Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

バレーボールと文学がつながらない

バレーボールを好きな自分、バレーボールのことを考えている自分と、文学が好きな自分が、なかなかうまくつながらない。

 

バレーばかりしているときにはとても快適で、ちょっと休んでもすぐにバレーがしたいし、バレーに行けばまた元気になり、バレーの人たちと遊びたくなる。

 

でも文学に触れてそのことをじっくり考えたり、内省を深めたりしていると思考がバレーから遠のいてしまい、練習がおっくうになっていく。

 

「仕事 vs 子育て」でもそういうことはあるけど、それはもう長い付き合いなのでずいぶん慣れてきて、「こういう場合は仕方ないな」みたいな納得のしかたもわかっている気がする。

 

「バレー vs 文学」はどちらも趣味なのに(今のところ)、それなのに時間を取り合っていて、頭の中のシェアを奪い合っていて、でも両方ともちゃんとやっていきたくて、複雑な気持ち。

 

そして相乗効果でなにかにいい影響を与えるということが、直感的に考えにくい。そりゃバレーボールの人間関係や人の心理は創作の特にキャラづくりにおいてとても役に立つだろうけど、でもなんか「トーン」とか「雰囲気」「世界観」として統一されないのだ。バレーと文学が。まったく別の世界に存在している別個のものみたいな感じ。

 

バレーのやり始めは、新しい世界を小窓から覗いているみたいで楽しかったけど、どっぷりつかって自分が住人になると、楽しみ方が変わるというか。覗いでいるだけでは済まなくなってくる。

 

文学っていうのは独特の世界観で、なかなか現実世界(?)と相いれないものなのかもしれない。

詩を読む人種

『二十億光年の孤独』と『土間の四十八滝』と有田焼のカップ

世の中は詩を読む人と詩を読まない人に真っ二つに分かれるであろう、たぶん。

日常的に詩を読む人って100人にひとりもいないんじゃないか?

私は読まない人だったけど、少し読んでみたいな、と思った。

それは、やっぱり町田康さんの影響だ。高橋源一郎さんも詩が好きなようで、そのことも心にあった。

 

町田康さんは武蔵野大学で授業をしており、レジュメが公開されている。

https://muscat.musashino-u.ac.jp/portal/slbssbdr.do?value(risyunen)=2023&value(semekikn)=1&value(kougicd)=2100120191&value(crclumcd)=

 

8.    詩を読む① 詩人とはどういう人間か。なにを書こうとしているか。どう書こうとしているか。直観していることはなにか。言葉の流行。「おもろい詩の四条件」について。
予習、事前に読む。
復習、もう一度読む。 

 

9.    詩を読む② 「ライトゲージ」うるし山千尋を読む。詩の技巧。言葉が響くということ。「名辞以前の世界」とはなにか。名詞に感傷的個人的、割とどうでもよい意味を持たせる技法、その他の技法を読む。そのバックグラウンドで作動するOSとしての、作者の世界観を読む。
予習、事前に読む。
復習、詩を書いてみる。 

 

10.    詩を読む③ 中原中也の「サーカス」「朝の歌」萩原朔太郎の「帰郷」「品川観艦式」などを創造的に読み、性格と人生と詩の関係を知り、腹痛による呻きと詩の間にあるものを探る。
予習、事前に読む。
復習、詩を書いてみる。 

 

11.    詩を読む④ 詩を読み、書いて、その根底にあるものが、「かっこいい」もの、またそれとは真逆の、「腹立つもの」であることを知り、その浅薄なるを確認する。そしてそれに気がつかない「いい気」「いい気分」が詩にどんな肯定的な力を与えているかを知る。そのうえで詩を書きたくなれば書き、そして、それを他人に読んでもらいたいと思うか、思わないかを自ら確認し、読んでもらいたい場合はなんらかの方法で読んでもらう。
予習、詩を書く。
復習、詩を読む。 

 

これらの作品は、町田さんが「よい」と思っているものなんだろうと、チェックしておく。

 

また、町田康さんは、『私の文学史』で詩について書いていて、その四条件も書かれている。

 

1.感情の出し方がうまい

2.調べ

3.そいつ自身がおもろい

4.詩の中に書かれている意味内容が正しかったり、役に立ったりする

 

「詩の読み方なんて自由でいい」と言われることもあるけれど、私は詩をどう読んでいいかさっぱりわからなかった。町田さんはいろいろと、詩の読み方を教えてくれている。それなら読めそうかも、と詩集を開いてみたのだ。

詩を読むときは、「わからんけどわかる」でいいらしい。わからなくても、感情が伝わってくる。陽気な感じや寂しさ、虚しさなんかが伝わってくる。まずはそれでいいのかもしれないと思ったし、そう思って読んでみると結構面白いものだな、と。

