享保1年12月8日。政秀寺で法事が始まる。僧は30人。御馳走奉行は石川内蔵亟・成瀬内膳・箕形善左が勤める。御先手は五味市右衛門・左右田与平が勤める。名代は縫殿殿が勤める。辰刻(午前7時)に施餓鬼が始まる。金剛経、点心(軽食)、垂未(示か?)、行導、未刻(午後1時)に非時(午後の食事)、斎食は卯刻(午前5時)。年寄衆以下には食事はなし。ただし、寒いからと寺から好意で吸物に酒が出る。
享保1年11月20日。政秀寺で来月の法事を言いつけられる。
正徳5年9月15日。この日の明け方、政秀寺門の外で鈴木平七若党赤尾丹六が御馬廻渡辺弥左衛門召仕の女しなをふゑ(喉笛)を1ヶ所刺して殺し、自分もふゑを刺したが死ねなかった。丹六は23才で濃州安八郡二俣村の者で、しなは28才で中島郡一宮の生まれ。丹六は平七のところへ引き取ると死んでしまう。実は平七のところで殺していた。弥左衛門と平七は従弟であった。初めて弥左衛門のところに奉公した時から丹六はこの女と親しくしていた。江戸での借金もあり、その上衣更(ころもがえ?)に困っていたと。
正徳3年9月25日。定光寺へ山澄主悦をして真御太刀綱広、御馬代黄金1枚を贈る。建中寺へ石河靭負をして敬公仏殿へ御太刀・御馬代を贈る。瑞公廟へ真御太刀兼定・御馬代を贈る。泰心公廟へ真御太刀兼白・御馬代を贈る。円光院様廟へ真御太刀菊一文字・御馬代を贈る。これは襲封についての御供として。安芸から寄合播田勘之亟が戻る。御悔の返礼として出向いていた。九条様へは下条庄兵衛、勘之亟と同日に仰せ付けられる。御悔の返礼として。襲封に付きこの日三社、その他万松寺・政秀寺・相応寺・大森寺などへも名代がある。
宝永3年12月7日。貞松様23回法事が政秀寺で行われる。(後略)巳刻(午前9時)、大久保見町衣屋の裏屋から火が出るが、すぐに消し止める。煙が旅所の林を覆い、政秀寺の風上だったので騒ぎとなる。しかし、すぐにおさまったので大事にはならず。9日に衣屋は戸を縛られる。
宝永3年8月22日。普峯院様の33回忌の法事が行われる。27日のことで政秀寺で行われ、僧50人が出る。名代は中条主水殿、馳走奉行は成瀬内膳・高木主計・星野七右衛門、足軽頭後藤彦太夫・青山儀左衛門。
元禄14年10月15日。政秀寺で祥光院(広幡忠幸)の33回忌の法事が行われる。側物頭までが詰める。近頃文左衛門が聞いたところでは後藤弥次右がさよという妾にとても狂っていると。
元禄13年8月22日。この日から翌日まで政秀寺で普峯院様(京姫)の27回忌の法事が行われる。僧は50人、下部(僕)まで支度(食事)を下される。(後略)
元禄9年10月5日。雨が降る。近頃、江戸屋源兵衛という扇売りは貧しく食べていくこともできず、自分の家に居ることもできなかった。政秀寺ではこれを憐れみ、寺で面倒をみていた。その後、源兵衛は牢に入る。源兵衛の女房を外に置き、寺の僧などと関係を持たせていた。政秀寺の住持・白林寺なども同じく関係を持っていた。近頃、裏の屋敷で妖怪が現れると。あるいは上下を着た者が夜現れると。夜更けに雨が降ったが、その後晴れる。
元禄6年12月27日。この日、成瀬隼人正組・竹腰筑後守組がそれぞれ1組15日替りで火事番を勤める。隼人正組は建中寺・相応寺・高岳院。筑後守組は万松寺・性高院・政秀寺。