一つ目は「記紀」由来の本来の伝統的な神です。これは天照大神に代表される一連の天つ神と国つ神でございます。で、二つ目は日本伝統ではありますが、記紀には記されていない、武家の本尊であろう「八幡神」や菅原道真を由来とする「天神」という存在でございます。そして最後の三つ目は、いわゆる「靖国神社」や「明治神宮」のように人を神として祀ったものになるでしょう。 そのどれかが優劣であることではなく等しく「神」として崇拝される存在になるのが日本の「神道」であることは紛れもない事実でございます。このように、「記紀」の神が絶対神であるということにこだわらず、信仰を強制することなく誰が誰を祀ろうとそれは「神」であるよとそれは祀る側の自由意志にゆだねる。すなわち「イワシの頭も信心なり」という寛容性。言葉で言うと「人の数だけ神がある」という特徴が日本の神道の本質である。といえるでしょう。すなわち、「神は人の心にある。」というわけでございます。 さて、日本にはじめに伝わった仏教は法相宗であると言われていますが、これは孫悟空の話で有名な三蔵法師、すなわち玄奘が持ち帰った天竺の経典から始まります。この考えは「成唯識論」という考えです。すなわち、あらゆるものは「自分の心」にあるという考えです。 夕焼けは「きれいだ」「寂しい」という風に人の心は違う反応をするけど、夕焼けって夕焼けだよね。という考えです。つまり、信仰はすべて自分の心に由来する。これが唯識論です。で、この根本的なマインドが、仏教のマインドと上手く合致したんですな。すなわち仏教の持つ寛容性が例えばヒンズーとの融合があったり、「大乗仏教」として中国の道教や儒教などといった倫理哲学との融合が図られたりとしながら、日本においては「政治的利用」にかかわる廃仏毀釈までは、仏教も神道も道教や儒教も含めて習合した「日本教」みたいなものが生成されていたと考えられます。歴史学的にはこれを「神仏習合」と呼んでおります。 なにゆえこういった動きが生まれたかというと、そもそも神道には開祖もいなく明確な教義もないという事なんでございます。一方の仏教は開祖の釈迦がいて修行の末に悟りを開くという明確な教義がございます。そういうものがない宗教である神道は、そこに自らの補填を見いだしたのが、神仏習合の本質であろうと考えられます。すなわち、日本独自の信仰体系のアイデンティティができたということでございます。 「本地垂迹説」という言葉がございまして、この考えがいわゆる「神仏習合」の理論的背景になっております。この理論というのは、ぶっちゃけあたしたちの国の神々は、仏教の神の化身であるよと言うことです。すなわち仏道で言う菩薩が、姿を変えてわが日本に神として天下ったという考えでございます。 ですから、天照大神は大日如来であり、須佐之男は牛頭天王であるという位置づけなんですな。もっとあります、例えば大国主命は大黒天、八幡神に至っては阿弥陀如来であるというわけでございます。まぁ、これはヒンズーの神が仏教の神になったのとほぼ同じ経緯といっていいでしょう。仏教の神で有名な、帝釈天、阿修羅、鬼子母神なども同等でございましょう。すなわち、インドも日本もそもそもは多神教の土壌があって、それが合致したといっていいでしょうな。 「本地」とは本来の土地「垂迹」とは後にでるものという意味でございます。ですから、絶対の存在である「仏(本地)」は仮の姿である「神(垂迹)」となってこの世に姿を現したのだよというわけなんでございます。すなわち日本古来の神は「仏の仮の姿」なのであるという考え方です。ですから、異国の宗教である仏教が、日本の宗教文化にすんなり入ってきたのはこういうことなんですね。でございますから、長らく神社と寺院の境界はほとんどないといってよいという状況が続いたんです。ですからお寺の中に社があったり、神社とお寺はほとんど区別がない状況が明治時代まで続きました。 しかしながら、明治になってこれらを古代に戻そうという反動勢力が「神仏分離令」を発令せしめ、その結果「廃仏毀釈」という神道原理主義運動が起こったのでございます。ただ、これはこれとして、例えば浅草寺などのように神仏が共存している所がほとんどでございます。金比羅堂が寺内にあるお寺は結構ありますし、もっというなら日蓮宗のお寺である葛飾柴又の題経寺は、それこそ「フーテンの寅さん」の口上でも有名な「帝釈天」ですが、そもそも帝釈天はインドラというヒンズーの神様なんでございます。また、七福神は、仏教、道教、神道、、儒教すべての神が対象でございます。 すなわちあたしたちは「仏教」のくくりのもとにあらゆる宗教の神を信仰をしているんですな。ですから何だか、神社とか寺院とか、その区別などどうでもいいのかなという感じになるのが、本来の日本民衆の宗教事情なのかもしれません。しかしながら、これとは別に「神社」にはある意味「統一国家」という象徴として、諸外国に対し明確化しなければならないという命題を持っていた事も忘れてはなりません。 *しつこいですがこれはあたしの私的な所見でございます ↓ お気に入りいただけたら、どれかにクリックをお願いします (〃ゝω・人)
