今年最後の稽古には、「本来無一物」の軸がかけられていました。この言葉は、心を鏡にたとえ、塵を払うように煩悩を取り除いて、悟りに近づこうとする考えに対する反論なのだといいます。身体も心も、そもそも鏡のような実体ではなく、何ものも宿していない。だから塵もまた付くはずがない。悟りとは、その「無」のあり方から、忽然と立ち現れるものなのだ、と。奥伝の稽古で茶杓の銘を述べる際に、この「本来無一物」を用いますが、そうした思弁的な意味を思い浮かべることは、ほとんどありません。代わりに、もっと清廉な、形を持ったものを心に描いています。たとえば、掛け花入に「卯の花」が一輪さしてある、その姿です。 花の白には、特定…