在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究 

在外日本関連コレクションの調査・研究報告 https://researchmap.jp/mamiko

シーボルト父子コレクション ② シーボルトの日本博物館

 シーボルト・コレクションは国内外で保管、展示されていますが、コレクションを持ち帰った時点でシーボルト自身による展覧会も開かれていました。シーボルト自身による展覧会については、近年研究がすすみ書籍の刊行のほか、展覧会も開かれました。

 シーボルト父子のコレクションと日本展示については国立歴史民俗博物館と海外のシーボルト関連文物を所蔵する博物館との共同研究により近年詳細な調査がおこなわれています。

 

 これらの研究によると、父フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは一度目の訪日時に収集したものを1832年ライデンのシーボルト自宅にて公開展示、のちにこのコレクションは1838年にオランダ政府に買い上げられました。さらに 1859 (安政6)年から1862 (文久2)年にかけての2度目の来日時の収集品は、帰国後の1863年アムステルダム産業振興会館で展覧会を開催して展示、その後、生まれ故郷ヴュルツブルグのマックスシューレ(公立マックス職業学校)において展示、1866年にはミュンヘンの宮殿にて展示されることになりました。シーボルトの死後、コレクションは生前の約束により1874年にバイエルン政府によって買い上げられ、1868年に設立されていた民族学博物館(現在のミュンヘン5大陸博物館)が所蔵するにいたります。

 

 国立民族学博物館にて『よみがえれ!シーボルトの日本博物館』展が2016年7月12日から9月4日にかけて開催され、その後各地を巡回しましたが、この展覧会では1866年にミュンヘンの宮殿でおこなわれたシーボルト監修による最後の日本展示が再現されました。当時ミュンヘンの会場では、7室のうち3つの空間が日本の展示で、残りは中国・インド・東南アジア・アフリカ・オセアニア・先史時代・アメリカからの文物が展示されました。

 

企画展示 | スケジュール | こどもれきはく(国立歴史民俗博物館)

企画展示「よみがえれ! シーボルトの日本博物館」 | レポート | アイエム[インターネットミュージアム]

 

【参考】国立歴史民俗博物館監修『よみがえれ!シーボルトの日本博物館』(青幻舎、2016年)

 

長年のシーボルトに関する国立歴史民俗博物館ミュンヘン五大陸博物館、ウィーン世界博物館、ブランデンシュタイン=ツェッペリン家、ボーフム大学図書館による国際共同研究調査の成果は、各機関を横断してシーボルトコレクションの検索ができるようにもなっています。

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シーボルト父子によるコレクション ①

 江戸時代、オランダ商館員として来日した人物が収集した文物を本国に送る、もしくは持ち帰った後、本国などで展示、公開された事例があります。例えば、ケンペル、ブロムホフ、フィッセル、シーボルトなどです。

万博以前のヨーロッパにおける日本関連文物の展示② ケンペル 大英博物館 - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

 

 フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz von Siebold、1796-1866)は、ドイツのヴュルツブルグに生まれた医師、博物学者で1823年8月に来日、長崎出島のオランダ商館医として活動したほか、1824年には出島外に鳴滝塾を開設し西洋医学を教えました。また、オランダ商館長の江戸参府に同行した際など日本各地をまわるなかで多くの文物を収集し本国に送付、もしくは持ち帰ったほか、出島内に植物園を開設して多くの植物を栽培したほか、植物標本、植物を本国に送りました。

 

 長男のアレクサンダーは父の再来日に同行し、1859年以来日本に滞在、イギリス公使館の通訳となり、後に1867年パリ万博の際には徳川昭武遣欧使節団に同行した。その経験をいかし明治政府にとって初めての万博公式参加となった1873年ウィーン万博では、日本の参加出品のアドバイスをおこないました。(著作に『シーボルト最後の日本旅行』(斎藤信訳、平凡社東洋文庫、1981年)。)

