カテゴリー別アーカイブ: Unclassified

私は高機能脳障がい者として 生きるべきか?

私が一番最初にデザイナーとして勤めた会社では障がい者の同僚がいた。生まれつき両足が不自由で松葉づえで会社まで来ていたのを覚えている。彼の改造された車は足を使わなくとも運転できる購入時40万円上乗せのホンダアコードだった。
頑固で文句ばかり言い放ち、仕事はできるが気難しく、少し幼いところもあり、まるで中学生のような34歳だったが、彼の人生には口には出せない葛藤と苦しさがあっただろうと今感じる。私とは仲もよく会社から打ち合わせなどで出かけるときは、私が車を出し訪問先の建物内では私が『おんぶ』していたような思い出がある。
しかし、いま自分が今年9月から本科入学した学校の勉強を通じ自分の体(脳)の不自由さを痛感するたびに、今まで自分が出会ってきた障がい者と呼べる人たちを思い出すことが多くなった。

私がいままで普通の人間で、いわゆる健常者という気持ちで暮らしてきたが、ここでそのことを真剣に一度捨てなければならない時期が来たのではと感じる。
前頭葉脳腫瘍の手術から8年は過ぎただろうか。しかし今年も幾度となく車をぶつけてその多くの傷を自分で修理してきた。家の脇やスーパーの駐車場ではショッピングカート囲いなどにぶつけてきた、要するに注意散漫なのである。最近では先週のことすら覚えていないし、そう言えば月ごとに書く日記帳も今年は未だ白紙のままである、何を書くかその出来事を忘れたのではなく『書くこと自体』を忘れるのである。当然以前の出来事など全く覚えていない、脳の精密検査も受けたが若年性認知症ではないようである。
当然のことながら勉強の暗記など身に入らず、かなり手こずってはいるが、私なりに勉強法を見出し何とか続いている、というかかなり必死だ。
女房は私の術後は何回も涙を流し苦労してきたので、昔に比べれば今は私だけが苦しんでいるので『マシ』だろうか。それでも今年は数回だけであったが、買い物で店から出てきたときに自分がここで何をしているのか、どこへ行こうとしているのかが分からず、その店の前でボーッと突っ立ていたことが2回あった。この時はかなり不安だったが最悪の事態は免れた。

私自身は認めたくはないが、私が持っているのは脳腫瘍が原因の高次脳機能障害である。
もういいだろうこれ以上、大丈夫なフリをしなくても障害を自分なりに認めれば。
もういいじゃないか、気合入れずに今日一日を精一杯、いや、何となく生きれば。

しかし悪いことばかりでなく、食べる楽しみと今を生きているという実感は感じられる。もちろん治療家として生きていけるし、顧客も少なくはない。
とにかく今感じていることは、毎日何の変化もなく何の楽しみも不安も心配ごともない単調な暮らしが生涯続いて欲しいと感じる、それはまるで禅寺の修行の様でも良いし、あるいは修道院の暮らしのような感じでもいい、いっそのこと刑務所の独居房のような、とにかく俗世間から離れた静かな暮らしを送りたいが、ここがアメリカということと、青い目のアメリカ人の女房と幼い子供が一緒にいる環境は、私にとって、この脳障がいのあるオヤジにとっては辛すぎる。要するに騒音が大きいのだ。

まぁいいだろう、もう少し週末のテストに備え医療用語の暗記を続け、そのあと寝るとする。
また、大学の障がい者用サイトを確認し次の学期はどうするか、主治医にも相談できれば何か考慮がないか考えようではないか。しかしながら『お涙ちょうだい』的なスタンスは私自身嫌でならない、同情されることは昔から嫌いなのだ。

この時間を共に過ごしている読者に感謝する。飾アメ著者

アメリカの食べ物『すし』

約20年前はコロラド州に寿司店は2店舗しかなかった、という妻の話だが。今では一番近くのスーパーで『いなり寿司』さえ買うことができる。そのスーパーは寿司の実演兼販売コーナーがあり東南アジア系の店員がビニール手袋をして寿司を握っているが、当然寿司ネタはアメリカ流で出来上がりにたっぷりオレンジ色の甘くて辛いサウザンドレッシングのようなものを上からかける。と言うか、かけてしまうのだ。ついでに言えばどんな種類の寿司を食べても、その寿司売り場ではそのソースの味になってしまうのは言うまでもない。その店員たちは私を見るとニコニコし軽い会釈をするが、私はいつも『おい!』と日本語で話しかけるので、彼らが困惑しているのは言うまでもないだろう。

今ではアメリカ中のいたるところに寿司があり、今では完全にアメリカの第二の食べものになりつつある。子供が学校でもらった水でさえ寿司の絵が描かれていて、You are on a roll 直訳で言うなれば『あなたは出来つつある』とでもいうか、人間的に良くなってきているよ、みたいな感じだ。
一応、付け加えておくが、当然味は『まだまだ』である。しかしアメリカの味と思えばそれもいいだろうか。

 

人はアーティチョークに近いか

アーティチョークという野菜を見たことがあるだろうか、一見食べ物だと思わないその風貌からは食欲すら起きないだろう。
この野菜は皮を剥いて剥いて剥いてから食すのだが、そんな剥かなくてはならないなら、初めから剥いて売れば良いのではないかと感じる。
しかし剥いたもの売っていない、なぜならひなびてしまうからであるが、それはちょうど剥けたバナナが売っていないのと似ている。
しかしこの面倒極まりない食べ物は実は『人』と似ている。ひともその風貌からどのような味のある人間かを見極めることは時として難しい、多くの人間は外見で人を判断するだろうが、実に残念だ。
ハゲ、ちび、デブ、ブス、人を見下す言葉はいくらでもある、笑いものにしたければそうすればいいだろうが、人をそんなことで判断してはならない、私は25歳ではげ上がった若ハゲの類であるが、自身がハゲであるために好意を持つ女性にはほぼ100%相手にされず本当に苦労したものだった、しかし幸か不幸かその後付き合った恋人といえる数人の女性はみな私の内面を見てくれたものだった、今の白人の妻を含めて。
話は変わるが、最近、と言うか私は幼いころ極端な好き嫌いが激しい少年だったが、いま現在ほぼ100%のものが好きで食べられるという次第だ。人と言うのは変わるものだ、アメリカで自分がよく食にするのはやや苦い野菜で、それは芽キャベツやこのアーティーチョークだろう。
私は最近人生でこれまで勉強したことがあるだろうかと言うほど、勉強している。仕事で顧客にこのオフィスで会う以外は、勉強だろう。最終的に夕食の支度も女房がすることになったのだが、『ほうれん草とマッシュルームのガーリック炒めはどう作るの』とか『味噌汁の具はいつ入れるの』などと、結婚10年で新妻らしい言葉が出てきている、というかあまりの料理の知らなさすぎに、私自身驚いているが作らないよりはいいだろうか。
日本のテレビをネットで見れば大学生は10時間の勉強では足りず、16時間ぐらいやっている、という話だが一体いつ寝るんだと感じる。今この勉強も元々は自分の学生時代サボっていたからではないかと、それが原因ではないかと感じる。
アメリカの大学と言うのは全く隙間が無い。毎週教授からビデオレクチャーが来るが、一つのクラスである私のケビンスペイシー似の先生は高校のフットボールのコーチなどの兼任で全くそんなに金が要るのかとも感じるが、アメリカと日本は教育からして違いこれもある種のカルチャーショックだろうか。アメリカの大学は間違いなく学ぶ、あるいは研究するところだと痛感している。

アメリカの『お笑い』

最近の日本のテレビを帰国時に見ていると、本当に多くのお笑い芸人が画面を占めている。
真面目な時事ニュースもバラエティー化された芸能番組もお笑い芸人が司会をして、コメンテーターもお笑い芸人や引退したスポーツ選手あるいは作家などが占め、司会のお笑い芸人のコメントにほかのコメンテーター達も笑いながらうなずけば、国民の大半はこのお笑い芸人に同感していまう。
問題はこれらの芸人は物事の深いところを知らず、専門家でもないところだろう。例えばアメリカの大統領に関しコメントや考えを述べても、うわべだけ、あるいは他のニュースの内容を基にした話の材料しか無いために極めて浅い話の内容になり、最後には感情に任せてほとんど『野次馬代表』のような話しかできない。これでは見ている視聴者は現在の多くの問題について、このテレビ番組を通じ的確な判断や考えができなくなってしまうだろう。悲しいかなアメリカのニュースで聴く実際の内容と、彼らが番組内で話し合っているアメリカのについてのことはかけ離れて過ぎて、想像でモノを言っている点が多い。また話は脱線するが、孟司という解剖学者がアメリカについて話すことの多くはズレているから注意が必要だ。しかし、彼の話は筋があるから面白いのだろう。

