ドラマ 『アンオーソドックス Unorthodox』(全4話)をNetflixで見た。
主人公のエスティが着衣のまま湖の中に入ってゆき、大きく深呼吸してからかつらを外すと、ほとんど丸刈りに近い短い髪があらわれる場面に息を呑んだ。
超正統派のユダヤ教(ハシディズム Hasidism)では、女性が髪をあらわにするのは、どうやらはしたないことと考えられているらしい。ほかの女性も、ターバンやスカーフなどで頭を覆っている人がほとんどだ。結婚式の前に、バリカンで丸刈りにされて、エスティが大粒の涙をこぼす場面もあとから映される。
それがコミュニティの規則なのであっても、まるで囚人のような髪にされる姿は、この教派の女性への抑圧を象徴的に表している。
以前に見た映画 "Disobedience" (邦題『ロニートとエスティ』)でも、エスティがかつらをはずす場面があった。一方のロニート、早くから教派のやり方に反発して逃げ出した女性は、はじめからかつらをつけずに登場する。
ロニートと同じように、このドラマのエスティも、勇気を出してコミュニティから脱走する。ニューヨークのユダヤ人の街から、遠く離れたベルリンへ。皮肉なことに、囚人のようなエスティの髪は、そこではファッショナブルに見えるのだった。
ベルリンで暮らす母を頼って会いに行くのだが、その母が街頭で、女性の恋人とキスする場面を偶然に見かけたエスティは、取り乱して逃げ出してしまう。
超正統派のユダヤ人コミュニティの結婚式の様子が興味深い。男性は全員黒ずくめで黒い帽子を被り、ヒゲを生やし、もみあげも長く伸ばす独特のスタイルで、その威圧感がものすごい。女性は完全に隔離された場所で、やはり全員が髪を何かで覆っている。
何かこわくなるほどの男女別の社会。そこで女性は子を産むことが至上命令となる。避妊や堕胎は禁じられ、出生率はきわめて高い。有形無形の抑圧は、とりわけ男性支配の規範を内面化した女性たち、息子から性生活をつぶさに聞き取って嫁を監視する姑や、ベッドでは常に男性を立てることを教える教育係の女性によって、救いようのない形で行われる。
同性愛やトランスなど、男女別の社会に馴染めない人々には、ここはどこにも居場所がないだろうと思う。エスティの母は、酒乱の夫から逃れてベルリンに逃げたあと、初めて自分の性的指向にすなおに従って同性の恋人と暮らすようになるのだった。
前述の映画 "Disobedience" でも、ロニートとエスティは同性愛の関係であり、終盤ではその恋愛を貫くために、手を取り合ってコミュニティを立ち去ろうとする。
超正統派のユダヤ人社会から連想するのは、例えばイスラム原理主義のタリバンであり、キリスト教原理主義のアーミッシュである。宗教を原理的に突き詰めると、申し合わせたように女性に対して抑圧的になるのが興味深い。アフガニスタンでは女性たちは肌を見せることを禁じられて体全体を覆い、学校にさえ行けない。アーミッシュの女性も禁欲的な服装で、避妊も堕胎もできない。
ユダヤ教社会から脱走したエスティであるが、ユダヤ的な価値観全てを放擲したわけではない。妊娠がわかったとき、産科医の前で「私は産みます」と宣言する場面がある。ホロコーストで死んだ何百万もの同胞の無念を思えば、産まない選択肢はない、と彼女は考える。産む機械であることを強制される社会から逃れたにもかかわらず、産む性としての自分を新たにとらえなおして、産む。強制ではなく、自らの自由意志によって。
最終話のオーディションの場面で彼女がアカペラで歌うヘブライ語の歌(ユダヤの祝婚歌であるらしい)も、聴くものの胸を打たずにはおかない。
女性が人前で歌うのははしたないとされてきたユダヤのタブーを破って、彼女が力強く歌うのは、ほかならぬユダヤの歌なのであった。
ネットフリックスでイディッシュ語の映画あるいはドラマが放映されるのはこれが初めてだそうだ。大変結構なことだと思う。少数派の言語による映画をもっともっと出してほしい。一つの言語はそれ自体独自の世界を持ち、ある言語が死に絶えることは世界が一つ消滅するに等しい。誰もが英語しか話さないような世界なんて、気持ちわるくていたたまれない。