前回の続きから。
したがって、昼の夢は本当にいっそう充実したものになってほしい。つまり、一段とさえて、勝手気ままなものでなく、納得のいった、理解のゆきとどいた、事物の経過に媒介されたものに。熟そうとする小麦が育成され、収穫されて、実際に手にもって帰れるように。
「希望の原理」第1巻 はじめに (白水社 1982年) p18
ここで言われている、充実した「昼の夢」は、熟して収穫される小麦のように、現実の人の暮らしを満たし、社会をよりよいものにする性質のものであるようです。
そうなってくると、「夢」であるとしても、一個人が自らの心を利己的に慰めるために夢想するしハッピーエンドのファンタジーのようなものではなく、現実を客観的に踏まえた上で、議会などで論じられて最も妥当な形で実施される政策に近いもののように思われます。
普通に暮らしている多くの人は、そのような「昼の夢」を見ることは稀ではないかと思います。20世紀半ばのヨーロッパの人々がどうだったかは分かりませんけれども、現代日本の多くの人々は、選挙で投票する際であっても、そこまで透徹した目をもって公約や政策を吟味して、世の中全体の利益と質の向上を願いながら候補者を選んでいるようには思えません(私も含めて)。
最近の調査によると、日本の有権者は、自分自身の価値観や生活に関わってくる政策の内容や、候補者個人の実務能力、人物像やSNSでの評判などを踏まえて投票することが多いのだそうです。
人が世の中に対して夢見るのは、まず自分自身や身近な人々の幸福な未来であり、欲求の実現でしょうけれども、誰かの願いが、別の誰かの願いの実現を妨げる場合というのは多々あるわけで、自分の願いに近い政策を持つ人に投票したとしても、その候補者が当選することで、別の願いが実現困難になるということだって、あり得ることでしょう。
少子化対策が言われるようになって久しいですが、女性の出産やキャリアに対する自己決定権を侵害するような意見が、間欠泉みたいに吹き上がっては埋め立てられるということが、繰り返し起きています。
少子化対策として有効なのは、若い世代への手厚い支援や保護であると言われていますが、それがなかなか実現しないのは、莫大な予算を必要とすることに加えて、若者の投票率が低いために、若者をターゲットとした少子化対策を掲げても票があまり入らないから政治家が熱心にやらないという、なんとも寒い事情があると、AIが教えてくれました。
考えてみれば、たとえ有権者それぞれが、透徹した目を持って、充実した「昼の夢」を見たとして、選挙によって選ばれた政治家が、その夢を十全に実現できるかというと、夢の内容によっては困難な場合もありそうに思われます。
極端なたとえになりますが、国民の大多数が、議会制民主主義を廃止してAIによる完全統治を望んだとして、それを選挙によって実現することは、とても難しそうに思われます。そんな自己否定的な政策を掲げて身銭を切って候補者を立てる政党が存在するとしたら、それはよほど行き詰まってディストピアに近づいた未来社会であることでしょう。
もっとも、ビッグデータを踏まえてのAIによる政策の立案や、都市のインフラ管理、災害対応などについては、すでに試験的に行われているそうで、実務面でのAI導入はじわじわと進みつつあるようですので、気がついたら総理大臣も議員もみんな「象徴的存在」になってしまっていた、なんていう時代がいずれくるのかもしれません。
だいぶ脱線しました。
次に行きます。
考えるとは、踏み越えることである。
そうはいっても、現にあるものが隠されたり、見落とされたりしてはならない。
現にあるものがせっぱつまった状態に追い詰められているときでも、またそこから抜け出そうとする動きのなかにあっても、そうなのだし、窮迫のさまざまな原因のなかにいるばあいも、ましてやそこから熟しつつある転換の発端にいるばあいにも、そうである。
それゆえ、本当に踏み越えるというこしとは、決して前方(Yor-uns)というただの真空状態にただ夢中になって、ただ抽象的に思い描くだけで、はいっていくことではない。
踏み越えることは、現に存在して動いているもののなかに媒介されているひとつのものとして、新しいものを把握することである。
その新しいものは、解き放たれようとして、新しいものへ向かう意思を極度に要求するけれども。本当に踏み越えるとは、歴史のなかに備わっている弁証法的に進展する傾向を知り活性化することである。
同上 p18-p19
「考えるとは、踏み越えることである」という、とてもキャッチーな文で始まる段落ですが、踏み越えるときの足場はきちんと現実の中に存在し、踏み越えた先に生まれるものも、現実から合理的に媒介されるものである、ということのようです。
弁証法的な歴史理解というと、テーゼ(支配的な状況)、アンチテーゼ(テーゼに対立、矛盾する動きや思想)、ジンテーゼ(対立を乗り越えて生まれる新たな段階)であり、分かりやすい事例をあげるとすれば、こんな感じになるのでしょうか。
ただ、世界はこんなにシンプルであるはずがないので、弁証法的に生まれた新たな段階も多くの矛盾や問題を孕み、事細かに次のアンチテーゼを無数に生成して収集がつかなくなってしまったり、アンチテーゼの段階でスタックしたままジンテーゼにつながらなかったりと、混沌としたまま推移しているのだろうと思われます。
「考えるとは、踏み越えることである」というブロッホは、「昼の夢」として個人に意識される、より良い社会となるべき新たな局面の元(素材)となるものは、すでにいまの現実のなかにあり、合理的に実現されるべきものであると考えているのでしょうか。
その考え方は、とても現実的であり、楽観的でもあるように思われます。
透徹した目を持って現実を把握した上でみる「昼の夢」は、必ず良いものをもたらすと、信じられるのですから。
ふと、こうした考え方と全く正反対の人物を思い出しました。
フランツ・カフカです。
[うまくいかないこと]
うまくいかないことは、うまくいかないままにしておかなくては。 さもないと、もっとうまくいかなくなる。
弁証法を拒否しています。これでは新しいことはなにも起きません。
カフカはブロッホと同世代の小説家で、ブラハのユダヤ人家庭に生まれています。
1924年に、まだ四十歳の若さで亡くなってしまっているので、1939年ごろのナチスによるチェコスロバキア解体や制圧を見ることはありませんでした。もしもその時代をカフカが見ていたなら、どんな絶望的な作品を書いただろうと想像してみるのですが、もしかすると、生前に書かれた(そして多くは完結することなく終わった)作品群と、あまり変わらないかもしれません。
いまある世の中は変わるかもしれないと考えられること自体が、とても楽天的で、「昼の夢」的であるのかもしれません。
(_ _).。o○
蛇足のAIイラストです。
Copilotさんに、上に引用したカフカの一節をイメージしたイラストを描いてもらったら、こうなりました。ちょっとサルバドール・ダリが入っていますね。

ブロッホの「希望の原理」は、新版が白水iクラシックスとして出ていますが、とてもお高いので、私は1982年版の古書を使っています。ときどきヤフオクで全3巻がお手頃価格で出ております。
↓古い方
↓新しくてお高いほう


