🪻10分で聴く私本太平記🪻
【藤夜叉⑨〈ふじやしゃ〉】 旅の風はまたふたたび、 馬上の高氏の鬢面《びんづら》をソヨソヨ後ろへ流れてゆく。 その朝、彼は伊吹を立っていた。 別れぎわには、佐々木道誉以下、土岐左近らも、 とにかく表面ねんごろに別辞をつくした。 わけて、道誉は、 …
【藤夜叉⑦】 「……そなた、下野国の御厨にいたことはないか」 「いいえ」 「御厨ノ牧にいたことも」 「ありません」 「では、生国は」 「越前とだけ聞かされておりますが」 「越前」 と、息をひいて。 「じゃあ違っていたか。 余りにも、そなたが牧長の娘とよ…
彼のひとみは、そればかりでないものを見た。 ここには、彼以前に、もひとり人影がたたずんでいた。 いや、その者も木の根か何かにこしかけていたのらしいが、 すぐその辺まで来た高氏の影が ふいに崩れるような恰好でうずくまってしまったのを見ると、 それ…
【私本太平記 藤夜叉①〈ふじやしゃ〉】 ——夜《よ》は夜《よる》を新たにして。 と昼間、道誉が言った。 いかにもばさらないい方で彼らしい言と思われたが、 約束のごとくその晩、 城内の的場から武者廂までを容れた俄舞台と桟敷で、 新座の花夜叉一座の、田…
【私本太平記32 第1巻 ばさら大名⑦】 この時代にはまだ後世のいわゆる茶道などは生れてない。 けれど喫茶の風は、ぼつぼつ、拡まりかけていたのである。 禅僧の手で漢土から渡来した始めのころは、 禅堂や貴人のあいだに、養生薬のように、 そっと愛飲され…
【私本太平記30 第1巻 ばさら大名⑤】 ——ははあ。 かかる態の人物の生き方やら嗜好をさしていうものか。 又太郎はふと思いついた。 ちかごろ“婆娑羅《ばさら》”という流行語をしきりに聞く。 おそらくは、 田楽役者の軽口などから流行《はや》り出したもの…
【私本太平記28 第1巻 ばさら大名③】 ところで“名のり”を高氏と称する当の人物というのは、 その江北京極家の当主であった。 つまりこの地方の守護大名、 佐々木佐渡ノ判官《ほうがん》高氏殿こそがその人なので……と、 土岐左近は、 一応の紹介の辞でもす…
【私本太平記26 第1巻 ばさら大名①】 騎旅《きりょ》は、はかどった。 丹波を去ったのは、先おととい。 ゆうべは近江《おうみ》愛知川《えちがわ》ノ宿《しゅく》だった。 そして今日も、春の日長にかけて行けば、 美濃との境、磨針峠《すりばりとうげ》の…
【私本太平記24 第1巻 大きな御手16】 「……さ。いま伺えば、 その若公卿が召連れていた侍童の名は、菊王とか」 「たしか菊王と呼んだと思う」 「ならばそれも、天皇に近う仕えまつる近習の御一名、 前《さき》の大内記、日野蔵人俊基朝臣 《ひのくろうどとし…
【私本太平記22 第1巻 大きな御手14〈みて〉】 「さても、あのあと、どうなったかな?」 「最前の舟の出来事で」 「さればよ。あの若公卿の演舌など、 もすこし聞いていたかった。惜しいことを」 「まことに、 異態《いてい》な長袖《ちょうしゅう》でござい…
【私本太平記19 第1巻 大きな御手11】 終日《ひねもす》の舟行《しゅうこう》なので、 退屈もむりはないが、舟の中ほどで、 博奕《ばくち》が始まっていたからである。 たしか花街《いろまち》の神崎あたりで、 どやどや割りこんで来た 今時風《いまどきふう…
【私本太平記16 第1巻 大きな御手〈みて〉⑧】 「あれを見い、右馬介」 「おあとに、何か」 「いや、覚一の姿が、まだわしたちを見送っておる」 「はて。見えもせぬ眼で」 「そうでない。見える眼も同じだ。 わしたちを振向かせているではないか」 ——この日、…
【私本太平記14 第1巻 大きな御手⑥】 みかどの笛に、京極殿の灯は更《ふ》けていた。 みかどは、古例の曲を吹き終って、 「ふつつかなお聞え上げを」 と、御父の法皇に一礼して御座へ返った。 ほっと夢幻から醒めたような息の白さが灯を霞める。 女房たちの…
【私本太平記11 第1巻 大きな御手③〈みて〉】 「主上《きみ》には、 ご受禅《じゅぜん》(み位をうける)の後は、 政務のひまにも、講書の勉《つと》め、 詩文の会など、ひたぶる御勉強のみと伺うが、 余りな御精励もおからだが案ぜらるる。 まれには、ちと…
【私本太平記9 第1巻 大きな御手〈みて〉①】 あいにく、正月三日の空は、薄曇りだった。 そして折々は映《さ》す日光が、 北山の遠い雪を、ふと瞼にまばゆがらせた。 ——天皇の鸞輿《らんよ》は、もう今しがた、 二条の里内裏《さとだいり》をお立ち出でと、 …
【私本太平記7 第1巻 下天地蔵7〈げてんじぞう〉】 老歌人の為定から 「……お供も召されずお一人でか」と、 いぶかられたのもむりはない。 いつもの右馬介さえ今日は連れていなかったのだ。 都は知らず東国では源氏の名流、 武門の雄と見なされている足…
【私本太平記5 第1巻 下天地蔵5〈げてんじぞう〉】「‥あの傲慢な生き物が、わしには、まざと、鎌倉の執権殿そッくりに見えてきたのだ。そこが酒だな。もう余りは過ごすまい」 「右馬介、右馬介っ。早く来い。逃げるが一手だぞ」 わざと五条橋を避け、 主従と…
【私本太平記3 第1巻 下天地蔵③〈げてんじぞう〉】 現執権高時の田楽好きも、狂に近いが、闘犬好みは、もっと度をこしたものである。 鎌倉府内では、月十二回の上覧闘犬があり、武家やしきでさえ闘犬を養って‥ 十数名の武者は、 みな小具足《こぐそく》の旅…
下天地蔵1 〈げてんじぞう〉 第1巻 まだ除夜の鐘には、すこし間がある。 とまれ、今年も大晦日《おおつごもり》まで無事に暮れた。 だが、あしたからの来る年は。 洛中の耳も、大極殿《だいごくでん》のたたずまいも、 やがての鐘を、 偉大な予言者の声にで…