lost my past

goodbye my past truth

果てしなきスカーレットは酷評されるほどの映画だったのか?

いや、普通の映画だった。
言葉が平易でわかりやすく作られていると思った。伝えたいことはシンプルなのだなと感じた。台詞回しや展開はあえて古典的にしたのだろう、映像の先進性との対比やバランスだったのかなと思う。あれをセルの表現でやったら、さらにつまらないものになっていただろう。あのような映像をアニメとして届けられる時代になったからこそ、細田さんも古典的な題材にチャレンジしたのだろうと思った。歌は、歌詞もメロディもわかりやすく、意外とまだ頭に残っている。
しかし相変わらず、暴力をふるう大男が女の眼力だけでひるむ様子は、女性からすると現実味がなく、あれらの場面からメッセージ性を感じることは難しいと思った。
また、このまま舞台やった方がおもしろいだろうと思わせてきた点は、アニメ映画としてマイナスな点だと思った。専業声優を起用しないのならば、このキャストでの実写の方がおもしろいだろうなどと想起させないアニメーションを作ってもらわないと困る。正直あの顔ぶれなら、あのアニメよりいい芝居をするだろう。映像作品として、アニメというコンテンツが負けたのである。
とにかく映像がたいして芝居をしないように感じて、退屈だった。
細田さんのアニメの、テンポのよい映像の切り替えでより多くの情景を伝えてくれるところが好きだったが、ドローンの撮影のように連続した表現を多用したことによって、あの心地よさは感じることができなくなってしまった。テンポが失われて、ダラダラと見せられていると感じてしまうところが多かった。
あのような緩慢なCGとモーションキャプチャーを日本のアニメとして見せられるのなら、視聴者はド派手なハリウッド映画を見る方を選ぶのではないかと思う。
表情の変化など、非常によく動いているのだろうが、よく動いてますね~というだけで、その芝居によって視聴者が感動したり、共感を覚えたりできる映像なのだろうか、と疑問に思った。
CGもモーションキャプチャーも、今やアニメとして取り入れない手はないのだろうと想像する。もう戻れないし、このまま突き進むのだろうと思う。ならばせめて、だったら生身の芝居を見た方がいいわ、と思わせる映像にはしないでほしいと思った。
さて、例の渋谷でのダンスシーンだが、個人的には流れとして的外れなシーンではないと思った。けれど、私には、モーションキャプチャーがどれだけ手を叩こうと、そこから弾け出る音など一つも感じられず、躍動感も、生命ある肉体の輝きなども感じることは難しかった。あの映画の中で活き活きと動いていたのは、スカーレットと聖がそれぞれにもともと居た世界のシーン、それはセルの、本来私たちが日本のアニメと呼んできたような、私たちが細田さんの映像だと感じられるようなシーンだけだったと思う。
CGが、モーションキャプチャーが悪なのではない。スカーレットが後ろを振り返る姿などは、前半と後半で響きあっていて非常に印象的だった。あのように効果的に技術を使うことができてなぜ、あんなに退屈な映像になってしまったのだろう。
ガラパゴス的に進化してきた日本のアニメの記号化した表現、日本の漫画的な表現が少ないのは、世界に照準をあわせたということなのだろうと理解した。ビジネスとしては正しいのだろう。できるだけ多くの人に普遍性をもって届けられることの方が大事だろう。物語のベースを古典から持ってきたのもきっとそういった点もあったのだろう。日本らしい独特の感性での話は、あの規模の監督にはもう求められていなかったのだろう。
ただ、主人公のみならず、民衆をも描こうとした作品で、評判で実際の民衆にそっぽを向かれてしまったのは、大変な痛手…、いややはり失敗、なのだろうと思う。
そういう意味で、私は非常に残念だった。
映画としては評判でこき下ろされているほどには悪くなく、いたって普通の映画なので、映画館に行って鑑賞するに耐えうる作品だったと思う。せっかくなので観に行ってみてほしい。舞台化前提なのでは?と思うような感じだったので、原作履修的なカジュアルさでいかがでしょうか。完璧に展開が舞台。戯曲がベースだからそう感じただけかもしれませんね。

 

追記

あれはプレスコだったそうですね。もしかして細田さんはいつもそうだったのかな?考えたことがありませんでした。気にならなかったともいう。
プレスコで「役者がそのまま芝居してみせた方がいい=実写のほうがよい」と思わせたのなら、やはりそれはアニメの敗北なのではないでしょうか。役者さんのお芝居の方が上回ってしまったわけですよね。
細田さんがあまりにンハンハ言わせるものだから、みな嫌悪感が先に出てしまって、お芝居として評価されていない気がします。芦田さん、とてもよかったと思います。彼女の芝居に映像がついてきていないだけで。

役者さんのお芝居のテンポよりも、細田さん、あなたの「アニメ」のテンポで作品が見たいものです。

ベルばら映画に撃ち抜かれた話

劇場アニメ ベルサイユのばら、ついについに円盤化おめでとうございます!

 


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1月の公開から、そして7月のBluRayDVD発売決定の報からこんなに経ってしまったが、円盤化記念にどうにかこの永遠にまとまらない感想を終わりまで書くぞという意気で取り掛かってみた。
が、役者語りだけでじゅうぶん長文になってしまった。もはや読まなくてもいいですの域なのですが、書いたから載せるぞおお…ベルばら…万歳…!