アメリカのお笑い芸人と言うのは意外にも質素であるがひとり一人からパワーを感じる、しかしながら内容をよく聞いてみると軽い内容ばかりで、アメリカのお笑いは今の日本と同じように『風刺』が少なくなっている感じがする。お笑い芸人と言うのは『今の世相を風刺して、国民が気づいていないダークな点を笑いによって気付かせるという重要な仕事がある』。
日本でも長寿番組と言われる、落語家が並んで出演する日曜夕方の番組に人気があるのは実は世相を反映した風刺が効いているからである、国民皆が言いたいことを言ってくれる感がここだけにあるのではないだろうか。しかしながら今では風刺の効いたことが書ける放送作家も感覚に優れた芸人もいないだろう。そこにいるのは見るからに奇抜で、世論の的を得る無難なトークができる『インパクト大』芸人だけだ。

こちらアメリカのの芸人は基本ピン(独り)であり、コンビを組まない。100%一人でトークをこなし、人気が出ても結局は一人で全てをこなす。日本の漫才というものは中国の『相声』という芸風に似ていて、中国のお笑いが日本の漫才のルーツではないかとさえ錯覚する。お笑いの一種である『コント』はアメリカでは見かけず、英国にはスキットと呼ばれるコント形式のお笑いがあるが実はコントは英国発祥ではないだろうかも感じる。当然『コメディードラマ』はアメリカには多くある。
アメリカのお笑い芸人の目標とするところは、映画の主演か人気番組の司会と言ったところだろうか。エディーマーフィーにしても、ロビンウィリアムスにしても元々は地味なピン芸人だった、しかし当時から彼らは独特の視点で世の中を分析しそれらを笑いにしている。

以下のビデオはスタンドアップコメディーと呼ばれる類であるが、エディーは家族の話、ロビンは政治の風刺と、彼ら自身の個性で笑いを出している。これらは嫌味もない後味の良い軽い笑いが取れる、しかしながらエディーの話は随所にFワード、要するに極めて下品なフレーズ(ふぁっく)を言うが、これはある種のインテリ層には受け入れられない耳障りな語句である。
しかしロビンの話は、インテリに大いに受け入れられる政治を馬鹿にしたトークで同じインテリ白人層の笑いを取るが、おそらく黒人にはそんなに面白いモノではないかもしれない。私にしてみればエディーのトークは日常感があり面白いが、実際アメリカで暮らした経験が無ければ相当理解に苦しむ。
このようにアメリカの笑いは見る側であるお客の育った環境と、肌の色も芸人の人気を左右しているのが特徴だが、肌の色に関しては最近では抵抗は無くなってきていて、黒人でも面白く、時に自虐的な話は人種に関係なく大いに受け入れられる。

以下は、二人の当時人気真っ最中のトークであるが、故ロビン・ウィリアムスを悔やむ。

//www.youtube-nocookie.com/embed/8yOWjkAxrwE
この後彼は売れに売れる。

//www.youtube-nocookie.com/embed/KW2jSLuHlz4
ロビンの芸は品があり、後味が良かった。

//www.youtube-nocookie.com/embed/upEBdKFGlPg
非常にわかりやすい英国のスキット(コント)
日本のコントは元来英国のスキットの影響があるようにも見える。

//www.youtube-nocookie.com/embed/4Hb6TCuQtq0
ビルコスビーは大御所芸人だ、彼の芸はアメリカのお笑いの神髄を見ることができる。
題は、『酒に酔い一番いい時』とでも言うべきか。
酒を飲んだシーンを再現しているが、結局酒に酔って一番いいことは『ゲロをする時』なんだと言って笑いを取っている。古いビデオだがスタンドアップから一人コントにわたる素晴らしい芸だろう。

日本のお笑い芸人も浅く広く一番売れることばかり気にしないで、尻を叩いたり頭を叩いたり下品にならず、もっと芸に深く高度な笑いを極めてほしいものだ。

『じゃんけん』で500万円の世界

私は出費が少なく楽しめる一番シンプルな趣味は何かと長年考えてきた。
趣味にも色々と金を使い、今では結局趣味と言える趣味は私自身持っていない。
いや、そうゆうよりことより、人はただ食べて寝るだけでいいだろう。遥か昔の原始時代には人は狩りをして食べて枯草をひいた床に寝る。時折夕日の美しさに感動したり、新しい美味い食べ物に興奮したり、お気に入りの弓矢の手入れをしたり新しい剣先を削ったりと、今の時代のように複雑で疲れる実益のないことに膨大な時間を費やすことすらなかったかもしれない。
実際、今でもブラジルの奥地やパプアニューギニアの奥地に行けばそんな暮らしをしている部族もいる。しかし突然近代文明の道具や衣類、履物が彼らにもたらされると同時に病気が増えるらしい、なぜだろうか。

私の子供時代、田舎の少年の暮らしは非常にシンプルであった。めんこにかくれんぼ、鬼ごっこ。とにかく金がかからず皆で楽しめることを選んだものだが、それも任天堂やエポックのゲームで時代は変わった。
田舎では『じゃんけん』も工夫して色んな呼び名で遊ばれたものだ。
さて、話したいことは、アメリカではじゃんけんに勝てば500万円の賞金が出る競技大会がある、しかしながらこの競技じゃんけんは手のひらに乗せて行う、要するに『嘘出し』が出来ないように考えられたものである。
多くの大人がスポンサーの提供するビールを片手に、真剣にじゃんけんをする。
嘘のような世界だが、これで勝てば大金を手にできる。しかしながら、当然じゃんけんのために体を鍛える必要はない。
いっそのこと戦争を起こす代わりに国の代表者を呼び集め、盛大な『世界じゃんけん平和大会』でも国連でやるべきだろう。
ロック・ペーパー・シザーズとは石・紙・はさみである。

//www.youtube-nocookie.com/embed/hRIXXCe0Hi0

//www.youtube-nocookie.com/embed/O2YFtSYDfiM

世界じゃんけん連盟
http://worldrps.com/

中年オヤジの限りない勉強の毎日。。。

9月が始めり私は大学のバイオロジークラスに籍を置いている。本当に終了できるか心配で連日夜半まで勉強している。昔日本語で学んだのだが英語となると3倍は苦しい、難しいというよりも苦しいと表現する方が良いだろう。
仕事も新規のカスタマーは受け付けられないだろう、残念だが今は仕事よりも学業である。
この後も勉強であるが、さすがに眠い。

真の民主主義は地上からいかなる王もいなくなり、そして始まるだろう。

このような話は『グーグル』のブロガーではできなかった、それはなぜか消されてしまうからである。
私はアメリカという民主主義・資本主義の暮らしに10年費やしてきた、しかしいま感じるのはこの国は大きな『イギリス』である。
むかしイギリスから独立しその発端にはティーパーティー事件が起きたが、長年イギリスの税搾取に苦しんできた。
しかし、そんなことがあろうともこのアメリカという国はいまだ完璧なイギリス寄りである。大統領就任後一番に報告に行くのはイギリス連邦の首相である。
アメリカという国は英国王室を尊重しフランスやイタリアのように下世話な王室ゴシップにも反応しない、一番の例は皇太子妃であるキャサリン妃のゴシップはほとんど出回らないということだろう。アメリカは彼女の味方であるが、ヨーロッパのパパラッチは競うように彼女をネタにして笑う。イギリスの悪口を全く言わないアメリカはアメリカ寄りと考えたが、実はそうではなくこの国自体が今でもイギリスの植民地とさえ言えるだろう、いわば大きなイギリスの穀物畑か前庭であろう。
人種差別の激しいアメリカではあるが、もしも白人だけになっても人種主義は必ず起きると断言できる、そして白人の中でも断然優位にあるのが『イギリス人』あるいはイギリス系であるのは言うまでもない。結局差別は肌の色の統一では無くならないのである。
今の英国王室が近代・現代世界に与えた影響は計り知れない、世界の多くの諸島を植民地化しイギリスを叩き込んできた、オーストラリアにしろカナダにしろ原住民を奥へ押し込み、我が物顔で多くの未開地をイギリス化してきた、これは承知の事実である。
現に世界地図の孤島を調べてみればわかるが、その多くはイギリス連邦に属している、要は戦争が起きれば要塞になるのである
私はこの世界の国々に王が居ることは重要なのだろうかと移住以来、王の居ないアメリカで考えさせられた。
そして、象徴としての王であっても最終的にはそれすら要らないと断言できる。象徴としての王室や皇室であってもそこには権威と威厳が隠れているのは言うまでもない、象徴としての存在は玉虫色の主張であろう。いざとなれば角を表すのは誰もが知っていることで、何かに従属したがる一般市民は王を立てることに誇りさえ感じるのが人の常だ。
当然この世界を支配している、あるいは支配しようとしている権力者もいるが、最終的にはそれらの王にはいまだ歯向かえないのが今の時代の事実だろう。

