スペースデブリ除去ブログ

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中沢新一『芸術人類学』読んだところまで_1

何回も読んでは挫折してきた、中沢新一『芸術人類学』。

抽象的、観念的な言葉を、どうやったら私の生活の方まで引き寄せることができるだろう。

しかし中沢さんの文章は、論文的な言葉の定義と詩的なふくらみが交互にやって来てつい「わかるかも」という気分にさせられる。

本当はわかっていないので目が文字の上を滑っていく。

慌てて何回も読みなおすことになる。

以下、読書メモ。

 

 

 

 

対称性人類学

・対称性と非対称性

 

・神話の世界を形作る「環」の思考

・近代西欧社会を形作ってきたキリスト教的直線的思考(進歩、拡大、競争)

 

・人類の心に複論理と対称性を取り戻す

 

・芸術には社会的なものの外へ超えて出ていこうとする衝動がある

・ラスコーの壁画

・暗闇の中で何人かの組合結社となった成人男性たちは、真っ暗な中に「流動的な心」を見たのではないか

 

・心の流動体

・生命体の内部で自由で多次元的な活動を行うというような事態

・人間と動物、時間、空間、実体と想像という垣根を持たない脳の働き

 

・言語という合理性によって構築された仕組みと、心の流動体という全く仕組みの違う二つの思考のシステムが共存し働き続けている現生人類の心(バイロジック?)

 

・ちがう意味の領域を隔てている壁を突破して、時間の秩序からさえも自由になって多次元的にさかんに流動していく知性の流れ

→数学?宗教?都市伝説?

 

・「バイロジック」で動いている私たちの心のもっとも自然な状態=野生

 

・情緒的な知性

チベット仏教

・ゾクチェン

・主体を周りの世界から分離する思考法を否定する、無分別知⇔分別知

 

・人間の言語の最大の特徴は、すべてが比喩の組み合わせ出てきているというところ

・比喩は必ず意味の揺らぎを生み出す

・言語が比喩の組み合わせでできているという特徴こそが、宗教と芸術と科学を持つホモサピエンスの心の本質に触れている

・比喩の本質は構造ではなく、一つの意味を別の意味に重ねることで、新しい意味を発生させる、壁を通り抜けていく流動性を持った心の動きがあらわれていること

・人類は比喩によって象徴を生み出す

→それは詩であり、神話であり、科学である

 

・流動的知性は、高次元で働き、矛盾を飲み込んで全体思考を行う直感知をあらわしている

・無分別知

・野生の思考

 

 

レヴィ=ストロース

ジョルジュ・バタイユ

南方熊楠

岡潔

折口信夫

 

小沢健二「流動体について」

・『天才を育てた女房』

・比喩の話のときに思い浮かんだ親友と私・馬と牛の比喩

メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』おまえには想像力というものがないのか?

 

 

メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』、

200年の時を経て、1日で400ページを読ませ、3時間感想文を書かせる、迸るようなエネルギーのある作品!

読んだ人と話したくなる。作者とも話したい。

そして自分の生活に戻ったとき、私たちは自分の生活にヴィクターと「怪物」の影を見る。

 

ጨ ヴィクターのクソっぷり

 

フランケンシュタイン』といえば怪物の話で、怪物の苦しみについてつづられているのかと思いきや、怪物を作り出したヴィクターの軽薄さの話でもあった!ということに新鮮に驚いた。

ヴィクターの中には知識欲と名誉欲以外何もない。

全てを持っているのに、その価値がわからない。

心がないんだよ、初めから最後まで。

しかし顔がいいんだろうなと思わせるエピソードが多い。

北極へ向かう道、ボロボロになったとしてもその美貌は衰えない。

北極航海中の船長は、ヴィクターを引き上げ、あっという間にヴィクターに好かれたくてしかたないという状態になる。

魅力が「知性」であるというように語りはするが、半死半生の男が知的に語りだすまで介抱した理由にはならない。

全てを持っている男ヴィクターにとって、自分が顔が良いことなどは特別記載するようなことではないんだよな。

ヴィクターを引き上げた船長がヴィクターの顔の話をしてもよかったのではという気がする。

 

ጨ 非モテをこじらせていく「怪物」

 

ヴィクターの創造物であるにもかかわらず、「怪物」には初めから心が備わってる。

「生命の神秘」が知りたかったはずのヴィクターからは、一度も語られなかったこの世の美しさに感動する。

生まれて初めて歩く夜道、月明かりに照らされたことを「温かい」と表現する「怪物」の詩。

ここをこそ読んでほしい。

「怪物」はただそこにある世界に感動して生きているんだよ!

