女風土記 Carving Her Name from Japan

#女風土記 #女性史 #女性伝 #郷土のヒロイン

🌹女風土記🌹 静岡県浜松市 日本初グラミー受賞ジャズピアニスト・作曲家 上原 ひろみ 女史 / Japan’s First Grammy-Winning Jazz Pianist and Composer, Ms. Hiromi Uehara

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🌹女風土記🌹 静岡県浜松市 日本初グラミー受賞ジャズピアニスト・作曲家 上原 ひろみ 女史 / Japan’s First Grammy-Winning Jazz Pianist and Composer, Ms. Hiromi Uehara

 
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-YAMAHA音楽教室上原ひろみさん インタビュー」

「音楽で大冒険」
"Hiromi’s Sonicwonderland"

上原 ひろみ 女史 
Ms. Hiromi Uehara
1979- 
静岡県浜松市 生誕
Born in Hamamatsu-city, Shizuoka-ken

上原ひろみ女史は日本で初めてグラミー賞を受賞したジャズピアニスト・作曲家です。超絶テクニック、エネルギッシュなライブパフォーマンスで知られ、グラミー賞を受賞、世界中の様々なジャンルの音楽家と共演しています。
Ms. Hiromi Uehara is thefirst Japanese jazz and composer awarded 'Grammy'. Renowned for her extraordinary technique and energetic live performances, she has collaborated with musicians from various genres worldwide.

「ハノンをスウィングして弾いてみたら?」
 
「この子は音楽が好きそうだな」母のすすめで算盤・習字・水泳の稽古事に加えて、ひろみは6歳からヤマハ音楽教室に通ってピアノを始めます。8歳の時、ピアノの基礎練習ハノンに眠くなるひろみに、ジャズ好きの疋田範子先生は「ハノンをスウィングして弾いてみたら」。自分で和音をつけたりして遊ぶようになります。五線譜の上にじょうずにオタマジャクシを載せるようにして毎週1曲ずつ作曲を始めます。小学校の音楽会では音楽室の楽器をクラスメイトに振り分けてみんなを猛特訓、組曲「踊るポンポコリン」三部作をプロデュースします。高校時代は、エントランスホールに置かれたグランドピアノを独占。ホールに集まる友達のために即興でBGMをつけるように弾きます。

「セッションしよう!」
 
来る日も来る日もピアノを弾き続け、17歳のときに東京のヤマハまでレッスンを受けにいった先で、ひろみは同じビルのスタジオで翌日のコンサートのリハーサルをしているチック・コリアを見つけます。早速、スタジオに押しかけてオリジナル曲を披露。「じゃあ、即興しよう」スタジオにあった2台のピアノでセッション演奏をはじめます。そのまま翌日の彼のコンサートに誘われ、大手町の日経ホールで、聴衆の前で披露します。高校卒業後は大学に通いながらライブ活動を始めます。知人に誘われCM音楽を作るようになると、いろんな楽器について勉強するために大学を中退して渡米します。

「音楽で大冒険」
 
「ピアノが弾けると友達ができる」マサチューセッツ州ボストンのバークリー音楽大学でピアノを弾きながら作曲を猛勉強するひろみは、世界中から集まる国籍も肌の色も違う人たちと24時間音楽漬けで過ごします。卒業試験の課題曲を作編曲科の先生が絶賛し、ジャズピアニストであるアーマッド・ジャマルの紹介を受け、ジャズの名門レコード会社「テラーク」からアルバム『Another Mind』で世界デビューします。続いて再会したチック・コリアとアルバム『Duet』を発表、ソロ・ピアノ作品『Place to Be』をリリース。2011年にはスタンリー・クラークとのプロジェクト作『スタンリー・クラーク・バンド フィーチャリング 上原ひろみ』で第53回グラミー賞「ベスト・コンテンポラリー・ジャズ・アルバム」を受賞。世界中の新たな仲間たちとピアノを弾き続けています。自身が率いる Hiromi's Sonicwonder で「Yes! Ramen!!」(2025『OUT THERE』)を発表するラーメン好き。

-YAMAHA音楽教室
-上原ひろみ オフィシャルサイト

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🌹女風土記🌹 旧満州 日本初NEAジャズマスター 穐吉 敏子 女史 / Japan's First NEA Jazz Master, Ms. Toshiko Akiyoshi

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🌹女風土記🌹 旧満州 日本初NEAジャズマスター 穐吉 敏子 女史 / Japan's First NEA Jazz Master, Ms. Toshiko Akiyoshi

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-"Toshiko Akiyohi" Discogs.com

「わたしの一生というのは、黄色い一本の長い道なのです」
"My life is like a long yellow road."

穐吉 敏子 女史
Ms. Toshiko Akiyoshi
1929 - 
満州
Born in Former Manchuira

穐吉 敏子女史は、日本人で初めて米国国立芸術基金(National Endowment for the Arts: NEA)が認定する米ジャズ界最高栄誉「ジャズマスターズ賞」を受賞したジャズピアニスト・作曲家です。日本人で初めてボストンのバークリー音楽院で学び、和楽器や日本の音階をジャズに融合、『MINAMATA』『HIROSHIMA』など日本人として社会メッセージを発信しながら、東洋人女性として初めてビッグバンドを率いて世界で活躍。
A legendary pianist and composer, Ms. Toshiko Akiyoshi is the first Japanese artist named an NEA Jazz Master. From her roots as Berklee’s first Japanese student to her role as the first Asian woman to lead a global big band, she has revolutionized jazz. By weaving Japanese instruments and scales into her music, she has amplified her identity and social conscience through profound works like 'MINAMATA' and 'HIROSHIMA.

