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ハーシェルの独り言

グラブルや雑談等、しがないぴよっぴよです。

疑念と真理の探求:ポストモダンの意義

 

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最近は自民党総裁選でポスト○○が話題ですよね。
ところでこのポスト○○の『ポスト』ってどういう意味なの?って人も
結構疑問に思う人もいるのではないのかなと思います。


ポストとは、そのまま意味で捉えると○○の後。という意味になりますので
よくニュース番組なんかでは現役総理大臣の名前を使って


次の総理大臣候補を示すときによくポスト○○という言葉を多用しています。
カタカナ日本語かっこいいですね。


とまぁそんなことはさておき、哲学用語の中にも『ポスト○○』に
因んだ哲学用語が存在しています。


ということで、今回は哲学用語「ポストモダン」についてお話していこうと
思います。

文字通り解釈するのなら、モダンの後。という意味になりますね。

モダンは、『近代』という意味を持っていますので
合わせて『近代の後』という意味をもつ言葉になります。


近代は主に近代思想が多く創出された18世紀頃から第二次世界大戦後くらいまでの期間を
示している事が多いですが
論者によっては、現代まで含めて近代と指す場合もあります。


さて、そんな『ポストモダン』ですが。使われる意味合いとしては
近代までの思想やあり方に対して批判する内容で使われる言葉でした。

哲学の世界でこの『ポストモダン』という言葉を積極的に使用し、
用語を世に広めた代表的な近代哲学者として

ジャン=フランソワ・リオタール』というフランスの哲学者がいました。
著書に『ポストモダンの条件』などがあります。

こういった近代思想を批判する形で、それらからの脱却を目指した
ポストモダン思想が誕生した背景には、それまでに存在した思想。

人々が共通に目的をもって抱くような『大きな物語』、○○主義といったような共同的な幻想が
結局のところ、果てしない争いや問題を解決することのなかった時代。

互いに大いなる物語たる思想のぶつかり合い、争いの再生産を繰り返すことだけの
現実に人々が疑い、気付き始め、近代的価値観が衰退していったというところから
ポストモダンは始まっていきました。

この近代的思想の衰退期が、ポストモダン思想の始まりの時代と言えるでしょう。
この時代には、多くのポストモダン的な思想というものが生まれ始め

大きな物語』の反対である『小さな物語』が乱立するようになりました。


ここでいう『小さな物語』とは、個々が各々の目的や発想をもって自由に生き始める
時代のことを指しています。まぁ簡単に言ってしまえば多様性というやつですね。


この時期にポストモダン的で代表的な例としてよくとりあげられるのは、
哲学者『ジャック・デリダ』の『脱構築』というワードでしょう。

彼もまた哲学の大きな物語の中で。西洋哲学の前提となっていたような『二項対立』を疑い、
その二項対立を生み出している原因そのものを疑うという『脱構築』というものを生みだしました。

こういったような、大きな物語や伝統的な価値観に囚われていた時代からの脱却が多く生まれたのが
このポストモダンの時代というわけですね。


ということでポストモダンのお話でした。
お話した感じの内容から考えると、現代って結構ポストモダンで溢れてるなーって感じますよね。

伝統的な服装とか価値観とかというのは、今ではもうそれは古くて非効率なものとして消滅しつつあるような
気もします。

大いなる物語が人々を激動させていた時代は、それ同士の対決になると計り知れない争いが発展して
しまっていたわけですが、かといってポストモダン的な現代だからといっても
全てが良い方向に進んでいるとも中々言い切れませんよね。

多様性を推進することによる問題は、複数の価値観の乱立の間で緊張感を生み出しています。
互いに立場や存在を認めあえるようになった一方で、それだけ関わらないようにする。


もしくは、徹底的に攻撃的に断絶するといった人々のコミュニティの乱立が、
個人を認め合う以前に、理解し合えない小さなグループが昔よりも増えすぎてしまったせいで、

今までは強大な敵国の思想を前に一丸になっていた人々が、より現代になって孤独になってしまって
いってるのではないのかと


そういう相対主義的な課題を、私は抱かざるを得ないのです。


ポストモダン的な風潮が良しとされる時代においても、必ずそれすらも盲目的に
正しいと限らず、常に懐疑的であることにも懐疑的であるような姿勢でいることが

人々にとって哲学し続け、やがてそれ自体が真理に辿り着くための人の営みなのでは
ないだろうかとも、私は思います。

ということで『ポストモダン』についてでした。
今回はここまでとなります、ご視聴ありがとうございました。

お疲れ様でした。

 

 

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哲学的探究心でエロ漫画を作ってみたという話【経験談/備忘録/哲学】

 

 

エロに秘められる力とは

日本において、エロ漫画の始まりは1970年代に出現した『官能劇画に端を発すと言われており、現代のようなアニメ絵のエロ漫画は80年代からその色を現し始めたという。

今となってはSNS全盛の時代、広告などでも目に触れない方が難しい環境となってきたわけだが、多くのインターネット文化はエロ漫画と呼ばれる文化と密接に連携してきたと言っても過言ではない。

 

