先日記事を書いた「花の窟神社」と「産田神社」に祭られているイザナミとカグツチのイラストです。
図らずも母を焼いてしまったカグツチ、子に身を焼かれたイザナミ、ともに両神社に仲良く祭られています。

有馬や祭は花の幡立て 笛に鼓にうたひ舞ひ うたひ舞ひ
花のや窟は神の窟ぞ 祝へや子ども 祝へ子ら 祝へ子ら
三重県熊野市、熊野三山こそありませんが、熊野古道のほか、熊野信仰に関わる痕跡が残っています。
その中には、熊野信仰の源流のひとつではないか、と思われるものもあります。
前回記事では日本最古の神社・花の窟神社がイザナミノミコトを葬った地であり、日本書紀に伝わる花や幡(旗)を用いた祭が現代にまで連綿と続いていることをご紹介しました。
花の窟神社がある熊野市有馬町。
イザナミが葬られたとされる「紀伊国熊野有馬村」(日本書紀)の地は、江戸時代後期の地誌「紀伊続風土記」に有馬荘、口(くち)有馬村・奥有馬村として記されます。

紀伊続風土記の地図には、口有馬の「花岩屋」とともに、奥有馬の「産田社」が描かれています。

今回は、この産田社、「産田神社(うぶたじんじゃ)」についてお話ししたいと思います。
産田神社は熊野市有馬町、同じ町内の花の窟神社の内陸側に鎮座する神社です。


主祭神は三重県神社庁ウェブサイトによると、伊弉諾尊(イザナギ)、伊弉冉尊(イザナミ)、軻遇突智命(カグツチ)、天照皇大神、大山祇命、木華開耶姫命、神武天皇。
産田神社の祭神について、紀伊続風土記は次のとおり記しています。
○産土神社 境内周三町半 禁殺生
本社二社
伊弉冉尊社 方六尺
紀伊続風土記が記された江戸時代後期には、イザナミ(伊弉冉尊)が祀る社と、カグツチ(軻遇突智)とイザナギ(伊弉諾尊)が祀る社が並んでいました。
神功皇后 応神天皇を産み給へる地を宇彌(うみ)といふか如し 後其地を標する為に此地に社を建てゝ伊弉冉尊と軻遇突智神とを祭れるならむ 伊弉諾尊は夫神なれは後に并へて祭れるなり[永正年中の棟札にも産田二所とあれは古くより二社として祭れるなるへし]
現代語にすると、およそ次のとおりでしょうか。
神功皇后が応神天皇を産んだ地を「うみ」といったように(この産田も、この地でイザナミがカグツチを産んだ場所だと示すために「産」の名をつけて)イザナミとカグツチを祭ったのだろう。
イザナギはイザナミの夫なので(イザナミとカグツチが祀られているこの社に)後に併せて祭ったのだろう。
永正年間(1501~1521)の棟札にも「産田二所」とあるので、古くは2つの社(イザナミとカグツチ)として祭られたのだろう。
産田神社は、もともとイザナミとカグツチを祭る神社で、イザナミがカグツチを産んだ場所なので、「産」田と名付けられた、ということです。
産田神社の地で亡くなったイザナミは、そこから東へまっすぐ2km足らず、海岸の目の前の巨石(花の窟)に葬られたということになります。

産田神社と花の窟の位置関係、地図上に落としてみると、産田神社の真っすぐ東に花の窟が位置しています。
偶然だとは思えないほどきれいに東西に並んでいます。

産田神社の本殿の左右に、長方形の形に整えられた石の枠の中に、丸い石が縦に5個並べられた不思議な石積みがあります。
神籬(ひもろぎ)という古代の祭祀の痕跡です。


この神籬について、神社に解説が貼られていました。

内容を簡潔にまとめると、次のとおりです。
崇神天皇云々の部分など、小野博士のサービストークもあったかもしれません。
が、私が重要視したいのは、小野博士が鑑定して初めて神籬(ひもろぎ)たど認知したととれるところです。
神職含む地元住民は、用途が分からなくなった石積みを、それでも「手で掃除するようにきつく言い伝え」、大事に守り伝えてきたのです。
他所で神籬とみられる遺構が発掘された、という報告書を読んだことがありますが、産田神社の神籬は発掘された遺構ではなく、人々の手によって守られて伝世したものである、ということなのです。
産田神社は榎本氏(後に有馬氏)が神官として社領を掌握していましたが、戦国時代の荒波がこの地を飲み込み、産田神社も兵火に焼かれました。
天正の頃榎本氏断絶し宮社も盡兵火に罹りて古記等伝はらさる事惜むへし、社領は堀内氏の時まては猶田地五町ありしに浅野氏の時収公せらる
社伝は失われ、創建の伝承などは分からなくなってしまいました。

熊野信仰の中心地・熊野本宮大社。
その第一殿に祭られるイザナミ。
有馬村から音無村(熊野本宮)にお迎えしたという伝承があります。

その本宮大社の目の前に、産田社という小さな社があります。
社殿を持たず、鳥居と石殿だけの簡素なお社です。

御祭神は伊弉冉尊。
熊野市有馬町(日本書紀の有馬村)の産田神社や花の窟神社と同じ、イザナミです。
紀伊続風土記には熊野本宮大社の摂社末社として「産田社 石殿造」と記されており、今と同様の姿だったと想像されます。
熊野本宮大社は明治の大洪水で被害を被り、本宮は高台に移転しました。
有馬村からお迎えされた地は緑豊かな跡地「大斎原」として熊野川のほとりに静かな時を刻んでいます。