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トルコ行進曲
 
 満州紡績株式会社に勤める父・仲吉と、大分県四日市高等女学校一期生である母・アキのもと4人姉妹として生まれた敏子は、小学1年生のときの学芸会で女学生の弾く『トルコ行進曲』に魅せられます。早速、小学校の音楽の先生に頼み込んで、放課後の学校や先生の自宅で教えてもらいます。やがて大連の女学校に進学しながら同時に大連音楽学校にも通ってピアノ教師のもとで学びます。15歳のときに敗戦を迎え、ロシア兵に盗まれた家財道具が自宅前の公園で中国人たちに売られ、中国共産党軍兵士夫婦に家とピアノを取られ、道なき道を歩いて辿り着いた葫蘆島から両親の故郷大分県に引き揚げます。

『Sweet Lorraine』
 
物資不足で困窮する中、駐留軍キャンプを取り巻いて賑わう別府の「つるみダンスホール」でピアノ弾きの仕事を始めます。衣装は姉にドレスに縫い直してもらったピンクの着物。そこで、テディ・ウィルソンの『Sweet Lorraine』を聴いてすっかりジャズに魅せられます。18歳で上京。あちこちの駐留軍キャンプまたダンスホールで夜毎に演奏をしながら腕を磨きます。敏子は最新の輸入盤が置かれているジャズ喫茶に通って、ビバップと呼ばれるモダン・ジャズを手探りで学びます。

『Long Yellow Road』
 
「コージー・カルテット」を結成して西銀座の日本初ライブハウス「テネシー・コーヒーショップ」で演奏していると、来日したジャズピアニストであるオスカー・ピーターソンに認められ、彼の後押しで『Amazing Toshiko Akiyoshi』を録音。米国で日本人初のジャズピアニストとして話題になり、26歳の敏子はバークリー音楽院に日本人で初めて招待されます。敏子は奨学留学生として学びながら、着物姿で激しくビバップを演奏して大きな話題を呼びます。「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」はじめボストンの人気クラブ「ストーリービル」などに出演。卒業と同時にアメリカ定住を決意して『Long Yellow Road』を作曲すると、拠点をニューヨークに移しチャー・リミンガスのバンドに参加します。

『KOGUN』
 
34歳のときにアルト・サックス奏者チャーリー・ミリアーノと結婚するもまもなく離婚。子育てとJAZZの両立に悩み、娘を日本の姉に預け、様々な偏見や差別に苦しみながらJAZZ活動を続けます。やがてフルートまたテナー・サックス奏者ルー・タバキンと結婚し、ロサンゼルスで「秋吉敏子ルー・タバキン・ビッグ・バンド」を結成します。敏子は45歳のときに、ルバング島で発見され大ニュースになった小野田寛郎少尉を題材に、ジャズと日本古来の和楽を融合した『KOGUN(孤軍)』を発表。夫ルーがフルートを笛のように響かせ、能で使う鼓の音色も加えます。世界中で大ヒット、日欧米ツアーで人気は鰻登り。「日本人である自分にとってのジャズ」を形にするように、『MINAMATA』『HIROSHIMA』など自らの作編曲で社会メッセージを発信しながら世界中で活動を続け、グラミー賞では計14度ノミネートされるも未受賞、70歳のとき日本人初「国際ジャズ名誉の殿堂」入り、77歳のときジャズ界最高栄誉とされる米国国立芸術基金(National Endowment for the Arts: NEA)の「ジャズ・マスター賞」を受賞。現在もパワフルに活躍中。

-Tshiko Akiyoshi / 2007 NEA Jazz Master
-Toshiko Akiyoshi / 全米芸術基金 National Endowment for the Arts
-Discogs.com
-「穐吉敏子 わが故郷 満州 ロング・イエロー・ロード」 帰還者達の記憶ミュージアム
-『ジャズと生きる』(岩波新書1996)
-『孤軍 秋吉敏子』(全音楽譜出版社2004)

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🌹女風土記🌹 旧満州 環境リスク管理学の創始者 中西 準子 女史 / Pioneer in Environmental Risk Management, Ms. Junko Nakanishi

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🌹女風土記🌹 旧満州 環境リスク管理学の創始者 中西 準子 女史 / Pioneer in Environmental Risk Management, Ms. Junko Nakanishi

 
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-日本学士院 / Japan Academy

「リスクを自分たちで予測して、自分たちで社会をつくる」
"Predict risks ourselves and build our society accordingly."

中西 準子 女史
Ms. Junko Naknishi
1938 - 
満州大連市 生誕
Born in Dalian City, Former Manchuria

中西準子女史は汚水・下水・排水環境工学の先駆者。化学物質による人の健康さらに生態系に与えるリスクを評価する手法、環境リスク管理学を確立。
Ms. Jyunko Nakanishi is a pioneer in environmental engineering for sewage, sewage, and wastewater. She established environmental risk management , methods for assessing the risks posed by chemical substances to human health and ecosystems.

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「どちらの考えが正しいのだろう」
 
準子は中国の大連で、南満州鉄道で働く父・功と、大連の図書室に勤める母・方子のもと、2人姉妹の長女として誕生。上海に引っ越してまもなく共産主義運動家の父・功はゾルゲ事件関連で検挙され東京の巣鴨拘置所に連行されます。とても豊かだった生活が一変、今まで親切にしてくれた人達から急に石を投げられる生活になります。母・方子は姉妹を連れて大連市の孤児院に身を寄せて住み込みで働こうとしますが、準子は臭いご飯にハンガーストライキをして反発。母は姉妹を連れて日本にいる父を追います。門司港まで船で着くと、父の実家を訪ねるるものの戦時下の貧しさと家父長制・封建制の理不尽で陰湿な生活に逃げ出します。3人は藤沢市鵠沼海岸に住む父の弟・三洋また富貴子夫妻の家に転がり込み、巣鴨拘置所まで死刑求刑された父親に何度も面会に行きます。敗戦を迎えようやく釈放された父・功が日本共産党員として凄まじい理論闘争をする現場を、準子は怖いと思いながらじっと見て育ちます。準子は小学生から広くマルクス主義の本を読みあさり、中学生で東大の大学院生が開く地域ゼミに参加、高校では社会科学研究会に所属、大学では技術革新の中身をのぞこうと横浜国立大学で化学工学を専攻します。

