はじめに:「感覚」から「数値」へ
過去25年、コンサルタントとして複雑なビジネスデータと向き合ってきた経験がある。M&A案件では数百億円の意思決定が、曖昧な「感覚」ではなく「数値的根拠」に基づいていた。
ところがランニングの世界では、その真逆だ。
「このペースで走ると感覚的に良い」「疲労が抜けた気がする」——こうした曖昧な判断が、パフォーマンスの停滞を招いている。
本記事は、複数年のGarminデータ、心拍ゾーン分析、VO2max推移、栄養・リカバリーログを統合分析することで、市民アスリートが「感覚トレーニング」から「データドリブン・トレーニング」へ転換する方法を解説する。
1. 市民アスリートが陥る「感覚トレーニング」の落とし穴
1.1 コンサルタント視点での問題分析
ビジネスの世界で「勘」や「経験」が通用しなくなったのは、データが意思決定の質を統計的に向上させることが証明されたからだ。ランニングも同じ仕組みだ。
現在のランニングウォッチ(Garmin, Apple Watch, Coros等)やトレーニングアプリ(TrainingPeaks, Strava等)には、医療・スポーツ科学レベルの計測機能が搭載されている。にもかかわらず、多くの市民アスリートはこのデータを「眺めているだけ」で、実際の意思決定には活用していない。
1.2 「感覚」が正確でない3つの理由
① 短期の感覚は、長期トレンドをマスク
「今日は調子がいい」という感覚は、当日の睡眠時間や食事、気温、メンタル状態に左右される。だが、3ヶ月単位のVO2max推移、心拍数の低下トレンド、リカバリータイムの短縮という「客観的な上昇サイン」を見落とす。
② 疲労度の自己評価は過大評価される傾向
主観的運動強度(RPE)と実際の心拍ゾーンが乖離している場合が多い。特に中高年ランナーでは、「疲れた」という感覚が実際のトレーニング負荷(Training Stress Score)と相関しないことが多い。
③ プラトー状態を認識できない
「何週間も同じペースで走っている」ことに気づかないまま、モチベーションが低下する。だが、心拍数ゾーン別のボリューム分析をすれば、「Z2(低強度)の時間ばかりで、Z4(高強度)が足りない」という改善点が明確になる。
2. 僕が実装した「データドリブン・トレーニング」の全貌
2.1 計測している主要データ
| 項目 | ツール | 利用方法 |
|---|---|---|
| 心拍数・ペース・距離 | Garmin Watch | リアルタイム・事後分析用 |
| VO2max(推定値) | Garmin Connect | 月次でトレンド追跡 |
| Training Stress Score | Strava / TrainingPeaks | 週の累積トレーニング負荷を数値化 |
| リカバリータイム | Garmin Body Battery | 次の高強度トレーニングまでの待機時間 |
| 睡眠・心拍変動 | Garmin / OURA Ring | 自律神経バランス、過回復状態の判定 |
| 栄養・体重・体脂肪 | スプレッドシート | タンパク質量、糖質補給との相関 |
| 主観的運動強度(RPE) | 練習ログ | 「感覚」と「数値」のズレを検出 |
2.2 月次分析のルーチン
毎月の第1週末に実施するデータ分析
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前月のVO2maxとトレーニング負荷の相関を検証
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「負荷が高かった週」に対応するVO2max上昇を確認
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上昇しなかった場合は、リカバリー不足を推定
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心拍ゾーン別ボリュームの監査
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Zone 2(有酸素ベース):全体の50~60%の「ゆっくり走り」
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Zone 3(テンポ走):全体の20~25%
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Zone 4~5(インターバル):全体の15~20%
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この比率から外れていれば、偏ったトレーニングと判定
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リカバリータイムと睡眠の相関
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高強度トレーニング後、72時間のBody Battery回復を追跡
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回復が遅い週は「栄養不足」か「睡眠不足」を判定
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PB達成に直結したパラメータを逆算
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「3時間22分を達成した直前3週間」と「3時間23分で停滞していた時期」を比較
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差異は何か?(VO2max値?LT閾値?体重?栄養タイミング?)
