柱時計とアガベシロップで夫婦大喧嘩!

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正直言えば、私と女房の夫婦喧嘩を記事にすれば、もう一つか二つ新しいブログができるだろう。しかし青い目の女房との喧嘩を記事にしたところで、読む側は理解に苦しむだけだろう、なぜならそれには多くの文化背景の違いがあるからである。今回私たち自身の極めて個人的なことを話にしたが、それはそれで国際結婚の雰囲気が分かれば良い、と感じた次第だからである。

先週リサイクルショップで意外とコンディションの良い旧ゼンマイ式柱時計を見つけた、この値段がなんと29ドル(2750円)ほどだろうか。実は私の昔住んでいた日本の家には長年柱時計があり、相当古かったが修理しながら使っていた思い出がある。柱時計は見なくとも音の数で毎時間ごとの時が分かる便利な道具だ、もちろん乾電池なるものも要らない。しかしながらこの時計にはゼンマイを回すカギがついていなかったため、それすらアマゾンで7ドル(700円)出して購入した。正直言えば壁にかける前に「おそらく女房の趣味ではない」だろうと第六感が働いたが案の定だった。家に帰るなり「なにこれ?、外して、この部屋に合わない」とのことだ。そして鐘が鳴ったときは「うるさい!これじゃあたし眠れないわ、寝室まで聞こえる」、「て、言うか、でか!デカ過ぎょ、この小さなリビングにはデカ過ぎ!」ということである。突然のダメ出しに私自身へこむどころか、頭の中から煮えたぎるマグマが突如噴出してきてしまった。「部屋に合わないのは色のせいだろう、それに音は消せる」。私がこういうも全く納得がいかないようだ。とにかく女房は仕事に行く前と、帰ってきてからのそれぞれ30分ほど相当機嫌が悪い。仕事のストレスがあることは十二分に理解している、しかしながら私もビジネスを持つ身、同じである。

女房が怒るときは決まってその顔たるもの「真っ赤」であり、今にも鼻と耳から鮮血が噴出さんとするような血色である。そういえば東北秋田にはナマハゲという伝統行事があるが、それも実は過去にロシアから船で現れた白系ロシア人だった、との言われすらある。それであの赤いお面、おそらく地元の村人がロシア人を捕まえる際に彼らも赤面し怒ったのだろう。私の女房の怒り顔を拝めば、ナマハゲができた経緯が理解できないことは無い。とにかく私は時計の音の出る金属部分に脱脂綿を絡ませ消音に成功し、部屋とのマッチはもう少し濃い目のニスを上塗りするということで説得した。今現在同じ場所にあるが、あとは慣れるまでしばらく待つことにしたい。

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しかしもっとひどい喧嘩、というか私自身の激高(激おこ)であるがそれは次の日の朝であった。アメリカにはアガベシロップという甘い砂糖に変わる自然甘味料が存在する、これは蜂蜜やメイプルシロップと同じ類のものだが、そのアガベは中米で採れるアロエのような形をした植物の抽出液である、漢方薬を処方する私自身まだ未知の甘味料だ。とにかく、時々私は前の日の夕食の残りが無いとき息子のために早朝弁当を作ることにしているのだが、中身は決まってギョウザに卵焼き。それも卵焼きには当然砂糖を加えなければそれは卵焼きではないと感じている。その朝も息子の卵焼きの溶き卵に私は砂糖ではなく、このアガベシロップを数滴たらした、そのほうが僅かながらでも健康にいいと感じたからだ。その時だった、女房は「お願いだからアガベを卵焼きに入れないで」、この言葉を聞いた途端私は意識を失わんばかりに激高してしまい、「今入れてしまったのだから、どうしようもないだろう!」と言ったのだが、それと同時に息子が甘味のない卵焼きをランチに食べているシーンを急に想像してしまい「砂糖を卵焼きに入れるなとは、どうゆうことだ?」と女房に問うのだが、女房は「特にアガベシロップは体に良くない、インシュリンの分泌が増えるから」と、いかにも学術的なことを言い始め、それから言い争いを数分繰り返したのだが、最後に「数滴たらすぐらい何の問題もないだろう!」と私は言ったと同時に、私はその時出来上がった卵焼きをフライパンに残したまま、箸をガスコンロの上に投げ捨て私は寝室に戻りまだ温かいベッドの中に潜り込み、少しの間だけ女房と息子が出かけるまで頭を冷やした。おそらく誰かが傍からこの会話を聞けば、この二人はこの先も大丈夫かと思うだろうが、夫婦喧嘩には一つの鉄則がありそれを守っている限り、通り越せるだろう。(だろう)。その話は次号にでも書くとする。

とにかくこのアガベシロップはオーガニックで遺伝子組み換えでもないものだ。おまけに卵焼きの甘くない弁当なんて私自身想像すらできない。私は箸を投げ捨てる前に、弁当の甘い卵焼きというのは日本の伝統なんだよ!と、少し自分でも意味の分からないことすら言い放ったが、そのときは起きたばかりで息子の弁当を作り、加えて眠かったののを覚えている。

その後、昼に女房から送られてきたメールを翻訳とともに、ここに残すとする。

Hope you are okay.  I’m not sure what was going on this morning your temper went from 1 – 100 in a minute.