「濃度vs総量」
 
準子は、東京大学の歴史上10番目の女性として応用化学のドクターを取得。化学工業全盛期にもかかわらず、準子につられて女性の給与が高くなることを嫌厭され就職先が見つかりません。そこで水俣病の工場排水を研究する宇井純博士の推薦で、東大工学部に新設されながら研究者らから嫌厭されている、汚水・下水・工場排水を扱う都市工学の助手に抜擢されます。早速、準子は東京に新設された浮間排水処理場(のちの浮間水再生センター)を訪ねます。「工場排水を集めて一括処理する最新施設。隅田川の浄化に一役買っている」と自信満々の場長の説明を聞けば聞くほど準子の疑問は大きくなります。「微生物を用いた活性汚泥法で工場排水中の毒物を処理できるはずがない」「濃度よりも総量(濃度x排水量)を規制する必要がある」東京都と激論の末、学生たちを引き連れて浮間排水処理場に流入する物質毎のマスバランス(物質収支)、小台下水処理場ならびに落合処理場で焼却処理される汚泥中の重金属毎のマスバランス調査を敢行します。東京都下水道局計画部長・二階堂宏の思わぬ協力を得ながら、真冬に2時間おきに徹夜で処理場の採水試料を分析し、真夏の炎天下に800度の煙突に張り付いて煙を採取。すると排水中の水銀・鉛・銅・クロム・カドミウムの50%以上が汚泥に移行せず河川に流出し、さらに汚泥中の水銀・ヒ素カドミウムの50%以上が灰に残存せず気化する調査結果を得ます。東京水道局・大学・マスコミに発表を阻止されながら半年かけて駆けずり回り、宇井純博士はじめ華山謙博士ならびに岡本雅美博士の推薦を得て、ようやく1971年「公害研究」創刊号に調査結果を発表します。住民運動を引き起こし、浮間排水処理場は廃止、1976年下水道法の改正により工場排水は厳しく規制されます。

「一括処理vs個別処理」
 準子は研究費を削減され大学・学会から村八分にされながら、静岡県富士市で、製紙工場の排水で川も港も海も抹茶色で、4mの製紙カスがたまってぶくぶく硫化水素ガスを沸き出している、田子の浦の調査をはじめます。そこでNHK静岡放送局の加藤守孝に、120もある富士市の製紙工場の排水を共同処理する計画について何度も何度も意見を求められます。関心を示す学生いないので一人で真夏の太陽の下を製紙工場を1軒1軒訪ねては、各工場の中にある様々な生産工程や処理工程を勉強し始めます。すると共同処理場の放流水中の浮遊物質(SS)は70ppm、個々の工場で処理をすると5-20ppm程度、排水別処理の方が処理効率も良く出てきた汚泥を原料に戻せることを確認します。しかも1000億円にものぼる建設費用の企業負担は1/4に軽減され、最終責任は静岡県に移されるというのです。「共同処理場は技術的にも、財政負担の面や排水処理の責任のあり方からもおかしいからやめるべき。排水処理は個々の企業が自己責任で処理すべきであり可能である。」準子は富士市長充てに意見書を提出、処理場予定地の住民たちに話をしに行きます。話を聞いた住民たちは連れだって工場につとめる知人を訪ねて工場見学を始めます。「中小企業は自己処理する能力がなく、共同処理場が出来なければ富士市地場産業がつぶれる」静岡県富士市・マスコミがキャンペーンを張る中、予算審議の当日、1000人の市民が富士市役所最上階の市議会の議場を埋め尽くします。すると三幸製紙がNHK静岡放送局を通じて調査協力を申し出ます。ようやく静岡県富士市も共同排水を諦め、1社もつぶれることなく企業の自己処理に踏み切ります。

「御用学者vs学生」
 大学に戻った準子は学生と共に、富士市の共同処理場計画を推進する同じ学科のS教授に、富士市の水質基準の根拠について公開質問状を提出します。ところが国・県・企業の主張を繰り返すばかりで、なにひとつ確認するための実験・調査もせずに実態とかけはなれた回答で、再度質問状を提出しても回答がないまま半年が過ぎます。年度末の修士から博士の進学希望者を巡る選考委員会で、準子の学生を落とそうとするあからさまなやり取りを経て他の先生たちと協議してようやく決められた成績順位さえ覆され、準子の学生が落とされS教授の学生が合格します。衝撃を受けた準子は選考委員会の経過を模造紙4枚に書いて玄関のガラス戸に貼ります。「でたらめだ」周りのせんせいたちは準子と口をきかなくなり、S教授を誹謗中傷した責任を迫ります。すると大学院生はじめ学生たちは一人一人の教官を訪ねて歩きます。「どこが嘘なんですか?」その結果、うまく口裏の合わない他の先生達が嘘をついており、準子の帰ったあとに再び開かれた会議でS教授が準子の学生を落とし自分の学生の成績を上げさせたために、他の学生まで巻き添えを食って落とされたことが判明します。学生・院生・職員がストライキを起こし、学科との団体交渉が8日間ぶっ通して開かれます。議論は富士市における準子らの主張とS教授の主張のどちらが正しいのかというところまで進みます。準子の質問に答えられないS教授に他の教員が驚きあきれる中、審査がやり直され準子の学生の進学がようやく認められます。

「大規模vs小規模」
 
産業排水を下水で処理することが工場誘致のひとつの条件となる中、いくつもの市町村から下水を集めて下流で一括処理する「流域下水道」の相談が準子のもとに持ち込まれるようになります。愛知県が刈谷市に建設をすすめる「矢作川境川流域下水道計画書」では、豊田市刈谷市など6市3町の下水1日あたり97.3万トンの53%が主にトヨタ自動車工業とその関連企業からなる工場排水で家庭下水の1.5倍。岐阜県各務原市木曽川右岸流域下水道計画書」では、下流の有力議員地区の下水30万トンを11億円かけて10km幹線管渠でポンプアップ。富山県高岡市小矢部川流域下水道計画書」では、5~8km離れて点在する集落7市4町の下水を64kmの管渠を引っ張って集めます。群馬県佐渡郡玉村町利根川上流流域下水道計画」では15,000人の静かな農村に、大都市で公害で有名な前橋市高崎市安中市渋川市200万人分の下水と工場排水を集めます。「規模が大きいと安い」が巨大処理場をつくる根拠にされる中、準子は全国132の処理場の処理費用を解析、不経済性指数を提案して下水道では規模が大きいほど不経済になることを証明します。30カ所で反対運動が広がり、20カ所で工事がストップします。続いて、人口密度に応じた下水道計画を提案し、家庭毎の下水処理施設「個人下水道(現在の家庭用合併処理浄化槽)」を開発します。