 

 

 

私はそのとき、ユーネクストのトライアルで、家で映画見放題を満喫していた。付与されたポイントの使い方もわからぬままに。
そしてようやく、あと2週間で失効してしまうことに気付き、焦っていた。

 

とりあえず劇場公開中のガンダムジークアクスに飛びついた。劇場で見るつもりなかったけど…などとほざいていたものだが、劇場で鑑賞するとやはり劇場しか!という感想が出るから現金なものだ。
これで任務完了…と思いきや、新たな問題に気付く。なんとあともう1回分ポイントが残っていたのだ。
映画館内を見渡す。鏡に貼られたキャンペーンが目に入る。キャラクターとツーショットが撮れるらしい。美女だ。


ベルサイユのばらだ。

 

 

原作も未読、昭和TVシリーズも未視聴、宝塚版も観ていない。
キャラクターの名前もわからない。マリーアントワネット、教科書で見たきりだ。
フランス革命も記憶のはるかかなた。
この時代の文化さえ知らない。
鏡の隣のポスターに書いてある4人のメインキャストの名前を見る。

 

のんきなやつだ

 

客席に座り、広告が終わってロゴが出てきたところでようやく、あコレMAPPAなんやね、と知る。
とにかく歌うらしいということであったので、登場人物が増える度に「このひとは歌うか?歌え…!歌え…!」と思っていたのだが(特に田中真弓さん、歌聞きたかった)、さすがに全編通して歌いまくりというわけではないらしい。

しかしなんとも華々しい!歌からセリフからBGMから映像から何から何まで徹底して同じことを伝えまくってくる。MAPPAらしい過剰さだ。「わかりやすい」と「わかりやすすぎる」の間をうまく縫ってくるセンス。
このセンスは、メイン4人のキャスティングにも大いに影響している印象だ。絶対に「わからない」ようなお芝居はしない人たち。観客に伝わらないような、ある種エゴを感じる視野の狭い表現はここではしない。これは、この作品全体を通して意識されていることかもしれない。とにかく本作は「伝える」ということにかなり重きを置かれて作られていると感じる。
だから、とりあえず私の好みとは言い難いこの過剰さは気にならないなと思った。些事だな。そもそも好みなんてそれぞれなのだから、私の好みを蔑ろにしてこなければ、好みじゃないとかいうことは大した問題ではないのだ。視聴者としては、作品が通そうとしている筋が、自分の心根と合えばそれでいい。


そうして、そんな中でやってきたResonance of Love……


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Resonance of Love

Resonance of Love

フェルゼンの歌声を聞いた瞬間に…脳天が雷に撃たれたかとおもった。
正直、この超ド級ラブラブミュージックビデオかのような映像には「なんや…!いやコレなんや…!なんでやねーーーん!」と思っちゃう感性をしている私なのであるが、
もう…、そんなことはどうでもいいのである…
どうでもいいくらい「愛」…
五体投地
もうなんでもいい…
もう一回聞かせろください…

 

中毒とはこのこと

 

さてここでマリーアントワネット役平野綾さんと、フェルゼン役加藤和樹さんの話を少ししたい。
平野さんは本作で、アントワネットが少女から成熟した女性になっていくまで、明確な違いをつけて演じておられる。特に後半、王妃として、また母としてのアントワネットの声は、映像として描かれなかった時間がいかに深いものであったかを一瞬で痛感させるものだった。見事だった。このお芝居の力は、原作と比較したときの劇場版のアントワネットのエピソードの少なさを補填して余りある強さを持っていたと思う。アントワネット様は、このようなお人になられたのだとわかる。エピソードが足りない?些事である。充分だった。そして、アントワネットの声のギャップの良さは、オスカル役沢城みゆきさんのお芝居があってこそ、より鮮明に感じられるのだと思うのだ。出ずっぱりのオスカルは、少女のころからあまり変わらないように聞こえる。切り取って聞くと成熟しているさまは分かるのだが、それはとてもなだらかで、私たちに違和感やフックを与えるようなものではない。こういった対比からも、ふたりは、道は違えども影響を与え合っている関係性だと感じられるのだ。こういう采配、やはりMAPPAのセンスが効いているのだと思う。

私事だが、私は平野さんと同年代である。(というか4人とである。)正直、ここから先は作品への感動ではなく、中の人…役者さんへの共感であり、作品の感想と一緒くたにするのは違うとは思いつつも。
本作では特に平野さんにかなり共感し、かなりかなり感動をしてしまった。と言っても、平野さんのお仕事のほんの少しをかいつまんで見ただけのにわか中のにわかなのだけれど。最後に彼女のお芝居を観劇したのもコロナ前なので、もう本当にずいぶん前だ。
これまでずっと平野綾さんのお芝居というと、全身全霊、最初から最後まで全力であるこ
とこそが全て、という印象が勝手にあった。必死すぎる、そう映ることもあるくらいだった。
華奢な体にもかかわらず、どこまでも届きそうな通る声で、充分上手な歌で、それでもまだ届かない、全然足りない、まだ私はやれる、もっとやらなきゃと―
でも、今になったからわかる。そんなこと、自分だってそうだったのだ。
アラサーなんて言われるものは、大人になってからこれまで自分の積み重ねてきたことへの自信と、それでも全く敵わない先輩の背中への憧れと、足りない自分への苛立ちと、まだ遠く後ろにいた気でいた後輩が真後ろに迫っているような焦りとで、必死に自分を正当化して痛々しいほどもがいている時間だったのだ。
観劇なんて自分はオフで、リラックスしているから、お仕事真っ最中の人さまのことを必死だなんて言えてしまうのだけれど、実際自分が仕事をしている時間なんて、必死以外の何ものでもなかったのだ。
だから、力み過ぎない余裕を得たような平野さんのお芝居に、もう本当に勝手に、私たち頑張ってきたんだよね~!泣泣泣、と、もう本当に自分勝手な共感をし、物語への感動と相まって、ずっと心打たれているのです。

 

それから、加藤和樹さん。
私はB-PROJECTのファンなので、とても馴染みのある加藤さん。…むしろ、和樹さんの声優としての経歴に、アニメBプロという「イケメンをふんだんに使用したドのつくギャグアニメ(特に2期(特に2期)(おもろいのでオススメ))」があることに、謎にも罪悪感さえ覚えるくらいだったが…
近年の和樹さんのアニメのお仕事は、なんだか、ついにこの時代来たなとさえ思えるよね。
ご自身を役者として、いや表現者として定義して、ひとつの場所だけに留まることなく、あらゆるお仕事にチャレンジしてきてくれたからこその結実をみせていて、やっぱりかっこいい人だなと強く感じる。
しかも、たとえば、和樹さんおひとりが、ミュージカルにアニメに歌手にとご活躍されているだけでは、今のような状態にはならないのだよね。
加藤さん、平野さんをはじめ、本当にいろいろな場所で輝いてきた人たちが、アニメも「表現の場」として選択してくれて、しかもお芝居だけでなく、それまでの場所で戦ってきた武器を活かして最大の表現をしてくれる。
これは、スタッフ陣にも言える話だと思っている。
ベルサイユのばら」のために集まった人たちそれぞれが、これまでやってきたことと、これからやってみせるぞと思っていること、そのすべてを出して見せてきたようなパワーがある。映画ベルサイユのばらは、そういう個人が持っている力を集めに集めて成したひとつのピーク、到達地点だと感じている。

