まず最初におことわりしておかなくてはいけないのは、筆者は、昨年2月に道立近代美術館でひらかれた米谷さんの個展を見ていないということだ。だから、彼の歩みを踏まえた上での感想というのは書けないのだが、その上であえて印象的だったことを述べれば、にゅるにゅると画面を走るボンドの線がずいぶんと官能的というか、肉感的というか、ついさわってみたくなるほど生々しさを発散していたことだ。
官能性というのは表面だけじゃなくて、直線のほとんどないフォルムも、そういういきいきとした「生」を感じさせるのだが、これらのモティーフが、沖縄・八重山諸島の海の珊瑚から得たときくと、なるほどと思ってしまう。もちろん、肉感的といっても、いわゆる性的な表現を表層的になぞったものからほど遠いのは、言うまでもない。
表面が生々しくあればあるほど、それは、いわゆる「表面的」であることを裏切ってしまう。かつて、キャンバスにパピエコレを施したり、切れ目を入れたりする行為は、絵画の表面性という神話を暴露する行為であった。ところが、米谷さんの個展でおきている事態というのは、絵画(という制度)が平面的であるかどうかとか、そういう議論を超えて、もっと生の基層的な部分にかかわる直截的な表現への意欲の発露なのだと思われる。
たとえば、今回の「さうすぽいんと」は、中心となるキャンバスから、放射状に布や絵の具からなる部分が、まるで毛虫が這い出るかのように飛び出ていて、それぞれの部分に作品番号が附されているのだが、それぞれひとつひとつが「絵画」なのか、あるいは全体で平面インスタレーションとでもいうべき作品なのかということは、はっきり言って二次的な議論でしかないのではなかろうか。
そして、そこからわたしたちは、つぎのような点に思い至る。すなわち、第二次世界大戦後から1970年前後まで、表現も政治もその前衛は、既成のものに手当たり次第に「ノン」を突きつけることで成立していたのだが、70年代以降はその「ノン」が次第に失効し、それまで威勢よくこぶしを振り上げていた革命家も芸術家もどこにそのこぶしを持っていけばよいのかわからないままに現在まで30年余りが過ぎ去ってきたように思うのだ。米谷さんも、既成の芸術や、それをとりまく環境に異議申し立てを続けてきた作家だと思うのだが、ここに結実している表現は、かつての若者が、きちんと成熟して「イエス」と身振りしている姿の表れなんじゃないかということを言いたいのだ。妥協でも、反動としての保守反動でもなく、「ノン」の延長線上で、新たな時代の表現を模索すること。米谷さんの「描くこと」は、そういう「Yes」の地点にあるんじゃないかとひそかに思っている。
うー、ひさしぶりに美術批評してしまった。
3月1-31日 8:00-19:00(最終日-17:00) 期間中無休
ギャラリーどらーる(中央区北4西17、ホテルDORAL 地図D)