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by hidemaro2005
| 2019-04-12 00:21
| 歴史
実を言いますと、あたしゃ最近、神社仏閣を巡り、その都度「御朱印」を頂戴することに凝っておるわけですな。まぁ、不謹慎なのでスタンプラリーとまでは言わないですが、それぞれの個性があったり、何をおいてもどの境内に参っても、神域の神々しさというか、そういう雰囲気が、なんとなくありがたい気になるんでございます。 で、こうやっていると、不思議に思うことがある訳なんですな。「神社」とはそもそもなんなのであろう。という疑問です。神社は「神道」の象徴で、「宗教」というくくりでとらえられているんですが、良く考えてみると、世界のなかで宗教というと必ず創始者がいて、教学体系とか、「バイブル」「戒律」といった「信仰の対象」がございます。しかしながら日本の神道の世界では、八百万神といって、すべてが神でありこれと言った戒律もございません。あるのは「作法」くらいでしょうか。 となると神社とは「シャーマニズム」なの?と思えば、あながちそうでもなく、初詣とか節句とかきわめて年中行事的な立ち位置であり、例えばどこそこの神社の神様はこれこれのみでっていうような、厳密なくくりもないのが特徴なのではないかとも思ってしまうんでございます。 で、このまんまわからずに「ボ~ッと生きて」もしょうがないんで、またいつものごとくひもといてみることにしました。 まず「神社」の語源ですが、むろん「神」がいるところという意味でございます。で「社」とは「やしろ」とも呼び、その語源は「屋代」であるとされています。「屋」とは小屋のこと、そして「代」とは清められた場所という意味です。ですから「神」の「屋代」で、神社とは「神を祀る清められた場所に建てた小屋」という意味になります。 したがって、神社の始まりは今のような大規模なものではなく小さな小屋であったと推測されます。そもそもこの考えは縄文の昔から弥生時代にかけて自然発生したと考えられています。またその「神」も実にローカルなものであったと考えられます。それぞれの土地には森羅万象の「守り神」が存在し、その土地のもたらす恵みに感謝する習慣が始まったと考えられ、そうして生まれた信仰が「産土神」という事になりましょう。また、亡くなった人は、いったん自然に帰った後、再び子孫の守り神として下るという「祖霊信仰」から生まれたのが「氏神」というように、やがて、その地域の森羅万象によってより多くの人々が守られるという「鎮守神」という存在になっていったと考えられます。ですから、太陽も月も山も川も「神」になり得たのです。そして、人々は今の神社の元となる「神域」を設け、そこで行う儀式によって、神に対し様々な守護を願ったのが始まりであろうといわれます。やがて、仏教や儒教、道教などが伝来し、これらの寺院建築にならって「神社」の建物が建てられるようになったのでございます。 さて、このように考えると「神」様はその土地ごとにたくさん存在しますでしょうが、その神の「系譜」も実はございます。それについての解説は次回に回しますが、一つ疑問に思うでしょうところが、「確かに土地ごとに神様がいるのはわかった。だけど、日本各地に稲荷神社とか八幡宮とか、同じ神様がいるのはなんでだべ?(´・ω・`)」 という素朴な疑問がわきます。例えば八幡宮などは全国に7817社ございまして、そんなにばらばらに祀っていいもんだかや?というくらいあります。伊勢神宮や稲荷神社、さらには天満宮なども全国あちこちに散在します。神様がそんなにいてもありがたみがうすれるんでないかい?という危惧も生じます。 しかし、心配はご無用なんでございます。実は神は「分霊」が可能であるとされています。