 

しかし「怪物」はまた、残酷さにも直面する。

初めて人間として接触した人里で、石を投げられ、ひどい言葉を吐かれ、追い払われる。

しかも水を飲もうとして湖を覗き込んだとき、映った自分の顔に驚いてのけぞる。

愛されないのは、さげすまれるのは、孤独なのは、「顔が醜い」から。

ルッキズムなんだよねえ…。

200年後の現代では、「ルッキズム」と名前がついて批判をされることもあるけど、まだまだあるよルッキズム。顔だけでなく、足を細くするために神経を切る手術を受けるような人まで現れるこの世。

全然変わってない。変わらないことを知っていたかのような詳細な描写。

フランケンシュタイン』は、フェミニズムやSFの文脈で語られることの多い作品だけど、わたしはもっとシンプルな主題があると思う。

この作品はずっと「顔」の話しかしない。

自分に意地悪なことをする大学教授クレンペは見た目がずんぐりしてて顔が悪いし、心優しきジュスティーヌはもちろん顔がいい。

そこは顔関係ないだろというようなところでも入ってくる容姿の描写。

社交界での品定めって本当に過酷だったんだろうな。

この物語において、「醜い」ということは愛される資格のない大罪であることが何度も描かれる。

怪物が愛されないことに絶望した時、「そんなことないよ!顔なんて関係ないよ!「怪物」の心美しいよ!」と声をかけてあげたい。

でもそれは嘘だから。全然あるからルッキズム。苦しい。苦しいよぉ。

 

「怪物」はヴィクターに憧れない。

「怪物」が憧れるのは心のつながりであり、あたたかな家族。

メアリー・シェリーの描写の見事さは、こういうところに表れていると感じる。

「怪物」が焦がれているのは、名誉でも、富でも、知識でも、性欲でもなく、心のつながりでなければならない。

そして「怪物」は、「家族の営みと情愛」があまりにも魅力的であるために、「すべての生き物に認められている歓び」であると思い込んでいく。

 

「おれのために女を造るのだ。 共に暮し、心を通わせあえる相手を造ってくれ。 生きていくのには、そういう相手がどうしても必要だ。 これはおまえにしかできないことだ。 おれはそれを、俺の権利として要求する。 拒否することは、おまえにはできないはずだ」

 

「怪物」の生は、確かに理不尽だったと思う。

自分がヴィクターにとっての失敗作だったことを知った「怪物」の絶望は推し量ることもできない。

でも、あの心美しき「怪物」の欲求が、「自分と同じくらい醜い女」だっていうのはさ、本当に本当に、お前、お前…。

でもこの心の動きこそ、「怪物」のみじめさが真実であることを表してる。

他者から拒絶されることを運命だと感じている「怪物」が、それを乗り越えるために考えたたった一つの手段だった、の?本当に?

私は「怪物」をあきらめきれないんだよ。「怪物」に寄り添えない自分の軽薄さを棚に上げて、「怪物」にもっと違う道はなかったの?と言いたくなってしまう。

 

ጨ 「おまえには想像力というものがないのか?」

 

「怪物」から発せられる絶望の言葉として、これほど深いものはない。

しかしコントでもある。

「怪物」からすれば、自分が弱ってるところに追い打ちをかける人間は何よりも残酷な存在だったよね。

そしてこの言葉一つで、姿かたちの醜さから「心がない」と決めつけられてきた「怪物」こそ、誰よりも繊細で思慮深かったことがわかる。

ヴィクターが見る自然の鬱屈とした暗さと、「怪物」の語る風景の美しさや一縷の希望の切なさ。どうして一人の人が書いているのにこうも書き分けららえるのだろう。

面白い。面白すぎる。

 

芹澤恵さんの美しい訳に導かれるようにして夢中で読んだ。

またこういう読書があるなら、いくらでもしたい気持ち。

ヘルマン・ヘッセ『若い日』独りよがりでも等しく美しい生命への詩

「それはささやかな一つの、あるいは二つまた三つの思い出である。しかし幼い一人の子供が、時の鐘の報ずる音と音との間のわずかな時間に、石や草木や鳥や大気や色や影などに感じ、すぐまた忘れてしまうような体験や興奮や歓喜をだれが算えようとするだろう。しかもそれらはその人の年々の運命や変化の中にもちこまれて行くものなのだ。」