「リスクvsリスク」
 準子は環境活動家・浜田弘氏と結婚して娘を育てながら万年助手を続けます。「壊し屋(ほかしや)」と土木界から罵られる中、準子は水循環という観点から、いくつもの市町村から下水を集めて下流で一括処理する「流域下水道」に断固反対しながらも、河川の上流・下流の水の需要ならびに環境を保つ新しい理論について考え始めます。「健全な水循環を保ち、需要を満たすには一定の汚れを許す考えが必要ではないのか。」準子は水循環の一環をなす下水道をつくるために、アメリカのミシガン州立大学でリスク評価の研究手法を学びます。帰国後、日本の水道水中発がん物質のリスク評価を発表、発がんリスクは一生水道水を飲み続けると10万人あたり2~8件、リスク削減費用は1件あたり4~11億円、汚染のひどくない地域で塩素処理の代わりにオゾン処理を導入するのは不適切であり、リスク削減のコストの重要性を提起します。「人命軽視」と市民団体から批判される中、横浜国立大学環境科学研究センター教授に就任した準子は、ダイオキシン対策としてのごみ処理焼却施設の広域化・巨大化またRDF発電に反対。ダイオキシン類の発生源を追跡するために宍道湖また東京湾の底質資料を分析、さらに農家の物置を探し回って、ダイオキシンが焼却炉起源ではなく過去に製造・使用された農薬起源であることを突き止めます。新しく発足した産業技術総合研究所の化学物質リスク管理研究センター長に就任した準子は、化学物質のリスク評価書を作成、さらに化学物質の大気中濃度を排出量と気象条件から計算するソフトウェア(ADMER)を開発。リスクを自分たちで予測して、自分たちで社会をつくっていくことを呼びかけています。「リスクに対するベネフィットを見極め、この程度のリスクは仕方ないと決める必要がある」「ある程度の健康リスクは許容していくという態度で臨まないと、自然と調和していけず、どんどん環境破壊を起こしてしまう。」「何も変わらずに妥協点を求めることが合意形成ではない。参加する全ての人が変化しつつ、その中で同意的に合意をつくっていくこと、それが私の目標とする合意形成。」

-『都市の再生と下水道』(中西準子 著 / 日本評論社1979年)
-『水の環境戦略』(中西準子 著 / 岩波書店岩波新書1994年)
-『環境リスク論:技術論からみた政策提言』(中西準子 著 / 岩波書店1995年)
-日本学士院 Japan Academy
-横浜国立大学 Yokohama National Univ.

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🌹女風土記🌹 旧朝鮮 日本の女性学の先駆者 森崎 和江 女史 / A Forerunner of Women’s Studies in Japan, Ms. Kazue Morisaki

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🌹女風土記🌹 旧朝鮮 日本の女性学の先駆者 森崎 和江 女史 / A Forerunner of Women’s Studies in Japan, Ms. Kazue Morisaki

 
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-RKB毎日放送 / RKB Mainichi Broadcasting Co.

「あなたは誰のものでもない あなたはただあなたのもの」
"You belong to no one. you are simply your own."

森崎 和江 女史
Ms. Kazue Morisaki
1927 - 2022
旧朝鮮 生誕
Born in Former Korea

森崎 和江女史はフェミニズムまたウーマンリブの草分け的思想家です。谷川雁上野英信・晴子夫妻ともに文学運動・サークル村を創始。日本全国の辺境を訪ね歩いて、女炭坑夫・海外売春婦・海女など女性労働者はじめ、女性史について多くのノンフィクションまた詩集を刊行。
Ms. Kazue Morisaki is a pioneering feminist and women's liberation writer. She, along with Mr. Kan Tanigawa and the husband-and-wife team of Hidefumi Ueno and Haruko Ueno, founded the literary movement and community known as "Sākuru Mura." Furthermore, she traveled extensively throughout Japan, visiting remote regions, and authored numerous non-fiction works and poetry collections concerning female laborers, including women coal miners, overseas prostitutes, and ama divers, making significant contributions to the field of women's history.
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「くぼむことのない性意識を持つことに不断の緊張が必要だった」
 日本支配下の朝鮮大邱で、内地より6割給与高い朝鮮人学校の教員に携る父・庫次と、父を追って生家を出奔した母・愛子のもと、和江は植民地2世かつ庶子して生まれます。朝は八十連隊の営所から起床ラッパが風のまにまに住宅地までとどき、レコードからは軍隊風に行進する童謡が流れ、大勢の将兵が出征するのを友達と一緒に見送ります。和江は朝鮮人の乳母また家政婦はじめたくさんのオモニに可愛がられ、朝鮮人の少女たちと一緒に歌い語り合います。そんな中、父・庫次は名士・李秀峯と協力して日本人と朝鮮人が共学する慶州中学校を創立、校長に就任。一家で慶州に移り住むものの、まもなく母・愛子は病床につき死去。和江は下宿して大邱高等女学校に通い始めます。成長するにつれ朝鮮人の男性たちから性的な言葉を一方的に浴びせられ、性を連想させる手振りを見せられ、和江は侮蔑的な無言の圧力また嫌がらせに怯えるようになります。

朝鮮人の少年の目。それはいつもわたしの性への挑戦でした。あたかも性に対する侮蔑が彼の総体の回復ででもあるかのように、全身でわたしの性の自在さをおしまげんとした。くぼむことのない性意識を持つことに不断の緊張が必要だった。」