 

それから、ここで音楽を担当された澤野弘之さんの話をしたい。
MAPPAのアニメーションのことは先に述べたが、やはりMAPPAの優れていたところはセンス、バランス感覚のような部分だろうと思う。
澤野さんの音楽も、まさにこの点が素晴らしくよかった。
ベルばら映画のソンコレ・サントラの発売日、ベルばらで2枚出ているのも十分すごいが、澤野弘之さんのCDが他にもいくつか出た。
この人今日何枚CD出すんや?と思い、Xで検索していた時のことである。
澤野さんファンの「ベルばら、澤野楽曲なのに曲名が読める」という旨の投稿を見かけたのだ。
ベルばら楽曲の良さのひとつは、要するに”そこ”である。
読みやすさ、聞こえやすさ、わかりやすさ。音と声、なにより言葉をいかに視聴者に伝えるかという事に腐心されているのではないかと感じている。
JPOP的、JROCK的であるのもひとつのポイントだろうと思う。
もし楽曲がミュージカル舞台らしかったり、ミュージカル調アニメーションの大家のようであったりしたら、それは永遠に二番手以降でしかないという事なのだと思う。
そのため、澤野さんらしくあり、かつ聞きやすくわかりやすい楽曲であることが、なによりも重要なポイントだったのではないかと思う。
ミュージカル俳優を使って、舞台上の表現とはまた正反対の性質のある録音という利点を最大に活かしたようなResonance of Loveの抑揚だったり、「オスカルの声で歌えなくてオクターブ違いで重ねて“お化粧”してもらった」と沢城みゆきさんがおっしゃったような澤野さんらしい多重なボーカルだったりと、いろいろな手も垣間見ることができる。
もうできるかぎり音響のいい環境で聞いてほしい。あっちからもこっちからも歌声聞こえてくるのはあまりにも最高だった。劇場ならではの体験だ。

 


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最後に、沢城みゆきさんと豊永利行さんだ。
ここの相性はもはや異常だね。よすぎる。

 

沢城みゆきさんってもうみんなキャスティングの段階で名前を聞いただけで「あっ、なら大丈夫だ」と思わせるほどの実績がある人だと思っていた。
しかしどうもこれは、大変な失礼だったようだ。
今回ベルばら映画にハマったことにより、キャストインタビューをたくさん読ませていただいたのだが。
あ…このひと「あなたなら大丈夫だね」っていう大人の信頼とかいう傲慢もとい子供目線で言う手を離されたような経験を何度も味わってきたひとだきっと……!!?
このキャリアでこの世間からの評判でなおめっちゃもがいて苦しんでいる…!!?!?え!!?沢城みゆき!!?!
器用なひとではないんだ、でも、自分は不器用だって自覚があるのに、ひとからはあんまり不器用だとは認められてきてないひとか…!?
なんつう人間味!!!!
オスカル様じゃん!!!!
オスカル様だよ!!あんた正真正銘のオスカル様役がぴったりのひとだよ!!!!
ええ~想像でこんな気持ちになることある!?あるか!!今がそのときだな!!?
あ…すごい…

 

オスカル様って出ずっぱりだし、主人公で感情移入をしていると、作中を通した声の変化って気付きにくくなるものですが、またそれがいいのですよね。変化がさざ波のようでわからなければわからないほど、アントワネット様の変化がより際立つ。平野さんのあれは沢城さんへの信頼のひとつとも言えるのかもしれない。
ご本人は、オスカル様の声で歌えなくて…とかおっしゃっていたけれど、どの曲を指してそうおっしゃったかはわからないけれど、正直そこがいいのではないか!と言わざるを得ない。オスカル様の多重なボーカルは、オスカル様が押し込めてきた少女らしい一面のように響くこと響くこと。これは本当に澤野さんのやり方とオスカル様と沢城さんのマッチングがもうあまりにも良かった!

 

そして豊永さん。
私この方は本当に“違和感”のある役者だなと思うのですよ。
話の流れの中で今その瞬間ひとがどういう気持ちか、という発想のうち、多くの人が選択する感情を、芝居にあまり採用しないんだよね、という印象。
ああ、その感情をピックアップするのか、といつも思う。だからこそ、じゃあなんでそのキャラはその感情が第一なの?という問いの生まれるお芝居だと思う。受け手も考えるお芝居。あの人のこちらへの感情の揺さぶり方のひとつだなあと。
個人的には、劇場版のアンドレだけではアンドレという人を捉えきれなかった。これは原作を読んで解決、彼はいくつかの決意を抱くシーンをもっとも調整されたキャラクターのひとりだからだろう。
「影」は人から…特にジャルジェ将軍から言われないといけなかったし、いわゆるブラビリや草むしりなどのすべてがあってようやくアンドレをいう人を正しく認識できた気がしている。
だから、劇場版アンドレは結構難しいひとだったと思う。だけどそれが、なんと、豊永アンドレは、わかりやすいのである。わからんやつがわかりやすいのだ。
というかシンプルなのだね。オスカルが等身大に悩み、もがき、彼女の持てる人間らしさがあふれればあふれるほど、シンプルになっていくアンドレ
ただひたすらに愛。もうそれが徹底されているのだ。
アンドレが最もシンプルとは正反対であったのが毒ワインの時だろうと思う。要するにオスカルを殺して俺も死ぬ、という考えになったとき、アンドレあの男は、上着をバッチリはおり、このうえなく上等な格好をしてオスカルの部屋を訪れている(なおオスカル様は全く気にしない)。
このときの彼の考えは本当に傲慢でしかない。
だからこそ余計に、最後あのシンプルないでたちでオスカル様を迎えに来たのが本当に美しかったよね。その身一つで愛を分かち合うようなふたりがさ。

 

