日本を題材としたオペラ、演劇というと、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのジャポニスムブームのなかのもの、たとえば、ピエール・ロティの『お菊さん』やプッチーニの「蝶々夫人」が思い浮かぶかもしれませんが、それ以前の18世紀初頭からすでに創作されはじめており、近年研究がとみに充実しています。代表的なものに
小俣ラポー日登美『殉教の日本―近世ヨーロッパにおける宣教のレトリック』(名古屋大学出版会、2023)ほか小俣氏の一連の研究があります。
ヨーロッパにおける日本を題材としたオペラ、演劇研究は古くは尾崎賢治訳、トマス・インモース『変わらざる民族 演劇東と西』(南窓社、1972年)
18世紀の初頭からヨーロッパを中心にみられた日本を題材とした演劇、オペラのテーマは、「殉教」、「宣教から殉教」、「受洗から殉教」というようにカトリックの日本における宣教、受洗、殉教へという当時の状況についてのものでした。この背景には、ヨーロッパ側のキリスト教内の状況、すなわち、宗教改革から対抗宗教改革へというカトリックとプロテスタントの攻防、さらにはカトリック内の会派における列聖をめぐる問題などがありました。しかしながら事細かく登場人物の名前、時代背景などがテーマとされたのはイエズス会をはじめとした宣教師たちが日本から本国へと詳細な報告を送っていたからこそと言えます。
小俣氏のほかに、当時のヨーロッパの状況をふまえた研究に大場はるか氏の研究があります。
大場はるか「近世ドイツ語圏南部の「宗派化」と日本のキリシタンー演劇に見られる宗派的規範の継承と「他者」の表現」(『歴史学研究』941、2016年)
大場はるか 「近世内オーストリアの居住都市グラーツにおけるイエズス会劇と肥後・八代の殉教者:「日本劇」の比較考察のために」(『比較都市史研究』35巻1号、2016年)
そもそもイエズス会における日本での殉教演劇を対抗宗教改革の一側面として位置づけたと蝶野氏は評しています。
蝶野立彦「対抗宗教改革期及び30年戦争期のドイツにおける日本宣教情報の受容と解釈―1580年代~1630年代の《イエズス会日本書翰・年報》《天正遣欧使節記録》《慶長遣欧使節記録》の出版とその歴史的背景」(『明治学院大学教養教育センター紀要:カルチュール』、13号、2019年)
そのほか、カトリックであったオーストリアにおける受容として以下の研究があります
佐藤眞知子訳、マーグレット・ディートリヒ「ウィーン宮廷のイエズス会劇―切支丹に託したオーストリアの敬虔なる心―」(L.アルムブルスタ―、C.ツェーリック共編『大ハプスブルク帝国 その光と影』(南窓社、1994年)所収98-150頁。)
野口英夫「M.ハイドンの高山右近劇≪キリスト教徒のゆるぎなさ」―日本が促した再発見
」(『神戸モーツァルト研究会 第258回例会 2018年2月4日』
新山カリツキ富美子「〈日本から世界へ、世界から日本へ〉25ヨーロッパにおける日本殉教者劇:細川ガラシャについてのウィーン・イエズス会ドラマ」(『世界の日本研究』(特集号、国際的視野からの日本研究)2017年、284-294頁。
Detlev Schauwecker氏と西村千恵子氏による有馬晴信のオペラ台本の調査研究もあります。
このように様々な研究がすすんでいますがイエズス会で上演されたものが600以上(佐藤眞知子訳、マーグレット・ディートリヒ「ウィーン宮廷のイエズス会劇―切支丹に託したオーストリアの敬虔なる心―」(L.アルムブルスタ―、C.ツェーリック共編『大ハプスブルク帝国 その光と影』(南窓社、1994年)所収98-150頁。)との研究があります。小俣氏らの研究には、フランシスコ会などほかの会派についての言及もあるので、日本に関するオペラ、演劇と会派の制限を取り外すと、さらに数は増えることでしょう。
いつ頃からか、という問題がありますが、上記の研究を参考にして概して言えば当時の様子は以下のようになります。
日本の殉教者を題材にした演劇上演最古の記述は、
1602年 作者不詳『日本の殉教者たち』と題する芝居がマドリッドから90キロほど離れた町 エル・バルコ・デ・アビラで上演されたもので、これは 長崎26殉教者の死が刊行物によりヨーロッパに伝播の直後のことである。(小俣ラポー『殉教の日本』312頁。)
続いて、1607年 ジェノバ 肥後の小西行長を題材にした悲劇 『アゴスティーノ・ツニカミドノ』、同年グラーツで最初の日本劇、イエズス会演劇が始まる『日本王 アゴスティノ・ツニカミンドノ』が上演
(正式『日本の二兄弟の相愛」1603年の八代・肥後における殉教の演劇化の可能性が高い(大場2016))
1620年12月9日 マニラにて フランシスコ会により『日本の殉教者の劇』上演
この後、更に多くの都市で上演されていきますが、上演する際の小道具や衣裳などはどうしたのでしょうか?上演記録はあれどその台本がすべて見つかっているわけではないようですし、また上演の際の衣裳、小道具についてはほぼわからないかもしれません。しかしながら日本に関する情報(文章、絵画、文物)を持ち、かつ日本からの文物が実際に保存されていたイエズス会関連の教会、学校であれば、それを参考にして小道具がつくられたり、衣裳がつくられたからかもしれません。遠いけれども実際にある国、さらにそのような衣裳を模して宣教、殉教劇を繰り広げるのは東方への宣教師を育成する上で活用できると考えられたのではないでしょうか。
文物、書籍の伝播だけでなく、そこから得られる情報をもとにした創作物としての演劇なども17、18世紀ごろには創られ始め、その波はヨーロッパ各地へ、さらには宣教先であるマニラでも上演されていたことなどが明らかになってきましたが、そのことは、19世紀後半から20世紀にかけてのジャポニスムの流行、言い換えれば日本風のものが受け入れられていく前の土壌形成になっていたのではないか、とも思います。