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宮沢賢治が歩んだ道(岩手山と旧網張街道・小岩井農場)大正10年橋場線開業前の賢治の歩み(国鉄時代の田沢湖線小岩井駅:昭和49年8月撮影):越前堰・苧桶沢・仁沢瀬

旧橋場線(現田沢湖線)の小岩井駅の開業は大正10年です。
大正10年以前、つまり橋場線小岩井駅開業の前に宮沢賢治が歩んだ道です。(*1)

(1)大正10年橋場線開業前の賢治の歩み(旧網張街道と小岩井農場)
旧橋場線(現田沢湖線)開業前の賢治の歩みです。
旧網張街道と小岩井農場や、その後に開業する橋場線小岩井駅との関係は以下の通りです。
宮沢賢治が歩んだ道(岩手山と旧網張街道・小岩井農場)大正10年橋場線開業前の賢治の歩み(国鉄時代の田沢湖線小岩井駅:昭和49年8月撮影):越前堰・苧桶沢・仁沢瀬_f0406950_18362285.jpg
国土地理院の現在の地図です。●印が旧網張街道です。

宮沢賢治は岩手山への登山後に網張温泉に一泊します。
網張温泉から下山する際に利用したのが網張街道です。

左上が網張温泉で右下が下山方向(盛岡方向)です。

なお橋場線小岩井駅の開業後の大正11年に宮沢賢治が小岩井駅から小岩井農場へと歩んだ道は△印です。(後記参照)

(2)旧網張街道と田沢湖線の交差地点(地図の凸地点)
旧網張街道を下ると(その後に開業する)橋場線・田沢湖線と交差します。
旧網張街道と橋場線との交差点から橋場線方向を望みます。
橋場線が田沢湖線となってまもない昭和49年の撮影です。
キハ55とキハ52からなる下り835D盛岡発大曲行きです。
先頭キハ55は初期0番台のバス窓です。
宮沢賢治が歩んだ道(岩手山と旧網張街道・小岩井農場)大正10年橋場線開業前の賢治の歩み(国鉄時代の田沢湖線小岩井駅:昭和49年8月撮影):越前堰・苧桶沢・仁沢瀬_f0406950_18362869.jpg
旧網張街道と田沢湖線の交差地点です。
昭和49年8月の撮影です。

小岩井農場の東側を流れる苧桶沢(おぼけさわ)の築堤がみられます。
賢治はこの築堤の建設作業を興味深く眺めたことでしょう。
詳細は次回以降にご紹介します。

(*1)旧橋場線(現田沢湖線)開業前の宮澤賢治の歩んだ道について

宮沢賢治の詩集「春と修羅」に収められた長篇詩「小岩井農場」は賢治の作品では最も長い詩篇です。

大正11年に賢治が小岩井農場を訪れた際の心象を記録したものとされます。

このことから賢治が小岩井農場を訪れたのは大正11年が初めてであるとする記載もみられますが、これは正しくありません。

明治29年生まれの賢治は、旧制盛岡中学(現盛岡一高:大正3年まで在籍)の時代を契機(中学2年に初登山)として盛岡高等農林(現岩手大学:大正7年まで在籍)の時代に岩手山への登山を頻繁に行っていたとされます。

網張温泉に一泊し(土壌改良中の)小岩井農場を経由して盛岡に帰ることが多かったとされます。

賢治の旧制盛岡中学時代の同級生は「賢治は数十回は小岩井農場を訪れている」と証言しています。

大正11年に宮沢賢治が小岩井農場を訪れた際の心象を綴ったとされる長篇詩「小岩井農場」を読めば、賢治が何度も小岩井農場を訪れたことがよくわかります。

橋場線開業前の網張温泉から盛岡への帰途は、旧網張街道に沿ったものとなります。

*旧網張街道について*

旧網張街道は網張温泉から南東への道です。この道は小岩井農場本部から南東方向に進みます。

この経路は、現在の「小岩井農場本部から小岩井駅を経由して県道(219号・131号)を真っ直ぐ南下し、繋十文字を曲がって国道46号線から盛岡へと至るルート」とは全くことなります。

小岩井農場本部の北側から東南方向へ滝沢村仁沢瀬平を進み、小岩井農場の東側を流れる苧桶沢(おぼけさわ)と西側を流れる越前堰(えちぜんせき)(*2)(*3)とが合流する仁沢瀬を経由した経路であったと思われます。

この経路は地図でみるとおり橋場線・田沢湖線とほぼ同じルートです。

つまり田沢湖線小岩井駅から大釜駅までの風景は、賢治には馴染み深い光景であったと思われます。

橋場線小岩井駅開業後は、賢治は小岩井駅前の道を北上し網張街道に突き当たり、これを左折して小岩井農場本部に至ったとされます。

これは「賢治歩行詩考」にて「岡崎敏夫氏」が解明したとおりと考えます。

旧網張街道は昭和40年台まで小岩井農場内の徒歩通行が可能でしたが、現在は通ることができません。

なお仁沢瀬から先は現在の国道46号線(旧秋田街道)に沿って大釜に至ったとの考えもあります。

(確かに秋田街道に沿って進むと鉄道院(鉄道省)盛岡鉄道工場に至ります。鉄道院(鉄道省)盛岡鉄道工場は小岩井農場の農機具の修繕も行いました。小岩井農場の設立に尽力した小野義眞は日本鉄道(後の東北本線)の創立者でもあります。日本鉄道の建設に当たった井上勝も小岩井農場設立者の一人です。)

しかし土木工事に関心が深い賢治は江戸時代の希有な土木工事で完成した越前堰(えちぜんせき)(*2)(*3)に沿って大釜に至ったと考えるのが自然です。

(*2)越前堰(えちぜんせき)について

岩手県の「越前堰」とは、綾織越前広信が1610年に完成させた「越前堰」のことです。

これは岩手県で最も古い農業用水路であり、滝沢村の荒漠としていた平野に約430haの水田をもたらした、岩手山中の水源から平野部まで水を引くための重要な土木工事でした。
完成年:1610年
所在地:滝沢市
長さ:36km

(*3)11/2「越前堤(えちぜんてい)」は俗称であって「越前堰(えちぜんせき)」が正しいとのご指摘を頂戴しました。深くお詫び申しあげます。

by denshakamera | 2025-10-30 18:38 | 鉄道 | Comments(0)

団塊の世代から高度成長期の趣味といえば、プラモ・鉄道模型・切手・カメラでしょうか。今も続いているのが電車・カメラ。なのでdenshakameraです。
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