アメリカ流、家で行う虫歯の治し方

私は歯が悪い、留学前も渡米前も一番の心配は文化や習慣ではなく、歯のことだった。
治療が受けられるか、問題が起きたらどうするべきか、等々。
この治し方は非常に簡単であるがゆえに、本当にそれで治るのかとさえ感じるところだ。
朝起きたとき一番にこれを行う、でなければ効果が無い。
純正ココナツオイルをテーブルスプーン一杯口に含み、20分グチュグチュする。
これにより口内炎・歯槽膿漏・虫歯などの口腔関係の疾病が改善する。
しかし虫歯は既にダメージがあるので虫歯菌がオイルで払拭された後は穴だけが残るといった具合だ。
ごま油、ひまわり油でも効果があるようだが、ココナツオイルオイルが効果的らしい。
抜歯後、私はこれでかなりの回復を味わった。
ぜひ試して頂きたいものだ。

古ホテルの泡風呂で大いに病にかかる

IMG_1807.jpg

あなたはアメリカに普及している泡風呂である『ジャグジー』あるいは『ホットバス』なるものを体験したことがあるだろうか。
私は5月の末にサウスダコタ州へ訪れ古ぼけたホテルのジャグジーを使った。実はこの泡ぶろを使うために25ドル(約2700円)ほど払ったのだ。当然元を取らなくてはならないという貧乏性な考えと、久しぶりに孤独を満喫しながら、30分、45分、1時間と泡風呂を夕焼けと川の音を聞きながら満喫したものだった。
しかし部屋に帰り、その晩寝ようとすると左奥の喉に何か小さな物質が付着しているような感覚に襲われ、私は女房が勧める小さな薬草のジェルタブレットのようなものを飲んで、少し喉が楽になったのを確認し再び床に就いた。
しかし大きな変化が起きたのは次の日からで、絶え間ないのどの痛みと、呑み込む時の違和感。私は悪い腫瘍でもまたできたかのではないかとも感じたが、そのままコロラドに戻り仕事に復帰してからも数週間、一か月と、自分で漢方を作ったり、リステリンでうがいしたりと様子を診ていたが、これはおかしいと気付き始めた、なぜなら熱も出ず風邪の症状も、鼻水もくしゃみも出ない、ただのどが痛く、症状が出たり収まったりという状態が2か月ほど続き、アレルギーかとも感じたがどうやら何かの細菌にでも襲われたような症状が出始めた、それは下痢である。
ほぼ、おおよその検討はついていたのだが、結局自分のかかりつけクリニックで女医に会い説明するとその予感は当たっており、大まかな旅行からの経緯を話すとやはり自分の喉はバクテリアに感染されている、との回答だ。原因はズバリ泡風呂のフィルターを通じた蒸気。そういえばホテルの女主人は『ジャグジーのお湯は毎回取り替えてるから』と念押しし、さも誰かが以前文句でも言ったかのような感じだったのを憶えている。私は2700円支払いバクテリアに感染させて頂いたのだった。

結局、抗菌薬と念のためにアレルギー薬も処方され飲み始めたのだが、2クールで何とか決着がついたようである。漢方薬では極めて時間がかかる治療も、最新の薬で治すことが時には大切なのだろうか、アメリカでは。全く悔しい5月の末から8月7日までという期間だったが、実に学ばせて頂いた次第だ。

 

アメリカの大学での読み書きクラスはどうゆうものか?

大学入学の本科コース編入前クラスのようなものを学んでいたが、それも今週終わった。日本の大学には無いシステムであるので説明が難しいが、とにかく基本の英語のクラスや代数学、ライティングクラスの全てが終了したわけだ、これで自分の好きな大学へ編入もできる。もちろんスタンフォード・ケンブリッジなどはまた話が変わる。私は続けてこの大学の本科でまだいろいろと学ぶだろう。今の私の生き甲斐は仕事と勉強ともいえるが、これも脳腫瘍のリハビリともいえるだろうか、とにかく多くの感情や思い出を記憶する能力を失った。
さて、今回の最後のクラスで出された問題をここへコピーして、一体アメリカの田舎の小さな大学でどのようなものを学ぶかを残しておきたい。

以下の文を読み、相当する答えを選ぶような類のものだ。
興味があれば答えていただきたい。

タイトル On a Hill Far Away  著者 Annie Dillard

In Virginia, late one January afternoon while I had a leg of lamb in the oven, I took a short walk. The idea was to exercise my limbs and rest my mind, but these things rarely work out as I plan. It was sunset by the time I crossed Tinker Creek by hopping from stone to stone and inching up a fallen tree trunk to the bank. On the far side of the creek I followed a barbed-wire fence through steers’ pasture and up to a high grassy hill. I’d never been there before. From the hill the distant creek looked still and loaded with sky. On the hilltop, just across the barbed-wire fence, were three outbuildings: a fenced horse barn, around which a dun mare and a new foal were nervously clattering; a cyclone-fenced dog pen with a barking shepherd and a barking bird dog; and a frame toolshed under whose weedy eaves a little boy was pretending to write with a stone. The little boy didn’t see me. He looked to be about eight, thin, wearing a brown corduroy jacket with darker brown pile on the collar and a matching beaked corduroy cap with big earflaps. He alternated between pretending to write big letters on the toolshed wall and fooling with the dogs from outside their pen. The dogs were going crazy at their fence because of me, and I wondered why the boy didn’t turn around; he must be too little to know much about dogs. When he did see me, by accident, his eyebrows shot up. I smiled and hollered and he came over to the barbed wire. We watched the horses. “How old’s the foal?” I asked him. The golden foal looked like a test model in a patent office–jerky, its eyes not set quite right, a marvel. It ran to keep from falling. ”That one is just one. You’d have to say he was one. . . .” Boy, I thought. I sure don’t know anything about horses. “…he was just born six days ago.” The foal wanted to approach. Every time it looked at us, the mare ran interference and edged the foal away.
The boy and I talked over the barbed wire. The dogs’ names were Barney and Duke. “Luke?” I said. The boy was shocked. “Duke,” he said. He was formal and articulate; he spoke in whole sentences, choosing his words. “I haven’t yet settled on a name for the foal, although Father says he is mine.” When he spoke this way, he gazed up at me through meeting eyebrows. His dark lips made a projecting circle. He looked like a nineteenth-century cartoon of an Earnest Child. This kid is a fraud, I thought. Who calls his father “Father”? But at other times his face would loosen; I could see then that the accustomed gesture of his lips resembled that of a person trying not to cry. Or he would smile, or look away shyly, like now: “Actually, I’ve been considering the name Marky Sparky.” “Marky Sparky,” I repeated, with as much warmth as I could muster. The sun was down. What was I doing chatting with a little kid? Wasn’t there something I should be reading? Then he paused. He looked miserably at his shoetops, and I looked at his brown corduroy cap. Suddenly the cap lifted, and the little face said in a rush, “Do you know the Lord as your personal savior?” “Not only that,” I said, “I know your mother.” It all came together. She had asked me the same question. Until then I had not connected this land, these horses, and this little boy with the woman in the big house at the top of the hill, the house I’d approached from the other direction, to ask permission to walk the land. That was about a year ago. There had been a very long drive-way from the highway on the other side of the hill. The driveway made a circle in front of the house, and in the circle stood an eight-foot aluminum cross with a sign underneath it reading CHRIST THE LORD IS OUR SALVATION. Spotlights in the circle’s honeysuckle were trained up at the cross and the sign. I rang the bell. The woman was very nervous. She was dark, pretty, hard, with the same trembling lashes as the boy. She wore a black dress and one brush roller in the front of her hair. She did not ask me in.
My explanation of myself confused her, but she gave permission. Yes, I could walk their property. (She did not add, as others have, “But I don’t want no kids in here roughhousing.”) She did not let me go; she was worried about something else. She worked her hands. I waited on the other side of the screen door until she came out with it: “Do you know the Lord as your personal savior?” My heart went out to her. No wonder she had been so nervous. She must have to ask this of everyone, absolutely everyone, she meets. That is Christian witness. It makes sense, given its premises. I wanted to make her as happy as possible, reward her courage, and run. She was stunned that I knew the Lord, and clearly uncertain whether we were referring to the same third party. But she had done her bit, bumped over the hump, and now she could relax. She told me about her church, her face brightening. She was part of the Reverend Jerry Falwell’s congregation. He is the powerful evangelist in Lynchburg, Virginia, who has recently taken to politics. She drove, I inferred, 12.0 miles round trip to go to church. While I waited behind the screen door she fetched pamphlets, each a different color. I thanked her kindly; I read them later. The one on the Holy Spirit I thought was good. So this was her son. She had done a good job. He was a nice little kid. He was glad now his required speech was over; he was glad that I was talking easily, telling about meeting his mother. That I had met her seemed to authenticate me to him and dissolve some wariness. The wind that follows sunset was blowing from the western ridge, across our hill and down. There had been ice in the creek. The boy moved closer to the barbed-wire fence; he jammed his fists in his pockets. Whenever I smiled or laughed he looked at me disbelieving, and lifted his eyes from beneath his cap’s bill again and again to my face. He never played at the creek, he said. Because he might be down there, and Father might come home not knowing he was there, and let all the horses out, and the horses would trample him. I had noticed that he quailed whenever the mare in her pen jerked his way. Also there were snakes down there–water moccasins, he said. He seemed tired, old even, weary with longings, solemn. Caution passes for wisdom around here, and this kid knew all the pitfalls. In fact, there are no water moccasins this far north, except out on the coast, but there are some copperheads; I let it go. ”They won’t hurt you,” I said. “I play at the creek,” I said. “Lots.” How old are you? Eight? Nine? How could you not play at the creek? Or: Why am I trying to force this child to play at the creek? What do I do there alone that he’d want to do? What do I do there at all? The distant creek looked like ice from the hill, lightless and unmoving. The bare branches of sycamores on its banks met soundlessly. When was spring coming? The sky was purpling. Why would anyone in his right mind play at the creek? “You’re cold,” I said to the boy. His lips were blue. He tried to keep his corduroy sh
oulders against his bare neck. He pretended not to hear. “I have to go,” I said. “Do you know how to catch a fish when you haven’t got a rod, or a line, or a hook?” He was smiling, warming up for a little dialect, being a kid in a book. He must read a lot. “First, you get you a stick. . . .” He explained what sort of stick. “Then you pull you a thread of honeysuckle. . . and if you need you a hook . . .” We talked about fishing. “I’ve got a roast in the oven,” I said. “I’ve got to go.” He had to go too; Father would be home, and the boy had to set the table for dinner. His mother was fasting. I said so long, so long, and turned. He called, “One more thing!” I looked back; he hesitated a second and began loudly, “Did you ever step on a big old snake?” All right, then. I thanked God for the sisters and friends I had had when I was little; I have not been lonely yet, but it could come at any time. I pulled my jacket collar up as high as I could. He described stepping on the snake; he rolled his eyes and tried to stir me. “I felt it just . . . move under my foot. It was so . . .slimy. . . .” I bided my time. His teeth were chattering. “We were walking through the field beneath the cemetery. I called, ‘Wait, Father, wait!’ I couldn’t lift my foot.” I wondered what they let him read; he spoke in prose, like le bourgeois gentilhomme. “Gee,” I kept saying, “you must have been scared.” ”Well, I was about knee-deep in honeysuckle.” Oh! That was different. Probably he really had stepped on a snake. I would have been plenty scared myself, knee-deep in honeysuckle, but there was no way now to respond to his story all over again, identically but sincerely. Still, it was time to go. It was dark. The mare had nosed her golden foal into the barn. The creek below held a frail color still, the memory of a light that hadn’t yet been snuffed. We parted sadly, over the barbed-wire fence. The boy lowered his enormous, lighted eyes, lifted his shoulders, and went into a classic trudge. He had tried again to keep me there. But I simply had to go. It was dark, it was cold, and I had a roast in the oven, lamb, and I don’t like it too well done.