紀伊国名所図会 熊野篇2 高市志友 著, 高市志直 編 昭和16
※httpサイトですので警告がでます。
有馬や祭は花の幡立て 笛に鼓にうたひ舞ひ うたひ舞ひ
花のや窟は神の窟ぞ 祝へや子ども 祝へ子ら 祝へ子ら
熊野本宮大社で歌われる「有馬窟之歌」と「花之窟之歌」の歌。
有馬は牟婁郡有馬村(現・熊野市有馬町)。
花のや窟は有馬に鎮座する花の窟神社のこと。
花の窟神社(はなのいわやじんじゃ)は、日本最古の神社を称しています。
熊野本宮大社は熊野十二所権現を祭りますが、本宮第一殿は夫須美大神(伊弉冉命・イザナミノミコト)*1をお祭りしています。

その熊野本宮大社からの東へ50km、歌に出てくる有馬(三重県熊野市有馬町)に鎮座するの花の窟神社の主祭神もイザナミです。

この記事では、今の三重県熊野市に伝わるイザナミの伝承について記します。
まず、花の窟神社がイザナミを主祭神としている理由と、同社が日本最古の神社と称する根拠から参りましょう。

花の窟神社はイザナミが葬られた場所とされています。
その伝承の文字記録は、なんと「日本書紀」。
「古事記」と並ぶ現存最古の日本の歴史書(720年成立)です。
イザナミは火の神・カグツチを産んだ時のやけどが元で亡くなります。
日本書紀では、その記述の後「一書曰(あるふみにいわく)」として多くの別伝・注釈を載せますが、その中に「イザナミを紀伊国熊野有馬村に葬った」という伝承が紹介されています。
原文は漢文ですが、読み下し文にすると次のとおりです。
一書に曰く、伊弉冉の尊、火神を生みます時に、灼かれて神退りましき。紀伊国熊野の有馬村に故葬りき。土俗此の神の魂を祭るに、花の時には亦花を以て祭り、又鼓吹幡を用て歌舞て祭る。
読み仮名は次のとおり。
あるふみにいわく、いざなみのみこと、ひのかみをうみますときに、やかれてかむさりましき。きいのくにのくまののありまむらにかれかくしまつりき。くにひとこのかみのみたまをまつるに、はなのときはまたはなをもてまつり、またつづみふえはたをもてうたひまひてまつる。
意味はおよそ次のとおりでしょうか。
ある書物が記すには、イザナミが火の神(カグツチ)を産んだ時に火傷で亡くなられた。イザナミは紀伊国の熊野の有馬村に葬られた。有馬村の人々はイザナミの魂をなぐさめるのに、花の季節は花でお祭りし、太鼓や笛、旗を使って、歌って踊ってお祭り差し上げている。
この引用の内容は、冒頭に挙げた熊野本宮大社の祭の歌詞の様子と同じです。
今でも、花の窟神社では花で飾った幡(旗)を年2回の例祭で綱で高く掲げて、歌い踊ってお祭りしているそうです。

御神体の巨大な岩から神域の樹に渡された綱にぶらさがるのが「幡(はた)」。
参拝者の頭上にたなびきます。
日本書紀の冒頭、国産み神話の主役・イザナミを葬り祭ったとされる有馬村。
日本書紀に記される幡を掲げる祭が伝わる花の窟神社。
日本最古と称することには、十分な理由がありました。
江戸時代後期、紀州藩が編纂した「紀伊続風土記」という書物があります。
ここでも、日本書紀に記された祭礼が行われている様子が記録されています。
有馬荘・口(くち)有馬村の項で記された内容は次のとおりです。
〇花窟
境内 東西六十五間南北百十間 禁殺生
伊弉冉尊陵 拝所 鳥居
村の北一町許往還の側海辺にあり石巌壁立高さ二十七間南に面へり其正面に方三間許の壇を作り玉垣を周らし拝所を設く日本書紀の一書に伊弉冉尊生火神時被灼而神退去矣故葬於紀伊國熊野之有馬村焉土俗祭此神之魂者花時亦以花祭又用鼓吹幡旗歌舞而祭矣とある是なり[古事記出雲国と伯耆国との境なる比婆山に葬るとあるは異伝なり]花窟の名増基法師か記行[主庵]に始めて見えたり花を以て祭るより起れる名なり下より十間許上に方五尺許の洞あり土人御からうといふ寛文記に三蔵法師大般若経を籠し所と云ふ此事既に増基か庵主にも見れて弥勒仏の出現の世により出す経なりしよしいへり基より花窟を般若の窟と称す皆浮屠氏の妄説なり?日?年二月十月二日両度なり寛文記に昔は祭日には紅の綱錦の幡金銀にて花を作り散し火の祭と云ひしとあり土人いふ錦の幡は毎年?朝廷より献し給ひしに何れの年にか熊野川洪水にて其幡を積みたる御舟破れしかは祭日に至俄にせんすへなく縄にて幡の形を作りしとそ其後錦の旗の事絶えて縄を用ふ[今花井荘熊野川相須村の辺絹巻石と云ふあり破船の時錦の幡の流れて其石にかゝりし故にその名ありとそ]今土人の用ふる所は縄を編みて幡三流の形を作り幡の下に種々の花を括り又扇を結ひつけて長き縄を以て窟の上より前なる松の樹に高く掛け三流の旗窟前に翻る歌舞はなけれとも以花祭又用鼓吹幡旗祭るといふ故實を存する事めつらしき祭事と云ふへし夫木鈔光俊朝臣花祭の詠及久安百首の歌に錦の幡なとの事は見えされとも花祭の名古くより世に聞えたる事しるへし又祭日ならても土人等時時花を奉りて祈念すといへり[庵主に卒塔婆の苔に埋もれたるなりとありといへとも今はさる穢れたるものなし]此窟の側七八間許を隔てゝ対せる岩あり高さ四間半是を王子窟といふ庵主に側に王子の岩やありたゝ松のかきある山なりとある是なり軻遇突智の神霊を祀る此神伊弉冉尊の御子なれは王子ノ窟の名あり一名を聖の窟ともいふ此窟にも拝所ありて玉垣を周らす
以前は朝廷から旗の奉納があった、その時代は「火の祭」と呼ばれていたとこのこと。
「火の祭」という名称は、イザナミが火の神・カグツチを産んで亡くなった伝説を想起させます。
しかし、旗を運ぶ船が洪水で失われ、やむなく縄で旗の形を作ってお祭りした、やがて旗の奉納も絶えて縄で旗の形を作るようになった、ということです。
舟が難破して錦の旗が引っ掛かった場所が絹巻石という、とまことしやかな伝承も記されています。
日本書紀に記された「歌舞」は残っていないけれども、故実を残す貴重な祭りだ、と江戸時代の著者も感嘆しています。

