
相変わらず町田康さんのことを追いかけていて(何せこれまで読んだことがなかったので、大量に素材がある)、町田さんの『俺の文章修行』オンライン講座を見つけた。
cotogotobooks.stores.jp
『俺の文章修行』は今年の初めに発売されたので、このオンライン講座は当然終わってしまっていて、作品は提出できないんだけど、聴いてみたい! と思って購入した。
それを聴きながら、「がーーーーーーーん」と、こんなことがあるの!?!? と、胸の奥に低い低い鐘の音のようなものが鳴り響いた。次を聞くことができず再生をいったん止めて、そのがーんを何度も鳴らすべくその場に座り込んだ。
町田さんは、作品を提出した方の原稿を読み、「これが心の錦なんだ」と言った(ここで「がーーーーーーーん」が鳴った)。町田さんの言葉をそのまま書くわけにはいかないので私の理解を別の方法で書くと、作者が深く思考したうえで「こうだよな」と結論付けた(?)ことが、書かれているということ。その作品の場合は主人公の考え(あるいはセリフ?)として書かれていたようだ。
例えば村上春樹の作品で「ひげそりにも哲学がある」とか「一人が好きな人間なんていない。ただ失望したくないだけ」といった内容の(引用は正確ではないが)言葉があって、それは多くの人の心を打った。それはぽっと作品の中に現れて、それをテーマとして引っぱるようなことはないんだけど、一定数の人には、そこだけキラキラと輝いて見える。それを「心の錦」と呼ぶんだろうと、私は理解した。
で、なぜ低い鐘が鳴ったのかというと、私はこのために小説を書きたいと思っていながら、これを表す言葉を持たなかったから。その言葉を町田さんが突然与えてくれたので、私はものすごい衝撃を受けたのだ(『俺の文章修行』を読んだ時には、そのことだと理解できていなかった、ということでもある)。
私は、安田佳生さんとPodcastをやらせていただいる。下記の回で、「なんで小説が書きたいのか」と問われ、このように話していた。
【水曜】UDAUDAトークルーム 第60回「AIに指摘されて... - 安田佳生のブレインスイッチ - Apple Podcast
私の回答:
「なんで書きたい……。ちょっと、まあ、あの、それを書きたいと思ったからっていうことなんですけど。
でも、ちょっとあの、最近わかってきたのは、物語を具体で書いていくと、私の本当に大切にしているものが「にじみ出てくる」っていうことですね。
うーん。で、それは言葉にするとすごく陳腐だし、誰でも言ってるようなことだったりするし。あの、誰も聞いてくれないんですよ、別に。私がすごい成功を収めたわけでもないので。
でも、すごい面白い物語に、もし載せられたら、まあ、誰か聞いて……聞いてくれるかもしれない。でもそういうのがなんか、じわっとにじみ出てくるっていうのが、表現したいことなんでしょうね。と思ってます、最近は。」
ちょっと補足すると「言葉にすると陳腐」というのは、抽象的な言葉にするととても陳腐だっていうこと。誰かの焼き直しみたいになる(焼き直しじゃなくてオリジナルだったとしても)。だけど、具体の中に入れこむと唯一無二になるか、そう見えるようになるんだと思ってる。
「ひげそりにも哲学がある」って、友だちの会話で話したとして、相手が何か感じてくれたとしても「ふーん深いね」で終わるだろうし、それだけをテーマに作品を作ったりすることはできないだろう。でも、(町田さんのように)素晴らしい小説に載せれば誰かの心に残るし、たとえ自分が書けたとしても陳腐な小説かもしれないけど、誰かに読んでもらえたら、もしかしたらその人には伝わるかもしれない。そういう瞬間を、涙が出るほど求めているのか、な、と思う。
ある人に心の内を深く聴いてもらっている時に「愛する人と、究極的には一体化したいと思っている。できないのはわかっているけど」と話したことがあって、「やっぱり、えみちゃんは小説を書いたほうがいい」と言われた。つまりはそういうことを、どうにかして、表現したいのだ。
それを「心の錦」と呼ぶと大それたことになりすぎるから、町田さんの『俺の文章修行』での別の呼び方、「糸クズ」と呼んで大切にしようと思っている。