Dillard states that she wanted to “…exercise her limbs…”In this context, limbs mean:

1.abilities 2.muscles 3.body 4.legs

In Dillard’s essay, she mentions seeing a “foal”. A foal isa/an:

1.sicklyanimal 2.younghorse 3.younganimal 4.oldhorse

Dillard describes the foal as “jerky”. In this context, jerkymeans:

1.shaky 2.rude 3.lumpy 4.sleepy

The woman whom Dillard talks to says, “But I don’t want nokids in here roughhousing.” In this context, roughhousing means:

1.littering 2.loitering 3.beingsilly 4.noisyor rowdy playing

Dillard states that the little boy’s teeth were “chattering.”This means:

1.theboy’s teeth were hurting 2.theboy was getting sick 3.theboy was cold 4.theboy was talking too much

注意深くこの言葉がある周りの文章を読めば、言葉自体の意味は分からなくても何を指しているのかが分かる、それが答えである。

ひとり一人が『テーマ』を持ち『発信』しなければならない

人は生まれて、いつの日か死ぬものだ。70年、82年、あるいは24年と生きたなら後は死ぬだけだ。何もしなくても時間さえ過ぎればそうなる。これは寿命というものだろう。
しかし、たとえ人生が短くとも、ひとり一人が自分のテーマを持ちそれを発信し続けることが大切だ。凡人でも、有名であっても、並みの会社員でもプロでも、自身が何かテーマを持ち生きるということは、この人生を味わう上で極めて大切だろう。
あなたのテーマはどうやって無農薬でおいしい果物を作るか、あるいは新世代の新しい乗り物、反人種差別、究極の人間の住まい、熱帯病原菌の予防と根絶、あるいは究極の音楽など、戦争を始める国の指導者の心理の原因を突き止めてそれをどうして無くせるかなど、キリがないが人として知能のある生き物として、自分ならば何ができるか考えて一生それに費やして生きるもの悪くない。給料が、家族が、独身だなどと屁理屈はいい、これから始めるだけだろう。

男性の更年期障害は想像よりも辛い。。。

男性の更年期障害。これは別に50代から始まるなどという年齢的な決まりはなく、早い男性であれば40代中盤でもあり得る。
男性は女性と違い、初潮や妊娠、出産そして閉経などの大きな体の変化をあまり感じない、精通でも自分は気づかないまま朝起きてみてわかる思春期の男性もいるだろう。
男の更年期障害(以下更障)は大抵の場合、一時期的な仕事の疲れ、飲みすぎ、慢性疲労などと勘違いする場合が多い。しかしその特有の症状を感じたならば男性の更障と自覚するべきだろう。それらは気分のムラ、軽いうつ、頭がカーッっと暑くなり急にのぼせたようになる、とにかく夕方ごろになるとだるくて立っていられない、しばらく横になっても辛く、そのまま夜にならないかと感じる。そして食欲も性欲もなんとなく枯れた感じがして、今まで街で見かける女性を見て『奇麗な人だな』と感じていたが全くそのような気すら起きない。いままで好きだった趣味も遊びも、自分が面白いと感じていたことすら全く興味がなくなる、とにかく体を動かしたくないと強く感じ、そして自分は精神疾患があるのか、それとも肝臓か脳でも悪いかと思うようになる、しかしそれはほぼ間違いなく『更障』だ。原因は単なるホルモン分泌の変化、中医学的には『気』の流れが悪くなり、それでまた『血』も減っただけだ。

このような場合一番大切なのは、『自分の体の年齢がややそのような時季になった』と客観的に感じることが大切である、どうにかしてすぐに元に戻りたいなどと焦ることは逆に自分を追い詰めることになるだろう。ゆっくりとまるで柳の枝が風に揺られるように、なびくことが大切だろう。戦国時代の男性平均年齢は50歳以下なのだから。
さて、しかしながらこのまま中年から老年になるわけではない、正直言うが『回復』するのである。
軽い運動たとえばウォーキングで汗を流し、漢方を服用すれば約半年でほとんどの障がいはクリアーできる。
実際著者自身ですら経験した苦い思い出だ。

あなたが日本で暮らしている場合はパック入りの『加味逍遥散』というのもを飲めば良い、しかしこの薬は男性の更障用に処方されていないと注意書きを見て感じるだろうが生薬は男性の更障問題をカバーしている、ただ日本のメーカーは応用を知らないだけだ。(おそらく日本では女性用かもしれない)
しかし一番効くものは『黒逍遥散』というものであるが、これは加味よりも強く当然生薬を配合し調剤しなければ出来上がるものではない。しかし心配はない、加味逍遥散を二倍の量で3か月もすれば自分の気づいていない頃に『ギンギン』になるだろう。
因みに黒逍遥散には地黄(根)という生薬が含まれていて、酒に漬けて加工した熟地黄、或いはただ乾燥させた生地黄のどちらを使っても構わない。黒も加味も基本は逍遥散という処方名である、加味は味を加えてということで約二種類の生薬が加わっている。
どうしても黒逍遥散を試したければ私のホームページを参照していただきたい。

金のため、大いに手術を勧めるアメリカの整形医

アメリカの整形医の話をしたい。

彼女は私の顧客であるが、数年前に膝関節の置換手術を行った。これは私も仕方がないと決断したものだが、案の定術後は成功したにもかかわらず独特の違和感が拭えないままである。置換手術をすれば金具が入っているような変な感じはどうしても残り、これなら以前のままが良かったのではないかと思う患者さんも多い。

この手術を行ったアメリカの医者は得意げになって、今度は反対側の膝を行おうということになったが、今回ばかりは私の患者も首を縦には振らず、様子を見たいということにした。

しばらくして彼女は五十肩を患い始め、またそのアメリカの整形外科医師に会ったところ、これはもう肩関節の置換手術しかないということで、早速手術の日取りを決めようということになった、彼女は私にその一連の話を私してくれて、当然手術なしで推拿で温存治療しようということになった、五十肩は推拿を行えば半年で改善される、週2回の施術を一ヶ月その後週一回の施術を5ヶ月もすれば本当に十分改善されるのである。また針灸は運動範囲の改善を行わないために痛みは除けても、肩関節を自分で伸ばしたり、回したりしなければ予後が悪い、確かに肩三針で灸頭をなどを行えば3ヶ月ほどで痛みは改善する、私も上海時代に行っていた、しかし依然として肩が挙がらないのである。