花の窟神社、日本書紀に引用される一書(あるふみ)の祭を今に伝え、江戸時代の調査でもその祭は現存していました。
熊野、と言いながら熊野三山からは少し離れた熊野市。
そこに残る神話の痕跡は、地元の人々が大切に伝え、訪れる人々を魅了し続けてきました。

記紀神話と熊野、熊野市の伝承と熊野本宮大社の縁はこれだけではありません。
花の窟神社がある「口有馬」。
その山側にある「奥有馬」。
奥有馬にある産田(うぶた)神社も、イザナミ信仰や熊野本宮大社と強い縁があります。
また次回以降、記したいと思います。
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今から約700年前の西暦1333年、長期間続いた日本初の武家政権*1・鎌倉幕府が滅亡しました。
鎌倉幕府を倒した勢力のトップは後醍醐天皇ですが、後醍醐天皇は正中の変(1324年)と元弘の変(1331年)と2度の倒幕失敗を経て、3度目の挑戦で倒幕を果たしました。
その3度目の倒幕挑戦の狼煙となったのが、1332年、河内の楠木正成と熊野の護良親王*2の挙兵です。
後者、護良親王の挙兵を支えたのは、今の三重県と和歌山県にまたがる地域を支配した、熊野の侍・竹原八郎入道でした。

冒頭に述べたとおり、竹原八郎は護良親王の挙兵に関連して歴史に登場します。
それまで、正中の変、元弘の変という2つの事件とそれに続く戦いが生じていました。
元享4年(1324年)、後醍醐天皇が倒幕計画を疑われたました。
時系列はおよそ次のとおりです。
・9月 天皇方の武士・土岐頼貞や多治見国長が六波羅に攻められ自害
元徳3年(1331年)、再度、後醍醐天皇が倒幕計画を疑われて側近らが捕縛されます。
その後、後醍醐天皇は笠置山に籠り、天皇に味方する武士が挙兵しました。
時系列はおよそ次のとおりです。
・桜山茲俊が備後*5で挙兵
・10月 楠木正成が赤坂城に火を放ち行方をくらませる
・天皇捕縛の報で兵の離反が相次いだ桜山茲俊は自害
(以下、主に太平記の記述によります。)
笠置山が陥落した後、後醍醐天皇の皇子・護良親王*6は笠置山の南西・大和の般若寺に潜伏していました。

幕府方の兵が護良親王が般若寺に潜んでいることを聞きつけ、般若寺に押し寄せ寺内を捜索します。
護良親王が逃れた仏堂には、経典の入った3つのふたつきの箱(経櫃)がありました。
1つの箱は、僧が読みかけであったのかふたが開き、経典が半分ほど出されていました。のこりの2つの箱は、ふたが閉められていました。
護良親王はふたが開いた櫃の中に入り、経典を体の上にかぶせて身を潜めました。
そこに幕府方の兵が乱入します。
兵はふたが閉まった2つの櫃を怪しんで、ふたを開け、経典を取り出して探しましたが、当然、護良親王はいません。
そのまま兵は別の場所を探すため、仏堂を出ていきました。
なんとか見つかることなく安堵した護良親王でしたが、また兵が引き返してくるかもしれないと、さきほど兵が捜索した箱のひとつに移動し、再び身を隠します。
果たして、兵は再び仏堂に入ってきて「あの箱はまだ探していないはずだ」と、先に護良親王が身を隠していた箱の中を探しますが、やはり護良親王はいません。
「大塔宮(護良親王)はおらず、大唐の玄奘三蔵(のお経)しかいないじゃないか」と笑いながら兵は引き上げていきました。
命拾いした護良親王は般若寺を出て、熊野を目指して落ち延びました。
護良親王と9人の従者は、熊野詣の山伏に変装して熊野を目指しました。
途中、「熊野三山は人心が定まっておらず、十津川に行った方が良い」と夢でお告げを受けた一行は、十津川に目的地を変更します。
13日後、十津川にたどり着いた一行は、護良親王を小さなお堂に匿い、従者は道に迷った熊野詣の山伏として村人に窮状を訴えました。十津川の人々はこれを哀れみ、栗ご飯や橡(とち)のお粥などでもてなしました。
2、3日、十津川の人々の施しを受けてすごしましたが、いつまでも逗留するわけにもいきません。
従者の一人・光林房玄尊が有力者とおぼしき家を訪ね、家主の名を聞くと「竹原八郎入道の甥、戸野兵衛の家だよ」との答え。
玄尊は竹原八郎入道の名を知っていたようで、この家を頼ろうと心に決めます。
家の中には病に伏せる者がいる気配を感じた玄尊は、お堂で休んでいる山伏(実は護良親王)は霊験あらたかな方である、と売り込んで、護良親王とともに、まんまと戸野兵衛の家に乗り込みます。
護良親王と従者の加持祈祷により、病者はたちまち平癒しました。
嗚呼、プラシーボ効果。
護良親王一行は、その家に客として迎えられました。
屋敷に逗留して10日余り、家主の戸野兵衛が客殿で薪をくべ、一行をもてなしました。
戸野兵衛は話します。
「大塔宮(護良親王)が京から逃れて、熊野に向かって落ち延びられたと聞く。熊野三山の別当・定遍僧都は筋金入りの幕府方ですぞ。この里(十津川)に来られれば良い。この里は鳥も飛び難い難所で、人の心に偽りなく、弓矢の術ではどこにも負けませんぞ。」
すると護良親王は喜んで、
「では、大塔宮(護良親王)が十津川に来れば味方につくのか?」
と聞きます。
これに戸野兵衛、答えていうには、
「何をおっしゃるか!私は不肖の身ですが、私が宮様を保護すると申せば、鹿瀬・蕪坂・湯浅・阿瀬川・小原・芋瀬・中津川・吉野十八郷は手出しできますまい。」(戸野兵庫、酔っぱらってる?)
すると護良親王は従者・木寺相模に目配せし、木寺相模は山伏の正体を明かします。
「今は何を隠そうか、この山伏こそ、大塔宮にあらせられるぞ!」
♪じゅあーん(水戸黄門の印籠後の効果音)
♪でっででででっででででっででででででででで(水戸黄門のテーマ)
戸野兵衛は恐縮し、畳の下に下がりました。
戸野兵衛は急ぎ「黒木御所」を造営し、四方に関所を設けて、護良親王を守る大勢を固めました。
戸野兵衛は叔父・竹原八郎入道に護良親王をお迎えしたことを連絡します。
竹原八郎入道は喜び勇んで、
「我が館へお越しください」
太平記はその様子を次のとおり伝えます。
是も猶大儀の計畧難叶とて、叔父竹原八郎入道に此由を語ければ、入道頓て戸野が語に随て、我館へ宮を入進らせ、無二の気色に見へければ、御心安く思召て、此に半年許御座有ける程に、人に被見知じと被思食ける御支度に、御還俗の体に成せ給ければ、竹原八郎入道が息女を、夜るのをとゞへ被召て御覚異他なり。さてこそ家主の入道も弥志を傾け、近辺の郷民共も次第に帰伏申たる由にて、却て武家をば褊しけり。
太平記巻第五 大塔宮熊野落事
竹原八郎入道のもとで還俗した大塔宮こと尊雲法親王は、護良親王となります。
入道は自身の娘に親王の身の回りの世話をさせ、親王も入道の娘を愛しました。
護良親王は半年ほど、竹原八郎入道のもとで過ごしました。

