すべては『さだめ』と感じるべきか?

 一昨日アメリカに戻り、久しぶりに標高のせいで息のしずらい憂鬱な日々を迎える。楽しいことを書きたいのだが、アメリカのイヤな点も私には特に無いが、私はただ日本の生まれ育った近くの浜を歩き大きく深呼吸することにささやかな幸せを感じる。女房と一緒になったことも『さだめ』なのかと感じる。

 いや、アホなことを言ってはならない。決してそんなことは無い、これは単なる選択だ。犯罪を犯すことも自分から命を絶つことも『さだめ』なんかではない。それは単なる選びだ。青い目を選んだのもここに来たのも自分が単に『旅好き』だからという、旅のせいにして終わりとする。人生は生きている限り旅である。ならば大いに旅をしようではないか。

愛されていると感じた肯定的な例を教えてください。

文のお題 (日替わり)
愛されていると感じた肯定的な例を教えてください。

太陽を暖かく感じたとき

風が頬に当たり心地いいとき

注文した食事が目の前に出てきたとき

運転中誰かが道を開けて譲ってくれたとき

修理を依頼していたものが出来上がったとき

朝、目覚めよく起きられたとき

風邪をひかずに数か月過ごせたとき

 この中のいくつかは他の人から与えられたものであり、愛とは言えないかもしれない。注文したものが出てくるもの修理も相手から見れば当然金銭上の対価である。誰かが道を譲ってくれたのはふとした優しさだろう。

 太陽の暖かみや目覚めよく起きたり、風邪をひかなかったなど何ら無味乾燥なことに神の愛を感じれば、人生はバラ色に変わるかもしれない。それがたとえ一人で生きていたとしても。人なんて考え方次第でどうにでも生きられる。

質問:日常生活で遊んでいますか ? あなたにとって「遊び」とは ?

文のお題 (日替わり)
日常生活で遊んでいますか ? あなたにとって「遊び」とは ?

 この年齢になって「遊び」とはもっと精神的なモノと感じる。自分がいろいろ選択できること。自分の気持ち一つで生きていけることが既にいい意味での遊びだろう。
 成人になれば、敢えて言えば30歳を超えれば社会にも慣れて、この世界がどういうモノか分かるようになる。それまでの年齢では怖さも多々あるだろうが、社会に対しての恐怖心が無くなれば、それは本当の意味で自分はこの地上に自由に生きているという気がするだろう。男女問わず。別に共産主義国家に生きて毎日見張られていても気持ち自体は自由だろう。
 どうやって生きていくか、それが自由に選択できるならばそれがいい意味で遊びと言っていいだろう。趣味ではなく、旅行でもなく、コレクターでもなく。呼吸している自分の身体一つさえあればそれがいい意味で遊び。人一倍正しく自由に生きろ。