結局、彼女も手術は拒否することにした、もう置換手術はこりごりであるといった感じであはあるが、このようにアメリカの医師はとにかく手術を勧める、それには確かな理由がありアメリカの医師の報酬は点数制であり何かをするごとに点数が入る、例えは診察で数点、手術で数点という具合にだが、当然手術になれば点数は高く、当然手術をすれば給料に上乗せされるので、こればかりは願ったり叶ったりといえよう。

基本的にアメリカの整形医は温存療法というのを行わず(知識が無いのか)、痛みがあれば鎮痛剤を処方し痛みが続けば何か手術法はないかと模索し始める。

このような状況では車椅子や歩行器を使う高齢者がどんどん増え、自立した生活を望むことさえ時として不可能になる。医者の勧めで障がい者になるとはどういうことだろうか、怒りさえ感じる。

特に問題なのは高齢者でもないのに手術を勧め、術後は回復したように見えても数年後に装着した骨をつなぐ金具の問題などで、ジョギングさえも出来なくなる30代、40代の働き盛りの人たちが多すぎる。

以下に私が今まで見てきて安易な手術によって特に後遺症で患っている疾患名を挙げたい。


  • 腰椎/頚椎ヘルニア
  • 腰椎スベリ症
  • 膝関節痛
  • 五十肩
  • ローテーターカフ(回旋筋腱板の炎症)


これらの疾患は手術に走らず、まず刺激を加える温存治療を試みる必要がある。

特に五十肩は何もしなくとも2-3年で自然治癒するものだが、痛みがあって肩が挙がらないとなれば、これはどうしようとパニックになるので安易に手術を選択してしまうものだ。


腱を切るなどのアクシデントもスポーツ選手でなければ、いや、そうだとしても、少しで繋がっていればその箇所から修復されるので固定して安静にしていれば、腱はまた少しずつ元の大きさになる、しかしこれは損傷時かなりの傷みもあるので忍耐が要るが、完全でない筋や腱断裂でなければ、自然治癒力で見事に回復する。

また完全断裂でも筋同士が触れていればそこからつながるので、時間はかかるが温存治療を勧める。


刺激を加えれば運動器疾患は治癒するものが非常に多い。







漢方:恥骨の辺りに嫌な痛みがあり、夜中もそれで起きる。(軽い膀胱炎)

漢方というと日本ではほとんどは小さなパックに入った既に調剤済みされたものを指すが、実際(中国)は個人に合った生薬を何種類か配合することが漢方処方であり、これでそれぞれの個人の『証』に合わせることができるのである、しかしおおよそはベースの方剤がありこれを元にアレンジすることが多い、たとえば葛根湯に数種類の生薬を足したりあるいは葛根湯の中からいくつかの生薬を除くなどする。


今回の話は八正散(著者自身の例)

しばらく前、私は下腹部が痛く恥骨の辺りが刺すようにシクシクと唸る感じであった、あの独特の嫌な痛みだ。

自分は季節の変わり目に免疫力・抵抗力が減っていろんな症状が起きるのであるが、しばらく経ちその痛みは膀胱あたりから背中まで痛み出した、はじめは単なる何かの炎症と感じていて放っておけば良くなるだろうと感じていたが、一週間過ぎたころから座ることも立つことも困難になり、陰茎の先まで痛み出した、しかし自分では検査もしていないためにはっきりとした西洋医学的な原因も判らず私は自分の『証』のみで漢方処方することにした、私の舌(苔の色や脈、そのほかの倦怠感などの症状を診て自分は『湿』と『熱』の症状、要するに『湿熱内盛』の証がありこれらの症状を取り除くためには清熱下注、利水通淋しなければならない。まぁ軽い膀胱炎のたぐいだろう。


そこで今回は車前子、木通、滑石などの湿熱通淋を取り除く生薬と大黄や甘草などの下熱や中和薬もブレンドすることになる、これは八正散の配合がベースであるが証に合わせてまたいくつか足すのである、結局今回は合計8種類の生薬を混ぜ合わせた。

今風に言えば、この漢方は膀胱炎、前立腺炎、尿道炎、秘尿系結石や腎孟炎などの症状を取り除く効果がある。

これらを粉末にし飲み始めるがはじめの2-3日は何の変化もない、しかし1週間を過ぎたころから痛みは急に減りだす、背中の痛みがはじめに無くなりその後膀胱あたりの痛みが減りだしたと同時に陰茎の痛みに変わり睾丸辺りの痛みが続く、しかし妻の勧めで私はとりあえず病院に行き検査も受けるが尿検査・血液検査とも大きな問題は無いと言われてしまう、じゃこれは何だ。。。

その後も漢方治療を続けその後2-3日で症状はおおよそ改善する、しかしこの手の『湿』の症状は長続きするため抗生物質のようにしばらく漢方を飲み続けなければならない、症状が完全に消えても。


_____生薬内容_____


車前子

木通

滑石

瞿麦

扁蓄

甘草(炙)

大黄

山梔子仁


以上を粉砕機で粉末化し服用する。


小旅行 マウントラッシュモアとクレージーホース、そして

私の趣味は旅行と言いたいものだが、アメリカでは常に飛行機か長時間のドライブとなるために、なかなか出かけること自体が億劫になる。
ましてや6時間以上の運転と途中で宿を探すと考えると、ほとんど一年中を通じ家に閉じこもって仕事することしか考えなくなるものだ。アメリカの中西部の都市はまるでそれが一つ一つの島のようで、その都市に近づくまで草原地帯という、まるで海原を永遠とも言わんばかりにドライブしなくてはならない。

今回5月末のメモリアルデーの休みを通じ、少しだけアメリカと言えるところを車でさすらった。
まずは、サウスダコタ州にあるマウントラッシュモア。ここは誰もが知る名所だが、詳しいことは行ってみなければわからないことが理解できた。
デンバーから車を飛ばし150キロから200キロの速度で、6時間ほどかかる。
この名所は実はアメリカの連邦政府の事業で造られたものであるのだが、事業は途中で終了し『未完』である、しかしそれがまた自然で良い感じだ。
知り合いのインディアン(メチェオ)が言うには、『この大統領達全員あたしたちのことが嫌いなのよ』、ということである。当然ここも昔はインディアンの土地である。


多くの外国人観光客が殺到している。この大きな彫像はアメリカへ来る前から何度も見ているが、それよりも感心したのは、彫像の下に転がっている岩々の間から木が生えていることである、一体どこに土があるのだろうか、生命力に感心する。


この場所の選定はやはり誰かが行ったのだろうが、何も無いただの岩肌に顔を掘るなんて、この事業の気合いに感服する。



このように小さな穴をドリルで開けながら全体の形を作っているわけだ、後でこの小さな穴をダイナマイトで飛ばし修正する。
どんな大きな仕事も実は小さな仕事の積み重ねである、人生も何もかも同じだろう。そう考えると小さな積み重ねが正確にそして大切であることがわかる。
当然ダイナマイトで荒く削ることも数えきれないほど行っている。


大きく掘る前に小さな『ひな形』を作り(3メートルほどの)そのひな形で形を捉えながら彫っていく。右のゴンドラ横に小さく見えるのが模型だ。

人生設計も、やはりひな形を頭の中で考えるか実際に書き出すことは大切だ、おおよそこの年齢で最終的な自分の仕事を定める、この時期で最低でも伴侶を見つけたいなど。まぁしかし予想どおりにいかないこともしばしばだろうが、そんな時は反省しどこに修正が要るか真摯に自問するべきだ。

*************


次は、クレイジーホースと言われるここから約30分ほど山を挟み真西に行ったところにある、インディアンの彫像である。
『クレイジーホース』、あまり聞きなれない名所である(六本木にあった店ではない)。
もともとこの名所は、その昔シカゴで万国博覧会があったときに、新聞でサウスダコタのインディアン酋長がこのサウスダコタの場所にインディアンの彫刻を彫りたいのだが、誰かできる彫刻家はいないかと問い合わせたことがきっかけだった。それを読んだ彫刻家コルチャックが『それじゃ、俺がやる』という具合に始まった。実際この彫刻家はマウントラッシュモアの製作にも参加している。
この白人一家はヨーロッパからの移民で、今もこの一家以外は直接建設には参加しておらず、現在は亡くなった父(彫刻家)に代わり三世代目が主導している。(政府の援助も断った経緯がある)。
当然ではあるが、私もここへ来るまではインディアンが種族を超えて一致団結し彫っているに違いないと思っていてたが、事実は奇である。
しかし、彼らは財団を創設し、短期大学やカルチャセンターをつくり、また博物館の入場料、土産やレストランの収益など全て建設費として賄っている。しかし規模がデカすぎるだろう。
上の画像にもあるように、白ペイントで馬の頭をラフ線で引いているがこれ自体『え、ロバじゃないの?』と思えて仕方がない私くし筆者。決してインディアンを小馬鹿にしているわけではない。
重機もなんだか頼りなく、本当に最後まで使える代物ではないだろう。