やがて、幕府方・熊野別当定偏に護良親王の潜伏地の情報が伝わります。
幕府方は高い賞金を懸けて護良親王の居場所をつきとめようとします。
護良親王は竹原の暮らしを気に入っていました。
角ては此所の御止住、始終悪かりなん。吉野の方へも御出あらばや。
太平記巻第五 大塔宮熊野落事
しかし、竹原八郎入道の子まで幕府方に与してきたため、十津川の奥地・熊野竹原から護良親王は逃げざるを得ませんでした。
太平記における竹原八郎入道の記述は、ここで終ります。
護良親王を一時保護した熊野の武士としての役割でした。


さて、竹原八郎入道という武士は実在の人物なのか、それともファンタジーの産物なのか。
当時の上皇の日記に竹原八郎入道の名が記されています。
廿六日甲子 伝聞、伊勢国有梟悪之輩、成烏合之衆、追捕所々、其勢甚多云々、仍武家差使者令實撿云々、今夕風雨雷鳴尤甚、座主宮参入山門、重寶等令撿知之、皆以符号、目六記裏、即給座主、拝堂之次可返納之由被仰之、
廿八日丙寅 勢州凶徒尚以興盛之由風聞、或云、合戦地頭等、多被誅戮之後、引退云々、
廿九日丁卯 武家實撿使上洛、申詞不違風聞之説、凶徒合戦之間、在家多焼拂、地頭両三人被打取、守護代宿所被焼了、其後凶徒等引退了云々、之自熊野
山、帯大塔宮令旨、竹原八郎入道、為大将軍襲来云々、驚歎不少、
花園天皇宸記 元弘二年六月
元弘2年6月26日、花園上皇が聞いた話では、伊勢に凶徒が押し入ったが、烏合の衆で各所で捕えたとのこと
元弘2年6月28日、まだまだ伊勢の凶徒は収まっておらず、合戦で地頭などが多く討取られて引き上げたとのこと
元弘2年6月29日、地頭3人が討ちとられ、守護代の館も焼かれたとのこと
そして、熊野から大塔宮の令旨を受けた竹原八郎入道が大将軍になって押し寄せてきたことに驚いた!
と記されています
地方役人のぐずぐず報告です。今でも変わりませんね。
竹原八郎入道は護良親王の令旨を受けて伊勢国に侵攻し、京の都を驚かせました。
元弘2年4月、楠木正成が赤坂城を奪い返し、反撃ののろしを上げた翌々月のことでした。
太平記と同様、竹原八郎入道のその後の足跡は記されていません。
史料や軍記物語を見る限り、竹原八郎入道という人物は、護良親王の逃避行に反応して着火、日本の歴史をまばゆく照らしたかと思うと、瞬く間に表舞台から消えた人物でした。
竹原八郎入道が拠点としたと伝わる、今の和歌山県北山村や三重県熊野市には多くの伝承が残ります。
以下、江戸時代後半に紀州藩が編纂した地誌「紀伊続風土記」を基にその伝承を辿ります。
竹原八郎入道の居館跡は、熊野市神川町花知(はなじり)に、花知神社として残っています。
花知村 波奈自理 竹原村枝郷
竹原村の卯の方五町にありて北山川を隔てて東西に相対す 慶長検地帳に花尻と書す 此村山裾にあれは尻は山の尾の末をいひて端(ハナ)尻の意ならむか
(中略)
○竹原入道屋敷跡 東西廿間 南北廿二間 堀深さ三間幅四間 村中にあり
(後略)