「私は17歳まで、朝鮮人の幼児から老人にいたるまでのまなざしに集団姦を感じなかったことは一度もない。それらは性交をめざすなどという状感に端を発し、快感の消化に終わるたぐいの視線ではない。姦し殺すのである。もはや姦すはうすれ、一瞥で殺す、その勝負のまなざしで私の性を突かんとする。私は女をかくすことなく、その目をみつめ返し、女を生きることでそれに耐えんとしてきた。生き身の私を保護する女学校は植民地にはなかったのである。彼ら民衆はそのようにして私を育てた。これは一つの例にすぎぬ。」

「あなたは誰のものでもない あなたはただあなたのもの」
 敗戦間近、17歳の和江は父の知り合いを頼って福岡県女子専門学校(現・福岡女子大学)に入学、まもなく一家で福岡に移り住みます。文学科も家政学科もないのでしかたなく保健科で学びながら、和江は日本を郷里とするべく方言を必死で覚えます。学生動員中の休み時間に絵を描こうとして「非国民」とキャンバスを蹴り飛ばされ、食べるものは米粒がありやなしかの粥ですっかり食欲を失い、敗戦とともに佐賀の結核療養所に入院します。父の郷里・久留米に帰省したとき、医師で詩人の丸山豊が主宰する詩誌『母音』に参加して詩作を始めます。もまなく丸山豊とせき子夫妻の媒酌で松石始と結婚し、ラマーズ法を実践する産婆を探し出して2子を出産。「あなたは誰のものでもない あなたはただあなたのもの」。NHK福岡放送局でラジオのエッセイやラジオドラマの脚本を担当したり、福岡県女性史の編纂に参加します。子供を抱いて博多の遊郭を訪ねたり、ボタ山が燃える炭鉱町を見て歩きます。「和んべ、甲羅を干させてくれないか。ぼくにはふるさとがない。女はいいね、何もなくとも産むことを手がかりに生きられる。男は汚れているよ。」父親が死去して妹を引き取った和江は、早稲田大学学生運動に参加していた弟が栃木の教会で自死したことを知らされます。

「『わたし』ということばの概念や思考用語にこめられている人間の生態が、妊婦の私とひどくかけはなれているのを実感して、はじめて私は女たちの孤独を知ったのでした。それは百年、二百年の孤独ではありませんでした。また私の死ののちにもつづくものと思われました。ことばの海の中の孤独です。いえ、ことばが不足しているのです。概念が浅すぎるのです。」

「日本の1人の女に生まれ変わりたいと思って」
 
安保闘争・三池争議の高揚する頃、丸山豊主宰の詩誌『母音』を介して谷川雁と知り合った和江は、2人と上野英信・晴子夫妻とで筑豊の炭坑町・中間に移り住みます。そこで炭鉱夫たちの生活を学びながら、文化運動芸誌『サークル村』また女性交流誌『無名通信』を刊行します。職業・学歴・地域・性などによって分断された人々を結ぶ場となるはずが、労働者同士の分裂を招き、大正炭鉱労働組合の若者闘争組織である大正行動隊メンバーが、『無名通信』を手伝う女性を強姦殺害。「女に関することは闘争と別と思っとろう」「たかが強姦ごときで…。大事の前の小事だ。」「女の抱き方を知らん労働者は、本質において労働者をしめ殺しよる。それを隠して何が家族ぐるみね。」被害者の兄は和江と雁が住む自宅前の線路に飛び込んで自殺。和江は雁とのこどもを流産します。「よかなー、一緒に泣いてくれる人のおらすばい。わしは10回も掻きだしたばってん、夫はしらんふりしとる」和江は雁と決別、ひとり炭鉱町に残って女炭坑夫の聞き語りを集めます。女性の苦悩を女性問題として社会に認めさせる運動を起こすように、海外売春婦(からゆき)・海女はじめ日本列島各地の集落ではたらく女性たちを訪ねては、方言での聞き語りを集めてまわります。和江が泥臭く開拓した日本の思想的土壌に、1970年代に井上輝子が「Women's Studies」(女性学)を、1980年代に上野千鶴子が「Gender Studies」(ジェンダー学)を欧米から持ち込みます。

「私が坑内労働を経験した老女を探し歩きましたのは、日本の土の上で奇型は虫のように生きている自分を、最終的に焼くものがほしかったためでした。が老女たちは唾といっしょに薄羽かげろうをはじきとばして、ずしりと座りました。そこには階級と民族と女とが、はじめて虹のようにひらいていると私には思えました。いびつなその裂け目へ、私は入っていきました。」

「律子さん、私は産んだ女へ放たれ続ける不信を握りしめて、なお差し向かいの孤独的性愛にもがきながら、また生へかえります。なんとも思い足取り。律子さん、あなたはもういない。」

-『非所有の所有 性と階級覚え書』(森崎和江 著 / 現代思潮社1963)
-『第三の性 はるかなるエロス』(森崎和江 著 / 三一新書1965)
-『慶州は母の呼び声 : わが原郷』(森崎和江 著 / 新潮社1984
-『いのち、響き合う』(森崎和江 著 / 藤原書店1998)
-福岡県男女共同参画センター FUKUOKA PREFECTURAL GENDER EQUALITY CENTER
-RKB毎日放送 / RKB Mainichi Broadcasting Co.

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🌹女風土記🌹 旧満州 水墨抽象画(墨象)の先駆者 篠田 桃紅 女史 / The pioneer of ink wash abstract painting (Sumi-e), Ms. Toko Shinoda

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🌹女風土記🌹 旧満州 水墨抽象画(墨象)の先駆者 篠田 桃紅 女史 / The pioneer of ink wash abstract painting (Sumi-e), Ms. Toko Shinoda

 
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-岐阜現代美術館 / Gifu Collection of Modern Arts

「私は自由です。自らに由って生きていますから」
"I am free. I live according to my own will."

篠田 桃紅(満州子) 女史
Ms. Toko Shinoda
1913 - 2021
満州大連市 生誕
Born in Dalian City, Former Manchuria

篠田 桃紅(満州子)女史は、水墨抽象画(墨象)を切り開いたアーティストです。彼女の現代的かつ先鋭的な表現は世界中の人々を多岐にわたって魅了しています。
Ms. Toko Shinoda is an artist who has pioneered the realm of ink wash abstract art (Sumi-e). Her contemporary and avant-garde expressions have captivated a diverse audience worldwide.

