精神科医であるヴィクトール・フランクルによるノンフィクション。
自身の強制収容所での経験をもとに書かれている。原文は1947年に出版。「言語を絶する感動」と評された。日本では1985年の霜山徳爾による翻訳のほか、2002年には池田香代子訳による新版が出版されている。
夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録
夜と霧 新版
アラン・レネ監督による映画作品。
1955年にフランスで公開。第二次世界大戦中のホロコーストを告発したドキュメンタリー。日本では1961年に公開された。
夜と霧 [DVD]
自分が勧める一冊と言われればこの「夜と霧」ヴィクトール・フランクルを選ぶ。 人は耐え難い痛みにも、耐えなければならないときがある。 そんなとき「夜と霧」を読む。 もっと頑張ってみようと思える。 「夜と霧」は、フランクル自身のナチスによる強制収容所における体験記だ。 彼は終始、運命に対してどういう態度をとるか問う。 「あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望していない。」 人生はあなたに期待しているのだ。 私達が生きることから何を期待するかではなく、むしろひたすら、生きることが私達からなにを期待しているかが問題なのだ。 人間が生きることは、常に、どんな状況でも意味がある。 この存在することの…
『のためより、無のために――それが合言葉です。例えば、ラ・ロシュフーコーには、次のような定義が見られます。「完全な勇気とは、みんなが見ている前でできることを、誰も見ていないところですることにある」。また、この定義とともに、スウェーデンの新聞が発表した、道徳性についての見事な定義を挙げるべきでしょう。その定義によれば、道徳的模範として次のような男性の例が挙げられています。その男性は、盲目の物乞いの前を通りがかり、一枚の高価な硬貨を物乞いの帽子の中に投げ入れました。そして、他人に見られないように自分の帽子を脱いでお辞儀をしたのです。この身振りが意味しているのは、ここで一人の人間が、まったく無意味に…
『第一節 人間中心主義 上述のように、ヒューマニズムの危機が始まるのは、人間が人間にとって一切になるときです。それに対して、人間学主義が始まるのは、人間が、たんに考察の前面に立つだけではなく、価値評価の中心に立つとき、すべての価値評価の尺度になるときです。では、このような傾向はどこから来るのでしょうか。 フロイトがかつて指摘したように、人間の自己意識――フロイトが言うにはナルシシズム―― は、人々が抱く世界像のコペルニクス的転回、つまり天動説的世界像から地動説的世界像への転回によって動揺しました。人類は当時、一種の地球的規模の劣等感に襲われ、その劣等感が――まさしくアドラーの理論の意味での補償…
― 構造が人を殺しに来たとき、実存が立ち上がる ― 世界はいま、かつてない速度で“構造”の支配を強めつつある。 国家の政策、企業のアルゴリズム、言語空間の劣化、そして「空気」という名の非対称な圧力。人々はいつの間にか、透明で巨大な構造のなかに包摂され、その内部で「正しい振る舞い」を強制されている。 コロナ期に露わになったものは、秩序でも理性でもなく、構造そのものが人間を丸呑みにする力だった。 “豚の皮を被れ。”多くの人が、そういう無言の指示に従わされた。 この窒息感は新しいものではない。20世紀最大の暗黒であるアウシュビッツは、この構造支配の“極限形態”だった。 鉄条網とガス室だけが問題だった…
『 ……もっとも、人間は孤独でなければなりません。孤独であってはじめて、一人ではないこと、ずっと一人ではなかったことに気づくことができるのです。人間は孤独でなければなりません。孤独になってはじめて、自分との対話が相手との対話であることに、ずっとそうであったことに気づくことができるのです。 人間が自分との対話において、そして最終的には彼との対話において話しかけるものが「無」であるように思われるのは、それが、存在者の中にある存在者ではなく、あらゆる存在者の根拠であり、存在そのものであるからです。存在そのものはどれほど無に似ていることでしょうか。「見よ、たとえ彼が私のそばを通り過ぎても、私には何も見…
『つまるところ人間とは何であるのか。私たちは、おそらくこれまでのあらゆる世代以上に、人間を知っています。私たちは、強制収容所で人間を知りました。強制収容所では、あらゆる非本質的なものが人間から溶け去りました。人間が持つすべてのもの――金、権力、名声、幸福———— が抜け落ちたところ、人間が「持つ」ことができず「ある」ことしかできないものだけが残ったところ、そこで残ったものは、人間自身だったのです。苦痛に燃やされ苦悩に焼かれて、人間は人間の中にある本質的なもの、人間的なものへと溶かし込まれたのです。 つまるところ人間とは何であるのか。もう一度そう問いましょう。人間とは、自分がどのような存在である…
『彼女はこう書いています。「私の人生が豊かになったのはいつだったでしょうか。それは、私(彼女は簿記係でした)が他人の役にばかり立っていて、やらなければいけないことだらけで自分を見失っていたころでしょうか。それとも、さまざまな精神的問題と格闘し、さらには死の不安を乗り越えようと格闘してきたこの数年間でしょうか。死の不安は私を悩ませ、私を急かし、追いかけました。それは考えられないほど厳しいものでしたが、このことだけでも、 私には一ダースもの完璧な決算表より価値があるように思えるのです」。 彼女の人生は「より豊かに」なったのです。このことは私たちにとって手がかりになります。というのも、苦悩するとは、…
『勇気と慰めが彼に与えられたのであれば、その勇気と慰めを彼は伝えていかなければなりません。そして、それは別の形で報われるのです。他者を確信させることが自分の確信をも強めることになるということを体験したことのない人がいるでしょうか。他者を慰めることによって自分が慰められるということを自分自身で経験したことのない人がいるでしょうか。ですから、「教えることによって学ぶ (docendo discimus)」をもじって次のように言うこともできるでしょう。慰めることによって慰められる (consoliondo consolamur)" 苦悩とは、このように、何よりもまず業績であることができます。しかし、…
『 人生の意味とは結局、各人が自分の本質を存在にもたらすことにあるのだとすれば、現存在の意味とはつねに具体的なものでしかありえないということは自ずから明らかです。現存在の意味は、ただそのつどの人格に即して (ad personam)、またそのつどの状況に即して(ad situatio mm)のみ妥当するのです(というのも、個々の人格に対してだけではなく、個々の状況に対しても、それぞれの意味実現がなされるべきであるからです)。それゆえ、人生の意味への問いはただ具体的にのみ立てられうるのであり、答えもただ活動的にのみ与えられうるのです。「人生問題」に答えるとは、とりもなおさず、「人生問題」に責任を…
こんにちは。シーズです。適応障害で休職して1か月過ぎました。3週間目の時点で悩まされていた不眠症状は解消されて、最近はとてもよく眠れるようになってきました。ご近所を毎日散歩するのも飽きるので、低登山したり、ディズニーシー行ったり、”早起き+いっぱい歩く”で自分の不眠はよくなりました。9月25日に8月分のお給料の振込があり、給与明細を確認したら自分史上、過去最高月収を更新!残業代と休日出勤手当がでかい!まあ、どんなに稼いでも心身に支障をきたしては意味がないですね。人生はマラソンなので、自分のペースで走り続けることが大事ということが、今回とても身に沁みております。そして、最近読んだ本を1冊紹介しま…