例えば多くのインターネットの流行、面白い画像や動画が拡散されていく文化。いわゆるミームという現象は、このエロ漫画が元となったものも日本においては多くある。

それはエロ漫画に限らずとも、成人向け描写作品、同人誌やゲイポルノなどもその類の現象を見受けられるだろう。

また、有名どころのIPで言えば『FGO』なんかも元はエロゲーであるということは余りにも有名な話だ。

 

というようにエロをひた隠しにする現代においても、先人達が遺した古のエロの文明というはひしひしと引き継がれているのだ。

エロに秘められた思いというのは、ただエロいというだけで何故こんなにも果てしないエネルギーを生み出しうるのか。

その疑問に立ち向かい、自身でそのエネルギーの発電を体験しつつ考察したい。

そんな思いで以下のことに取り組んだ。

 

エロ漫画作ってみたというお話

突然だが、私はとある興味本位でエロ漫画を作ってみた。

この計画は2022年7月2日に試作型を作成したのをきっかけに本格的に制作を始め、そして遂に今年の2024年4月始めに配信サイトでの発売を持ってしてこの計画の完遂を成し遂げたものである。

 

試作型



正直この話を記事にして残すかはかなり迷う物であった、軌跡として残して置くには余りにも異色過ぎる内容であるからだ。

普段、漫画のまの文字すら扱わないような場でいきなりこんな話が混ざっているというのも、絵面としては奇々怪々もいいところだろう。

それはもちろん重々に承知していることだった。ましてや満足の行くクオリティで作り上げられた物でもない。

 

しかし、私は何故。このエロ漫画を作りたいと思ったのか。その言語化を試みる過程で、どういう人間がこのような漫画を作り始めるのか。

その一端の現象として、記録として、広大なネットの海に、戯言として放流したいと、私はそう思ったのだ。

 

生半可な衝動で作れるようなものでなかったという点

先にお話しする事として、まず私は普段そんなに絵を描く人間ではない。

ましてやR18向け描写などの経験も殆どない。

 

頻度としては年に3~6枚程度のイラストを趣味程度に創作するぐらいであり、芸術肌でも何でもないマジの素人だ。

ましてや漫画なんて幼い頃を除けば書いたことも考えたこともなく、背景、コマ割りやトーンの張り方などは全てその時に間に合わせで調べて学んだものだ。

ノウハウの蓄積等一切ない、その程度の技術力で生み出されたものである。

 

まぁそうは言ってもなんやかんやで、やはり創作には興味のあった人間なわけであったので、絵そのものには大変な関心を元から抱いていた訳だ。

それを始める為の土壌は既にあったと言ってもいいだろうが、だがこれだけではエロ漫画を作ろうという動機には安易に成りえるものではない。

 

創作に携わったことのあるものなら誰もが分かっていることだと思う、エロ漫画以前に、漫画を創るというそのこと自体が大変な行為であり、生半可な衝動では決して完遂することなど出来ないものであるということを。

 

私も制作にかかる前から漫画を創る事の大変さは知識としては知っていた、そもそも一枚絵のカラーイラストですら個人差はあるものの大体7~12時間は掛かかっていても全然不思議でない世界だ。

言ってしまえば漫画は、一コマ一コマがそのイラストの匹敵するものであり、いくらモノクロで描くものとは言え、完成させるには莫大な時間を要するものなのだ。

 

そしてこの漫画を生み出す事の出来る漫画家もまたその世界においても化け物じみた存在であり、この手の話でよく例にでる週刊少年ジャンプの作品などその最たる例だろう。いくらアシスタントがいるからといっても、週刊ペースの作画作業というのは差し詰めプロのような人間にとっても拷問に近い行為だろうと容易に想像が出来る。

 

それほどに我々が知る様な漫画というものは過酷な制作工程の上に成り立っているものなのだ。このような背景を知っていれば、まず余程の情熱でもなければ完成作品を作ること自体非常に難しい事だと理解できるだろう。

それが経験のない素人ともなれば尚更だ。

 

実際私が試作型を制作してから本格的に作品が完成するのに1年と半年のも期間が掛かってしまっている。

そして当初の計画では平均的なページ数である24ページを想定して着手したものだったが、絵コンテやコマ割り作業をするに連れて、このままではペース的に完成まで天文学的な期間を要する事が判明し、当初の予定のその半分、12ページへと計画を変更したのだ。

これは元々私が遅筆なこと、そしてコマの作画カロリーの削減等諸々も相まって、このような事態を招いてしまった。

 

そして、何よりも、始めたからにはこの作品を完成させなければならないというプレッシャーに迫られるというこの日々への苦痛感、必要な作業を概算して想像する絶望感。

実に。実に実に、二度と味わいたくないような体験であった。

何よりも絵コンテの段階で壮絶な羞恥感に襲われ、時より私は何をしているんだろう。と考える日は少なくなかった。

己の好奇心が招いた衝動感を今となっては呪いたい。

 

実際、当作品に至っては己の羞恥感を克服できず、最終的には軽度な成人向け描写となってしまった、実に心惜しい事をしてしまった。

 

そもそもエロ漫画制作に興味を持った経緯

ところで話は変わるが皆さんは、亜人という作品をご存知だろうか。

 