すなわち、「神」とは形や量の概念はないものであり、例えば同じ水をいくつかの瓶に分けたとしても水は水で変わらないように、神もまたいくら分けたとしても神は神でそのまま同じように尊いもので、その力や御利益は同等である。という考えです。そして分霊した神をあちこちに祀ることを「勧請」といい、勧請された新しい場所をお守りくださるということでございます。ですから人気の高い神様はどんどん勧請され全国に数が増えていったと考えられるんでございます。神社本庁の調べでは、現在全国には10万社以上の神社があるということです。学校基本調査による全国の小・中・高の数が約35000校ですから、その2倍以上の数があるということでございます。 ↓ お気に入りいただけたら、どれかにクリックをお願いします (〃ゝω・人)
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by hidemaro2005
| 2019-03-08 00:29
| 歴史
時節は2月。そういえば幼稚園や保育園のそばを通ると、鬼の扮装をした先生たちがそっと物陰で待機してるのも風物詩になりましたね。まぁ、節分といえば、鬼は外~福はうち~。って唱えながら豆まきをするってのがごく一般的でございますよね。ところが最近は「恵方巻」なるものが目立つようになりまして、はて、自分が幼少の頃にこんな風習ってあったかしら?なんて首をかしげてますが、後で述べますが、コイツはバレンタインチョコと、クリスマスケーキなどの商業ベースであることは確かなことなんでございます。まぁ、「福を呼ぶ」という点では、かろうじて「節分」にリンクしてはいるものの、この風習は相当無理がある事だけは確かなことでございます。 さて、お話をもどしますと、そもそも「節分」というのは季節の変わり目を指す言葉でございまして、春夏秋冬の最後の切れ目。すなわち、立春、立夏、立秋、立冬の前日を「節分」と呼ぶんでございます。したがって、節分は年4回あるということなんでございます。で、なにゆえ2月の節分が目立つのかというと、2月の節分の翌日は「立春」だからなんでございます。すなわち「季節の大晦日」ということになるんですね。ですから、1年の季節が一巡りし、新たな春を迎えるわけですから、この日は1年分の「厄」を祓って、次の日は福徳に満ちた新たな「四季の始まり」を期そうという「厄払い」の日なんでございます。厄災の権化といえば「鬼」でございますから、その鬼を追い出すことは、まんま「厄払い」になる訳なんですな。まぁ、ぶっちゃけ「厄払い」の行事であれば、何でもいいわけなんでございます。 そもそも古からこの日には、「追儺(ついな)、鬼遣らい」と呼ばれる行事が、各地の神社や寺院で執り行われてきました。この追儺という神事は、もともと中国のもので、唐時代の宮廷では、節分の日に、熊の皮と金の面、赤い装束の「方相氏」というものに扮装して、矛と楯ををもち、疫の楯を追い払うという行事がございました。で、日本の朝廷にも、この方式が取り入れられたというわけなんでございます。特に「続日本紀」では、文武天皇の御代、慶雲3年(706)に、全国で疫病が流行したので、年末の晦日に土牛を作り、鬼遣らいを執り行ったという記録がございまして、これが中国風のやり方で行ったという事が知られております。また、寒気払いの意味も併せて持たせたともいわれております。そして家で行う「豆まき」は、この行事の簡易版というか、普及版とも言える行事でございまして、古くは室町時代の文献にも、豆まきが行われていたという記録が残されております。また、豆まきに関していえば、本来は除夜の大晦日にも行われていたそうです。それが「立春」の節分に統一された。というのがおおかたの経緯であろうといわれています。 さて、この厄除けの行事が、いわゆる節分のメインだとすると、「焼嗅(やいがかし)」という風習もございました。今ではほとんど行うことも無いでしょうが、一般的にはイワシの頭を柊の小枝に刺して火であぶって少し焼いてからそれを家の入口にさすというものでございます。その他、ニンニクとかネギ、らっきょうというにおいのきついものを門口に置くという風習が「焼嗅」でございます。これも悪霊や邪気が、そのにおいを嫌って、家に入り込めなくさせようという、まじないでございます。まぁ、これも大事な厄払いですが、さすがにこれを一斉に都市部でやられたんじゃ、たまったもんではございませんね。 