完成予想模型は馬に乗っているではないか、ということはこれから馬も彫るわけで、ある。もう、この場で正直思ったことを言わせていただくが。
どこで諦めるの?と主催者にと尋ねたい。既に製作開始から70年以上の月日が流れている。


一方、みやげ物のあるビジターセンターは雰囲気も良く、気合いの入れ方が半端ではない。こんなに良いモノを作ってしまったら、なんだかシラケてしまっているよう
気さえするが、外と比べてちょっとなんだかバランスが悪いのでは。


全体的なこの公園の完成予想模型ではあるが、こちらの彫像は黒い、そして池まで作る気でいる。しかしながら、実際に造り始めたのはまだ数十年しか過ぎていないので、これから大いに期待したいところである。
サウスダコタ州にある『クレイジーホース』をどうか忘れないでほしい。因みにここはブラックヒルズ国立公園内にある。


最後に大きさをジャンボジェット機と比べて頂きたい。ここまで見ると本当にやるしかないと感じるが、問題は重機か、計画性か、なんだろうか。いや、もうどうでもいい感じさえしてきたもの事実だ。おそらく今後100年は有するだろう。
しかしこの大きな『穴』、確かに穴を開けたい気持ちもわかるが計画性というものは存在しないのか?
日本で暇を持て余している若者どもよ、暇ならここへ来て手伝ってあげるべきだ。アメリカでは重機の免許は存在しない。あるいは日立やコマツ、コベルコなどの重機メーカーが最新の優れたユンボを寄付するべきでは?

*************

帰る途中ワイオミング州に差し掛かったところで、妻が『ここからなら、デビルスタワーが近い』と言ったことから,ついでに立ち寄ることにしたのだが、往復で数百キロはある。
私自身ある意味一回でも行けばもうそれでいいだろう、たとえ後で行きたい気持ちが起きても、ただその時振り返るだけでいいと感じたから、今回立ち寄ることにした次第である。
これは映画『未知との遭遇』でUFOが現れる場所で、太古の時代にマグマが冷え固まり出来上がったものである。

大きさの参考に、実際クライミングしている人間と一つ一つの岩の縦すじの大きさを見て頂きたい。

*************

今回のおまけ話。

マウントラッシュモアからクレイジーホースへ行く前に、キーストーンという小さな町で昼食をとったのだが、その場所は昔『大草原の小さな家』の著者であるローラ・インガルスの妹であるキャロラインが中年以降住んでいた人口1000人にも満たない町である。彼女はここで町の新聞出版に従事していたが、実は彼女はこの仕事を依頼されこの街に移り住んだ。
実際最近まで使われていた学校に彼女の展示室があった、しかし実際に展示されているのは写真と身に着けていたモノ。あとは土産物としての本ばかりだった。


この学校は実際に教師が住み込みで暮らしていて、その当時の部屋や自炊の様子などもそのまま時が止まったように、置かれている。



女性教師が一人でこのようなところで暮らすのも大変だったろうが、その当時すべてが大変だったのだろうと、今の時代と比べるとそう感じる。丸い編み込みのカーペットなどは今でもLLビーンのホーム用品を通じ日本でも買えるだろう。因みに名前はブレイド・ウール・ラグ、これはアメリカの伝統だ。


薪ストーブとセットの調理用コンロ、今でもアメリカではガスストーブ・エレクトリックストーブと称され、それは調理用ガスコンロ・電気コンロの意味だ。左からワッフル器(フライ機能付き)コーヒーのパーコレーター、やかん、大きいやかん、そしてアイロンだ。右下は湯沸かし用洗面器。


洗面台であるが、ご存知のように昔はこの洗面器にこのポットの水あるいは沸かしたお湯を注ぎ、洗顔したならその水は捨てて終わり。当時は石鹸など使わないのだ、当然化粧もしていないから。

当時の品々が置かれた棚であるが、ある意味日本人にとっては興味深いアイテムが置かれている。上から三段目の中央に見えるものは、泡立て器であるが、これも基本今の時代のものと形は変わっていない、チーズおろし器も見える。上の段はマッシュポテト用の潰す道具(ジグザグの金具)、小麦粉のふるい器もある。
私が思うに、このような少し時代遅れモノもでも、今でも十分役に立つものばかりで薪のコンロにしろ今の時代の便利さよりも、またいつかこの時代の味のある不自由さの時代に舞い戻る気がしてならない。今の時代は確かに便利だが無駄が多く、電気・ガスが止まってしまえばそれで暮らしの8割の部分は動かなくなるだろう。ならば初めから古い暮らしを丁寧に続けるべきと感じる。しかしエコ発電など最新の技術開発は当然するべきであるが、アメリカ暮らしの新しいものにしか価値を見出さないライフスタイルは脆さが浮
出ていると言いたい。
暮らしの基本の部分は面倒でも古くても良いのではとさえ感じる、たたえば薪ストーブや自転車の活用や自家農園など。また包丁を研ぎ長年使ったり、服が破れても縫い充てる、あるいはシンプルな料理でも不平を言わない、なるべく自分の暮らしは自分で賄うようにする。などほかにも色々あるだろう。


この窓の鍵はこの時代のアメリカの全てを物語っているだろう。今の時代このように意匠された金具はどこを探しても出てこないだろうが、どうして古き良きアメリカは今の時代まで伝承されなかったのだろうかと、悔しさすら感じてならない次第だ。

*************


帰りは結局、デンバーまでの長い道のりは諦め、ワイオミング州のダグラス町で一泊する。今回の走行距離は合計約1640キロだった。
どのくらいスピードが出るか妻の車であるスバルを試したが、時速200キロ以上でも不安定さも恐怖感もなかったのが幸いし、心底疲れなかった。

どこまで行っても道しかないアメリカ中西部の暮らし。そして一年のたった数回の気晴らしの旅でさえ『終わりのないドライブと小さなレストランでの休憩そしてモーテルで体を休めること』の3つだけ考えればどこにでも行ける。要は『仕事、飯、布団』である。

歴史に残るほどの大きな雹(ひょう)が降ってきた

『パッ!』『パシャー』という音を外から聞こえると、『ううぉー!』という近所の男性の声が聞こえた。
バッ、バッ、というけたたましい音はそれが空から急降下してアスファルトの道に叩きつけられる、ゴルフボール大の氷の塊であることが分かった。
昨日は何十年ぶりとも言われるほどの大きな雹が空から落ちてきた。正直このような氷の塊が胸にヒットすれば間違いなく肋骨にヒビが入るだろうし外で遊んでいる幼児にヒットすれば頭蓋骨陥没は間違いない。私は自分の頭の脳腫瘍の跡にこの雹が命中すれば簡単にけいれんを起こし死ぬだろうととっさに感じ、庭にとまっている自分の車のフロントガラスに毛布を乗せることを諦めてしまった。
私の住んでいる地区は雹の被害が多いと言われてきたところだが、実際お目にかかるのはここに住んでいる人間でも久しぶりらしい。
私が住んでいるこの家は古いために外壁に80年前の木材が使われていて頑丈だが、最新の外壁は硬化プラスティック製で穴が開いてしまう様だが、幸いこの家はペンキが少しはがれた程度である、こう考えると全ての新しいモノが必ずしも良い訳ではない。
隣の家はよく手入れをしていて、今も台所を改築中だそうだがその増築した屋根の部分も雹で凹んでしまったとのこと、二年前は地下の冠水とおそらく多くの出費があるだろうが気の毒としか言いようがないが、保険がカバーできることを願う次第だ。
斜め向かいの電気工事自営業者の新しい仕事用のバンの窓が割れて、おまけに家の窓も二枚割れたらしい。最近その仕事用の車を入れ替えたばかりだが本当に踏んだり蹴ったりだ、雹の降り出しと共にわめいていたのはそこに住む『ジェイソン』だったようだ、可哀そうに。
このジェイソンは若い女性と同棲をしている、この彼女と一度だけ近くで挨拶を交わしたことがあるが彼女の唇のピアスの量は決して忘れないだろう。今もまだ食べ放題レストランのウエイトレスとして働いているのだろうか。。。

実際、私の家も窓枠がへこみ、いや、実際そのぐらいの損傷であったが、昨年末に買ったトヨタのフロントガラスは無茶苦茶になってしまったが、このまましばらく乗るだろう、なぜならすでに買った時点で大きく割れていて特に気にしなかったからである、またフロントグラス屋は混んでいるだろうから。アメリカでは自動車修理屋はフロントグラスの修理をせず、ガラスは専門のガラス屋に頼むしかない、フロントグラスはアメリカでは消耗品なのである。
しかし、まぁ考えてみれば良い点もあり、これによってどのブランドの車のボンネットが丈夫かというのがわかる、幸い私のボロと隣のトヨタタコマトラックは凹んだのは2,3か所だったが、隣の奥さんが使っているホンダCR-Vはかなりへこんでいる。想像した通りだった、しかし衝突時の安全性とボンネットの厚さは比例していないことは理解しておくべきだろう。
アメ車(実際はメキシコ製)の損傷は窓も含め本当にひどいもので、フロンドグラスは粉々であった、また日本の某メーカーの車はホンダよりも損傷がひどいのだがあえてメーカー名は伏せたいものだ。