桜井画門先生による日本漫画作品であり、2015年に劇場アニメとして放映された人気アニメ作品である。

本作は不死者である『亜人』という存在について巡り争う内容であり、実に興味深い世界観で展開される作品で、不死がテーマの作品が好みである私にとっても、非常にお気に入りのアニメ作品の一つだ。

 

......で、そんな作品がどうエロ漫画への興味に繋がるのか?という話だが。

大抵の場合、好きになった作品の原作者もセットで気になるというのがファンの宿命というものだろう。

 

原作者である桜井画門先生は、極めて画力やミリタリー描写の高い漫画家ということでも有名で、私はこのお方が過去にどのような作品をその手で漫画を手掛けてきたのか。

非常に強い関心を抱いていたのだ、それが全ての始まりでもある。

 

この、作者。過去作品を調べていくと......。

 

亜人』以前の作品が見当たらないのである、いや正確には。

桜井画門名義での作品が見当たらなかったのだ。

 

不思議に思った私は、更に深掘りしていくことに。

 

 

......?

 

なんと。

 

この作者、別名義。

漫画家. GGGGGGGGGGとして成人向け漫画作品を書いていたのだ。

 

https://book.dmm.co.jp/list/?author=243863

 

これには未だに凄まじい衝撃を味わった事を覚えている。

原作の漫画の雰囲気からおよそかけ離れたような画風であったからだ。

 

いや確かに亜人原作の初期の方から見比べて、現在の亜人画風への変髄というものがあったが、まさかその画風の影響が成人向け漫画から受け継がれたものだったとは。

しかも亜人は内容も内容だ、凡そお色気とはかけ離れた世界観の物語だ。

 

この作風のギャップが、私を狂わせたのだ。

私は漫画家GGGGGGGGGGに強い興味を抱いた。

 

『えっこんなハードな作品も描いてて?えっ?えっ?こんなエロ漫画もかけんの?このひとやっば~💛かっこいい💛』

 

心の雌蠣がそのような感情を心深くに抱いた。

私はここで初めて成人向け漫画家が産み出すエネルギーというものに関心を抱いたのだ、彼が産み出す『亜人』の世界観、これがどのようにしてこのエネルギーが関わってくるのか、その機序を知りたいと思った。

それが大雑把に私がエロ漫画制作に本格的に興味を抱いたきっかけというわけだ。

 

※ちなみに『亜人』に関しての補足だが、原作一巻においては別の原作者が担当していたが、二巻からは全て桜井画門先生が担当されている。

作るまでの経験談

そんな経緯で始めたわけだが、如何せん無計画なものであったこともあり、制作は困難を極めた。

絵コンテを切った段階で、『これ...本当に全部作画するのか?』と絶望し、半年ほどエタったのだ。

さすがに精神的にもスケジュール的にもきつすぎると、だがそうはいっても無意味なエタ期間を過ごしていた訳ではない。

 

どうすれば楽に漫画を創れるか?その一点を考え続けた半年でもあった。

私には自由に人物を描けるほどの画力もなければ、背景も描けない。コマ割のセンスもあるわけではない。

 

そこで生み出したアイデアが、ページ数を半分にする事と、コマ割りを減らす、背景に関しては3DCGを活用することを考えてみた。

 

特にメインシチュエーションとなりうるベッドに関してはblenderという3Dソフトでモデリングし、これを使い回すことで負担を軽減することを考えた。

調べてみると3Dを活用して背景作画に起用しているという漫画家も少なくないと言う。これは真っ先に実践できた事例だ。

 

だが、モデリングといってもこれはこれで美術的な造形力が問われる分野でもある。複雑な形をした小物などは描画ソフトに搭載されているフリー素材などを加工することで形とした。

 

あともう一つ重要な要素が、メインとなるキャラクターのデザインだ。

ただでさえ情報量がカットされている作風なので、キャラの情報をスッキリしすぎず、かつ比較的に安易に描写できる衣装である必要がある。

その結果の題材として、逆バニーという存在だった。

 

バニー衣装自体は細部な描写や質感の考察がなくてもそれっぽく見え、更に程よくちゃんとエロいものだ。今作においてはこれ以上の適任もないだろう判断した。

竿役に関してはよくあるモブ風キャラというものにしたが、如何せん男性キャラの描写は殆どしたことがないので、ある意味苦戦した。特に例の箇所は描写の種類が多様なので、どういうスタイルで描くかはかなり迷う要素であった。

 

まぁそうはいってもモザイクでどうせ隠れることを考えれば、そこまで深く考えることでもないことではある。

そういう意味では初めて日本固有のモザイク規制に感謝する瞬間でもあった。

 

 

と言う風になんやかんやで、日々に地道に作画作業を進め、描いては直し、デッサンに苦しみ、主観のジレンマに囚われ、猛烈な生命力を消費して今作は完成された。

12ページ、巷では一冊としては最小限の枚数だと言う。これが最低限の努力なのだと考えると、如何に我々が普段目にするエロ漫画家達が遥か高みに存在しうるのか。

身に染みて味わう事が出来る、そんな体験であった。

 

エロ漫画を実際に作ってみて

結局、ここが一番大事な所なのだが。

私はこの物作りを通じて、何を得て、何を感じたのか?