大塔宮・護良親王が逗留した屋敷跡は今の北山村竹原(たけはら)にありました。
竹原の地名は、当然に「竹原」八郎の名のもとになったと考えられますが、紀伊続風土記では、竹原村の読みが「多迦波良(たかはら)」となっています。
ただ、竹原は高い土地を示す「高原」だという説をとる紀伊続風土記の筆者のこだわりかもしれません。
○大塔宮御座処
村中山根にあり 今は畑となりて其区域詳ならす 古き伝へに竹原八郎入道か上邸にて宮の御座しける所といへり 川の東花知村なる竹原入道か屋敷跡に向へり (今土人或は訛りて戸野兵衛か屋敷跡と云ひ其下大川の中に戸野が瀬といふもありと云えとも太平記の文によるに戸野兵衛は此処にはあらす 古き伝えの方正しといふへし)今和州吉野郷の内十二村荘に殿野村あり 是兵衛の居住の地なりならむ 太平記に殿兵衛俄に黒木の御所を作りて大塔宮を守護し奉り四方の山々に関をすへ跡を切塞きて用心きひしくそ見えたりける 是も猶大義の計略叶ひかたしとて叔父竹原八郎入道に此由を語りけれは入道やかて戸野か語らひに随ひて我館へ宮を進らせ無二のけしきに見えけれは御心やすくおほしめして此に半年許御座しけると見えたる 即是なり

北山村には、護良親王と竹原八郎の娘との間に授かった子どもについての伝承も残ります。
太平記の記述は次のとおり。
是も猶大儀の計畧難叶とて、叔父竹原八郎入道に此由を語ければ、入道頓て戸野が語に随て、我館へ宮を入進らせ、無二の気色に見へければ、御心安く思召て、此に半年許御座有ける程に、人に被見知じと被思食ける御支度に、御還俗の体に成せ給ければ、竹原八郎入道が息女を、夜るのをとゞへ被召て御覚異他なり。
太平記巻第五 大塔宮熊野落事
竹原八郎の娘を寵愛したことには触れられていますが、授かった若宮についての言及はありません。
○古宇土宇(コウドウ)ノ宮 境内周百六十八間
村端にあり 竹原花知七色三村の産土神なり 土人伝へいふ昔大塔宮竹原八郎入道の館に半年許忍ひて御座しける時入道の娘を召されけるに其腹に若宮一人出生あり 宮程なく吉野に入らせ給ひ其後御薄命なりしかは出生の御子は其儘当初にあり薨し給ひしを(或は朝敵の為に討れ給へりとも云へり)土人尊ひて当社を建て神と祀れりといふ

護良親王が竹原に滞在したのは半年余り。
その間に、竹原八郎の娘が寵愛を受け、子を身ごもり、若宮が生まれた。
しかし、その時には護良親王は竹原の館にはいない。
やがて護良親王は足利氏との紛争により命を落とします。
そして、若宮もそのまま竹原の地で亡くなります。
天寿を全うしたのか、夭折したのか、幕府方の追討にあって殺されたのか、今に至ってはすべては藪の中。
せめて、竹原八郎入道とその娘、そして若宮に、安息の日があったことを想像して、イラスト掲載でこの記事の締めとさせていただきます。

史料大成 34 第34 花園天皇宸記 第2(花園天皇) 伏見天皇宸記(伏見天皇)
笹川種郎 編 [他]
出版者 内外書籍
大正5(1916)年「三重県風土史蹟」に、「津城軍記」として次の記事が載っています。
津城戦記 慶長五年関原ノ役富田信濃守知信子信高其臣分部光嘉ト共ニ東軍ニ属シテ籠城八月二十三日西軍中国勢毛利豊前守秀元宍戸元次鍋島直茂長曾我部盛親安国寺恵瓊大東大蔵大輔等其勢八萬餘騎愛宕山ニ陣シ納所刑部加納村ヲ焼キ半田神戸ノ谷々透間ナク陣取レリ城中ヨリ綾井権之助打出テゝ塔世川ニ戦ヒシモ勝敗決セス二十五日信高僧ヲ使シテ和シ去テ高野山ニ入レリトイフ
(三重県風土史蹟)
このブログでも何回か取り上げた、安濃津城の戦い。
(↓過去に投降した安濃津城の戦い関係の記事はリンク先)
富田信高の妻や馬術家・上田吉之丞、狙撃手・弓削忠左衛門など様々な人物の活躍が伝わっていますが、三重県風土史蹟では、実際に戦った人物として唯一綾井権之助の名が挙げられています。
ここでは綾井権之助と斎田隼人の活躍について記します。
慶長5(1600)年8月、関ヶ原の戦いの一月前。
徳川家康の会津征伐に従軍していなかった在国領主、氏家行広(桑名)、滝川雄利(神戸)、岡村良勝(亀山)らが西軍につき、隠居していた九鬼嘉隆(鳥羽)も熊野水軍・堀内氏善(新宮)を巻き込んで、西軍が伊勢湾の制海権を握りました。
一方、徳川家康に従い関東で兵を率いていた富田信高(津)、分部光嘉(伊勢上野)、古田重勝(松坂)、稲葉道通(岩出)らが相次いで帰国。
実父の九鬼嘉隆に居城を奪われた九鬼守隆も志摩・安乗に拠点を構え、伊勢・志摩は東西天下分け目の最前線となります。
そのような中、伏見城を落とした西軍が鈴鹿峠を越えて伊勢平野に侵攻。
8月23日、東軍の富田信高・分部光嘉が籠る安濃津城の攻防戦が始まります。
慶長5年8月23日(西暦1600年9月30日)、安濃津城の北を流れる塔世川(現・安濃川)の北岸に、西軍先鋒が現れました。
彼らは8月初旬に椋本(現・津市芸濃町椋本)にまで侵攻しましたが、伊勢湾を西進する富田信高らの船団を家康本隊と誤認して潰走。
その恥をすすごうと、あらためて先鋒を引き受けたのでしょう。
かくて廿日ばかりを経て八月廿三日の朝遠見の者矢倉より告げて曰く愛宕山、薬師山の間に幟壱本見えけるが刹那が間にのぼりも人数もむらがり見へ候と訴へければ、冨田是を見て、すわや敵は寄せ来たると見へたり。各持口に其心得有るべしと下知して綾井権之助、斎田隼人といへる鉄炮頭をよびて其方等は塔世川のこなたの堤迄馳向ひ、敵の様子を見及びいそぎても可被帰と有りければ、両人承り候とて足軽鉄炮六拾人引連れ即時に馳せて行く。
(勢陽雑記)
慶長5年8月23日の朝、城の櫓で警戒していた兵より、「茶臼山*1、薬師山の間から旗が1本見えたかと思うと、たちまち旗も人も群がり出てきました」と報告がありました。
城主・富田信高はいよいよ西軍が攻めてきたと思い、それぞれ守備を固めるよう指示し、鉄砲隊の隊長・綾井権之助と斎田隼人に「塔世川の南岸の堤防で偵察し、ただちに戻れ」と命じました。
綾井と斎田は60名の鉄砲隊を率いて城の北、川の南岸に向かいました。