Lサイズ玉子と同じような大きさだが、隣の地区ではテニスボール
だったようである、被害はもっと大きいだろうか

雹というのは雪合戦で丸めた雪の塊であると信じていたが実際はかちんかちんの氷で
これを2、3個タンブラーグラスに入れて何か体が温かくなる飲み物を注ぎ
レーズンバターでもつまめばそれも乙だろう 
しかし私はもう酒をやらない

金属バットで叩かなければできない凹みだろう
車に関しても自身が好きな車を買ったわけではなく
家の改修工事で建材を運ぶためにミニバンを買っただけだ
しかしトヨタは一番嫌いなメーカーだがこれは丈夫だ
私が欲しいのは1978 Buick skylark辺りか

外に出ていた掃除道具も使えないが、よくここまで命中したものだ

家に関しては、感覚的に言えば私自身もうどうでもいい感じだ
私は自宅で治療院をしているため、外壁は白色が欲しい

可哀そうなお隣様 しかし保険でカバーできるだろう

実録!アメリカの精子採取

『どうしても、もう一人だけでいいから子供がほしいわ、あんた』。。。
青い目の妻にせがまれて本格的な『妊活』というものを昨年から始めている、しかし妻も私も中年ど真ん中になってしまった。

アメリカでは基本子供ができるかどうかのテストは夫婦で行う。初めに妻がレディースクリニックでそれ相当の女性の検査を受けたのだが、残念ながら多少の問題があり妻の結果は良好とは言えなかった、そして次は私の番である。妻の行くクリニックは女性専用だが当然男性パートナーの検査も可能である。

まぁ、とにかく話をすすめよう。
そのレディースクリニックは市内に何か所かオフィスがあるが、実際精子採取をして数を調べるのはその中でも2か所だけであった。私は自宅近くのクリニックへ電話をしたのだが、残念ながら予約が一杯で数週間先まで詰まっていると言う、昨今は本当に精子を数えるのに皆忙しいようだ。あえなくもう一か所郊外のクリニックへ問い合わせたが、ここは空きがあり私は予約を入れた次第だ。
昨年の寒い師走の火曜日に私は40分ほどハイウェーを飛ばしクリニックへ到着したのだがやはりここへ来る前、要するに昨日の夜は本当に色々なことをベットの中で想像してしまった。
やはり精子採取は自分でやらなくてはならないのか?、サービスの良いアメリカだからもしかして看護婦が手伝うのか?手伝うとしたら若いのか?いや、そうでなくておばちゃんか?、人種は白人かヒスパニックかそれともアフリカンなのか、それともアジア系か?、いやそうではなく実際手伝ってくれるのはまさか男性では?もしそうなら若いのか中年なのか?、いやいや、そればかりは自分的には許されない世界だ、私はそっちの世界の住人ではないから。いずれにせよキリスト教徒の自分はクリニックから助けの申し出があっても全て断るべきだ、などなど。。。選択肢の多いアメリカ、考えに考えてクリニックへ来るまでに頭の中の想像だけで疲れ果ててしまった。おまけに車から出るとき駐車場のアスファルト上の圧縮された氷のような雪で滑ってしまい、クリニックへ入る前に心身ともにかなり動揺してしまった。

受付嬢にID(車の免許)と名前を告げると、入り口のソファーに座り私は待っていた、隣の男性は既に『終わった』ようで軽い挨拶を受付譲と交わすと、そそくさと出て行ってしまった。精子を摂取されてソファーに座り軽い挨拶と笑顔で出て行った中年白人男性は実にさわやかだったのだが、自分には後でそんな『さわやか』は決して生まれないだろうと自問自答した。おそらく肩で息をしながら疲労こんぱいしていることだろう、挨拶を交わす気力も笑顔も無いだろうと思っていると、急に名前を呼ばれて廊下を進み小部屋の前でカップを蓋つきの渡されて説明を受けた。私は緊張と同時にその案内をしてくれた看護服の若い女性の目ばかり見てしまい全く説明を聞いていなかった。私はここまで来るのにいろいろと想像するべきではなかったのだろう。
私はそのカップを手にもって案内された部屋に入ると、彼女は大きなドアを自分で閉めて出て行ってしまった、ある意味私は安心した。
やはり一人で作業するしかなんだな。そう思うとなぜか急に妻の顔を想像してしまい、さっき説明をしてくれた小奇麗な女性のことはどこかに行ってしまった。どうしてここで女房の顔が出てくるんだ。。。

しかし寒い寒すぎる、この部屋はとにかく寒い。
床にはカーペットもなく無造作に置かれた革張りのソファーは高級であるが座るには冷たすぎる。壁には注意書きがあるがそれに目を通すと『自身のモノを触ったら、その後はソファーやテレビまたビデオを決して触らないでください』と書いてある。また『モノをこぼしたときは必ず自分でふき取ってください』、『こぼしてしまったときは出初めか終了時点間際かをはっきりカップにしるしとして記入すること』とも書いてある。考えてみればそんなに初めのモノと終わりのモノとには差があるのだろうか、最初のモノにしか精子の集合体は含まれていないのかなどと考えてみたのだが、そうやって考えるだけで時間が過ぎてしまいかれこれ事を始める前に多くの時間を使ってしまった。おそらく検査員の女性たちもこのアジア人は一体何分かかっているの?などと考えいるのではと思ったとたんに、私の自身は完全に委縮してしまった。
しかしこの部屋は寒く、私の手は凍ったように冷たい。周りを見渡せばお約束のようにビデオデッキ(DVD)と雑誌類が整頓されている。私はタイトルだけ眺めるがなんと色あせた古いDVDだろうか、これらはまるで80年代かと感じたが外の雪景色を見ると再びその寒々しいコロラドの風景に委縮してしまい、これでは精子採取どころかどこかで暖を取らせて頂きたいほどだ。それよりも中から外が見えるということはこの部屋自体も外からも見えるのではないのだろうかと考えると、完全に私の自身は委縮してしまったのは言うまでもない。しかし時間も迫っていることであるから、私はその凍り付いた手で気合を入れて仕方なく早々と用を済ませた。事を終えたと同時に背中に寒気が走り、私の体内から少なからずの体温が逃げて行ったことを簡単に察知できた。
おそらく、結論から言えば確実に私は不合格だろうと感じていた、そして私も何らかの不妊治療をすることになるのだろうと感じていたが、当然私は自分で漢方を処方し回復したことを証明すればそれはそれで良い宣伝になるのではと感じ、積極的にすべてを前向きに考えていた。誰もこの寒々しい部屋と自分の状況から『良い知らせ』は期待できないだろう、期待するべきではないと自分に言い聞かせていたのだが、人生で初めての経験いや、おそらく最後の経験でもあるだろうと感じていた。

そして、私は言われたとおりにコップに名前とこぼしたか否かをチェックしたのだが、こぼしたかどうかは『とにかく、早すぎて見えなかったと書いた』。
部屋を出て廊下途中にある小窓にカップを置くと、わざと小窓のステンレス製のドアを激しく閉めて私自身の今日の『一大イベント』が終了したことを中の検査員の女の子達に知らせた。すると、すかさず向こう側でカップを取る音が聞こえたのだが、さぞかし長い間待ちくたびれたのだろうとも思った。また時間をかけすぎて本当に申し訳なかったと感じたが、あちら側では日本人の精子となればまた多少の興味も沸くかもしれない。
私は受付嬢に軽く会釈だけすると小走りで車に戻ったのだが、なんと私はマフラーを小部屋に忘れてきてしまったようだ。アメリカで買ったものならどうでもいいがそれは麻と毛でできたユニクロ製だったので、たかがユニクロ
なのだが私はまた部屋に戻った。しかしちょうどそこで検査員おそらく精子を数えていたであろう若い検査員と目が合ってしまった。彼女たちは通常被検者とは顔を合わせない環境で作業しているのだが、私が不意に戻って来たので彼女たちの動揺しているさまが外国人の私でさえ容易に理解できた。

幸いその寒かった小部屋などの不遇な環境とは裏腹に、私の検査結果は『良好』という極めて嬉しい知らせに今までの思いのすべてが帳消しになった。
しかし『良好』とは一体なんなんだ?
考えてみれば昨年の経験で個人的には一番嬉しく、自分的には以前に漢方を飲み若年性男性更年期を克服した故に、検査結果に私自身が大いに納得し『基本的な男としての自信』と『将来への明るい希望』を胸にして昨年一年を終えることができた次第である。

ピカピカに掃除された床と便器は見事ではあるが
飾り気のない雰囲気に『もう少し配慮が必要』と感じたのも事実だ

ソファーで座りながらこのような作業をするのは、
考えてみれば実はかなり不自然なことではないだろうか
おまけに、こんなミニヒーターしかない。。。

このクリニックには世の男に対する
『情』(なさけ)というものがないのか?