 

彼らのように優れた作品を生み出しわけでもなければ、新たな人生のヒントを得たというわけでもなかった。

だが、ただ一つ理解したことはある。

 

エロ漫画家、彼らの創作への思いは”本物”の熱意なのだと。私如きの、偽りの熱意では到底なしうることの出来ない、本物の熱い創作への感情、モチベーション、思いだ。

私にはそれがなかった。

彼らのエロに対する描写は本物で、偉大な性欲の生み出す圧倒的な描写は多くの人間を魅了する。そして、そんな作品に対してエネルギーを注ぐことの出来る人間は、限られた人間であるということ。

私は彼らのように描写の探求にのめり込む事が出来ず、どちらかと言えば作品が完成できればクオリティなんて二の次でいい。そのような思想で物作りをしていた。

だが別に完成至上主義とて悪いことばかりではなく、そのような思想でなければそもそもとして作品を作ること自体が出来なかったであろうし、完成させなければ後悔し成長することも出来ないであろうから。

 

だが、そうであってもやはり創作に狂うことができなかった私そのものの人間性としては、才能に雲泥の差があるということなのだろう。

何を創りたいか?ではなく、創るとどうなるか?そのような発想から出発したものの末路が今回の私であるということだ。

 

でも私はそういった創作者達の狂気の熱を垣間見えたことだけでも、体験としては十分な収穫があったと感じる。

これが、今回私がエロ漫画を制作してみて感じた主な感想だ。

 

せっかくなら没にした展開の続編の制作をとも思ったが、詳細はまだ考えていない。何れ機会があればまた挑戦してみることもあるだろう。

 

以上、哲学的探究心でエロ漫画を作ってみたという話でした。

 

 

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ゆかりさんと学ぶ哲学用語『リベラル・ナショナリズム』相反する思想は相容れるのか?【VOICEROID解説/哲学】

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以下は動画内文字起こし

 

今回は前回に続く政治的哲学用語「リベラル・ナショナリズム」についてお話していこうと
思います。

以前、ナショナリズムについては、
「政治的な単位と文化的あるいは民族的な単位を一致させようとする思想や運動」、
そしてリベラリズムについては、端的に「自由主義」であるとお伝えしました。

では今回の「リベラル・ナショナリズム」とは、どういった政治的立場になるのでしょうか?
比較的多様性とは相反すると思われるナショナリズムと、多様性を重視するようなリベラリズム
は、果たして相容れる事があるのでしょうか?

「リベラル・ナショナリズム論」は1990年代初頭から英語圏で活発的に議論されてきた分野で、
80年代に勃発していた「リベラル・コミュタリアン論争」を経て、「リベラルの中立性原理」や
リベラル的人々における文化的な関心が高まって来たことにより注目され始めたものであると言われています。

「リベラル・ナショナリズム」について、明確な定義があるとは言えませんが、凡その
使用されるニュアンスとしては、リベラリズムの利点と、ナショナリズムの利点を組み合わせたような、
そんないいとこどりの政治的立場、あるいは妥協案であると言えるんじゃないでしょうか。

社会的結束を軽視する側面をナショナリズムでカバーし、文化的な多様性を軽視する側面を
ナショナリズムの考え方でカバーする。そういった具合だと思われます。

より小難しい言い方をすれば、ナショナリストの目的たるネーション的文化の維持や発展、アイデンティティ
の共有や共通する社会的な仕組みを提供しそれを望みつつ、リベラル的な個人の
選択的自立や民主的かつ多様的なプロセスは併存可能な理論であると
して、これを擁護する。そんな風に統合された立場であると言えるでしょう。

こういった政治的立場を取る有名な政治手学者としては、デイヴィッド・ミラーや、ヤエル・タミール
などがこういった概念を主張していると言われています。

特にこういった言葉が定着するきっかけとなった「ヤエル・タミール」は、国民国家
越えた上位の機関による統治を前提とした地域主義的構想を提示しました。

この考えには欧州共同体(EC)、今でいう欧州連合EU)がモチーフに使われているといわれており、
各地域のネーション的地域機構がクロスドメイン的な防衛施策や経済政策を担いつつ、各地域ごとに
おけるナショナリズム的な民族文化的施策を自由に追求することを平等に承認することによって、
大小異なるネーションも自律的に共存することが可能であると主張しました。

このような思想を「複数ネーション主義」と言います。
リベラリズムナショナリズムを融合させる具体的な政治モデルとして試みられた思想とも
言えるでしょう。

更に代表的論者である「デイヴィッド・ミラー」によれば、社会正義はナショナルな政治単位で
最もよく実現されると言います。その社会正義たる富の再分配政策が往々にして
上手くいくためには、そもそも人々が共通の帰属意識
持つからであって、不遇な物に対する共感の念がなければ再分配そのものが成り立たない物で
あるし、そのような意識が保たれっるのはいわゆるナショナルな単位で纏まっているからであると
主張しています。

結論的には、こういった観点から社会正義的施策や構想は、ネーションごとの政治的な歴史や文化
事に異なるので、基本的な単位としてはナショナルな纏まりが必要であるのだと
そう言えるでしょう。