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“桃は紅、李は白、薔薇は紫 春風は一様に吹くが、花の色はそれぞれ” (漢詩『詩格』)
 満州子は、父・頼治郎(当時、東亜煙草株式会社大連支店長)と母・丈子の三男四女の五子として中国の大連に生まれます。英国の建築家ジョサイア・コンドルが設計した元ロシア帝国の家で、母手製のカステラはじめロシア風の西洋料理を食べて育ちます。2歳になる前に東京に帰国すると、満州子は厳格な父の儒教的教育方針の下で育てられます。6歳の正月の書初めで初めて墨と筆を手にしてからは、漢詩や和歌、書といった中国や日本の古典の素養を身に付け、父の書架から見つけた古典の名筆の法帖を手本に、臨書を重ねほぼ独学で書を学びます。満州子は父から雅号「桃紅」をつけてもらいます。

「結婚なんて簡単にしたら大変だ」
 東京府立品川高等女學校(現在の東京都立八潮高等学校)に入学すると、団体行動や規則に従うことが苦手で、みんなと一緒に行動するのが嫌い。「私はこうやりたいんだ。」いつも満州子は「わがまま」と言われ先生にいつも叱られます。女学校を卒業すると、結婚後すぐに戦死した夫の姑に仕える友人を見て、「なんとか家を出て一人で暮らしていけるようにしなくては」と考えます。下野雪堂に書を指南し、英語を北村ミナ(北村透谷未亡人)に習い、中原綾子の門に入って短歌をつくります。やがて23歳から一軒家を借りて習字を教え始めます。

「自分が感じるものを好きに表したい」
 
銀座鳩居堂で初個展を開いたのは満州子27歳のとき。自作の歌と古歌を書いた独自の書を約20点展示すると「才気だけの根無し草」と酷評されます。翌年、東京大空襲に遭い両親と妹と共に会津広田に疎開。肺結核から療養生活を経て回復するも、まもなく父そして母と死別。戦後の自由な思潮の中、34歳から満州子は「書」の世界から踏み出し、新しい造形の探求を始めます。書道美術院に所属、前衛書道家また墨象作家らと一緒に海外展にも出品します。ベルギーの現代美術家ピエール・アレンシンスキーが来日中に撮影した短編映画「日本の書」の中で、満州子は僧侶はじめ江口草玄や森田子龍らに続いて薄墨の筆を刷いて絵画的な作品をつくる姿を披露します。

「アートというものが持っている範囲の広さ」
 ボストンのスエゾフ・ギャラリーから招待を受け、満州子は43歳で渡米します。世界中のアーティストとコレクターが集まるニューヨークに移動し、400以上あるギャラリーをひとつひとつ訪ねて作品を見てもらいます。そのうち、バーサ・シェファー・ギャラリーの女主人から声がかかったのをきっかけに、シンシナティのタフト美術館、シカゴ美術館の東洋館、ワシントンのジェファーソン・プレイス・ギャラリーなどで個展を開催。満州子は2ヵ月おきに移民局へ行ってはビザを更新し、2年以上ニューヨークを拠点として活動しながら多くのアーティストと交流します。そこで水墨の現代的かつ先鋭的な造形表現を生み出して多くの人々を魅了します。

「とどめ得ぬもの 墨のいろ 心のかたち」
 
新しい自分の表現スタイルとともに帰国した満州子は、日本の風土下で発揮される墨の限りない魅力を再認識します。墨の濃淡、ぼかし、にじみ、重なり、広がりの中に墨の千変万化で無限の色彩また表現を探ります。「墨に親しみ、墨になじみ、墨をたよりにし、墨に誘われ、操られ、惑わされ、裏切られ、また墨に救われているうちに老いた。だが、まだ墨とのつき合いは終わらない。」107歳で逝去後も満州子の作品は、増上寺大本堂のロビー壁画・道場襖絵、ワシントン駐米日本大使館公邸の壁画、御所の御食堂の絵画、国立京都国際会館レリーフ「展開」と壁画「出遇」、リトグラフや装丁、題字、随筆など、多岐にわたって残っています。

-『桃紅 私というひとり』(篠田 桃紅 著 / 世界文化社2000年)
-『これでおしまい』(篠田 桃紅 著 / 講談社 2021年)
-岐阜現代美術館 / Gifu Collection of Modern Arts
-篠田桃紅作品館

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🌹女風土記🌹 熊本県天草市 水俣病闘争の主導者 石牟礼 道子 女史 / Leading the Fight for Minamata, Ms. Michiko Ishimure

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🌹女風土記🌹 熊本県天草市 水俣病闘争の主導者 石牟礼 道子 女史 / Leading the Fight for Minamata, Ms. Michiko Ishimure

 
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-くまもと文学・歴史館 / Kumamoto Museum of Literature and History

「海よ風よ 人の心よ 甦れ」
"Oceans, winds, human hearts, revive."

石牟礼 道子 女史 
Ms. Michiko Ishimure
 1927 - 2018
熊本県天草市 生誕
Born in Amakusa-city, Kumamoto-ken

石牟礼 道子女子は、水俣病闘争を主導した日本における環境運動の先駆者です。「苦海浄土 わが水俣病」を刊行し「水俣病を告発する会」を結成、
水俣病患者の訴訟を支援しました。
Ms. Michiko Ishimure was a pioneer of the environmental movement in Japan who spearheaded the struggle for Minamata disease victims. She published "Kugai Jodo: Our Minamata Disease" (Paradise in the Sea of Sorrow) and established the "Association to Indict Minamata Disease," providing steadfast support for the patients in their legal battles.