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3. 「3時間23分→3時間22分」を実現した、決定的なデータシフト
3.1 停滞期の診断(2023年秋~2024年春)
| 指標 | 停滞期 | ブレークスルー直前 |
|---|---|---|
| VO2max推定値 | 56±1 ml/kg/min | 57.5 ml/kg/min |
| Zone 2ボリューム | 30% | 62% |
| Zone 4-5ボリューム | 28% | 16% |
| 平均睡眠時間 | 5.5時間 | 7.0時間 |
| レース3週間前のRPE&実心拍 | RPE7/8だがZ3 | RPE6/8でZ3-4 |
問題:「高強度トレーニング依存症」に陥っていた
インターバルやテンポ走を週4回実施していたが、「Z2の質」がおろそかになっていた。結果として:
3.2 データドリブンな処方(2024年4月~7月)
変更内容
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「質の高いZ2走」を週3回へ増加
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単なる「ゆっくり走り」ではなく、心拍100~115 bpmで「呼吸が楽で、会話できるペース」を厳密に維持
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理由:Z2での時間が増えると、小腸の糖輸送体(SGLT1)が増加し、長時間での燃料補給効率が向上する(研究文献より)
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インターバルを「月1~2回に削減」
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高強度は、質と回復を優先
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週のTSS(Training Stress Score)を「500~600」から「400~450」へ低下させた
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睡眠を「平均7時間」へシフト
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Body Batteryの回復パターンを監視
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「前日のBody Batteryが60以上」の時だけ高強度トレーニングを実施
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栄養タイミングの最適化
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レース本番と同じ「補給戦略」を長距離練習で3回以上リハーサル
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「3時間22分ペース(km4:46-47)で、30km走中に何gの糖質補給が最適か」をA/Bテスト
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3.3 結果:データが示した「ブレークスルー」
| 項目 | レース直前 |
|---|---|
| VO2max | 58.2 ml/kg/min(停滞期比+2.8) |
| Z2走のペース(心拍基準) | km5:10 ± 10秒(ばらつき最小化) |
| LT速度(推定) | km4:18/min(直前測定より+8秒向上) |
| Body Battery平均 | 73(前月比+12) |
| 体重 | 65.8kg(脂肪-0.5kg、筋量+0.3kg) |
最終的なマラソンタイム:3時間22分06秒
4. 「データドリブン・トレーニング」を始める、3つのステップ
ステップ1:計測を開始する(今週から可能)
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最低限必要:スマートウォッチ(Garmin, Apple Watch, Coros)
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理想的:TrainingPeaksのプレミアム版(月額USD 14.99)で自動分析
ステップ2:月1回の「データ監査」を習慣化
毎月第1日曜の朝:
1. Garmin Connectで「パフォーマンス統計」を開く
2. 先月のVO2max推移を確認
3. 心拍ゾーン別ボリュームを計算(できればExcelへ記録)
4. 睡眠&リカバリータイムとの相関を確認
5. 「来月の調整項目」を3つ決める
ステップ3:レース前6週間の「逆算計画」
PB達成に必要なVO2maxやLT値を医学的な推定式で逆算し、「あと6週間で何を改善すべきか」を数値で判定する。
推定式の例:
(個人差が大きいため、複数回のレースデータから係数を調整する)
5. 「AI コーチング」の時代へ:人間の直感との融合
5.1 EKIDEN.AIの事例に学ぶ
2024年11月、藤原新選手は2週間で2回のフルマラソンを走り、2回目を30分以上短縮した。これは、AIコーチ(EKIDEN.AI)が以下を実行したから:
人間コーチであれば「6日後のレースは危険」と判断しただろう。だが、AIが個人の回復データを瞬時に分析し、最適な負荷を算出した。
5.2 「データ」×「感覚」の統合
重要なのは、AIが万能ではないということだ。同記事で指摘されていることは:
「客観データだけでなく、主観的運動強度(RPE)、メンタル状態、『なんとなく違和感がある』といった微妙な感覚も不可欠」
つまり、最強のコーチング = AIの計算力 + 人間の直感である。
6. 最後に:「データドリブン」は冷たくない
ビジネスの世界では「データ分析は人間的ではない」と批判されることがある。だが、実際には逆だ。
精密なデータ分析こそが、最も個別化された、その人に合ったトレーニング設計を可能にする。
僕がこの方法に転換してから、最も大きく変わったのは:
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「今日の気分」に左右されない、客観的な判断ができるようになった
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レース直前の不安が減った(「VO2maxがこの値なら、3時間22分は射程内」という数値的確信)
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練習がより効率的になり、人生全体の時間が増えた
データドリブン・トレーニングは、決して「感覚を失うこと」ではない。むしろ、感覚をより研ぎ澄ます仕組みである。
3時間切りを目指すすべてのランナーへ:ウォッチのデータを眺めるだけでなく、分析してみないか。その先に、新しいPBが待っている。