と言う様に、「リベラル・ナショナリズム」については、聞いている限りでは理想的な思想であると
言えます。
ですが、この「複数ネーション主義」については幾つか説明されていない課題があり、
その克服が求められています。

この思想に乗っ取れば、ネーションを超越的な統治機構によって中立的に統治する事が
求められますが、そもそもなぜ人々はネーション的な国家的機関には従いつつ、
中立な統治機構に対しても忠誠を持ち得ることが出来るのか、
その根拠が提示されておらず、防衛政策や社会政策の
履行において問題となってくることから、枠組みとして問題視される部分があると言われています。

現代においても、このような機構として近い所は国連などの組織があるわけですが、別に
信頼しているかと言えばそうではないと思われますし、疑問点としては理解できますね。

ということで、今回は「リベラル・ナショナリズム」についてでした。
この分野で代表的な考えである「複数ネーション主義」を挙げてみましたが、如何でした
でしょうか。この考え方には脆弱な部分が含まれつつも、理想とすることが何かは理解できたのは
ないでしょうか。

まとめとしては、「リベラル・ナショナリズム」の目指すところについて、国民国家としての
ナショナリズム的な単位を重視しつつ、リベラル的な社会正義を実現する。
そういう思想であることが今回の簡単なまとめとなります。

また、「リベラル・ナショナリズム」については解釈の幅があり、あくまでここで示した事は解釈の
一例に過ぎないところですので、その点はご留意頂きたくご了承ください。

 


Kyushu University Institutional Repository
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/4494673/023_p061.pdf

jstage.jst.go.jp
https://www.jstage.jst.go.jp/article/rinrigakukenkyu/45/0/45_111/_pdf/-char/en

リベラル・ナショナリズムの理論 川瀬貴之著

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゆかりさんと学ぶ哲学用語『ナショナリズム』世界を席巻させる共同体意識【VOICEROID解説/哲学】

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以下は動画内文字起こし

 

 

今回は政治的哲学用語「ナショナリズム」についてお話していこうと
思います。
ナショナリズムって言葉自体は、テレビやニュースなんかでよく聞く事のある
言葉だと思いますが、実際の所、その言葉の意味って考えてみるとイマイチ
良く分からない所がありますよね。

まぁこの言葉自体が多様な意味を含んでいますので、人によってはなんとなく、
悪いイメージや、逆に良イメージを持っているかもしれません。
それほどにこの「ナショナリズム」という言葉は政治的に多様的で、かつ
近代国家の成り立ちに大きく関わってくるような言葉なのです。

では早速「ナショナリズム」を見ていきましょう。

ナショナリズム」とは、と言いたいところですが、この言葉を端的に表すには
やや難しい用語です。そこで一般的にナショナリズムを語る上での議論の出発点として
語られる著名人の言葉を引用すると、
ナショナリズムの研究で有名な哲学者『アーネスト・ゲルナー
によれば、「政治的な単位と文化的あるいは民族的な単位を一致させようとする思想や運動」
であると言います。
また日本の政治学者『丸山 眞男』によれば「ナショナリズムとは、
ネーションの統一、独立、発展を志向し、推し進めるイデオロギーおよび運動」
と定義したことで有名ですね。

ちなみにネーションとは、ナショナリズムの言葉の元となった用語でもあり、
意味としては、「人々、親族、部族、階級、群衆」といった意味をもつものです。
ここでは要するに、何らかの属性(共通の神話や言語)を共有する同質的な
人間の集団を指していると言っていいでしょう。

言葉にしてみるとややこしく感じてしまいますが、実はこのナショナリズムという
概念や感覚自体は、普段から我々が常にメディアなどを通して感じ取っているもの
でもあるんですよね。

例えば、同郷である日本人が海外で活躍したり、日本の製品が海外で評価されたりして
いると、その当事者でないにも関わらず自分事としして嬉しく思いますよね。
他にも実際にそこに住んでいる訳ではなくても、自分たちの領土であると認識していたり
、またまた自国の経済が発展したりすると、当然ポジティブな感情を抱くはずです。
こうした事は全て、立派なナショナリズムであると言えるのです。

こんな事は「えっ?当たり前でしょう?」と思うかもしれませんが、実は
こういったナショナリズムという概念そのものは過去の壮絶な戦争や歴史を経て
生み出された近代社会の産物でもあるんですね...。
というのも、そもそも「国民」や「国家」というものが王侯貴族等を覗く
下流の人々の間で意識し始められたのはここ数百年の話であって、それ以前の
農耕産業を中心とする人々の間ではそもそも現代の様な「国家」や「国民」という
意識は殆ど存在しなかったと言えるのです。

それもそのはずで、過去の人々には現代の人々と異なって、そもそも集団の認識のレベル
(村や集落)が異なっていたというのがありますよね。
またその認識を拡張する手段としての教育も、一部の上流階層のみの特権として多くの
場合はそう施されてきたもので、多数の人々においては無縁なものでした。
特にこういった概念の源流ともなった西欧の戦争の歴史においては、それが顕著なもの
となっていました。