信濃守矢倉より見給ふに両人堤をうち越え川を渡り、愛宕山、薬師山の間の谷をのぼり馳せむかふ。信濃守下知していわく、綾井、斎田が深入するぞあれ押しとめよと、敵つけ入らば由々敷大事ぞとて、追々に手廻りの士兵を指遣しけり。
(勢陽雑記)
富田信高は櫓に上って敵の様子と、偵察に出した綾井・斎田隊の行動を見ていました。
すると、綾井・斎田隊は南岸の堤防を越えて川を渡り、敵が布陣している茶臼山・薬師山の間の谷をどんどん登っていきます。
驚いた富田信高は「綾井・斎田が深入りするぞ。あれを止めてこい。敵が付け入ったら大変だ。」と、近習の兵を差し向わせました。
其者追々駆付けて制しけれども綾井、斉田聞きもあへず進みければ跡よりゆきし者ともも追々に馳せ加わり、寄手の先陣山上に弐三百も簇(むら)がりし処を綾井、斉田得たりや者共打てよとて火を散してぞ討たせける。谷を上りにこみかへ々々打ける間、寄手の後陣たすけ可寄便りもなく先手弐百人討立うしろの谷底へまくれ落ちてけり。
(勢陽雑記)
綾井権之助と斎田隼人は、富田信高の制止に従わず、どんどん進んでいきます。
制止に向かった者たちも、結局、綾井・斎田隊に加わります。
綾井・斎田隊は、200から300人ほどの西軍兵が陣取る手前にたどり着き、射撃に絶好の位置に移動しました。
「よし、者ども撃て!」
綾井権之助・斎田隼人の命令に続いて鉄砲が次々と火を噴き、西軍兵がバタバタ倒れます。
大兵力を誇る西軍も、山と谷が連続する地形では襲撃された部隊をすぐ助けにいくこともできず、200人ほどの兵は潰走して背後の谷へころがり落ちていきました。
富田信高は綾井・斎田の隊が退却時に追撃されることをおそれ、射撃の名手・弓削忠左衛門に足軽30名をつけ、川を渡って綾井・斎田の退却を援護するよう命じます。
案の如く敵塔世川を半ば渡り綾井、斎田が引取るを見てあれ討ちとれ者共とて、大将とおぼしき武者再拝を揮って下知しけるを、弓削すゝみ出でて打ちけるに、おもふ矢つぼをあやまたず真只中を打ちてけり。敵是に機をうしなひ、進み得ざる処を弓削其外相従者ども透間もなく打てかゝる。寄手其まゝ敗軍して塔世山へ引退く。
(勢陽雑記)
案の定、綾井・斎田を西軍が追撃してきました。
その指揮官を、弓削忠左衛門が狙撃し見事打ち倒します。
指揮官を打ち倒された西軍が進めなくなっているところを、弓削隊が隙間なく射撃を続けたので、西軍は塔世山に引き返しました。
綾井・斎田・弓削と、籠城軍の鉄砲隊が大活躍して、緒戦は籠城軍の完勝に終わりました。

下の画像は、地形が表示されるアプリ「スーパー地図」で、当時の戦場の地形をイメージしたものです。

塔世川(現・安濃川)の北岸、西軍が進出した茶臼山や四天王寺が、安濃津の北にある高台の南端だったことが分かります。
この場所は江戸末期に藤堂藩の学者・斎藤拙堂の隠居後の山荘となりました。
拙堂の弟子が描いた画図では、津城下や伊勢湾・阿漕浦を見下ろし、鳥羽や答志島まで遠望するさまが描かれています。
また、大正13(1924)年の「津市案内記」では、茶臼山(愛宕山)を次のように紹介しています。
愛宕山は塔世川の北畔、鐡道線路に沿ふ急勾配の山である。本名茶臼山は、傍の比佐豆知神社を愛宕さんといふに因んで、何時とはなしに忘れられて愛宕山になつた。山上から市の過半を鳥瞰し、伊勢富士を前に、西南の連山を見渡す景勝地として、閑却し難い山である。
(津市案内記)