*******

≪じぶんの体があまりに小さくて、ばばしゃまぜんぶの気持ちが、冷たい雪の外側にはみ出すのが申しわけないきがしました≫
 道子は、道路・港湾工事を手がける石工棟梁の家に生まれます。祖父は住み込みまた通いの職人数十人のみならず妾また隠し子を抱え、祖母は発狂、父・亀太郎は経理を担って一家の放漫経営を支え、母・ハルノは祖母の世話ならびに職人集団の賄い・酒宴の支度を引き受け、道子は神経の病んだ祖母の世話をして心通わせます。「ばばしゃまばばしゃまなして白髪の生えた」「ふふふふふ 松太郎さまのだまかさしたけん」「ばばしゃまなして唾を吐くと、きたなかなあ」「おおよ きたなかきたなかもんな うしてろうしてろ」「ばばしゃまの乳はこまんかなあ なしてこまなか」「みいんな呉れてしもうたで なあんもかも呉れてしもうたで」「ばばしゃまの目の盲はなんで開かんと」「地獄ば見たもんじゃって 地獄ば見たもんじゃって」

≪最も美しき園の中に、あなたが!住んでいて下さるのです。私のなかにある美しいものが最上の力を注いで作り上げた園に≫
 やがて家業が破綻、一家で水俣川河口に引っ越します。水俣町立第一小学校を卒業後は、会社勤めをしようと水俣実務学校(現 熊本県水俣高等学校)に入学するものの、戦時下の教員不足で16歳で代用教員となります。軍事教育に嫌気が差した道子は登校拒否教師となり、敗戦を迎えるとアメリカ主導の皇室排除また民主主義教育が嫌になり、20歳で家族のためいやいや嫁ぐまでに何度か自殺未遂をします。夫・弘は実直で評判の教師で組合活動にも熱心ながら、道子の精神的な話相手にはなろうとしません。一人息子・道夫が生まれると、道子は水汲み・家事・炊事・洗濯・畑仕事・裁縫の休息日である雨の日に、息子を背負って無料の美術教室や図書館に通い始めます。毎日新聞熊本歌壇に投稿を始めてからは、歌人・蒲池正紀主催の短歌会に参加。そこで歌友・志賀狂太と交流を深め、一緒に死のうとするものの先立たれます。「にじの国。これは、あくまで非現実的な夢のそのものです。けれどもその国は、どんなに、限りなく美しいものであるか、あなたは御存知ですか。最も美しき園の中に、あなたが!住んでいて下さるのです。私のなかにある美しいものが最上の力を注いで作り上げた園に」

≪釜鶴松のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ。≫
 32歳の道子は、初期結核で入院する道夫と訪ねた市立病院で水俣病患者と出会い衝撃を受けます。熊本大学主宰の水俣病診療会場に出かけて患者また付き添いに紛れ込んで会話に加わって聞き書きを始め、大学の解剖台の上に運ばれて解剖されるまでじっと見続けます。発言の場を求めて、筑豊炭鉱を拠点とする文化運動「サークル村」に参加します。上野英信森崎和江谷川雁らと語り合いながら水俣病患者を「聞き書き」し、機関紙『サークル村』で自伝的エッセイ「愛情論」(1959年12月号、1960年3月号)とともに「水俣湾漁民のルポルタージュ 奇病」(1960年1月号)を発表します。そして渡辺京二と死ぬまで共闘する約束を交わして水俣病患者と出会い直した美智子は、渡辺京二が姉の資金援助を得て編集刊行する『熊本風土記』で「海と空のあいだに」の連載を開始。原稿の清書から事務に部屋の掃除に食事の用意、身の回りの世話まで含めて執筆活動を支えられる道子は、嗅覚と触覚の記憶を呼び覚ましながら、水俣病患者の心の声に想像力を膨らませます。「この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがたかった。釜鶴松のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ。」

≪毒死列島 身悶えしつつ 野辺の花≫
 渡辺京二という同志を得て『まっくら』(理論社1961年)、『苦海浄土 わが水俣病』(講談社1969年)を発表した道子は、記録作家ならぬ幻想詩人として一大反響を呼び「水俣病を告発する会」を結成、機関紙『告発』を無料配布、新聞・雑誌・TVに露出して賛同者を募り、1億円以上のカンパを集めます。「恨みをはらす闘いなどどこにあるというのか」「女には、わたしにはたてまえはない。本能で苦しいから動いて、ひとをよびよせるのである。」道子と共闘する指揮官・渡辺京二のもと、水俣患者らはじめ支援者らと厚生省水俣病補償処理委員会を占拠しビラを配って直訴、大阪のチッソ株主総会に乗り込んで加害責任を直接追及、東京のチッソ本社前に1年8か月座り込んで社長との直接交渉を実現します。訴訟終結後、道子は「不知火海百年の会」ならびに「不知火海総合学術調査団」を結成。「不知火海沿岸一帯の歴史と現在の、取り出しうる限りの復元図を、目に見える 形でのこしておかねばならぬ」さらに、美智子皇后に手紙を送り、天皇皇后両陛下の水俣胎児性患者との対面を後押しします。

「あの、花の時季に、いまわの娘の眸になっていただいて、花びら拾うてやっては下はりませんでしょうか。毎年、一枚でよろしゅうございます。花びらばですね。何の恨みもいわじゃった娘のねがいは、花びら一枚でございます。地面ににじりつけられて、花もかあいそうに。 花の供養に、どなたか一枚、拾うてやって下はりますよう願うております。光凪の海に、ひらひらゆきますように。そう、伝えて下はりませな。」

-水俣病資料館 Minamata Disease Municipal Museum
-くまもと文学・歴史館 Kumamoto Museum of Literature and History
-「苦海浄土 : わが水俣病」(石牟礼道子講談社, 1969)
-「わが死民 : 水俣病闘争」(石牟礼道子現代評論社, 1972)
-「不知火海 : 水俣・終りなきたたかい」(石牟礼道子 編 創樹社, 1973)
-「椿の海の記」(石牟礼道子朝日新聞社, 1977.3)
-「葭の渚 石牟礼道子自伝」(石牟礼道子 著 藤原書店,2014)
-「潮の日録 : 石牟礼道子初期散文」(石牟礼道子 著 葦書房1974)

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🌹女風土記🌹 岐阜県大垣市 女性労働研究の先駆者 竹中 恵美子 女史 / Pioneer of Women’s Labor Studies in Japan, Ms. Emiko Takenaka

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🌹女風土記🌹 岐阜県大垣市 女性労働研究の先駆者 竹中 恵美子 女史 / Pioneer of Women’s Labor Studies in Japan, Ms. Emiko Takenaka

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-明石書店 / Akashi Books Shop

「労働者の女としての側面を買われているのだということを痛切に感じないわけにはいかない。」
"We cannot help but keenly feel that we women are being valued for our aspects as female workers."