例えば、フランス革命などがまさしく「ナショナリズム」の歴史的な源流で、
国のことを一部の人間(王侯貴族)が決めていたことを、民衆が参政権
持つようになったことで国民意識が生まれるようになり、国の行事が
国民事となったことでようやく人々は「国民国家」を強く意識するように
なっていったのです。

こうして「ナショナリズム」が芽生えた国家は、国家としての結束が強まり、
また近代国家のような強力な国家を作り上げていったというわけですね。
しかしこういった民族等を意識する国民国家が自国を強固にしていく思想故に、
国際情勢が危ぶまれる思想という風にも捉えられるようになったのです。

ナショナリズムによって積み上げられた価値観が先行して、ナショナリズムのある
べき姿と照らし合わせた時に、ナショナリズム的に正しくないとされる国家に対して
、侵略を仕掛ける戦争の口実として利用されてしまうという側面があったのです。

自国と同類のルーツを持つ人々を敵国から解放するという名目の侵攻や、強まった
ナショナリズム故に領土意識が強くなり、かつての領地の領有権を再び主張するように
なったりなど、ナショナリズムは自国の結束を強固にする一方で、他国との国際情勢を
不安定なものにするといった負の側面は、現在の国際情勢と照らし合わせてみても
分かりやすい事柄なのではないかと思います。

ここまでの話を聞いてると、「ナショナリズム」って危険な思想なのでは?
と思われてしまうかもしれませんが、これに関しては一概に善悪を判断できるもの
ではありません。
というのも、冒頭に話した通りに、既に近代の国民国家の多くはこの
ナショナリズム」という意識が根付いていて、このナショナリズムなくして
近代国家の誕生はありえないものでもあったわけです。

このナショナリズムがあったからこそ、共同体意識を共有する国民達は自国経済を
発展させようとし、国のために進んで志願兵となり、より強力な国民国家へと変貌
していった、という流れがあったわけですね。実に考え深いものですねぇ。表裏一体の
思想というところでしょうか。

ということで今回は「ナショナリズム」についてでした。
ナショナリズムは世界を席巻させてきた思想とも言え、行き過ぎた民族主義愛国主義
新たな世界大戦の引き金を握っているとも言える。だが一方で国民国家という民族を結束
させ、強力な国家を作り上げる原動力ともなっている、そのような思想であるという
ことが分かったかなと思います。

改めてこの同郷的な意識の言語化を通したことで、見えてくる世界の情勢というものが
あると思いますので、ナショナリズム的視点から日々のニュースを、再度視点を捉え直して
考えてみるというのも面白いのではないかと思います。

それでは今回はここまでです。ご視聴ありがとうございました。お疲れ様でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

ゆかりさんと学ぶ哲学用語『無知のヴェール』無知を纏う事によって見えてくる真理【VOICEROID解説/哲学】

 

 

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インテリ市民の皆様御機嫌よう。

さて、今までに様々なリベラリズムの思想についてお話してきましたが、
今回はそれらにまつわる原典的で有名な思考実験でもある哲学用語「無知のヴェール」
について解説していきたいと思います。

「無知のヴェール」とは、アメリカの政治哲学者ジョン・ロールズの著書『正義論』の
中で展開された仮想的な概念のことで、現代リベラリズムを考える上での基礎的な概念の
一つでもあります。ロールズはこの考え方を通して、社会における公準たる『正義』
をいかにして実現するのかを考えました。

ではその『無知のヴェール』とは一体どのような概念だったのでしょうか?
ロールズは著書『正義論』の冒頭において、まず『正義』そのものの基準を
普遍的な形で設定できるのかという問いを打ち出しました。

そしてそのようなものを設定するためには、この無知のヴェールと呼ばれる概念的な
ヴェールを人が被る事によって『原初状態』と呼ばれる状態にする必要が
あるという独自の仮説を打ち立てます。

この原初状態というのは、例えば人が一斉に見知らぬ異世界に転生して、地位や財産などに
に関係なく全員同じ前提から新たな社会や文明を一から作り上げる時、
その社会における公準的な『正義』は果たしてどのようにして
生まれ築かれるのか。というような想定をすることを意味しています。

そして、無知のヴェールを被るというのは、人が自分の社会的・経済的・自然的な条件を
知らない状態で、正義の原理を選ぶという仮定のことで、これによって人は自分の
利害や偏見に影響されずに、公平な判断ができるというものです。
この無知のヴェールを被った状態、つまり、自身の立場や地位、財産の
状況が分からない原初状態の人間ならば、人は初めて真の公準たる
『正義』について考える事が出来るのだと言います。これが無知のヴェールに関する
大まかな内容です。

そしてそのような状態においては、ロールズは誰しもが『正義の二原理』を選ぶはず
はずであり、それがその社会における基礎的な『正義』の基準であると主張します。

『正義の二原理』とは。第一原理・各人は、他の人々の同様な自由の図式と両立する
平等な基本的自由の最も広汎な図式に対する平等な権利を持つべきである。
という対等原理と。
第二原理・社会的・経済的不平等は、それらがあらゆる人に
有利になると合理的に期待できて、全ての人に開かれている地位や職務に付随する、
といったように取り決められているべきである。という格差原理。
この二つの原理から構成された二原理です。