あなた大丈夫よね。あたしちょっとわかんない、どうして数分で1から100まで上り詰めるぐらい激おこだったのか

I wasn’t trying to make you mad.  You misunderstood what I was trying to say.

そんな怒らせるつもりで言ったわけじゃないんだけど。あたしの言おうとしたことを誤解したんだと思うわ。(あたし言おうとしたことを誤解した=女房の常套句)

I love you and sorry we had a fight this morning.

愛してるわ、ごめんね今朝喧嘩して。。。(この愛してるという意味はすごく好きではなく、あなたを受け入れるという本来の意味である)

これに対して、私のメールでの返答は、「今朝のことはあまり覚えていない」という、なんとも軽薄な返答で少し反省している。(当然私がその晩、謝ったのは言うまでもない)

日本のインスタントラーメンの米国における凄まじい勢い

私が小学生のころ昼飯に兄と『ちび六』というインスタントラーメンをよく食べたものだ、そのあとは決まってコカ・コーラ1Lサイズ(空瓶返金可)を分け合い、そして締めにカルビーサッポロポテトバーベQあじという、健康志向などとは程遠い強烈な昭和の加工食品文化の世界にどっぷりだった。考えてみればそれが原因とはいえないが、この年齢になり関節や骨が悪い。

一方アメリカでもここは昭和の日本かと思うほどのインスタントラーメンが並べられている近所のスーパーマーケット。この店は毎週買い物へ行く普段の店である。途方もない数のラーメンの数と種類、ほぼ100%アメリカにある日本のインスタントラーメンの現地法人社が支配している。韓国も中国のラーメンも存在しない。そこにあるのはただただ『マルちゃん』と『日清トップーラーメン』。味の種類は多いがどれも化学調味されていて、残念ながら日本人の口には合わない。

比較的低所得者層の買い物客や学生はこのラーメンで日々凌いでいるようである。一言でいえばアメリカ人はお腹さえ膨れればそれでOKという感覚がある。どのような栄養でこれは体に悪いだろうなどとあまり考えないようだ。そう考えれば、糖尿病も精神的な問題も減るはずがない(あえてラーメンが悪いとは言わないが)。正直私はこの売り場を見たときに日本人として『罪悪感』さえ感じたのも事実である。これだけのラーメンを提供しアメリカ人の腹を満たしても健康的な暮らしとは程遠い。しかし最近では長寿の日本人に倣い、和食を推薦している健康雑誌やテレビ番組も多く、『しらたき』や『そば』、『味噌汁』なども静かなブームであるが、これらのインスタントにはかなわない。

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平均的なスーパーでもこの状態である
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日清トップラーメンのレンジ調理用容器

しかしながら、最近では健康志向の100%ナチュラル日清カップヌードルも登場し、味も悪くはないのだが、時々見かける程度でどこにでもあるわけではない。私がインスタントを食べたいときは近所のスーパーではなく、ダウンタウンの日本食料品店で日本のカップうどんやラーメンを購入するという、なんとも不甲斐ない暮らしだ。

斜め向かいのスージー、相当の痴呆でも自ら車を乗り回す

 

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彼女の趣味の緑色の家と緑色のスバル

 

彼女の変化に気づきたのは2年ぐらい前だろうか、以前彼女は私の顧客だったのだが、「こないだの保険証のカードを返してくれない、タケシ?」ということから始まった。実際私のところでは保険が使えないので(自費)カードを私が受け取った記憶も見たこともなかったのだ。私は自宅まで行って事情を説明したが、納得いかない様子だったのを覚えている。そのあと向かいの家のサーシャから『お隣さんはボケてしまったようだ?!』という話ですべてが理解できた。スージーは生涯独身で年も80前後だろうか、私たちが引っ越してきた数年前はまだ正気であり、引っ越しのあいさつ時にはきれいに飾られたカントリー調の彼女の家の中で長話をしたのを覚えている。彼女は園芸家であり家の周りには多くの花々が植えられていて、いつも庭の手入れをしていた。アメリカの消費文化を嘆き、自らがスペインで暫く暮らしていた時のことを詳細に私に話してくれたものだ。彼女との会話はそのアメリカ人的なモノの見方ではないために、私自身感心させられたこともあった。現在では週一回親戚が訪問し、週2-3回ホームヘルパーが様子見に来ている、しかしそれだけでは用事は済まされないようで、彼女自ら愛車である緑色のスバルアウトバックを運転し出かけているようである。信号は認識できるだろうか、今自分が運転しどこへ向かっているのか理解できるのだろうか本当に心配である。先日も夜中不審者が訪問してくるという被害妄想により、自宅横の大きな木を造園業者により切ってしまった。しかしもっと残念なのは私のことが分からないようで、今では目が合っても挨拶もしないことだろうか。