 次男ハインリヒは兄アレキサンダーの再来日に同行して1879年来日、オーストリア=ハンガリー帝国大使館の通訳兼外交官として勤めながら考古学調査、民族学的収集をおこないました。(著作に『小シーボルト蝦夷見聞記』(原田信男訳、平凡社東洋文庫、1996年))

ハインリッヒについては、国立歴史民俗博物館とウィーンの世界博物館の共同プロジェクトによる調査がおこなわれ2020年にウィーン世界博物館にて特別展「Japan zur Meiji-Zeit. Die Sammlung Heinrich von Siebold(明治の日本―ハインリッヒ・フォン・シーボルトの収集品から)」が開催され、その成果は日高薫/ベッティーナ・ツォルン責任編集、人間文化研究機構国立歴史民俗博物館編『『異文化を伝えた人々 ハインリッヒ・フォン・シーボルトの蒐集資料』(臨川書店、2021年)として刊行されました。

www.weltmuseumwien.at

 

 長女の楠本イネは、医学、蘭学オランダ語を学び、産科医となりました。

 

 父フランツ、そして二人の息子アレキサンダー、ハインリヒもふくめたシーボルト父子の日本関連コレクションはオランダ、ドイツ、オーストリア、日本などで保管、展示されています。 

 

オーストリアの日本関連文物 世界博物館② フランツ・フェルディナント皇太子日本滞在関連 - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

ウィーン万国博覧会と日本③ 日本からの出品物の現在ー応用美術博物館(MAK) - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

 

イギリス内に所蔵されている日本関連文物・書籍コレクションと日本研究(ケンブリッジ大学) - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

和紙コレクション パークス、オールコック、シーボルト - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

 

 

 シーボルト父子に関する研究は蓄積があり、幕末から明治初期にかけての日本の文物、およびそのヨーロッパでの蒐集、展示、外交など多方面から研究がなされています。

 

 シーボルト(父)はドイツ人ですが、オランダ商館員として来日、国交のないドイツ人としての来日は不可能であったためオランダ人として日本に来日しました。そのため、彼のコレクションはオランダ、とりわけライデン市で多く保管されており、ライデンにある国立植物学博物館,国立自然史博物館,世界博物館(旧国立民俗博物館)などに分蔵されています。

 

 ライデン世界博物館は立命館大学との共同研究により日本関連の文物とりわけ浮世絵、古典籍のデジタル化がすすめられ、データベースが公開されています。

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植物標本ほか、アジサイなども送られ現在はその子孫が育てられています。

シーボルトの植物標本などのコレクションはライデンの国立植物学標本館のほか、ロシアのサンクト・ベテルブルクのコマロフ植物研究所、ドイツのミュンヘンバイエルン州立植物標本館のほか日本国内では東京大学総合研究博物館東京都立大学理学部附属牧野標本館などで保管、展示されています。

2000年には日蘭交流400年を記念してオランダ国立植物学標本館から東京大学総合研究博物館に標本が450点余り贈られ、2003年10月4日―12月7日に東京大学総合研究博物館にて「シーボルトの21世紀」と題した展覧会が開かれました。

シーボルトの21世紀

 

 このように現在もシーボルト・コレクションは国内外で保管、展示されていますが、シーボルト(父)がヨーロッパに持ち帰った時点で、彼自身による展覧会も開かれました。シーボルト自身による展覧会については、近年研究がすすみ書籍の刊行のほか、展覧会も開かれましたが別項目で説明します。

 

ウィリアム・アンダーソンと日本研究

 1891年9月9日、イギリス・ロンドンで国際東洋学者会議日本分科会がフランス人の日本研究者レオン・ド・ロニーを議長として法律協会の図書室で開催されました。その席で、この分科会の名誉事務局長アーサー・ディオシーは日本研究を促進するために世界中の日本に関心を持つ人が一同に会することを目的とする協会をロンドンに設置するという構想を述べ支持を得ました。これがロンドンの日英協会のはじまりです。

