当分の間、休みます
「対馬さいじ記」の更新を、休みます。
コメントの返答にも対応出来ませんので、ご了承ください。
再開は二か月後?くらいになるかと思います。
その時はまた、よろしくお願いします。
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街道をゆく 対馬の道3
195ページ
『「阿比留氏はこの鶏知にいるんです」というのである。
いる、と現在形でいわれたことにふしぎな感じがした。阿比留氏はすでにほろんでしまっている。平安初期から鎌倉期までという長い期間、大宰府の在庁官人という資格でこの対馬をおさめ、この鶏知を根拠地にしていた。そういえば鶏知は治所になるだけに、当時から島内でも有数の水田地帯であったかと思われる。』
槇の木 在庁跡か?

旧美津島町教育委員会が設置した説明板には、この付近一帯が「阿比留在庁」であっただろうという説明がある。かっては陸軍病院があり、その後を受け国立病院そして今は特別養護老人施設などがある。
195~196ページ
『阿比留氏の氏神は、海神であっただろう。海神が中世になって多く住吉社になったように、
この鶏知の場合も住吉社になった。・・・中略・・・「この山の上に住吉さんがあります」
阿比留氏が鶏知にいる、といった永留氏のことばの意味がようやくわかった。』
住吉神社参道

住吉神社本殿

最近、建て替えられた
196ページ
『「あれは官舎です」
永留さんは、国道に面してならんでいる木造の規格型の家々を指した。
「鶏知になにか国立の機関があるんですか」
「国立病院があります」
永留さんがいった。
「あれはその病院の官舎ですか」
「いいえ、あれはもとの陸軍の要塞司令部の官舎です」
私は車窓に顔をくっつけて、官舎の垣根の蔓バラを見た。』
現国道から見た西高浜の官舎跡

ガードレールの向かい側に見える所が官舎跡
上の段は10年位前に山の斜面を削って開発された民間の団地
二軒長屋の官舎 右側の家の屋根は当時のまま

一戸建ての官舎 たぶん将校さん用か?

197ページ
『鶏知は水田地帯だけに、阿比留氏以前の遠い世から対馬の治所であったかもしれない。「魏志」倭人伝に出てくる「大官を卑狗(彦?)といい」というその三世紀の首長もまた鶏知にいたのではないか。
鶏知には、古墳も多い。前方後円墳も一基ある。それも古い形式で、山の峰の地形が利用されている。「えびすがくま」という峰の頂上にあるのだが、昭和26年に九学会連合調査団によってはじめて調査がおこなわれた。前方後円墳というのは大和で発生し、発達した。』
えびすがくまと鶏知川 出居塚は頂上にある

後方部から石室側を見る

石室部

説明板

九学会当時の調査で「前方後円墳」とされた「出居塚」は、その後の調査で「前方後方墳」と改められた。
この時の実測測量は永留久恵氏の指導の下、最新鋭の光波測距儀等を駆使して実施した。
「実施した」と書いたのは、私もこの測量に携わっていたからだ。
(測量図は、「対馬国志 第一巻 161ページ参照」)
『「阿比留氏はこの鶏知にいるんです」というのである。
いる、と現在形でいわれたことにふしぎな感じがした。阿比留氏はすでにほろんでしまっている。平安初期から鎌倉期までという長い期間、大宰府の在庁官人という資格でこの対馬をおさめ、この鶏知を根拠地にしていた。そういえば鶏知は治所になるだけに、当時から島内でも有数の水田地帯であったかと思われる。』
槇の木 在庁跡か?

旧美津島町教育委員会が設置した説明板には、この付近一帯が「阿比留在庁」であっただろうという説明がある。かっては陸軍病院があり、その後を受け国立病院そして今は特別養護老人施設などがある。
195~196ページ
『阿比留氏の氏神は、海神であっただろう。海神が中世になって多く住吉社になったように、
この鶏知の場合も住吉社になった。・・・中略・・・「この山の上に住吉さんがあります」
阿比留氏が鶏知にいる、といった永留氏のことばの意味がようやくわかった。』
住吉神社参道

住吉神社本殿

最近、建て替えられた
196ページ
『「あれは官舎です」
永留さんは、国道に面してならんでいる木造の規格型の家々を指した。
「鶏知になにか国立の機関があるんですか」
「国立病院があります」
永留さんがいった。
「あれはその病院の官舎ですか」
「いいえ、あれはもとの陸軍の要塞司令部の官舎です」
私は車窓に顔をくっつけて、官舎の垣根の蔓バラを見た。』
現国道から見た西高浜の官舎跡

ガードレールの向かい側に見える所が官舎跡
上の段は10年位前に山の斜面を削って開発された民間の団地
二軒長屋の官舎 右側の家の屋根は当時のまま

一戸建ての官舎 たぶん将校さん用か?