アメリカでは本当に多くの高齢者が運転している、前の車が極端に遅いと思うときは大抵高齢者がハンドルに顔が当たるかのような、前のめりの姿勢でハンドルを握っている、これでは確実にモノを避けたり、歩行者に気を配ることなどできやしないだろう。隣の家のベッティーも90歳を超えても自ら運転し買い物や、食事に出かけている。そろそろ心臓にペースメーカーを埋め込む手術をするそうだが、そんな体で彼女はホンダのSUVを乗りこなすことはできるのだろうかと感じるが、これらは考えてみれば実に怖いことであろう。付け加えれば同じブロックの日系人である寺田の婆さんはもうすぐ100歳になるのだが、自らがレクサスのSUVを運転し日々の用事をこなしている。実は時々彼女の庭の手伝いをしているのだが、これまで生きてきた長生きの秘訣は?と聞いたところ、照れながら朝昼晩にきちんとGOHANを食べる事と年老いても独りで暮らすぞ!、という気合だそうである。彼女たちに共通しているのは、独居老人、やもめ(スージーは別)、異常に頑固ということだろうか。確かにこの辺は暮らしには便利といえるが、まだまだ車がなければ不便であるのは間違いない、しかし高齢者の運転は怖いものである。

平凡を極める大切さ

考えてみれば、毎日毎日私の暮らしは何の変哲もない暮らしである、要は勉強、仕事、メシ、睡眠。まだ知恵も経験も少なかった20代などであえば『自分はこうありたい』あるいは『俺はこう成りたい』と将来に情熱を抱くかもしれないだろう。しかしある程度人生を味わい自分の能力をいい意味でも悪い意味でも知ってしまえば、無意味な野望も持たなくなるものだ。例えば今私が行っている大学の勉強なども、結果で考えればそのあとの自分が180度変化するわけでもないだろう。ただ脳みその肥やしと思いながら続けているわけで、終了と同時に自分の仕事先を選ばなくてはいけないわけでも無い。そう考えると、ここでの暮らしとブルーの瞳を持つ女房と子供と顔を合わせ続けるというこの『スタンス』はおそらくこの先数十年は変わらないだろう。いや死ぬまで変わらないかもしれない。そう思うと異常ともいえるこの平凡さの恐怖が自分を襲ってくる。それとも40代後半になればどのような男も私のような平凡に対する恐怖を一度や二度は感じるのだろうか?

こうやって考えれば、極端な変化を望まず良い意味での『保守派』で生きていくわけだろう。しかしながら、その平凡の中でもある程度のわずかな刺激がなければ、コロラドで孤高なる中庸のオヤジとしてこの生涯が終わってしまうのだ。いや、そうではなくこの『大いなる平凡』を通じ多少でも自分を見つけるしかないだろう。平凡の中でその中でわずかな変化を楽しみ、例えば菜園を作りそれを後に食らう時の喜びのようなものを見つけるか、あるいは自分で車を修理し金を節約できたと喜ぶか、患者のヘルニアの具合が良くなったことを喜ぶか、それとも・・・。いや、今はそれ以外は考えられない、それがここでの暮らしすべてだろう。最高の喜びも楽しみもなく、独身時代のように最低まで落ち込むこともない。

時に自分がいま結婚せず日本で人生を送っていれば何をしているだろうかと考えることがある。おそらく金のかからない小さな車に乗り、休みは海へ出かけ自分なりの孤独な暮らしを楽しんでいただろうか。とにかく独身時代は金の使い道に神経を使い、どうやってこの孤独に対処するか、あるいは自分は結婚するのか?ということだったような気がする。しかし実際どのような状態であれそれが自分の生きていた道であればそれはそれでいいだろう。私が異国の地でも結婚できた時は言葉に言い表せないほどの充足感を感じたのも事実であった、たとえ相手が日本人でなくとも。逆に言えばもう結婚相手を探す必要は自分の人生で無い、という安ど感だったろうか(離婚した場合を除く)。

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確かにどこで暮らしても辛いときはある、しかしそんなときはどれだけ自分を客観的に見れるかということで苦しみの量が変わる。今苦しい分、逆に同じ反動の良い時もあるだろうと考えることも大切だ。

とにもかくにも、私はこの『大いなる平凡』を今後も極めるとする。。。