フランスの日本研究とレオン・ド=ロニー - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

 

 日英協会第1回会合は1891年12月8日に開かれ、お雇い外国人として海軍軍医教育を担った医師ウィリアム・アンダーソンが理事長に選出されました。(横山俊夫解説/大山瑞代訳、サー・ヒュー・コータッツイ&ゴードン・ダニエルズ編『英国と日本 架橋の人々』(思文閣出版、1998年)サー・ヒュー・コータッツイ「日本協会百年の歴史」参照)

 

 初代会長ウィリアム・アンダーソン William Anderson(1842-1900)は、そもそもロンドンの病院で外科研修医兼解剖学実験授業の助手として働く医師でしたが、明治政府の命によりロンドンを訪れていた寺島宗則によって新しく設立された帝国海軍医学校・海軍病院の解剖学と外科の教授に任命されて1873年に来日、六年間におよび海軍病院に勤務し、海軍軍医寮で海軍軍医の教育にあたりました。

 アンダーソンは日本滞在中に多くの日本美術品を蒐集しており、帰国後の1883年には約3000点にもおよぶコレクションを3000ポンドで大英博物館に売却しました。さらに日本に関する美術書The Pictorial Arts of Japanを執筆し1886年に刊行します。1896年には日本語訳『日本美術全書』が刊行されましたが、その翻訳者は明治~大正時代にかけて活躍した政治家、文学者、批評家で、伊藤博文内閣では逓信大臣や内務大臣を歴任した末松謙澄です。(末松は1878年に日本公使館付一等書記官見習としてイギリスに留学、1880年ケンブリッジ大学に入学し、法学を専攻する傍ら1882年には抄訳であるが『源氏物語』の英訳を刊行していました。)

 

 また1879年(明治12)6月17日火曜、午後4時から東京・虎ノ門の工部大学校で開かれた日本アジア協会の会合で「日本美術の歴史」を口頭発表し、その論文は同協会の機関誌『日本アジア協会紀要』に掲載されました。(鈴木廣之「誰が日本美術史をつくったのか?-」明治初期における旅と収集と書き物―)(『お茶の水女子大学比較日本学研究センター研究年報』(4)2008年、103頁)

日本アジア協会

日本研究の歴史 日本アジア協会設立経緯① - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

日本アジア協会 設立経緯② - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

 

アンダーソンの日本美術研究は、のちにボストン美術館の日本美術コレクションの礎をつくったフェノロサにも影響を与えたといわれています。

 

【参考文献】

彬子女王「ウィリアム・アンダーソン・コレクション再考」(『お茶の水女子大学比較日本学研究センター研究年報』(4)2008年 123-132頁。

 

ショイベ収集 「酒呑童子絵巻」 ライプツィヒ・グラッシー民族博物館

2025年4月29日~6月15日(日)にかけてサントリー美術館にて「酒呑童子ビギンズ

」と題した展覧会が開催されています。

www.suntory.co.jp

 

 

絵巻のごく簡単なあらすじは、都の貴族の娘たちが次々に鬼にさらわれる、ということがおこり、鬼退治に源頼光とその家来が鬼退治をおこなう、という物語です。室町時代から江戸時代に人気をはくし、様々な絵巻など物語がつくられました。鬼の住処により大江山系と伊吹山系にわかれるそうです。

 

この展覧会ではライプツィヒ・グラッシー民族博物館(GRASSI Museum für Völkerkunde zu Leipzig)所蔵の住吉廣行筆「酒呑童子絵巻」も展示されています。

この作品は1877~82にかけて来日していたドイツ人お雇い医師ショイベ(Heinrich Botho Scheube)の蒐集物のひとつで、このほか「四条河原遊楽図屛風」も持ち帰り同じくライプツィヒ・グラッシー民族博物館に所蔵されています。

 