さてアンドレの話になりすぎてしまった、豊永さんだけれど。夜をこめて。私あの人のバカの出力はじめて聞いた。特にサビ。後半。
豊永さんの歌といえば、1曲の中での抑揚?ペース配分?力加減?がまあ~~細かくて、ギアチェンジ・ブレーキ・アクセル操作できる人って印象がものすご~くあるのだが(それなんて勝平太?突然capetaの話よそうぜ?)。
え、夜をこめてなに?ブレーキ壊れた?出力バカになっちゃってるじゃん…かっ飛ばすじゃん…なにこれ…すごくいいじゃん……確かにブレーキ壊れがちだもんなアンドレきみって…

アンドレが影みたいな人だから歌声もあまり前面には出てこないのだけど、よくたどってみるともう…すごい……さらけ出し過ぎですよ全く…ありがとうございます…ありがとうございます……豊永さんのバカの出力でたすかるいのちがここに……あ…る

 

夜をこめて

夜をこめて

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なんだか湿度湿度と言われる豊永アンドレだが、若い頃は素直で朗らかでちょっと能天気でほんとうにかわいいひとだよね。
声もそうだけど、振る舞いも素直で朗らかで能天気。
平民と言いながら、身に余る環境で暮らすことができる。彼はおばあちゃんにたしなめられるほどには環境に甘えていたと思う。オスカルがアントワネットをめぐるフランスの状況を憂えていることを、軽く扱うほどには。
彼の受難はそのアンバランスな身の上に気付いてからなのだ。湿度の高さだけというよりも、カラっとした、あたたかな陽ざしの照らす昼間みたいな子どもだった、そこからの、深く、深く沈み込んでいくようなギャップのすごい人だったな。
Ravineは豊永さん曰く「がけっぷち」とのことだが、どちらかというと、その崖を作り上げてきた時間のことの方をおもう。

 

いやまったく、役者を語ることは作品の感想とは違うと思っているのだけれど。この作品はこのキャストの歩んできた道まで含めてエモいんじゃという気持ちが止まらなくて止まらなくて。これだけ長ったらしく書くくらいには劇場版ベルサイユのばら主要4キャスト、よかった。
もうよかったしか言えない。よかった以外に言葉にしようとするとその1000倍書いてしまう。


ベルばらの何も知らず、本当の偶然で観に行っただけの人でしたが、いまこの作品に出合えてよかった。長い間作ってくれていたと言うよりは、もしかすると世に出ない可能性だってあったのかもしれない。だけど出会えた。公開してくれて、本当にうれしい。

この記事をここまで読んでくれて、まだ劇場版ベルサイユのばらを見てない方がもしいたなら、もう乗り掛かっていますよ、強制です、ぜひ見てくださいね!

 

 

決意の先で

君が音楽をこんなにも愛していたこと、わかっていたよ。

 

 


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彼は「歌うこと」で、「夢」の中できっとずっとまだ生きているはずの、「現実」に持ってこられなかった自分を、その後悔も、認めて、愛していこうと決めたのだろう。 なくしたものも愛するために、これからも「歌」を歌っていくのだろう、きっと。

「空色のラブソング」 - lost my past

 

 

こうやって声にして音に乗せてこれは愛だと大きく歌ってくれたことが、とても嬉しい。


あの頃の僕らはシリーズ。ノスタルジックを堂々歌いきって、今、決意さえ分かち合って、またここから飛び出してくれるのか、SOARA
夢でも幻でも空想でもない、この現実で、みんなと。私たちと!

 

 

過去に対して、後悔の気持ちだけを抱いているのではない。ずっとずっと確かにある愛と感謝を、大好きな仲間と一緒に紡いでいくのだ。 それはきっとみんなにも届くと、確信をもって。

2023年、大原空とSOARAと - lost my past

SOARAの曲は、応援歌などではない、鎮魂歌であると、常々…壁打ちXでひとりボソボソと…言ってきた。 あのとき傷ついた僕、傷つけてしまった僕。 あのとき傷ついた音楽、傷付けてしまった音楽へ。 歌を歌うことで彼が成したいこと。 わたしはそれを空色のラブソングでもずっと考えていた。 けれどそれは、プロアニ2のLETITBEをひとつのピークに、あの頃の僕らはシリーズへと向かう流れの中で、また様子を変えてきていたのだな。 僕に、音楽に、みんなに。送りたいのは、愛と感謝だと。

2023年、大原空とSOARAと - lost my past

空くんがLET IT BEをSOARAでやることを決め、まるでそれに報いるように開催された地元川越でのライブ。あのときLET IT BEというマクガフィンはひとつの完成をみたのだと思った。 それと同じように、I Willはきっと今、完成されるのだろう。

SOARAへの妄想とこじつけの産物 - lost my past

 

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しかしな、あ~~~~り~~~~~~は~~~~~ら~~~~~~~~…、きみ自我出したらSOARAの歌こんな風になるんか……

 

 

そして在原アイツは、本当に一途でとてつもなく頑固なやつだな。 もっと本当の俺を見てほしいだなんて、わがままにもほどがある、そんなのかわいすぎるだろ。 はあ~~~~、モリにこんなに「もっとできるよ!」ってされたら、次のSOARA曲、どうなっちゃうわけ?! まったく、もう、ほんとに、SOARAってば……そう…”I will.”ね……、そんなん整っちゃうな……ソ活ってか……やかましいわ

葉の夢ノートと1ヶ月 - lost my past

 

個人的に、全員で歌うようになってからの曲、守人くんの歌声聞こえなくなってしまうときがあって。あまりにも優しすぎて。コーラス要員なのかなって感じることさえあって。
でも、きっと守人くんには不満がない。下支えのこの役割は、したくてやっているのだと思うようにしていた。
SOARAにおける、それぞれの「役割」。自分で思い込んだもの。
空くんと、空くんを巡る守人くんの視点からばかりSOARAを眺めていたものだから、思い至ることができなかったのだけれど。守人くんだけじゃなかったのだ。
5人が5人とも、そうだったのだ。
これまでずっと、みんなそれぞれがんばって「SOARA」になろうとしていたところが、まだまだあったのかもしれない。
だけど今はもう、飾らないありのままで、しかもちょっとくらいわがままを言っても、遠慮なんかしなくても、5人はSOARAなのだ。


