「犬の裁判」は、自然に対する人間の傲慢さを受け入れられないのが傲慢では?という映画でした。

今回は新作の「犬の裁判」を伊勢佐木町の横浜シネマリンで観てきました。伊勢佐木町で唯一頑張っている映画館ですが、以前よりコンスタントにお客さんが入っているのが嬉しい限り。劇場としても雰囲気がよいですし、フィルム上映の時代より上映のピントも合ってるし、音響もよくなってきているという、進化系映画館。
スイスの弁護士アヴリル(レティシア・ドッシュ)はいつも負け訴訟ばかり引き受けています。今回の案件も、女性に噛みついた犬が殺処分されそうになっている飼い主から持ち込まれたもので、どうにも勝てそうにありません。それでも、彼女はこの案件を犬コスモスを被告にした公判に持ち込むことに成功します。噛みつかれたのはポルトガル人の若い女性で、市長候補の女性弁護士ロズリーヌ(アンヌ・ドゥルバル)がついて、自身のアピールも込めて、この裁判に乗り込んできます。いよいよ開廷となり、被告が犬という裁判は世間が大きく注目するところになります。裁判は、犬の意思や意見をくみとろうとしたり、その事件の詳細な再現をすることで、犬がどうして被害者を噛むに至ったかを解明しようとするのですが、果たして、犬のコスモスは殺処分を免れることができるのでしょうか。
スイスのある村で起きた犬が被告になる裁判が、コミュニティを巻き込んで大騒ぎになったんですって。その事件の再現ではなく、犬が被告の裁判があったという事実をベースにアン・ソフィ・バイリーとレティシア・ドッシュが共同で脚本を書き、ドッシュが監督・主演しています。ポルトガル人の若い家政婦ロレネ(アナベラ・モレイラ)が、ダリウシュという中年男の飼っている犬のコスモスにポテトチップスを与えようとして顔を噛まれてしまいます。このコスモスという犬は同様の事件をこれで3回起こしているので殺処分されることになるのですが、これに待ったをかける裁判が起こされ、ここがよくわからなかったのですが、犬が被告となる裁判が開かれることになるというお話です。自分は、動物は特に好きではないですし、何の思い入れもないので、その立場で、この映画に臨むことになりました。犬が被告ったって、犬は自分が被告であることも認識できないでしょうにと思うのですが、そこから先、かなりバカ展開になっていきます。
裁判では、犬の言葉の翻訳機とか、単語のついたボタンを犬に押させて証言させようとか、バカみたいなことが行われます。ああ、こういうところで動物愛護の偽善性を笑い飛ばす映画なのねーと思っていたのですが、映画の後半では、ヒロインが犬の気持ちになろうと大真面目に語り始めるので、「あれ?」と思って、後でプログラムの監督のインタビューを読んだら「裁判で犬を理解しようとするのはばからしいけど素晴らしいこと」って言っててびっくり。ああ、この映画は、犬をマジメに審議することに肯定的なんだとわかると、ちょっと笑いのツボが違うぞって気づきました。一応、人間に向けた風刺の視線があることはあるのですが、自分が期待したのは、「犬のことを理解できると思っている、自然や動物も人間と同じように扱うことができると思っている、そういう人間の驕りを笑い飛ばす」映画だったのですが、そうじゃなくって、動物や自然をもっと理解しようという映画らしいのですよ。人間にそういう能力があると思ってるというのが驕りだと思ってる私には、「人間そんなに偉くないだろ?」と突っ込みが入る映画に仕上がっていました。
コスモスが起こした他の2件の事件は大したものではなかったことがわかってきます。でも、この家政婦ロレネの件では、彼女の顔に消えない傷を残してしまっています。弁護士ロズリーヌはフェミニズムの立場から、コスモスを非難し、殺処分を正当化しようとします。彼女自身が犬を飼っていて、もし自分の飼い犬がそういう事件を起こしてしまったら、殺処分もやむなしとテレビのインタビューで語っています。この映画では、彼女を「犬をモノのように扱うひどい女」というような見せ方をしています。さらにアヴリル側は、犬の習性を知らないで行動したロレネの方が悪いみたいな論陣も張ってきます。被告を弁護しなきゃならないということでは、仕方ないとは言え、犬に何の思い入れのない私としては、飼い主と犬の責任がないような言い方はひどいぞと思ってしまいました。