バーバラの今後の行くえは?(カサンドラ症候群を間近で見て)

私はセラピストという仕事柄多くのアメリカ人と接する機会がある、バーバラもその一人だった。
もともと初めは肩こりなどの軽い体の不調を訴えそれらは首や腰の痛みなど些細な事柄だった。隔週で彼女と伴侶が住むアパートを訪れて、私はスイナをするのだった。
しかしながら彼女は施術中も悶々と独り言をいい、どう見ても普通の女性でないことは誰でも察することはできたが、私自身専門分野の治療家である故に自分の範囲以外のことは、要するに精神的な問題はあまりタッチしなかった、要するに深入りは避けた。
彼女たちが住んでいる小さなアパートは、きれいであるとはお世辞でも言えず缶詰や加工食品、またシリアルの箱と炭酸飲料のパックが積み重ねてある、これらは全て旦那の好みのようで、彼自身糖尿病とそれから来る足の壊死で最近足の親指を切断した。
実に不健康な暮らしである、このような暮らしの中では健康な人間がここへ来れば数か月で何らかの疾病が現れるか、まるで精神疾患が発生するような暮らしだ。しかしそうなるのも原因があり、彼女たちは低所得層であったために、野菜や生肉などの生鮮品を調理するよりも安価な加工食品を買い、食つなぐ方が安上がりなのである。ここにアメリカのライフスタイルの負の構造があるのだが、安売りの加工食品をレンジで温めて食べる方がその場しのぎではるかに安く上がる。調理するガスや野菜を洗うため、また食べた後の食器を洗う水道代などを考えれば、食器を使わず加工食品のパッケージを捨てるだけの方がシンプルだ、しかし食品添加物が多いために簡単に病気になる、そんなことは少しでも教育を受けた人間であれば誰でも分かりえることだ。既に彼女たちは糖尿や高血圧などの一日6種以上の薬を摂取している。

この旦那という男はかなりの変わり者で、実は『アスペルガー障害』を患っているようである、誰とも付き合えず特徴のある口髭を蓄えた白人であるが、誰も彼とは関わりたくはないといった印象を与える。彼は量販店あえて言うならサティのようなイトーヨーカドーのようなところで働いていたが、指を切断した先月からは術後は病院からケアハウスに引っ越しした。量販店もある意味このような従業員を同情で雇うのだが、仕事は不規則で嫌なことも多くさせられる、当然給料は安くこき使いだ。
この男は3回の離婚歴とバーバラは2回の離婚歴があるが、彼も彼女も実は家族を持てるような状況の人間ではないのだが本人たちは全く気づいていなかった。
このアスペルガー障害と一緒に住むパートナーや夫婦は多くの確率で『カサンドラ症候群』になる、これは独特の症候群だが要するに自分の精神の中に自分自身を逃避させるようなニュアンスである。要するにどうしても逃げられない環境になってしまったとき、自分の中に行くのだが『自閉』ではないのが特徴で、他人とのコミュニケーションもできるために、実にわかりにくいのだ。
バーバラは時々私の前でも旦那のことで激高した、しかし今考えればそれは彼女か伴侶のどちらが悪いかという問題ではなく、まるでそのような状況に激高しているようにもみえた。

私が訪問するのも今日で最後だった、なぜなら彼女達はなんと数週間前に離婚し、旦那はケアハウスへそして彼女は週末アーカンソー州へ行くというらしい。どおりで部屋には旦那のものは何も無く彼女のものだけしかない。ここにいる猫も彼女のもののようだが、アーカンソーに連れていくあてもなく、可哀そうだがこのサックスという名前の成猫は処分されるのだろうと容易に察することができた。しかしながらバーバラはアーカンソーで暮らしたこともなく何のあてもない、行くのはただリタイヤした女性に良い州だそうだが、しかしこればかりは私も聞いていて尋常な返答ではないために、彼女の問題も進んでいるのではないかと危惧した次第だ。私が結局どうして分かれる気になったのかと問うと、『だってそんな、あたしもうこれ以上あの人の面倒見きれないもん』と答えるのであったが、それはもう愛想がついてコリゴリだわという感じだった。私もぶしつけながら『彼は問題を抱えているよ』と言ったのだが、彼女は具体的に嫌いという悪口を決して口にせず、ただただもう面倒を見れないという答えしか言わなかったが、これが最後の旦那に対する気の使い方かもしれないと私は察した。
また彼女の体重はおそらく120キロ以上はあるだろうか、首や腰の身体的な問題を挙げればきりがないのでここでは割愛したい。4人の子供がいるが連絡もなく一体どこで何をして暮らしているかも定かではない。年齢は60以上であることは確かだが、彼女は私のボランティア患者であったので一度の訪問も格安であった。
今後、彼女がどうなるかはわからないがアーカンソーで物乞いをするようなことだけは無いことを心から願う。
アメリカの『底辺』の暮らしは厳しいが、それは時に彼あるいは彼女の『無知』である、という言葉で言い切ることができるようだ。健康の問題もお金の使い方も自分に対する教育も自分への投資も、パートナーを選ぶ時も、結婚生活のほとんど全ても、自分自身の知恵と経験から学んだ教訓と『想像ではなく実際に行動に移せる少しの勇気』があれば人生はそれほどまでに急降下しない。しかしながらある種の人間は誰かの助言も理解できず、経験から学ぶこともできない、それはおそらく小さな頃にどのような環境で、どのような考えを持った人の手で育ったかも関係しているだろう、全く悲しい限りだ。

これらは彼女のビデオテープ類だがSFモノ・ドラマなど日本人にはなじみのあるものばかりだ。

旦那が好きだった一本2リットル100円のソーダ類と
手アカで汚れた収納扉

この部屋の臭いがネットでは伝わらないことが幸いだろう。
乱雑な部屋も壊れたライトスタンドも、一年中飾ってあるクリスマスの靴下も
壊れたカーテンレールと臭いのしみついた汚れたカーテン
夫婦共に精神疾患があることを証明してしまっている。。。

*  *  *

私は最後に大きな抱擁し、�
�なたのことが好きだったよと、
耳元で言った言葉で彼女を慰めることしかできなかった。

漢方アトピー治療 例1

アトピーというのは現代病ともいえるものだ。
私の姉もアトピーである。おふくろは妊娠していたころ魚を食べすぎたからではないかともいうが、そうかもしれない。
私はやはり水銀が多く関与しているのではないかと感じている。
中医学の難しい解釈はさておき、アトピーには熱があるがその熱がどこから来ているのかを判断する必要がある。
今回の患者は喘息もありながら、アトピーも最近ひどくなってきた女性である。特にひどくなってきたのは喘息と判断されて、薬を飲み始めた2,3年前頃からだと言う、ならばその薬も原因である、そうであろう。同時にそのころから精神安定剤も飲み始めたとのことだ。
この場合のアトピーはまず喘息の発生源である『肺』の熱を取り浄化させなくてはならない。中医学では肺と皮膚は表裏関係であり、肺に問題があると必ず皮膚に表れる。同じことは心と小腸にも言えて、小腸に問題があると精神的にも問題が出る、逆に言えばストレスがあると下痢をしやすくなる、要は消化機能が低下するというわけだ。

彼女の舌は血色がなく両側が黄色い、苔も少ないが全体的に白い薄い苔がある。この白い薄い苔と血色がないのは軽い風邪を長い間ひいているような状況を表している、また黄色はその中に熱があることを示している。また脈は力があり規律がある『実』あるいは『洪』といわれる種類である。これも体の奥底に熱があることを示している。
また生理前に痛みがあり、その生理の色は粘りがあり黒ずんでいる、これは『瘀血』おけつと言い血がサラサラでないことを表している。
また時々目の後ろが痛いというおかしな症状があるが、これは経絡(ツボの道筋)が阻害されている。これは気持ち(精神)にも関わる。
このようなことから、まずはいま表れている症状を改善させ同時に根本治療していくしかない。これを中医学では『標本同治』という。ここではあえて『証』は書かないでおく。

処方は以下である。

肺(清熱)
杏仁 石膏(蒸留粉末)麻黄 灸甘草

瘀血
丹参 益母草

精神安定
遠志 合歓皮

経絡
柴胡 葛根

かゆみ:升麻

これは基本的に解表清熱剤にプラスアルファしたものである。私は上海中医大で漢方を学んでゆえ日本での漢方に対する解釈とは違いがある。大きな違いは生薬の摂取量と大胆な調剤アレンジまた『煎じ』でなく、生薬をそのまま粉にすることなどであるが実はそうしなければ治らない、同じ漢方は3か月以上は飲むべきではないだろう、特別な慢性を除いては。。。