197ページ
『鶏知は水田地帯だけに、阿比留氏以前の遠い世から対馬の治所であったかもしれない。「魏志」倭人伝に出てくる「大官を卑狗(彦?)といい」というその三世紀の首長もまた鶏知にいたのではないか。
鶏知には、古墳も多い。前方後円墳も一基ある。それも古い形式で、山の峰の地形が利用されている。「えびすがくま」という峰の頂上にあるのだが、昭和26年に九学会連合調査団によってはじめて調査がおこなわれた。前方後円墳というのは大和で発生し、発達した。』
えびすがくまと鶏知川 出居塚は頂上にある

後方部から石室側を見る

石室部

説明板

九学会当時の調査で「前方後円墳」とされた「出居塚」は、その後の調査で「前方後方墳」と改められた。
この時の実測測量は永留久恵氏の指導の下、最新鋭の光波測距儀等を駆使して実施した。
「実施した」と書いたのは、私もこの測量に携わっていたからだ。
(測量図は、「対馬国志 第一巻 161ページ参照」)
総合運動公園
街道をゆく 対馬の道2
181ページ
告身について書かれているが、184ページの文中『・・・は対馬の竹敷の早田忠三郎氏・・・』
とあるが、尾崎の早田忠三郎氏だろう。
尾崎の早田家

189ページ
やがて一行は博物館を出てマイクロバスに乗り込む。
『まことに対馬は海国であるということが概念にすぎないのではないかとおもわれてくるほどに山またやまである。まれに道路の右側に海が隠顕したりすると、ほっとする。まことに「魏志」倭人伝に、
山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径の如し
と書かれている三世紀の姿は、こんにちの縦貫道路をのぞいてはすこしもかわらない』
道路の右側に見えた根緒島と海 旧道より撮影

190ページ
『山は、樹々を肥らせようもない岩山で、どの木も痩せている。たいていの岩が自然のまま横に割れており、ときには岩肌が茶色っぽい瓦を無数に積みあげたように露出している。』
法面にむき出た頁岩

191ページ
『蒙古襲来に出遭うのは、右の初代重尚のあとを継いだその末弟助国(資国)のときである。・・・・中略・・・・対馬へ蒙古軍がやってきたのは文永11(1274)年十月5日の
午後4時ごろであった。かれらを乗せたおびただしい数の艦船は朝鮮南端の合浦を発し、
対馬の西北の海をよこぎってその一部が西海岸の佐須浦(いまの小茂田)に着き、碇をおろした。』
小茂田浜神社



告身について書かれているが、184ページの文中『・・・は対馬の竹敷の早田忠三郎氏・・・』
とあるが、尾崎の早田忠三郎氏だろう。
尾崎の早田家

189ページ
やがて一行は博物館を出てマイクロバスに乗り込む。
『まことに対馬は海国であるということが概念にすぎないのではないかとおもわれてくるほどに山またやまである。まれに道路の右側に海が隠顕したりすると、ほっとする。まことに「魏志」倭人伝に、
山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径の如し
と書かれている三世紀の姿は、こんにちの縦貫道路をのぞいてはすこしもかわらない』
道路の右側に見えた根緒島と海 旧道より撮影

190ページ
『山は、樹々を肥らせようもない岩山で、どの木も痩せている。たいていの岩が自然のまま横に割れており、ときには岩肌が茶色っぽい瓦を無数に積みあげたように露出している。』
法面にむき出た頁岩

191ページ
『蒙古襲来に出遭うのは、右の初代重尚のあとを継いだその末弟助国(資国)のときである。・・・・中略・・・・対馬へ蒙古軍がやってきたのは文永11(1274)年十月5日の
午後4時ごろであった。かれらを乗せたおびただしい数の艦船は朝鮮南端の合浦を発し、
対馬の西北の海をよこぎってその一部が西海岸の佐須浦(いまの小茂田)に着き、碇をおろした。』
小茂田浜神社



三島灯台
二冊目の本
一昨日の夕方、近所に住む弟が一冊の本を持って来てくれた。
そしてその本を親父の仏壇に供え拝んでいた。
弟は対馬軟式野球連盟の理事長をしている野球バカである。
現役の頃から野球優先で、子供の運動会と重なっても野球に行くという徹底ぶりだった。
もちろん今は現役を退いているが野球バカに変わりはない。
4月から11月までの野球シーズンは早朝から野球場に行き、その大会を仕切っている。
そんな彼だが「対馬軟式野球連盟50周年記念 玄界灘を越える白球 <対馬野球史>」という本を1991年(平成11年)に纏めている。
昭和21年から平成10年までの野球大会等の記録を588ページの本に仕上げた。
(対馬野球連盟の設立は昭和24年、弟が生まれた年だ)
ワープロで書いた原稿がそのまま活字本になるという根気のいる仕事だ。
記録を集めるのも容易ではなかったと思う。
私も長崎出張の折に、長崎新聞社や県立図書館で当時の資料を集めた。
私だけではなく、野球部の先輩や後輩たちも例外ではない。
長崎で大会がある度に後輩たちは資料集めをさせられている。
「玄界灘を越える白球」が発行されて13年
今回は「長崎県軟式野球選手権大会史 60年の熱戦譜 <長崎県軟式野球史>」と題した
360ページの記録を纏めた本だ。
副題になっている「長崎県軟式野球選手権大会」は長崎新聞が主催し、その年の県下ナンバー1を決める大会で、昭和26年9月末に第一回大会が開催されている。
新聞社の主催だから記録は当然保存されていて、記録の収集は前回よりはいくらかマシだったようだ。
そして今回も原稿がそのまま本になるというシステムは変わってないが、ワープロからパソコンに変わったし、前記したように資料の収集も前回よりは苦労しなかったようだ。
野球に限らず「自分が活躍した場が記録(活字)」になるということは、本を見て当時を思い出したり懐かしんだりが出来、嬉しいことだ。
そのような「本」を作ってくれた弟にエールを送りたい。
一冊目の本