参照 江村知子(東京文化財研究所)「河原の風景―ライプツィヒ民族学博物館所蔵「四条河原遊楽図屛風」について―」 

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お雇い外国人が日本の文物を蒐集した例はほかにもあり、ウィリアム・アンダーソン収集の日本美術品は大英博物館に所蔵されています。

ウィリアム・アンダーソン

ウィリアム・アンダーソンと日本研究 - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

 

また、『ベルツの日記』などの著作もあるエルヴィン・フォン・ベルツのコレクションはドイツのリンデン州立博物館に彼の収集した日本美術品が収蔵されています。

ベルツとコレクションについては、また別の項目にします。

 

ベルツの親友であり、オランダ商館員として来日したシーボルト、それ以前に来日したケンペルらも医師であり博物学者であったことから様々な文物、植物などを蒐集し本国に送っていました。

万博以前のヨーロッパにおける日本関連文物の展示② ケンペル 大英博物館 - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

 

シーボルトについても別の項目で説明します。

ボストン美術館所蔵 「吉備大臣入唐絵巻」

2025年4月19日から6月15日にかけて京都国立博物館にて大阪・関西万博開催記念特別展「日本、美のるつぼ」が開催されています。

特別展 日本、美のるつぼ―異文化交流の軌跡―

 

日本美術の歴史をテーマにしていますが、異文化との交流によりさまざまな美術品が産まれたということを中心にしています。展覧会のプロローグは「万国博覧会と日本美術」としていますが、1900年パリ万博の際に出版された千九百年巴里万国博覧会臨時博覧会事務局編 Histoire de l’Art du Japon (1900年)が展示されています。この本は翌年に日本語に翻訳され『帝国日本美術略史』(農商務省、1901年)として刊行されました。

帝室博物館美術部長であった岡倉天心が編纂主任でしたが、途中岡倉が美術部長を罷免され東京美術学校校長を追われたことにより、その後の中心は編纂副主任であった福地復一が中心となりました。

本展覧会のエピローグではアメリカ・ボストン美術館が所蔵する「吉備大臣入唐絵巻」が展示されています。絵巻の内容は、遣唐使として唐にわたった吉備真備が現地で様々な難題に直面し、それを思いもよらない方法で解決していく様子が絵巻に描かれています。

 

所蔵するボストン美術館といえば、日本美術品が多く所蔵されその蒐集の中心を担った人物として明治時代のお雇い外国人として来日したフェノロサ、さらには中国・日本美術部長をつとめた岡倉天心らがあげられます。しかし「吉備大臣入唐絵巻」は、岡倉の次にアジア部長を務めた(1931―1963)岡倉天心の弟子にあたる富田幸次郎がボストン美術館を代表して購入にあたりました。また、ボストン美術館がこの絵巻を購入したことが契機となり1933(昭和8)年「重要美術品等の保存に関する法律」が成立しました。当時富田は日本の国宝級の美術品を海外に流出された人として激しい非難を日本から受けましたが、彼の詳細な業績、購入経緯などは橘しづゑ『ボストン美術館 富田幸次郎の50年―たとえ国賊と呼ばれても』(彩流社、2022年)に詳しく書かれています。

17,18世紀ヨーロッパにおける日本関連情報 文書と絵画

17,18世紀にヨーロッパで伝播した日本情報といえば、日本における宣教、受洗、殉教、そして天正遣欧使節団、慶長遣欧使節団が主な物としてあげられます。

 

日本におけるキリスト教の伝播といえば、イエズス会などの宣教師たちの本国への報告書や書簡があげられます。また、天正・慶長遣欧使節団は訪問先での様子が細かに記され、その様子も伝播していきました。

有名なものに、フランシスコ・ザビエルの書簡集があります。

また、当時の日本の状況を知る史料としても使われるルイス・フロイスの『日本誌』がありますが、東京大学史料編纂所イエズス会の文書の書簡集を編纂しています・

  『イエズス会日本書簡集』

https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kaigai/

 