さて、昨今「節分」といえば・・豆とは別に台頭してきたのが「恵方巻」と呼ばれるものなんですが、なんと現在6割もの方が節分に恵方巻を召し上がるんだそうで、あたしとしてはこっちの数字の方が驚きで、どこかのお役所みたいに「偽装統計」してんじゃないの?とまで疑ってしまいますな。なにかしら一本まるまるの「太巻き」を「今年の恵方」を向いて、無言で食べろというのが「招福」のおまじないなんだそうですが、あたしとしては「奇習」としか思えない風習でございます。そもそも切ってもいない太巻きなんか丸ごと一本なんか食べられっこありませんので、我が家ではこの「恵方巻」なるものは未だかって、購入したり、調理したことも、このように食べたこともございません。 そもそも「恵方巻」の名称・由来は1998年(平成10年)にセブン-イレブンが全国発売にあたり、商品名に「恵方巻」とつけたことに始まるといわれています。そもそも「恵方巻」などという言葉はこれ以前のどの文献を調べても見当たらない代物でございまして、 同様のものは、大阪地方の地元において、単に「巻き寿司」とか「丸かぶり寿司」と呼ばれていたものがございます。昭和の初期に大阪の寿司店や鮓商組合が配布したチラシに「縁起物」として販促した経緯があり、これには「巻き寿司の丸かぶり」という記載が見えます。これが戦後大阪の海苔商人らが中心になって組織した「大阪昭和会」によって全国に広める試みがなされていたところ、たまたまセブンイレブンのマーケット戦略に採用された。という事が有力ではございます。 例えば同様にクリスマスケーキやバレンタインチョコは、お菓子メーカーの不二家のマーケット戦略が介在しているような、そんな気がしないでもございません・・。まぁ、庶民の「風習」は作られるものでございますから、そんなに目くじらは立てませんが、昨今に見られる「食品ロス」はさすがにいただけません。その点でいえば「土用丑の日」も、信仰的には何の根拠もありませんから、食品ロスにつながる事はいくら商魂たくましくとも、ご一考願いたいものでございます。 ↓ お気に入りいただけたら、どれかにクリックをお願いします (〃ゝω・人)
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by hidemaro2005
| 2019-02-02 21:04
| 教養
クリスマス(英: Christmas)の言葉の意味は、「クリスト(Christ)マス(mass)で、「キリストのミサ」イエス・キリストの誕生(誕生)を祝う祭でございます。毎年12月25日に祝われるこの日、 実はキリストの生誕日はこの日であるという証拠はございません、それなのになぜこの日なのかというと、古代ローマの信仰で冬至の行事として12月25日が祭日となっていたのです。そして4世紀前半に、ローマ帝国がキリスト教を国教とした際、教会会議によってこの日をキリストの生誕日であると決定したことに始まります。そこから12月25日キリストの降誕日という位置づけが世界中に広がったのでございます。 ちなみに、キリスト教に先立つユダヤ教の暦、ローマ帝国の暦、およびこれらを引き継いだ教会暦では日没を一日の境目としているので、クリスマス・イヴと呼ばれる12月24日夕刻から朝までも、教会暦上はクリスマスと同じ日に数えられるというわけなんでございます。 新約聖書の文を借りると、 「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。 —マタイによる福音書第2章第1・2節 これが12月25日の記述なんだということなんですな。 さて、日本におけるクリスマスは、1552年(天文21年)に周防国山口(現在の山口県山口市)において、カトリック教会(イエズス会)の宣教師であるコスメ・デ・トーレスらが、日本人信徒を招いて降誕祭のミサを行ったのが、最初であるとされています。 しかし、その後江戸幕府の禁教令によってキリスト教は禁止されたことで、明治の初めまでの200年以上の間、隠れキリシタン以外には、全く受け入れられることはなかったというのは、時代の当然というべきものでございましょう。 ただし例外として、長崎出島のオランダ商館に出入りするオランダ人たちは、キリスト教を禁止する江戸幕府に配慮しつつ、自分たちがクリスマスを祝うため、オランダの冬至の祭りという方便で「オランダ正月」を開催していた。これには幕府の役人や、通訳や蘭学者などオランダ人と付き合いのある日本人も招かれたようでございます。