小難しいですが要するに、第一原理は「言論の自由や信教の自由などの基本的な権利が、
全ての人に平等に保障されるべきであるということ」
第二原理は「社会的・経済的な不平等は、最も恵まれない人々の利益になるように
調整されるべきであり。また、機会均等の原理は、社会的地位や職務に就くためには、
全ての人に公平な競争の機会が与えられるべきであるということ」
という風に言えます。

これらを踏まえてロールズが言いたいことは、簡単に言えば
自分の立場も財産も知らない状態で『正義』を考える時って、
必ずみんなが納得する正義になるよね。ってお話な訳ですね。

しかしこの主張は、一見普遍性を伴ったような意見に思えましたが、誕生の地アメリ
では多くの批判に晒される事となりました。この主張を批判した主な立場としては
リバタリアニズムとコミュタリアニズムの二つの立場が挙げられます。

リバタリアニズムの立場からの批判として、正義とは「個人」の不可侵な所有の権利
にのみ存在すると彼らは主張し、個人の所有の権利を社会的正義たる基準値として
設定しておき、その個人間における正当な財のやり取りについてのみ、財の所有
についての正しさを規定する『権原』(法律行為に正当性を持たせるの原因)が
作られると考えられています。

この事から、ロールズが示唆するような不平等を解消する行為、即ち「持たざる者」へ
の富の再分配は、個人の正当な所有の権利、「権原」に対する国家からの不当な
侵害であると考え、正義に反するものとしてリバタリアニズムに批判されました。

前にも説明したように、リバタリアニズムは個人の所有権や自由を最優先する立場
なので、富の再分配は個人の権利の侵害だと考えます。

続いてコミュタリアニズムの立場における批判としては、個人に関する価値観の相異
が主に上げられていて、ロールズの考えでは個人は社会から独立していると
考えられており、思想や価値観を選択して行動できるとされているのに対し、
コミュタリアニズムは、価値観は共同体においてのみ規定されると考えていて、
そのような共同体的価値観から離れた個人など存在しないのだと主張しました。

コミュタリアニズムは共同体の価値観や伝統を重視する立場なので
無知のヴェールは現実離れした仮定だと考えます。

以上、哲学用語『無知のヴェール』についての概要でした。

ふむふむ、なるほど。確かに無知のヴェールがあればポジションに囚われない万人の
為の議論が出来そうですよね。日夜討論番組で繰り広げられるような不毛な言い争い
を繰り返す論客達には、ぜひ無知のヴェールを被ってもらいたいものです。

まぁその過程が結果として新たな結論における有意義な動機付けとなるなら
それはそれでいいのですけども。結局はアウフヘーベンです。皆さんアウフヘーベン
をしていきましょう。

それでは今回はここまでです。ご視聴ありがとうございました。お疲れ様でした。

 

 

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【グラブル】初めてのルミナス武器、フレズヴェルク取ったみた【ルミナスシリーズ/フレズヴェルク】

 

 

初めてのルミナス武器、なぜ取得したか

まぁ見ての通り、結構ゴムーンが溜まってたし、あと最近グラブル自体がきな臭くて、わんちゃん近いうちにサ終するか、シャドウバースみたいに権益引き継ぎ不可能の続編が発表されるような危機感があったので、ラストエリクサーになるくらいならここいらでパッーと使っちゃおう!という意気込みで交換した。

 

あとはまぁ、ムゲンHLがすごく楽になるのと、単純に武器として楽しいというのがある。めちゃくちゃ強い。

 

性能と149、150問題

 

まぁ余談はさておいて、肝心の性能だが

 

 

まぁ詳しい仕様については攻略サイトを見てもらうとして、ざっと所感を述べる。

 

 

 

 

 

滅茶苦茶強い

 

いやぁ強いですよ、この武器は。

 

そしてムゲHL周回がとにかく快適。今まで砂目的で周回してたのは最初シエテ→ディアスポラとやってきたが、まぁーとにかく一番ストレスなく周回出来ますね。ムゲンは、

あと早い。

いや待て、確かに批判の気持ちは分かる。地雷レリバ多いとか、剣豪が動けないとか。自発の失敗率も高い。それは痛いほど自分自身も身に染みてきたことだ。

なぜならつい最近まで自分も火で天元に行くために火を強化していて、剣豪でムゲンをずっと周回していたのだから。その辛すぎる剣豪周回の上で火のドラポン回帰を遂行したのだ。

 

 

批判の気持ちは分かる、だけども。だけどもだ。かといってだ。あまりに剣豪編成で救援は苦行過ぎるのではないだろうか。

三連続ジャイアントバン、レリバの残したカスみたいな貢献度を啜る屈辱的日々。これはもううんざりなんですよ。

そういう日々から解放されたことが何よりもこの武器を取得することの利点だ。

 

話を元に戻すとして、この武器を語る上で149、150問題というものがある。

 

これはフレズヴェルクのスキル構成に因んだ問題で、これは要はなにが問題になっているのかというと、この第三スキルに関してが主な争点だ。

 

だがこの争点はもはや古い話になりつつある、なぜならそういう議論が盛んにあったのは水古戦場前、例の約定スキル持ち武器のガブリエルが到来する前の環境の話であるからだ。

