「正しさ」が違う、そのときどう生きるか

私たちは、異なる「正しさ」をもつ人びとと、ほんとうに共に生きていけるのだろうか?

ある日、外国人が学ぶデンマーク語学校で、「子どもをもつタイミング」について話す機会があった。
外国人の就職が困難なこの国で、多くの人が「まず仕事をえて、生活の基盤を整えてから」と話すなか、「子どもは神からの贈り物。早く、たくさん持つべきだ」と語るイスラム圏出身の男性がいた。

とりわけ印象に残ったのは、彼の以下のような言葉だった。
「いま、私たちはこの国で助けてもらっている。でも、自立できたら、今度は私たちが助ける。助け合うのは当然だから。」

彼にとって「助け合う」とは、宗教的・道徳的な義務でもあった。
その言葉には、異なる文化圏で生きる覚悟と、新たな共同体の一員としての自負が滲んでいた。

しかし、その感覚は、私の「正しさ」とは、少し違っていた。

私たちは自分が思うより、無知で差別的だ。
海外に長く暮らしていても、つながる相手はどこか自分と似た人ばかりになる。
だから、異なる「正しさ」と出会ったとき、思わず距離を置きたくなる。

ずいぶん昔、デンマークのある公立幼稚園では、難民の保護者がハラールの給食と祈りの時間を求めた。
保護者の中には反発し、子どもを転園させることを考えたひともいた。
「正しさ」の共生は、とても難しい。

冒頭のイスラム圏出身の男性の話に戻ろう。
「助け合い」という「言葉」がさす範囲は、文化や宗教によって大きく異なる。そうした違いに出会ったとき、私たちは「理解しているふり」をしてしまいがちだ。
けれど、政治哲学者のマイケル・サンデルは、それは対立の解決ではなく、「抑制」だと指摘する。
偽りの敬意は、むしろ反感や分断を生む。

では、どうすればいいのだろう?

サンデルは、異なる「正しさ」を排除せず、相手と正面から向き合うためには、「対話」が必要だという。

それは、相手を打ち負かすことではない。
自分の前提をいったんわきに置き、相手の言葉が生まれた背景に耳を澄ますこと。

すぐには理解できなくても、目の前の言葉に込められた意味を、時間をかけて受けとめてみる。
それは、不意に感じた違和感や戸惑いに、誠実に応答しようとする姿勢でもある。

対話には、知識と経験、そして根気がいる。
でもその先に、ただの「多様性」ではない、ほんとうの共生があるのではないか。

いまの私には、対話の力を信じるだけで、断言できる答えはない。
けれど、違和感を覚えるときこそ、世界が少し広がる瞬間なのだと思う。
そしてその広がりが、「ともに生きる」ということの可能性を、少しずつ拓いていくはずだ。

執筆:内田真生(アダルト・ラーニング)