竹中 恵美子 女史 
Ms. Emiko Takenaka
 1929 - 
岐阜県大垣市 生誕
Born in Ogaki-city, Gifu-ken

竹中 恵美子 女史は日本における女性労働研究の第一人者です。西口俊子また久場嬉子らとの共同調査研究により、女性労働者の実態また問題を明らかにし、さらに女性の家事を調査して社会的に必要な家事労働として評価しました。
Ms. Emiko Takenaka is a leading authority on women’s labor studies in Japan. Through joint research with Toshiko Nishiguchi, and Kiko Kuba, she uncovered the realities and systemic issues of female workers, while also redefining domestic work as "socially necessary labor."

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「貧乏物語」
 太平洋戦争中に「軍国少女の人生を変える僥倖」、教員から河上肇の『貧乏物語』の話を聴いたのは、恵美子が通う岐阜県立大垣高等女学校。経済学へ関心を持って大阪府女子専門学校(現・大阪府立大学)経済科に入学すると、社会科学研究会に入部します。近隣の男子学生とも議論を交わしながら、朝日新聞社主催「学生討論会」に参加、学生自治会の初代会長に就任して全国学自治会総連合会(全学連)の結成大会に参加、卒業論文社会主義経済と貨幣」にまとめて卒業します。さらに大阪商科大学(現・大阪市立大学)経済学部へ進学して男子学生216人に混じって女子学生3人の一人となって学びます。国際経済学・名和統一教授 の「経済学とは金儲けの学問ではない、経世済民の学である」、イギリス経済学者アルフレッド・マ ーシャルの「経済学を学ぶ者に必要なのは冷静な頭脳と温かい心情である」が砂地に水がしみこむように恵美子の心をとらえます。卒業論文「男女賃金格差と男女同一労働同一賃金原則についての一考察」を書きあげると、22歳で大阪市立大学経済学部に助手として採用、女性労働研究の道を邁進し始めます。

「一人の働く女性として」
 「何だこんな若い女性が…」という目をされる学生たちとあまり歳が違わない恵美子はドギマギしながら教壇に上がります。そんな中で、恵美子は在日朝鮮人歴史学者姜在彦と結婚します。それも、親に勘当を申し入れて自分の戸籍をつくって結婚、みかん箱を積んで本箱にする生活から出発します。結婚=永久就職とは無縁の出発で、周囲の差別にさらされながら親戚家族の援助もなく、家事・育児・研究に奔走。「なぜ女性であるということで家事労働をしなければならないのか」「いったい女性にとって家事労働とは何なのか」真剣に考えるようになります。子どもができると、授乳しながら学術書を読み、ひたすら早く寝てくれることを願って寝かしつけてから自分の睡眠時間を削って研究を続け、子どもに悪いと思いながら一人の働く女性として様々な葛藤に向き合います。「性役割分業とは誰のためにあるのか?」「性別役割を当然と考える社会の通念・仕組み・構造とは?」

「女性の統計」
 恵美子は疑問を持ち始めます。男性の視点と男性の統計で、終身雇用・年功賃金・企業別組合について労働問題が論じられ、非正規労働者の主流をなす女性労働者は無視されているのです。「そもそも分析する場合には必ず表があれば裏がある。双方をトータルにとらえていく必要がある。」「女性労働は男性労働との相互関係でとらえるべきだ。」恵美子は、無視され続けてきた女性の経験を労働問題として論じるために女性の統計データを集めはじめます。西口俊子と一緒に、様々な仕事現場で働く女性たちを丹念に取材し『女のしごと・女の職場』を共著で発表。雇用方法・勤続期間・ 仕事の種類・昇進方法など、女性労働者の実態また問題を明らかにして女性たちに衝撃を与えます。 「戦後の民主主義教育をうけた若い彼女たちは働く意欲にもえて社会に巣立ってくる。だがその夢と期待とはたちまち冷たい現実のなかで凍りついてしまう。職場で彼女たちを待ちうけているのは、労働のよろこびではなくてきびしさであり、いわれのない男女差別である。」「労働者の女としての側面を買われているのだということを痛切に感じないわけにはいかない」

「家事労働=アンペイド・ワーク」
 学会の外で女性が声を上げ始めます。女性が働き続けるための、産前産後休暇、公立保育所、そして「男女賃金差別撤廃」を目指す労働組合運動や論争について、恵美子も一緒になって盛り上げます。「今日の女子賃金問題は、性差別の実態を集約的に象徴しており、これを解決するためには、たんに男女同一賃金の実現にとどまらず、女子の短期雇用管理を排除し、真の労働権を確立するための社会保障をはじめ、雇用・配置・昇進・職業技術訓練についての、男女の均等待遇の実現など、多面的な課題ときり離すことのできないことをしめしている。」やがて2度のオイルショックを経て日本の経済成長は終焉、労働組合運動は雇用確保に移ります。恵美子は久場嬉子と一緒に女性の家事を調査、社会的に必要な家事労働として評価します。「 家事労働=アンペイド・ワーク は解体されるべきものではないし、決して安易に市場化(商品化)されてよいものではない。家事労働は 人間の生産=再生産 そのもの」「必要なことは、家事労働 を『見えない労働』から『見える労働』へ転換していくこと、しかもこの労働を女性役割としてきた構造から解き放つことだ。」さらに、働き方の自由・生き方の自由を高める「ワークシェアリング」など多様な社会システムの議論を広げていきます。

-「竹中恵美子の女性労働研究50年一理論と運動の交流はどう紡がれたか」(竹中恵美子・関西女の労働問題研究会 編/ ドメス出版2009年)
-大阪市立大学 Osaka City Univ.
-明石書店 Akashi Books Shop
-大阪府立男女共同参画・青少年センター(ドーンセンター)Dawn Center

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