私が野球チームを作り、監督一年目に「選手権大会」に出場、一回戦は勝ったが二回戦で惜しくも敗退

二回戦の相手「長崎日野自動車」は一安打、我がチームは4安打
敗因の原因は、我がチームの二塁手がベースカバーに入った時、触塁してなかったと判断され
「セーフ」の判定に抗議したがインプレイ中で、二塁にいた選手が生還したその重い一点だった
試合後、セカンドベースを守っていた選手が悔やむが、もう終わったこと
救われたのは「長崎日野自動車」が「常勝 親和銀行」を決勝で破り初優勝したことだ
二冊目の本

同じ大会の勝利した一回戦の記事(記事内容は長崎新聞)

記事中、①の投手は私ではありません、弟です
20代前半の私の勇姿? 当時は野球場がなく厳原中学校(今は公園になっている)の運動場でした

外野を守っている方とユニフォームが違うのは職場対抗の大会だったからです
当時は「親和会キング」という野球も酒も大好きというチームに所属
クラブも職場もエース!でしたが、20代後半には肩を壊して監督業に専念 ^^;
そしてその本を親父の仏壇に供え拝んでいた。
弟は対馬軟式野球連盟の理事長をしている野球バカである。
現役の頃から野球優先で、子供の運動会と重なっても野球に行くという徹底ぶりだった。
もちろん今は現役を退いているが野球バカに変わりはない。
4月から11月までの野球シーズンは早朝から野球場に行き、その大会を仕切っている。
そんな彼だが「対馬軟式野球連盟50周年記念 玄界灘を越える白球 <対馬野球史>」という本を1991年(平成11年)に纏めている。
昭和21年から平成10年までの野球大会等の記録を588ページの本に仕上げた。
(対馬野球連盟の設立は昭和24年、弟が生まれた年だ)
ワープロで書いた原稿がそのまま活字本になるという根気のいる仕事だ。
記録を集めるのも容易ではなかったと思う。
私も長崎出張の折に、長崎新聞社や県立図書館で当時の資料を集めた。
私だけではなく、野球部の先輩や後輩たちも例外ではない。
長崎で大会がある度に後輩たちは資料集めをさせられている。
「玄界灘を越える白球」が発行されて13年
今回は「長崎県軟式野球選手権大会史 60年の熱戦譜 <長崎県軟式野球史>」と題した
360ページの記録を纏めた本だ。
副題になっている「長崎県軟式野球選手権大会」は長崎新聞が主催し、その年の県下ナンバー1を決める大会で、昭和26年9月末に第一回大会が開催されている。
新聞社の主催だから記録は当然保存されていて、記録の収集は前回よりはいくらかマシだったようだ。
そして今回も原稿がそのまま本になるというシステムは変わってないが、ワープロからパソコンに変わったし、前記したように資料の収集も前回よりは苦労しなかったようだ。
野球に限らず「自分が活躍した場が記録(活字)」になるということは、本を見て当時を思い出したり懐かしんだりが出来、嬉しいことだ。
そのような「本」を作ってくれた弟にエールを送りたい。
一冊目の本

私が野球チームを作り、監督一年目に「選手権大会」に出場、一回戦は勝ったが二回戦で惜しくも敗退

二回戦の相手「長崎日野自動車」は一安打、我がチームは4安打
敗因の原因は、我がチームの二塁手がベースカバーに入った時、触塁してなかったと判断され
「セーフ」の判定に抗議したがインプレイ中で、二塁にいた選手が生還したその重い一点だった
試合後、セカンドベースを守っていた選手が悔やむが、もう終わったこと
救われたのは「長崎日野自動車」が「常勝 親和銀行」を決勝で破り初優勝したことだ
二冊目の本

同じ大会の勝利した一回戦の記事(記事内容は長崎新聞)

記事中、①の投手は私ではありません、弟です
20代前半の私の勇姿? 当時は野球場がなく厳原中学校(今は公園になっている)の運動場でした

外野を守っている方とユニフォームが違うのは職場対抗の大会だったからです
当時は「親和会キング」という野球も酒も大好きというチームに所属
クラブも職場もエース!でしたが、20代後半には肩を壊して監督業に専念 ^^;

