西軍は安濃津を攻める絶好の位置に陣取りましたが、おそらく自らの大軍に驕って物見を怠っていたのでしょう
綾井権之介・斎田隼人はそこを襲撃して戦果を挙げました

比佐豆知神社は、その御由緒から慶長5年当時も同じ場所に鎮座していたと思われます。

以上、安濃津城の戦い、1日目の戦闘経過でした。
翌8月24日に西軍は本格的な攻勢を開始。
大軍を前に、安濃津城は数日で降伏することになります。
三重県風土史蹟:大森孤舟著(1916)
三重県郷土史料叢書第13集「勢陽雑記」:鈴木敏雄・野田精一校訂(1968)
津市案内記:津市編(1924)
伊賀上野の城下町、広禅寺という寺に伝わるお話です。
大和国宇多に人の手助けをする源五郎狐がいた。あるとき飛脚に頼まれ文箱を運んでいるとき山中で犬に殺された。伊賀国上野の広禅寺にその妻だと言われる小女郎狐というものがおり、寺の手伝いをしていた。延宝のころのことだがいつの間にかいなくなった。
国際日本文化研究センター 怪異・妖怪伝承データベース
この話は、伊賀上野出身の俳人・菊岡米山(1680-1747)が記した日本各地の奇談・会談集「諸国里人談」(寛保3(1743)年)に記されています。
「諸国里人談」の「源五郎狐・小女郎狐」の項です。
まず、伊賀の隣国、大和国宇多(現・奈良県宇陀市)の「源五郎狐」の話から始まります。
延宝のころ大和国宇多に源五郎狐といふあり。常に百性の家に雇はれて農業をするに、二人三人のわざを勤むによつて民屋これをしたひて招きける。何国より来りいづれへ帰るといふをしらず。或時関東の飛脚に頼まれ、片道十余日の所を往来七八日に帰るにより、そののち度々往来しけるが小夜山中にて犬のために死せり。首にかけたる文箱をその所より大和へ届けけるによりて此事を知れり。
諸国里人談(紀行文集5版・1909)※濁点・句読点は補った
延宝は江戸時代前期、西暦では1673年から1681年の間の年号です。
現代文に直すと、次のようになるでしょうか。
大和国宇多に源五郎狐という狐が住んでいました。
いつも田や畑を手伝っていましたが、2、3人分働くので、みんな源五郎狐を頼って手伝いをお願いをしていました。しかし、源五郎狐がどこから来て、どこに帰るのかは誰も知りませんでした。
ある時、関東の飛脚に文の配達を頼まれたところ、片道10日かかる行程を往復7、8日で届けたので、その後、たびたび飛脚として往来するようになりました。
ある夜、山中で野犬(狼)に襲われ、源五郎狐は死にました。
首にかけていた文箱が、大和に届けられたことでそのことが分かったのです。
原文には人の姿であったとは明記されていませんが、人の姿で働いていたのでしょう。
飛脚を頼まれた時、人目につかない山中を狐の姿で疾走し、人間では往復20日かかるところを7,8日で帰ることができたのでしょう。
ある時、狼に襲われ、山で死んでいる狐が首に文箱をかけていたので、源五郎が狐だったということが分かったのです。
諸国里人談は、続けて伊賀の小女郎狐について述べます。
又同し頃、伊賀国上野の廣禪寺といふ曹洞宗の寺に小女郎狐といふあり。源五郎狐か妻なるよし誰いふとなくいひあへり。常に十ニ三はかりの小女の兒(たち)にて庫裏にあって世事を手伝ひ、ある時は野菜を求めに門前に来る。町の者共此小女狐なることをかねて知る所なり。晝中に豆腐などととのへ帰るに童どもあつまりてこぢよろこぢよろとはやしけるに、ふり向て莞爾(ほほえみ)、あへてとりあへず。かくある事四五年を経たり。其後行方知らず。
諸国里人談(紀行文集5版・1909)※濁点・句読点は補った

誰が言い出したかは分かりませんが、小女郎狐は源五郎狐の妻だと町の人々は言いあっていました。
いつも数え12、3歳の少女の姿で、広禅寺の居間や台所を手伝い、時々野菜を買いに門前町に出てきました。
昼間、豆腐などを買いそろえて帰る所に、子どもたちが集まって「小女郎、小女郎」とはやし立てても、振り返って微笑むだけでした。
このようなことが4、5年続いた後、いつのまにか小女郎狐はいなくなり、行方は誰もしりませんでした。
伊賀上野の広禅寺では、宇多の源五郎狐の妻と噂される小女郎狐が働いており、いつの間にかいなくなっていた、という伝承です。
源五郎狐の話が伝わる宇多、今の奈良県宇陀市は、三重県名張市と県境で接しています。伊賀市はその名張市の北。今の伊賀市と名張市で旧伊賀国を形成していました。
人に化けた狐が人々に頼りにされていた、という話が、大和国と伊賀国、山を挟んで伝わっていたということになります。
三重県サイト内の「ふるさとの届けもの 伝えたい三重のおはなし」に掲載される「上野市 こじょろうぎつね」の結末は、別のものとなっています。
昔々、伊賀上野の城下町にある広禅寺。
寺では月に1回檀家の人たちが集まり、住職の法話を聞いたり、御馳走を食べたりしていました。
あるとき、寺に十二、三歳の女の子がやって来て、法話の集まりの台所仕事を手伝うようになりました。
人々は彼女を小女良(こじょろう)と呼びました。
かすりの着物に赤いたすきと前掛けをしてきりきり働く小女良。
大人たちは「よく働く子だ」と感心し、子どもたちも「小女良、小女良」となついていました。
小女良は、法話の集まりが終わると残った御馳走をもってうれしそうに帰っていきました。
どこから来たの?と聞くと、小女良は上野の町の西、長田の山からと答えました。
**
ある日、集まりの御馳走に稲荷寿司をだそうと、寺の者が朝から油揚げを炊いていていました。
昼前に油揚げにご飯をつめていなり寿司を作ろうとしたところ、油揚げの数が足りません。
誰かが食べたんだろう、住職が小女良にも問いただしたところ、つい油揚げをつまみ食いしてしまったことを認めました。
泣きながら誤る小女良。
しかし、住職はこれが癖になってはいけないと思い、小女良を強く叱りました。
怒られた小女良は、泣きながら寺を飛び出してしまいました。
**
小女良は鍵屋の辻(城下町の西の交差点)をこえて、田んぼの中の道を走りました。
強く叱りすぎたかと思った住職も、そのあとを追いかけます。
長田の橋を渡るころには、赤い前垂れをはずして、大きな茶色いしっぽが見え、走る姿も狐のようになっていました。
小女良は長田の山に住む狐だったのです。
住職は小女良を見失ってしまいました。
**
長田の山に銃声が響き渡りました。
住職が銃声がした方に行くと、果たして、猟師が一匹の狐を仕留めていました。
小女良に化けていた狐でした。
住職は寺に小女良を葬り、小さな塚を立てて手厚く弔ったということです。
(三重県サイトテキストを基に記述)
こちらでは、小女郎狐は最後に狐だとバレたことになります。
住職に強く怒られた小女郎狐は寺を飛び出し、悲劇的な最期を遂げます。
上野徳居町・広禅寺サイトの小女郎狐も、三重県サイトと同様に悲劇的な最期をむかえます。
広禅寺には小女良稲荷として今も大切に祀られているとのことです。
国際日本文化研究センター「怪異・妖怪伝承データベース 3880033
「紀行文集 5版 (続帝国文庫 ; 第20編)」 博文館編輯局 編 [他] 博文館 1909
Wikipedia 「諸国里人談」、「菊岡沾涼」(ともに2025.05.27閲覧)
三重県サイト内「上野市 こじょろうぎつね」(2025.05.28閲覧)
広禅寺サイト「伊賀の民話”こじょろうぎつね”のほこら」(2025.05.28閲覧)
2025年4月26日、大阪市立美術館「日本国宝展」に行ってきました。
混雑を避けたいほうなので、まず企画展に初日に行ったことはありません。
しかし日本国宝展の金印(「漢委奴国王」)展示が5月7日までの展示ということで、慌てて観覧しました。