ツインボーカルだったはじまりの花咲く丘で。そして5人で歌った花咲く丘で~again~。それからのこのIWill.、ぼくらのうた。なぜか今余計に「ツインボーカル」を感じている。
ぼくらのうたは、真ん中からだけじゃなく右からも左からも空くん、守人くんの歌声が聞こえてくるところかなと思うのだけど、IWill.はなんでなのだろう!
もう全然音楽に明るくなくて、言葉にして表せないのが情けないな。
でも、いいのだ。それでもいい曲なのがわかる、それがSOARAなのだよねえ。
ツインボーカルっぽいというのは、守人くんからしたら、やっぱり「メインボーカルは空」っぽいのかもしれないなと思ったりしている。
きっと今、空くんは、自覚と自負も含めて「SOARAのメインボーカル」なんだなあ。
決意こそが「ぼくら」なの、本当に最高だな。

IWill.のラストフレーズ、本当にうつくしいよね。空色のラブソングではじめて出会ってからこれまで触れてきた、私の認識してきたSOARAそのものみたいな言葉だなあと思った。ずっとずっと見せてきてくれた姿だ。
ぼくらのうたも、いつも君を歌うよ、今日も君を歌うよって、すてきな言葉だなあ。I love youを言ってくれたのも、すごく嬉しかったな。
おじいちゃんになるまでって歌ってきてくれたSOARAだから、「何十年経っても」「何十回でも」「これからもずっと」「いつまでもずっと」に嘘がないって信じられるのだよね。
てらいなくこの言葉たちを届けてくれるSOARAの今が貴くて、これが未来への希望ってものなのだなあと思う。今を歌えば未来になるなんて、誰が気付いたの?空くんか…天才すぎるな。

 

高校生のときのラブソングはあんなに切り貼りみたいだったのに、音楽への愛を歌えばラブソングができあがるだなんて、誰が気付いたの?空くんか…天才すぎるな。

きっと今ここが“君が未来を歩くとき” - lost my past

 

あの頃の僕らはシリーズって言われて、そのまま歌詞に入れられちゃう空くんって本当にすごいのだよね。あなたごく自然にふっとお出しできるのかもしれないけれど。簡単なことじゃないと思う。
そういう驚きと地続きみたいに捉えて見逃しそうになったりするのだけれど。「座り込んで泣きじゃくって誰にも見せなかった僕」。空くん、よく言葉にしてくれたなあ。
もう今が背中を押してくれるから、みんなといるから、愛だって歌えるまでになった。
それでも、痛みがあったことを人に伝えるのって、とても勇気のいることだったと思う。
歌にしてくれてありがとう。言えなかった、伝えられなかった、守れなかった…、そういう後悔とか、罪悪感とかを常に内包しながら前を向こうとするのが、私の捉えた大原空と、SOARAの音楽だった。
けれど、この認識はこれからまた、変わっていくのかもしれない。
君が、みんなと、踏み出してくれたからだよ。

 

全てを持ったまま未来へ行くことが、過去に対する贈り物みたいになりますように。今を生きることの祝福を、いつまでも。この手で作り出したもので、みんなと。新しい一歩を、踏み出せるようにと。 そういう決意に見えて、気高く、うつくしいなと思うのだ。

出会って半年の大原空へ - lost my past

 

ところでIWill.のハモり、合唱みたいだなって。
SOARAの歌は鎮魂歌だ~とか言っていたから、そういう響きのようにも感じたりしたけれど、それよりも私はなんだか卒業式みたいだなと思って。
卒業式の、校歌合唱みたい。
……
と、ここまでノリノリで書いたのだけれど、校歌ってやっぱり斉唱なのかな普通。
母校合唱だったから、そのイメージが浮かんだのだけれど。
一生懸命普遍的になるように書いたつもりだったのに、突然普遍性が脅かされてしまった…、とか言いつつ、このイメージを書かなきゃ気が済まなかったのですが…
…………
……
ともかく、ええっと。
合唱コンクールでも歌えちゃいそうだなって。Iwill.が斉唱みたいで、IWill.は合唱みたい。
やっぱり「学校」のイメージのある曲だなあ。
それから、ぼくらのうた、環境によるのだけれど、アウトロで音が近寄ってくるみたいなときがあって好きだなあ、また何度でもはじまるって感じがする 。

 

ああ、うつくしくて、そしてとにかく嬉しい、嬉しいなあ。空くんが、SOARAが、ずっと変わらず音楽を愛していること。これまでのどんな時間にも感謝の思いでいること。それを、音楽で表してくれること。
SOARAが音楽への愛を音楽で表せば表すほど、私は勇気をもらっている。


空くんの、SOARAの愛しているもののひとつに音楽があるように、私にも愛している世界がある。
それを愛していると言えるように、過去と、自分の力量と、気持ちと、自分で自分にかけた思い込みと、許しとを、見つめなおすことができたのはSOARAと、空くんと出会ったからだ。
愛する世界の美しさに、何度でも出会える。
なにもかもが分からなくて、自分には何もできないような気持ちになったとしても。
何度でも思い出す。この世界が美しいから私はここに居るのだと。
この愛のためにまた私は生きていく。だって証明してやらなくちゃいけないから、こんなにも愛して、感謝しているってことを。
そうだよね、SOARA

 

 

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クマリデパートとふたりのアイドル

さおちゃん、ゆうちゃんへ。


さおちゃん、ゆうちゃん、9年間クマリデパートで活動してくれてありがとう。
卒業が発表されたときのゆうちゃんの「このままじゃ嫌いになってしまうかもしれない」という言葉、それがどういうことを表しているのか、なんだか分かるような気がしていました。
卒業公演は、ふたりがクマリデパートでいる時間の中で、「こころのデパート」というものがどういうものだったのか、それが分かるようなセトリだったなと感じています。
今のクマリデパートが持つ芯の強さは、さおちゃんゆうちゃんがこれまで積み重ねてきたことの表れなのだなと、つよく思いました。
はじけるような明るさで、暗さなんてあることを忘れるくらい太陽みたいな存在。その光を反射してきらめいて、うっとりとするかと思えば瞬く間に転がってとどまることなくキラキラし続ける。私たちファンとクマリデパートが接する時間は、「絶対にそうでなくてはならない」―――きっとそれくらい大きな思いで「クマリデパート」という時間を届けてくれていたのではないかと思いました。
そういう姿をずっとずっとずーっと見せてきてもらえた私たちは、本当に幸せ者だなと思いました。