 

本棚にしまってあった『二十億光年の孤独』を出してきて、『土間の四十八滝』を買って、夫の本棚からヘッセとランボーの詩集を出してきた。

『ヘッセ詩集』『ランボー詩集』

 

「心の錦」という言葉(引き続き町田康さんの『俺の文章修行』より)

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相変わらず町田康さんのことを追いかけていて(何せこれまで読んだことがなかったので、大量に素材がある)、町田さんの『俺の文章修行』オンライン講座を見つけた。

 

cotogotobooks.stores.jp

『俺の文章修行』は今年の初めに発売されたので、このオンライン講座は当然終わってしまっていて、作品は提出できないんだけど、聴いてみたい! と思って購入した。

 

それを聴きながら、「がーーーーーーーん」と、こんなことがあるの!?!? と、胸の奥に低い低い鐘の音のようなものが鳴り響いた。次を聞くことができず再生をいったん止めて、そのがーんを何度も鳴らすべくその場に座り込んだ。

 

町田さんは、作品を提出した方の原稿を読み、「これが心の錦なんだ」と言った(ここで「がーーーーーーーん」が鳴った)。町田さんの言葉をそのまま書くわけにはいかないので私の理解を別の方法で書くと、作者が深く思考したうえで「こうだよな」と結論付けた(?)ことが、書かれているということ。その作品の場合は主人公の考え(あるいはセリフ?)として書かれていたようだ。

 

例えば村上春樹の作品で「ひげそりにも哲学がある」とか「一人が好きな人間なんていない。ただ失望したくないだけ」といった内容の(引用は正確ではないが)言葉があって、それは多くの人の心を打った。それはぽっと作品の中に現れて、それをテーマとして引っぱるようなことはないんだけど、一定数の人には、そこだけキラキラと輝いて見える。それを「心の錦」と呼ぶんだろうと、私は理解した。

 

で、なぜ低い鐘が鳴ったのかというと、私はこのために小説を書きたいと思っていながら、これを表す言葉を持たなかったから。その言葉を町田さんが突然与えてくれたので、私はものすごい衝撃を受けたのだ(『俺の文章修行』を読んだ時には、そのことだと理解できていなかった、ということでもある)。

 

私は、安田佳生さんとPodcastをやらせていただいる。下記の回で、「なんで小説が書きたいのか」と問われ、このように話していた。

【水曜】UDAUDAトークルーム 第60回「AIに指摘されて... - 安田佳生のブレインスイッチ - Apple Podcast

 

私の回答:

「なんで書きたい……。ちょっと、まあ、あの、それを書きたいと思ったからっていうことなんですけど。

でも、ちょっとあの、最近わかってきたのは、物語を具体で書いていくと、私の本当に大切にしているものが「にじみ出てくる」っていうことですね。

うーん。で、それは言葉にするとすごく陳腐だし、誰でも言ってるようなことだったりするし。あの、誰も聞いてくれないんですよ、別に。私がすごい成功を収めたわけでもないので。

でも、すごい面白い物語に、もし載せられたら、まあ、誰か聞いて……聞いてくれるかもしれない。でもそういうのがなんか、じわっとにじみ出てくるっていうのが、表現したいことなんでしょうね。と思ってます、最近は。」

 

ちょっと補足すると「言葉にすると陳腐」というのは、抽象的な言葉にするととても陳腐だっていうこと。誰かの焼き直しみたいになる(焼き直しじゃなくてオリジナルだったとしても)。だけど、具体の中に入れこむと唯一無二になるか、そう見えるようになるんだと思ってる。

 

「ひげそりにも哲学がある」って、友だちの会話で話したとして、相手が何か感じてくれたとしても「ふーん深いね」で終わるだろうし、それだけをテーマに作品を作ったりすることはできないだろう。でも、(町田さんのように)素晴らしい小説に載せれば誰かの心に残るし、たとえ自分が書けたとしても陳腐な小説かもしれないけど、誰かに読んでもらえたら、もしかしたらその人には伝わるかもしれない。そういう瞬間を、涙が出るほど求めているのか、な、と思う。

 

ある人に心の内を深く聴いてもらっている時に「愛する人と、究極的には一体化したいと思っている。できないのはわかっているけど」と話したことがあって、「やっぱり、えみちゃんは小説を書いたほうがいい」と言われた。つまりはそういうことを、どうにかして、表現したいのだ。

 

それを「心の錦」と呼ぶと大それたことになりすぎるから、町田さんの『俺の文章修行』での別の呼び方、「糸クズ」と呼んで大切にしようと思っている。