 

フレズヴェルク一本で約定スキル分の与ダメージを備えているが、約定武器がきた場合、この第三スキルが連撃率100%ダウンという物のせいで、ダメージ上限も上がるとは言え、与ダメは同枠な為にかなりの激重デメリット武器に変貌してしまう。

約定スキル武器がくるのなら、フレズヴェルクを150にするのは悪手なんじゃないのか?そういう議論があったわけだ。

 

確かに149に寸止めすることで、理論的に最高速度で討伐する猛者も水古戦場にいたが、それでも割と限定的な運用で、多くの一般プレイヤーにとって149に留めて置くメリットは殆どないように思える。

 

もちろんしっかりした運用があるのなら別だが、150にすること自体は別に弱い行いではない。自分は幸いにもガブ武器を所有してなかったので、ある意味この武器一本で武器枠の圧縮になったし、それに単純に火力が出る。それと別に連撃率が大幅に下がるとは言え、水着ルシなるもので確定TAをなんやかんや付与する事はできるし、そこまで致命的な仕様というわけでもない。

 

故に私はフレズヴェルクを150にした。ていうか単純にゴムーン150使って主人公にランダムヒット付与するだけの武器にするってのはそれこそコスパが悪いように感じた。爽快に気持ちよく快適ゲーにするのなら小難しいことを考えることなく150にすれば良い。

 

終わりに

ちなみにソルジャーでの運用も強力だが、面倒なのでバレット集めはしていない。ヒヒ掘りは別の編成で十分代用できる。問題はムゲンHLとどう向き合うか、私にとってはそれだけだ。メイン用のゼノ銃も何故か攻撃バージョン作ってなくて、そういった諸々の要因が今回のフレズヴェルク取得に繋がったとも言える。

 

ということで自分はムゲHLに通う→天元に挑む

という導線が出来てたので、迷いは少なかった。大事なのは、あなたが何をしたいかだ。それでいて様々な選択肢の中、フレズヴェルクもそれなりに快適だよー、という話でした。では良きグラブルライフを。

 

 

 

 

 

ゆかりさんと学ぶ哲学用語『アウラ』オリジナルの持つ唯一的な空間と時空を含む権威【VOICEROID解説/哲学】

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アウラとは何か?ベンヤミンの哲学を考える


こんにちは、今回は哲学用語の『アウラ』について解説していきたいと思います。
この言葉は、最近話題の漫画『葬送のフリーレン』に登場するキャラクターの名前でもありますが、
実はドイツの文芸批評家であり、思想家でもあったヴァルター・ベンヤミンの著書、「複製技術時代の芸術作品」
や「パサージュ論」などの論考で提唱されていた美術的な用語としての概念でもあるのです。
ではアウラとは一体なんなのでしょうか?ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」のなかでは
次のように彼は語っていました。
―――アウラとは、一体何か? 空間と時間の織り成す一つの奇妙な織物である。
つまり、どれほど近くにあろうとも、ある遠さの一回的な現れである。
夏の午後、寛ぎながら、地平に連なる山並を、あるいは寛いでいる者に影を落としている木の枝を
、目で追うこと――これが、この山並のアウラを、この木の枝のアウラを呼吸することである
実に文学的難解な表現ですが、彼はこの言葉について明確な定義を示していません。
なのでここからは考察ですが、要するにアウラとは、その存在がその時点において持ちえる時空的かつ空間的な
唯一無二の存在性、権威的な表現のことを指していると推察できます。これを更に要約した定義としては
、概ね『オリジナルの存在が持つ権威性』と言えるとここでは考えます。
つまりは、特に芸術面における『アウラ』とは、複製技術によって失われたかつての旧来的な
性質をもつ芸術についてを総称を指す言葉として使われるものになります。
そしてベンヤミンは、現代の複製技術によって芸術作品の一回性が失われていき、やがては
アウラが消失してしまうと考えていたようですね。
そのように要約していけばかなりこの言葉の本質が見えてくるような気もします。
今、この時における画像生成AI問題についても、今日に至るまでネット上では盛んな議論が
交わされていますが、まさしくこの『アウラ』という言葉はその芸術的な問題性を指摘
しているようにも思えます。
生成技術が齎したクリエイターたちの懸念というのは、複製技術が生まれた時代から
同様に憂いられてきた共通の倫理的な問題だったんですね。
ということで今回は哲学用語『アウラ』についてでした。
私たちは日々の目覚しい技術的な進歩によってあらゆる領域のアウラを消失させています。
それはもはや人類が進化していく上での過程であり、もはや必然な現象でもあると
言えるのかもしれません。
しかし、だからこそアウラを知覚できる人間の精神的な能力を、このまま手放しで失うわけにも
いかないとも思います。なぜならアウラとは、その物を作り上げる存在を敬い、人々に倫理的な
反省とリスペクトを促す経験的な効果が秘められていると思うからです。
どんなに技術が進捗し、あらゆる芸術や物が手軽なもになろうとも、決してアウラを忘れる事
なかれ。という思いで社会を歩んでいきたいものですね。
では今回はここまです。ご覧いただきありがとうございました。お疲れ様でした。