作り話。妄想。理想論。憧れ。夢の話。作者の人生経験。これらは全て小説の元となる事だろう。
私は小説と言うものを一切読まない、これは別に主義ではなくただ興味が無いからである。小説と言うのはその主人公や登場人物の気持ちと自分をオーバーラップさせ、比べて、こんな感じで生きようとか、こうなりたい、自分もそう思うなぁなどと感じ、欲求を解消させたり、ある種の満足を感じたり自分を吟味したり、自分の思いを小説の中で見出したりする。考えてみればある種の快感を味わえるだろうし、小説の中のライフスタイルや暮らし方をまねたり、主人公の生き方を参考にしたりして、これもまたある種の快感を得るには上等だろう。もう少し辛口でいうなら、小説を読むことは知的なマスターベーションである。
しかし、自分が既にもう誰も想像できないような人生を歩み、それなりの生き方をしてきたならば小説なんぞ(あえてなんぞと言おう)読まなくてもいいだろうし、読む価値すらないだろうし、作り話などバカらしくて読めないなどという気持ちも感じたりするだろう。金銭的以外にも社会的に重要な役割を果たした人間や過酷な戦争から帰ってきた人間や冒険家などが小説を読まないのも納得できる。この小説家と言う偉大な妄想家に対し、自身のベストセラーについての感想を尋ねたり自分の作品に対しての公演を依頼するのは極めて馬鹿げた事だろうと感じる、それはまるで昨日見た夢の説明をしてくれと言っているようなものだ。これでなぜ作家が政治家になってもうまくいかない理由が理解できる。小説家の理想論で政治をすすめても全く周りはついてこれないだろうし、やることは全て的外れなのだ。
原作と言われる小説があり、それをセリフにした脚本があり、監督がいて、それを演じる俳優達がいて、ドラマ、映画、観客、収入と続いていく。しかしこの小説さえ生まれなければ世界から本当に多くの分野が消えてその代わりの新しい労力や時間が生まれるだろう。実際アメリカにおける映画界の肉体関係や金銭にまつわるドロドロした世界を一般人が垣間見てしまえば、本当にこの世界はこの世に要るのかと疑いさえ感じるだろう。要は小説などで人間の妄想やこの世界をわざわざ文章で表さなくとも我々はこの十分価値のある現実と立ち向かい生きていくべきでこの世の中には人間が生きる上での多くの未解決の問題がありすぎる。また小説と言う道具で時代の文化や風潮を固定化してしまうことが他の人間のもっと自由な発想や世界を封じ込めてしまっていると感じるのも確かだ。
私は読書が趣味です。という人間を虐げているわけではない、ただそれよりももっと多くの現実の世界を見たり感じることがいいのではと少し感じるだけだ。毎日寝るまでベットの上で本を読み、若干の社会的コミュニケーション能力に欠ける青い目の女房の悪口でもない。

しかしながら世界の村上さんには、この先まで粒がそろったコーンのように頑張って頂きたいと感じる次第だ。