企画展は1点を除き撮影禁止でしたので、図録からいくつか模写をしましたので、記録していきます。
3桁の数字は展示品番号で、展示順ではありません。
春日大社・春日若宮御本殿に奉納されていた平安時代(12世紀)の品。
銀の枝にとまった金の鶴「金鶴及銀樹枝・銀樹枝」や「木造彩色磯形残欠」、単体の「銀鶴」とともに展示されていました。
図録解説によると「箸置きとして機能したことが指摘されている。」とのこと。
復元・新調されたものと並べられており、古代の貴人の膳に置かれたのかな、と想像が膨らみます。

白鳳時代の官吏・威奈大村の遺骨を納めた容器。
江戸時代・明和年間(1764~1772)に開墾中の田から発掘されました。
解説によると、銘文は「典麗の誉れ高い」とされているそうです。
銘文の撰者も千年以上後に発掘されて誉められるとは思ってもみなかったでしょう。

これと並んで、墓誌銘文を刻んだ長方形の金銅板「金銅石川年足墓誌」も展示されていました。
水墨画の例として教科書に載っているアレです。
絵の部分が切り取られて掲載されていることが多いと思いますが、実物は思いのほか大きく、上半分には多くの漢文と、その文章を書いた僧の印がおされています。
図録解説文によると、第4代将軍・足利義持の「すべすべした瓢箪で、ぬめぬめしたナマズを取り押さえるにはどうしたらよいか」という問いに応じ、如拙が描いたものとのこと。


ナマズがかわいい。
神戸市灘区にあった桜ヶ丘遺跡から出土した絵画銅鐸。
棒人間のほか、カマキリ、カエル、アメンボや鹿などが描かれています。

何が描かれているかは諸説あるようです。
左下の枠、3人の人物の画は、棒でたたこうとする父親と頭を守る子ども、棒を持つ父親の手を止める母親に見えます。
子どもをたたくのはやめよう、という世界最古の児童虐待防止の啓発表示ではないでしょうか。子どもをたたくと神の怒りを買いますよ、やめましょう、的な。
江戸幕府後期、天保8年(1837年)に蘭学者・渡辺崋山が描いた肖像画。
縦114.2×横56.9と、思いのほか大きな画でした。
鮮やかでありながら淡い色彩と、強弱がついた線が印象的でした。

この企画展の最後に展示されている「漢委奴国王」の金印。
思ったより小さいという予備知識で見たのですが、思ったより大きい(存在感がある)印象でした。

大倉集古館が所蔵する平安時代後期のものと思われる像。
本来どこに安置されていたかは不明だそうですが、解説では「平安後期彫刻の最高傑作といっても過言ではない至宝」としています。

江戸時代初期、本阿弥光悦作の硯箱。
丸いフォルムがおしゃれです。

本阿弥光悦よりも少し後、江戸前期の陶芸家・野々村仁清(にんせい)の作品。
これと舟橋蒔絵硯箱が対になって展示されていました。
豪華!

国宝・薬師寺東塔の頂点に飾られていた水煙。
この企画展では唯一写真撮影ができる展示物でした。

春日大社所蔵の、最初期の日本刀。
柄は短く片手剣として神事に使ったのでしょうか。
鞘に3頭の獅子の画が描かれています。
この太刀に続いて、四天王寺所蔵の丙子椒林剣・七星剣(ともに伝・聖徳太子佩刀)が展示されており、通常の刀剣展とはまた異なる迫力がありました。

奈良国立博物館の「超国宝展」では同じく春日大社の国宝剣「金地螺鈿毛抜形太刀」が展示されていますが、こちらの鞘には猫と雀が螺鈿細工などで表現されており、比べてみるのも面白い。
100点ほどの展示、一部参考展示と皇居三の丸収蔵館の所蔵品を除き、すべてが国宝、重要文化財がない!という非常に密度の濃い特別展でした。
到底その魅力は書ききれませんので、今回はここまでにします。
展示替えも雪舟、神護寺三像、松浦屏風、縄文のビーナスなど、超大物が待ち構えています。再訪問する機会があれば、ご紹介したいと思います。