ヨーロッパにおける日本関連書籍については国際日本文化研究センターが調査、研究の蓄積があります。

https://kutsukake.nichibun.ac.jp/obunsiryo/

 

一方でどのように受容されたかという問題がありますが、近年では蝶野立彦氏の「対抗宗教改革期及び30年戦争期のドイツにおける日本宣教情報の受容と解釈―1580年代~1630年代の《イエズス会日本書翰・年報》《天正遣欧使節記録》《慶長遣欧使節記録》の出版とその歴史的背景」(『明治学院大学教養教育センター紀要:カルチュール』、13号、2019年)があります。

 

もちろん、宣教や殉教の様子は単に文書史料として残るだけでなく、絵画として描かれ、教会や関係者の邸宅に今でも残されているものがあります。また文書についても、そのまま版を重ねるだけでなく、刊行された書籍に掲載された情報が引、二次利用、三次利用というように引用され各地に伝播しました。

 

鹿毛敏夫編『描かれたザビエルと戦国日本』(勉誠社、2017年))

書籍に掲載された情報についてはまた別項に書きたいと思います。

 

天正遣欧使節については当時の様子だけでなく、現在までの研究からその史料の価値、グローバルヒストリーのなかで使節団を考える伊川氏の研究があります。

伊川健二『世界史のなかの天正遣欧使節』(吉川弘文館、2017)

伊川健二「天正遣欧使節の史料学」(「WASEDA RILAS JOURNAL」 8、2020年 357-363頁 。

 

慶長遣欧使節団については日欧の文書を集めた

大泉光一編『支倉六右衛門常長「慶長遣欧使節研究史料集成』(雄山閣、2013年)

があります。

18,19世紀の日本を題材としたオペラ・演劇 

 

 

日本を題材としたオペラ、演劇というと、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのジャポニスムブームのなかのもの、たとえば、ピエール・ロティの『お菊さん』やプッチーニの「蝶々夫人」が思い浮かぶかもしれませんが、それ以前の18世紀初頭からすでに創作されはじめており、近年研究がとみに充実しています。代表的なものに

小俣ラポー日登美『殉教の日本―近世ヨーロッパにおける宣教のレトリック』(名古屋大学出版会、2023)ほか小俣氏の一連の研究があります。

 

ヨーロッパにおける日本を題材としたオペラ、演劇研究は古くは尾崎賢治訳、トマス・インモース『変わらざる民族 演劇東と西』(南窓社、1972年)

 

 18世紀の初頭からヨーロッパを中心にみられた日本を題材とした演劇、オペラのテーマは、「殉教」、「宣教から殉教」、「受洗から殉教」というようにカトリックの日本における宣教、受洗、殉教へという当時の状況についてのものでした。この背景には、ヨーロッパ側のキリスト教内の状況、すなわち、宗教改革から対抗宗教改革へというカトリックプロテスタントの攻防、さらにはカトリック内の会派における列聖をめぐる問題などがありました。しかしながら事細かく登場人物の名前、時代背景などがテーマとされたのはイエズス会をはじめとした宣教師たちが日本から本国へと詳細な報告を送っていたからこそと言えます。

 小俣氏のほかに、当時のヨーロッパの状況をふまえた研究に大場はるか氏の研究があります。

大場はるか「近世ドイツ語圏南部の「宗派化」と日本のキリシタンー演劇に見られる宗派的規範の継承と「他者」の表現」(『歴史学研究』941、2016年)

大場はるか 「近世内オーストリアの居住都市グラーツにおけるイエズス会劇と肥後・八代の殉教者:「日本劇」の比較考察のために」(『比較都市史研究』35巻1号、2016年)

 

そもそもイエズス会における日本での殉教演劇を対抗宗教改革の一側面として位置づけたと蝶野氏は評しています。

蝶野立彦「対抗宗教改革期及び30年戦争期のドイツにおける日本宣教情報の受容と解釈―1580年代~1630年代の《イエズス会日本書翰・年報》《天正遣欧使節記録》《慶長遣欧使節記録》の出版とその歴史的背景」(『明治学院大学教養教育センター紀要:カルチュール』、13号、2019年)