だからこそ、クマリデパートの曲たちがよりデパートらしくあろうと、いろいろな面を模索すればするほど、グループを転がそうとすればするほど、こころのデパートということとの戸惑いが強くおこったりしたのではないかと想像しています。
外から見たら、そんなことはもちろん「ふたりがこれまでしっかりクマリデパートの世界観を確立してきたからできる挑戦」に見えるのだけれど、実際当人が受け止めるとなるとどうかなって…。
本当に積み重ねてきたことの先に居るのか、わからなくなるような変化もあったのではないか。
想像だけどね。

だからね、卒業公演は、





ほんまキラキラして最高でしたわ!!!!!!
これが私たちに最後に見せたいさおゆうのクマリデパートなんだなって!!!!!
曲のチョイスが本当にこころのデパート!!!!さおゆうのクマリデパートはそうだよ!!!!って感じがしてよかった!!!!!
自分が思ってるより、あみだ☆ふぉーちゅーんの「全部○だった!そんなことある?そんなことあった!」がグッときちゃって!!!!!
ほんまに!!!!これまでのふたりの全部が○だったよ!!!!!ありがとう!!!!!!
卒業衣装も卒業ソングも、すっごくさおゆうって感じがした!!!!最後まで早桜ニコと優雨ナコでいてくれてありがとう!!!!!
楽しい楽しいって言ってくれてありがとう!!!!私も!!!とっても楽しかったよ!!!!


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私は特にゆうちゃんの武道館公演での姿が今まで武道館で見てきた女性アイドルの誰よりすごいって思ったんだ。
これまでもクマリはどんなステージでもより大きく、小さな場所を小さく見せないパフォーマンスをずっとしてくれていたと思うけど、武道館はとにかくすごくすごく大きな空間を感じる姿だった。
ステージの端から端までどころじゃない、ステージの端にさらに向こうがあるみたいにあっちからこっちまでころころと動いて、たったひとつのからだでこんなに空間への意識って広がるんだと思った
かわいくて、せつなくて、たのしくて、うつくしくて、おかしくて…こころのデパートが広がっていくみたいだった。
武道館を、キャパ以上に大きな空間として見せてくれた人たちは、あんまりいないことなんじゃないかな。
クマリはSF的に宇宙のことを歌うけれど、あのとき本当にキラキラの向こうの宇宙まで感覚が届いて、そこでも変わらずクマリが歌って踊っていてくれるような気持ちだった!
9年間をかけて、素敵な体験を届け続けてくれて、本当にありがとう!

 


さおちゃんゆうちゃんのこれからの人生のことも、ずっと応援しています。

 


健康!ハッピー!チャレンジ!っていい言葉だなあ。明るく美味しく元気よくって言ってくれた井上唯ちゃん思い出しちゃった。これらの言葉を思い出すたびに、こうやって推しのことも思い出すんだね。こんなにうれしいことはないよな。

それこそ、これからのクマリデパートに期待していることは、第一に健康、第二にハッピー、第三にチャレンジ、なんだよな!
みんなに、ずっとずっと幸あれ!!

SOARAへの妄想とこじつけの産物

いま、妄想力が漲りすぎて、レノン=マッカートニーのことまで考えている。
 
 
 
 
これはあまりにもこじつけすぎているし、自分の妄想の上に立っていることだから、ひとつ前のエントリには馴染まなくて入れなかったのですが。
 
あの日のメロディーが、あまりにもみんなの経験をまるで自分事のようにひとつにして届けてくれるものだから、なんかもうこれは在原なんじゃないかと思って。
私の妄想では葉の夢ノートも守人くんが書いてるしな…って、さすがにこれは妄想パワーが激しすぎるな、と、ちょっと小脇に置いておいておこうとして、すぐのことだった。
この機会にもう一度ビートルズのLET IT BEとI Willを頭に入れておきたくて、ポチッと検索して、衝撃の文字列を目にしたのだった。
 
「レノン=マッカートニー」
 
????????????????????????????
 
なにこれ有名な話???
いや有名な話なのだろうな、知らなかった。
 
えっ
 
いや、じゃあ、あの日のメロディー、大原空と在原守人で作ってもアリじゃんこんなの
(強引だな〜)
 
LET IT BEって、空くんがあの時モチーフにしたというくらいで、SOARAの物語はSOARAの物語だからと、あまりビートルズのことを深く考えることがなかったのだけれど。
プロアニ2の2話LET IT BEとED・LET IT BE、10話のWe can fly in the sky!とED・ひみつのトレジャー、12話13話ElementsとBestWishes,を経て、あの頃の僕らはシリーズに入り、空色のラブソング(私はここで新規のSOARAファンになったのでした)から葉の夢ノート、そして花咲く丘で~again~、あの日のメロディー。
この流れを改めてなぞってみたときに、葉の夢ノートはI Willなのだと思ったのだ。
そうか。I Willが守人くんを象徴するかのようなのならば、劇場版SOARA2はやはり、駆け足になったとしても、あのケンカまでを入れ切って当然なのだな。
“君が未来を歩くとき”という副題に、実のところ完全な納得をしていなかったのだけれど、今、ここに来て、まさしくそれを実感するような情景が広がっている。
空くんがLET IT BEをSOARAでやることを決め、まるでそれに報いるように開催された地元川越でのライブ。あのときLET IT BEというマクガフィンはひとつの完成をみたのだと思った。
それと同じように、I Willはきっと今、完成されるのだろう。
 
 
だから今、レノン=マッカートニーという存在を知って、もうこれは有りとしか言いようがない…!と思ったのだ。
もちろん、空くんの音楽が大好きで大好きなSOARAも好きだから、空くんの曲のみを演じていく、変わらないSOARAであってもSOARAが好きだ。
けれど、こじつけて、妄想して、それも素敵だなと思えるくらい、私は空くんだけでなく、SOARAメンバーを好きになってきたのだなと感じている。
 