また、長崎に住むオランダ通の日本人たちの間でも、これを真似て祝うことがあったとの記録がございました。この状況は明治維新まで続いたというわけでございます。 その性格が大きく変化したのは、1904年(明治37年)、銀座「明治屋」が商業用として、日本初のクリスマスツリーを店頭に飾ったのが始まりでした。はてさて、これが評判になり、「クリスマス」という行事が広く民衆に知れ渡るきっかけとなったんでございます。 すなわち、「商業ベース」のクリスマスのパターンは、ここから始まったわけでございます。また1906年(明治39年)には、サンタクロースが登場してきます。クリスマスにプレゼントを贈るのが、この時期には早くも一般的になってきたようですな。 その後、1910年(明治43年)に不二家がクリスマスケーキを発売し、大正に入る頃には各地でクリスマスパーティが開かれるようになっていきました。このように、現在の日本のクリスマスのパターンは、宗教の理由では無く、むしろ商業イベントとして定着したんです。でございますから、その「商業化」が日本独特の「クリスマス文化」を生むわけなんでございます。1931年(昭和6年)のクリスマス記事は「クリスマスイブを踊り抜く」という見出しで、帝国ホテルで大勢の人たちが、三角帽子などをかぶり、ダンスをしている写真も載っています。 ところがこののち日本は不幸な世相へと入っていきます。1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発し、これによって社会の空気が変わりました。非常時となり、クリスマスに騒ぐことは禁じられます。毎年、派手なクリスマス宴会を催していた帝国ホテルも、それを永久に取りやめる、と宣言しました。この行事も「敵性的」であると非難の的になったのでございましょう。まぁ、総てを戦争に、でございますからこのような行事など、とんでもないというような世相であったのでございます。再び隆盛を得るのはたぶん戦後になりました。 戦終2年ほど経つと、賑やかなクリスマスが復活してきます。1948年(昭和23年)のクリスマス前にはすでに、朝日新聞のコラム天声人語には、クリスマスに浮かれ騒ぐ姿を批判した文章が載っています。すなわち今頃にクリスマスは行われ始めていたということなんです。敗戦後のクリスマスは、それまでにない異様な大騒ぎとなります。風俗店やダンスホールで大人たちが騒ぐクリスマスですが、酔っ払った集団が歓楽街で大騒ぎをして、一種の無法地帯が生まれていました。それがだいたいだいたい1957年(昭和32年)くらいまで、続きました。まぁ、忘年会とごっちゃになったわけでしょうな。 さて高度成長期に入る1960年代には、ケーキとプレゼントを買って、郊外のマイホームへと向かうサラリーマンのパパが多くなりました。子供のためのお楽しみの日というクリスマスになりました。すなわち、よい子にはプレゼントがもらえるという本来のクリスマスの姿になったわけでございます。 それが1980年代に入り、再び大人のクリスマスが出現しました。すなわち「男と女が一緒に過ごす日」となったわけなんですな。バブル景気に突入する時代で、その風潮とあいまって、若者カップルが、分不相応な店で高額な支払いをする、という風景が出現しました。クリスマスイブはカップルのものだという認識はこの頃が始まりと言えましょう。 山下達郎の「クリスマス・イブ」がヒットしたのもこの頃ですが、この歌詞にあるように基本は「カップル志向」なんでございます。 バブル景気が終わってからは、高額な散財はなくなりましたが、クリスマスはカップルで過ごすという習慣は定着したままですな。 クリスマスは、それぞれの時代の気分を反映している感じがいたします。もともと西洋のお祭りであり、何だか楽しそうなお祭りだ、と日本人は思っていました。その具現が「日本型のクリスマス」なのであると言えましょう。そこには「宗教的要素」は皆無であると言えます。 過去から西洋の文化を取り入れなければ世界から遅れてしまう、という風潮があり、それに庶民レベルで反応したのが日本型クリスマスだといえるでしょう。その別の形が昨今の「ハロウィンの馬鹿騒ぎ」につながるのかもしれません。 ↓ お気に入りいただけたら、どれかにクリックをお願いします (〃ゝω・人)
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by hidemaro2005
| 2018-12-20 22:40
| 世相