 

そのほか、カトリックであったオーストリアにおける受容として以下の研究があります

佐藤眞知子訳、マーグレット・ディートリヒ「ウィーン宮廷のイエズス会劇―切支丹に託したオーストリアの敬虔なる心―」(L.アルムブルスタ―、C.ツェーリック共編『大ハプスブルク帝国 その光と影』(南窓社、1994年)所収98-150頁。)

 

 

野口英夫「M.ハイドン高山右近劇≪キリスト教徒のゆるぎなさ」―日本が促した再発見

」(『神戸モーツァルト研究会 第258回例会 2018年2月4日』

 

新山カリツキ富美子「〈日本から世界へ、世界から日本へ〉25ヨーロッパにおける日本殉教者劇:細川ガラシャについてのウィーン・イエズス会ドラマ」(『世界の日本研究』(特集号、国際的視野からの日本研究)2017年、284-294頁。

 

 

Detlev Schauwecker氏と西村千恵子氏による有馬晴信のオペラ台本の調査研究もあります。

 

このように様々な研究がすすんでいますがイエズス会で上演されたものが600以上(佐藤眞知子訳、マーグレット・ディートリヒ「ウィーン宮廷のイエズス会劇―切支丹に託したオーストリアの敬虔なる心―」(L.アルムブルスタ―、C.ツェーリック共編『大ハプスブルク帝国 その光と影』(南窓社、1994年)所収98-150頁。)との研究があります。小俣氏らの研究には、フランシスコ会などほかの会派についての言及もあるので、日本に関するオペラ、演劇と会派の制限を取り外すと、さらに数は増えることでしょう。

 

いつ頃からか、という問題がありますが、上記の研究を参考にして概して言えば当時の様子は以下のようになります。

日本の殉教者を題材にした演劇上演最古の記述は、 

1602年 作者不詳『日本の殉教者たち』と題する芝居がマドリッドから90キロほど離れた町 エル・バルコ・デ・アビラで上演されたもので、これは 長崎26殉教者の死が刊行物によりヨーロッパに伝播の直後のことである。(小俣ラポー『殉教の日本』312頁。)

 

続いて、1607年 ジェノバ 肥後の小西行長を題材にした悲劇 『アゴティーノ・ツニカミドノ』、同年グラーツで最初の日本劇、イエズス会演劇が始まる『日本王 アゴスティノ・ツニカミンドノ』が上演

 (正式『日本の二兄弟の相愛」1603年の八代・肥後における殉教の演劇化の可能性が高い(大場2016))

1620年12月9日 マニラにて フランシスコ会により『日本の殉教者の劇』上演

この後、更に多くの都市で上演されていきますが、上演する際の小道具や衣裳などはどうしたのでしょうか?上演記録はあれどその台本がすべて見つかっているわけではないようですし、また上演の際の衣裳、小道具についてはほぼわからないかもしれません。しかしながら日本に関する情報(文章、絵画、文物)を持ち、かつ日本からの文物が実際に保存されていたイエズス会関連の教会、学校であれば、それを参考にして小道具がつくられたり、衣裳がつくられたからかもしれません。遠いけれども実際にある国、さらにそのような衣裳を模して宣教、殉教劇を繰り広げるのは東方への宣教師を育成する上で活用できると考えられたのではないでしょうか。

 

文物、書籍の伝播だけでなく、そこから得られる情報をもとにした創作物としての演劇なども17、18世紀ごろには創られ始め、その波はヨーロッパ各地へ、さらには宣教先であるマニラでも上演されていたことなどが明らかになってきましたが、そのことは、19世紀後半から20世紀にかけてのジャポニスムの流行、言い換えれば日本風のものが受け入れられていく前の土壌形成になっていたのではないか、とも思います。