そもそも、法律は自然や動物のために作ってあるわけではなく、あるコミュニティの中の人間をファアに扱うためのルールです。でも、実際には、人間を公平平等に扱いきれていないのが現状です。それでも、人間を幸福な方向へ持っていこうというのが法律であり、行政だと言えましょう。その中で、人間が幸福に暮らすために自然は必要だし、動物も必要だから保護しなくちゃいけないという話が出てくるわけです。全ての自然を人間と同等に扱うことなんか、もとから考えていません。病原菌を運ぶ蚊や、人間が望ましいと思う自然を破壊する魚やネズミなどを害獣害虫と呼んで排除しようとしています。それは仕方のないことで、困っている人間を助けて、病気の蔓延を防ぐためには、自然を人間の都合に合わせることはやむを得ないことだと思います。まず、人間を平等に扱って、できるだけ幸せにしたいのに、それができていないのに、それ以外の動物まで同じように扱える余裕はないのではないかしら。「ヒューマン・ファースト」を人間の思い上がりだと言いたい人の気持ちもわからなくもありませんが、そんなこと考える前に、できるだけ多くの人間を幸福にすることを重視すべきなのではないかしら。この映画の結末は、大騒ぎした割には、コスモスはあっさりと殺処分される判決が下ります。結末のあまりのあっさり加減から、この映画は判決よりも、そこに至るまでの人間のバカ騒ぎの方を描きたかったようなのですが、でも、ヒロインが最後の自然保護の演説をぶつに至って、私が思っていたのと、笑いの方向が結構違うぞってところに気づかされました。
また、自然の中では、人間も含めて弱肉強食がルールですから、その中での、種の存続/絶滅と個々の命の生死の話は別物に考えるべきでしょう。自然保護の話とコスモスの殺処分の話は、一緒のレベルで語られる話ではないです。「他人を殺した者を法律で罰する」という話と、「人間という種は自然に大して傲慢だ」という話は、似てるようで実は大きく違うレベルの話だと思うべきです。裁判の途中で、聖職者の視点から議論するというこれまたアホなことをしているのですが、犬のしたことを人間の倫理で測ることなんてできませんし、神様だって人間には色々なことを教えて自治も許していますが、犬にそんなことをしてないだろうなってのは容易に想像がつきます。この映画の作り手のみなさんは、人間を大きな生物ピラミッドの頂点だと思っている節があります。でも、実際は、人間という種のピラミッドはあるかもしれないけど、それ以外の種は、それぞれ別ののピラミッドがあって、人間の価値観や倫理とは別のところで体系づけて生きていると考える方が自然なように思えます。たまたまコスモスは人間の法の範囲内に入ってきちゃったから、裁判にかけられるはめになっていますが、人間の支配の及ばない自然界にいれば、そんな羽目には陥らなかった筈です。で、そんな風に、人間の世界に取り込んだ責任は人間ですし、コスモスの場合、その責任は飼い主が負っているのだと言えましょう。そう考えると、「人間という種は自分勝手でひどいよね」という話にもなりますが、人間社会という個人の寄り集まりの世界では、「コスモスの飼い主が無責任に犬を飼って、顔に怪我させた」という話になります。
多分、この映画のようにコスモスを擁護する方は、人間と犬という種の違いについて、それほどの違いはないと思っているのではないかしら。私は、人間という種と他の動物の間には越えられない壁があるのが現実だと思っていまして、そうしないと人間が他の人間を公平に扱えないと認識しています。人間をまず優先しないと世界は成り立たないことを覚悟すべきではないかというのがこの映画から得られた教訓でした。「自然と人間の調和」と言ったところで、それはあくまで、「人間にとって不都合にならないレベルの調和」でしかないことを謙虚に受け止めて、その中で、まず人間という種の中でお互いにフェアに接することが大事なのではないかしら。