 
私たちはビートルズの結末を知っていて、幸せに溢れることばかりでないことを知っている。
だから、それをなぞるような妄想ばかりしてもしょうがないかなと思いながらも、SOARAに「じいちゃん」「おじいちゃんになるまで」という発想があることの心強さを感じている。
どんな変化が訪れようと、SOARAは大丈夫。
ひとりじゃないから。きっとおじいちゃんになるまで、ずっと。
ALIVEシリーズは私たちの心とともに生き続ける。
10周年を目前に、出会えたことが、本当に嬉しい。
ありがとう、SOARA
 

きっと今ここが“君が未来を歩くとき”

 

 

なんて実感と実態を持った曲たちなのだろう。
空くんが、あの時のイメージを「お守りみたいに」なんて言ってくれるとは思わなかった。
 
 
 
 
 
 
これまで、大原空の歌は、空想のなかにいるみたいだった。
それは、まだ見ぬ未来を歌ってみせていたからだろうと思う。
未来への希望と、願望と、祈りとを、過去へ歌ってみせているようだった。
ラブソングも、ドラマや漫画で見知ったことを切って貼ったようなところが、空想のようだった。
夢と現実を…昔の自分と今の自分を切り離したから、混ぜ合わせるのが…再会が怖かったから、しまっておきたいなんて言った。
仲間と歌うことで、決別してみせるつもりでいた。
過去を空想のものとして押し込めようとした。
けれど、
 

けれどそれは、プロアニ2のLETITBEをひとつのピークに、あの頃の僕らはシリーズへと向かう流れの中で、また様子を変えてきていたのだな。

夢みたいでとても幸せな現在地は、夢や空想なんかじゃなくて、空くんが、みんなで積み重ねてきた日々と気持ちがあるからたどり着いた場所なのだ。
その実感を、あの頃の僕らはというテーマでそれぞれのメンバーのソロ曲を制作していくなかで、みんなと、思い出や気持ちを、打ち明けたり、受け取ったりして、改めて心の中に溜め込んでいったのだろう。
空くんの経験と。宗司くんの経験と。望くんの経験と。廉くんの経験と。守人くんの経験と。
空想で埋まっていた心の中を、SOARAという実感でいっぱいにして。
合わさって、混じりあって、しみ込んで、ひとつになって。
仲間とまた、ひとつになった。
空想ではなく、現実で。
 
SOARAはここでまた、ひとつになったのだ。
全員の経験を、自分のことのように、ひとつにして歌にできるくらい。
 
私は、SOARAが“音楽”になったみたいだ、と思った。
 
 
 
11月、AGFでうっすら聞こえたBGMから、花咲く丘で〜again〜に追加パートがあることは気付いていた。
空くんのソロパートだと思っていた。
けれど違った。
空くんの声に、宗司くんと、守人くんと、そして望くんと廉くんの声が、まるで出会った時間みたいに重なっていた。
それがとても
「ひとりじゃないからね、大丈夫」
を体現しているみたいだった。
 
これは、マクガフィンで描かれた本来の意味とは違うのかもしれない。
けれどいつからか、あの言葉はむしろ、“今の空くん”が、SOARAのみんなと共に“君”へ向けて歌っているように私に響いていた。
だから、「強がりじゃないから」も、なんだかこの言葉のことのように、響いたのだった。
 
そしてこの勘違いは、勘違いであるのだけれど、勘違いでもないと思っている。
それは、「あの日のメロディー」が、まるですべての曲をさしているみたいだったからだ。
歌詞、音、いろいろな表現にいろいろな思い出がたくさんたくさん散りばめられていて、本当に宝箱みたいな曲だった。
今の私は、あの日のメロディーのあとにLET IT BEを聞くのが好きだけれど、でもきっと何を、どれを思い起こしてもいいのだろう。
ああ、ひみつのトレジャーの次に待ち受けていたのが、こんな曲なんて。
なんて満ち足りた景色なんだろう。
歌、追いかけていくみたいなところ好きだな、重ねていくところっていうのかな。あれは一人では表現できないことだから。みんなとじゃないとできない。
そうやって、言葉で、音で。5人で、5人だからできることをやってみせる。
5人重なった先で、SOARAは音楽になるんだ。
 
 
 
 
 
高校生SOARAの”未完成”っぽさといえば、ツクテンツクテンというドラムがそのひとつだと思っていたのだけど。
ならばSOARAの”成熟”を表すひとつもドラムなのだ、という感じでもう、困っちゃうよね…
「大黒柱になる」って、宗司くん、有言実行じゃないか、やってみせる男だよ君も本当に…頑固だな…
ああなんか、私は神楽坂ようわからん芸人なのですが(共感という点ではそもそも空くんにしかない)、
宗司くんこの人は、5人で歌ったけれど、花咲く丘ではもちろん空くんと守人くんの二人が主役だと思っているのだろうな、と思った。自然に。当然のようにね。
 
だからこそなのか、余計、聞こえてきたのだ。
 
バイオリンみたいな音が。
 
なんか最初シンセだと思い込んでいたんですけど。
守人くん、SOARAのためにバイオリンを、弾いたのだろうか…?特に2番なんて、ライブでも弾けてしまうのではないか?
空くんが、やらせたのか?守人くんが、自ら望んだのか?宗司くん…はいずれにしても背中押すよな…望くんと廉くん…もいずれにしても聞いてみたいです&楽しみです&楽しんでくれるし全肯定かな…
どちらにせよだ、こんなの、空くん、君って…!やっぱり愛の応酬がすごすぎる。
プロアニ2のLET IT BEから特に、SOARAの愛の応酬があまりにもすごい。
 
PVで見える高校の卒業イベントの出演依頼だって、
幼い頃の自分を映していて今の僕にはかきたせない、なんて弱さを見せながらも、一秒でも遠くへ手を伸ばして空色のラブソングを歌うよって決めた空くんのために、
なにもかも準備して、僕が付いてるよ、僕は待ってるよ、ってまっすぐ歌って、前を向く一瞬を見逃さないようにしていた守人くんが手配したようにだって、見えてきちゃうわけです。
 
これも全部、SOARAへの愛が成したことで…SOARAへの愛っていうのは、それはもう音楽への愛というもので…
高校生のときのラブソングはあんなに切り貼りみたいだったのに、音楽への愛を歌えばラブソングができあがるだなんて、誰が気付いたの?空くんか…天才すぎるな。
 
 
どんなに歌詞がノスタルジックであろうと、音楽を愛した5人の姿が“未来”を象徴するかのようだね。
うつくしい景色を歌でみせてくれてありがとう。私はSOARAが描いたこの未来がとてもうれしい。
 
 
 
 
 
で、来年って10周年ですよね?!空くん!?