さて、「庚申」でございますが、これは「こうしん」と普通に呼ぶんですが、十干の「庚」と十二支の「申」の組み合わせなんですな。すなわち「庚」は「かのえ」と呼び、「申」は「さる」です。ですから「庚申」は「かのえさる」という事になります。 ちなみに十干を挙げてみますと、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10通り、木、火、土、金、水の五行に当てはめ、それぞれ陽を兄、陰を弟として、甲を「き(木)のえ(兄)」乙を「き(木)のと(弟)」というように当てはめていったんでございます。ですから、庚申の「庚」は金(かね)の兄(え)ということになるんです。これは10日、10年毎にこれが巡ってくるんでございます。 さてもう一方の十二支の組み合わせなんですが、これは年賀状の図柄が毎年変化する12年周期の動物のサイクルでおなじみですね。まぁ、これが年だけでなく、一日一日順繰りに変わるんでございます。例えば「戌(いぬ)年」と同様に「戌(いぬ)の日」があるんです。で、十干と十二支の組み合わせで巡らせると、年で言うと60年、日数だと60日で一回りすることになるんでございます。すなわち、干支の組み合わせが一巡するのが60回ですから、例えば年回りの干支が60年。したがって暦が一巡する年が「還暦」という事になる事でございますな。 したがって庚申塔や庚申塚の庚申は、干支六十組のうちの五十七番目の庚申「かのえさる」をさすわけでございます。 ま、システムの話はここまでにしておいて、「庚申講」のお話をいたしましょう。そもそも「庚申信仰」とは、中国の道教に由来する信仰でして、古くは奈良時代に日本に伝来した考えでございます。道教では、一年間で60日ごとに6~7回ある庚申の日を特別の日として位置付けております。で道教によれば、人中に潜む「三尸の虫(上尸=頭、中尸=腹、下尸=足)は、庚申の夜、人が眠りにつくと天に昇り、天帝にその罪を告げ、天帝は罪の軽重に応じて、その人の寿命を決めていくんでございます。 そこで、長生きを願う人々は、この日は眠らずに夜籠して身を慎んだというわけなんです。これが奈良時代末期の日本に伝わり、貴族を中心に定着したんでございます。とにかく庚申の夜は寝ちゃいけないんですから、夜を徹するための趣向を凝らしたさまざまな遊びが考えられたんでございます。この様子は「源氏物語」「枕草子」にも描かれておるんでございますよ。 このように当初は「三尸の虫」が寝ている間に抜け出さないように夜を守る「守庚申」だったんでございますが、次第に礼拝の対象を求めるようになっていくんですな、たとえば「三尸の虫」との字が似ているから、室町時代には伝尸病(結核)に霊験あらたかな、青面金剛が本尊とされるようになったり、庚申の申(さる)から、道案内のプロフェッショナルである猿田彦尊が関連づけられ、庚申塔と道標を合わせ、村境に祀ったりもしております。三尸の虫と申の関わりで、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿も祀られるようになったんでございます。そしてやがては農事に関する祭りごと変化し、五穀豊穣を祈る集まりとなり、あちこちの農村において盛んに庚申講が行われたということでございます。その奉納の証に建てたのが庚申塚というわけなんでございます。 まぁ、基本的に謹慎の日でございますから、いくら夜明かしすると言っても、天帝ににらまれないよう、清廉潔白に過ごすことが求められ、この夜に男女和合して出来た子供は盗賊になるという言い伝えもございまして、いくら徹夜するとはいえ、エッチするなんてもってのほかであったということは言うまでもございません。 しかしこれも、昭和の初め頃くらいまでで、戦後の農地改革を機にほとんど行われることは無くなったようでございます。したがいまして、昨今の庚申塔はもっぱら青面金剛や猿田彦尊をお祭りするためという意味合いが強くなっておるようでございます。 ともあれ、商業ベースには乗らないものの、時代の風潮や需要、産業構造などに、こういった年中行事は大きく影響されて変化していくものなのでございます。
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by hidemaro2005
| 2018-12-09 01:12
| 教養
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