ゼーガペインSTA脳直雑記

〜ネタバレがあるかもしれません〜

 

ゼーガペインSTA劇場公開本当に本当にありがとうございます!

総集編+新作ということで、がっかりしたというのも聞こえなくないのだけれど、いやこの構成こそがゼーガペインを表しているなと!
だからこれは見れば見るだけゼーガペインがわかってくる。
そう、見るだけでわかってくるんだよ…()

シズノへの愛と言われているのをみて思ったのだけれど、
シズノへの愛ってなんだろうと考えたとき、
やっぱりキョウを愛したシズノだから愛を注がれているんじゃないかと思ったんだよね、ちょっと語弊があるんだけど。
キョウを愛したシズノっていうのは、キョウを愛したイェルで。
イェルは、
そう、イェルと呼ばれていたとき、みんなはイェルの愛し方を正しくわからなかったんじゃないかと思うんだよね。
イェル自身も。
そしてあのとき、キョウだけがイェルに正しく愛を注ぐことができた。
だから、イェルがキョウを愛するということは、みんながキョウを信じるということの、とても大事なことのひとつなのだろうと思っている。
キョウがシズノを愛したことでみんなが、イェルをうまく愛せなかったことまで含めて、シズノを人間的に愛せるようになったんじゃないかな。

そうしてSTAを考えていたら、シマは、愛だねえと思った。
抜かりがないというようなイメージが先行してしまうのだが、
あれこそ愛の人だろうね。
なんであんなに冷静に抜かりなく手を打てるのだろうか。
その根底はやはり人間を愛しているからなのだろうって。
人が、人との関わりの中で変わっていくこと
それこそが未来に繋がるのだと
変わっていくことができるから、人間を愛しているのだろうと思う。
だから、キョウの残滓も残したのだろう。
どうなっていくのかは、シマも確信しているわけじゃないのだろうと思うけれど、
それでも、キョウと、シズノなら、よりよい未来にたどり着けるんじゃないかって、
なんだかそういう期待とかだってあったんじゃないかと感じている。

だから、STAの時間のおおもとは、シマの愛だったんじゃないかって思った。


人を信じるという点で言えば、ハル・ヴェルトはとても『ゼーガペイン』における「敵らしい敵」と言えるのかも。
…主人公のようだとも感じているけれども…
彼の口調が割と幼いというか、厨二的…機械的で没コミュニケーション的なのは、やっぱりひとりぼっちだからなのだろう。
実体キョウがひとりであることが、ハルのようになってしまう危惧のひとつと感じるところもなくはないけれど、
実体キョウはすでに人との関係の上に生きているから、
むしろ、なぜか突然寝返っているミカサが居ることで、ハルが今後他者との関わりあいの中で未来を決定できるようになっていくのではないかという期待のほうがありかなと。
アビスにも、他者との関わりという概念が生まれているような感じがしたよね。
だからアビスはもう「敵」ではないのかもしれない。

トガたちも、仲間とあそこに居る
誰かと一緒に変わっていける
相手をすべて排除するナーガのみが際立つよね

そう、だから…どう考えても続きがなければおかしい…

…まあそれも、作っているみなさん、作品を享受する私たち、制作のお金を出すか出さないか決める人々…との関係の中で決定されていくのだろうから
一方的に言うことはないのだけれど
大きすぎて倒れてしまったSFや、制作中に現実の技術と乖離してしまったり追い抜かれてしまって思っていたような着地のできなかったSFなどをたくさん見てきた
2024年的でありながら、舞浜サーバーのあるあの世界的である、そういう世界観のままSTAが、シズノが、愛が収まったこと、本当に素晴らしい奇跡みたいだと思ったな
私は永遠に拘りがあるけれど、永遠そのものになることには否定的で
だからシズノの選択には、そんなそんなと感じたところもあるのだけど
整合性を越えたあのシズノの選択は、それこそ人間的だったよね、とても

ラストシーンのふたりは、あきらかな気合の入った見た目をしていたけれど、
オルタモーダのキャラクターデザインなども含めて、作品的に絵柄が多少揺れて見える部分は、けっこうそのまま受け取ればいいんじゃないか?
要するに、違って見える人たちは、リザレクションシステムを選択したキョウとは、違った選択の人たちなんだろう
やっぱり、「続く」のは、リザレクションシステムを選択したキョウのこれからなんだよね

さてTVシリーズを見たとき、最終回のリョーコ…みたいな人…の「はやく生まれておいでよ」は、物語を回顧するにイェルだろうか?アビスとシンだろうか?または、実体キョウが人生を使い果たすまで時間がかかったとしたら、キョウへの語り掛けなのだろうか?それとも単なる生まれくる命への賛歌みたいな言葉なのだろうか…と考えているところに、
まさかの、残滓キョウとシズノというバリエーションがうまれるとは思わなかった…
量子に自我は宿るか?、いや元からそういう話だったかも
STAのver.1のキョウをアルファと呼ぶのなら、TVシリーズで実体を得たキョウはベータと呼べるのだろうか
ベータの最終版としてのニュアンスを汲み取るならば、やはりリザレクションシステムを選択したキョウの行きつく先が、この物語のひとつの結末となるのだね

そして最後に、キミヘムカウヒカリ_2024、1番歌詞を全カットしてみせる再構成、大胆すぎるのよ、カッコよすぎる
「今連れて行くよ」の「よ」でクリアになるところ、あまりにもSTAシズノが過ぎる
君と。はさ……私は格さんが印籠を出すばりにホロニック:ガールの表紙を掲げたいよね
忘却だか永遠だかしらないけど、シズノ!あんたのこと諦めてやんないから!!(ホロニック:ガール今から読む)