 

 

 

ጨ ヘッセを読みたい

授業で「少年の日の思い出」を扱った時、その残酷さに驚いた。

何より、「僕」がエーミールに抱いている複雑な劣等感と尊敬、侮蔑の気持ち、エーミールの冷たさと高潔さ、自分自身の愚かさ、そうした感情の動きのすべてが、自分を取り巻く自然の動きと紐ついていることの確信にしびれた。

もっとヘッセを読みたい!と思っているところ、古本屋で出会ったので購入したのがこの本だった。

ヘルマン・ヘッセ『若い日』1961年(角川文庫)

 

ጨ 詩的な風景描写

私がヘッセを読むときは、文章に入り込むまで時間がかかる。

ヘッセの中で重要なのは、とにかくこの場所、この世界が美しいということ。

その美しさの中で、誰も問題にしないような些細な瞬間に、人が傷ついたり喜んだりしているということ。

正直冗長だよ、と思うことも多い。

でも一度入り込んでしまうと、見たこともないスイスの山深い自然の色や匂いまで感じさせるほど、その情景描写は見事だ。

その物語の大部分が詩だと思う。

 

「春がしだいに近づいてきたと思うと、たちまちもう春のさなかになった。淡いみどりの牧場に花は黄色いアスターが咲き、森で蔽われた遠くの山々は南西の風のためにくっきりと濃い青色に浮かび上がり、木々の枝は若い青葉のヴェールをつけ、渡り鳥たちはまたもどってきた。 主婦たちはヒヤシンスやジェラニュームの植木鉢を、窓の前の緑色にぬった植木棚にのせた。 主人たちは昼は門前でシャツのまま食後の休息をとり。夜は戸外で「九柱戯」をした。若い人たちは落ちつきがなくなり、空想的になって、恋しあった。」

 

春になるだけでこれだけの日常描写を書ける目に感服する。

ただ春になっただけだよ。

春が一体どんな色で、どんな営みで、どんなふうに光の様子が変わるかまで見えるようだ。

ヘッセは春を感じて植物を外に出す夫人や、少し薄着になった青年たちが外でボードゲームに興じることの美しさを知ってる。

そしてこの美しさに感動すると同時に、「はよ次の話せんかい」という気にもなる。

 

ጨ 傷つくことと死が密接に結びついている

「死んじまったほうがましだ」と思うことと死ぬことの垣根がものすごく低い。

そして死ぬことの詩的な感傷と、その取り返しのつかない生々しい静けさが描かれている。

春を感じるのと同じ繊細さで、幼い魂が詩を受け止める様子が描かれている。

あまりにも繊細。

これほど繊細な描写なのに、息苦しさより発露を見つけた感情の喜びが勝る。

不思議な読み味、それがヘッセ。

 

見たこともないスイスの光が閉じ込められている美しい幼年期の詩集。

私は髑髏万博先生のヘッセ妄想解釈がだいすきです。

一つの魂を二つに分けあっているんじゃないかというくらい、心の機微を見る視点が繊細で笑ってしまう。

 

youtu.be

メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』読んだところまで_3

自分でも驚いたが、あまりにも面白くて1日で読み切ってしまった。

すぐれた作品は、複数の主題を一つの物語の中に息づかせる。

この作品もそうだった。大人になってこれほど夢中になって本を読んだのは久しぶり!

 

  • ・ヴィクターの良心としてのエリザベス
  • ・「罪のない者」「美しい者」の死――誰がこの世にいるべきか
  • ・「愛されない者」――みじめさと孤独の受肉
  • ・ヴィクターが生命の神秘を知ろうとする中で全く感動しなかったものに対して、一つずつ感動していく「怪物」
  • ・この世の美徳を「自分のものにしたい」と心から願う「怪物」
  • ・言葉を覚え、思慕を募らせ、それが報われない経験を経て、非モテの狂気を備えていく「怪物」
  • ・以下結末

 

・ヴィクターの良心としてのエリザベス

 

怪物が生まれるまで、エリザベスはヴィクターにとってほとんど「幸福としての背景」のような扱いだった。

しかしヴィクターが恐怖と後悔に苛まれ始めると存在感を増していく。

自分の名声と知識欲以外何も目に入らないヴィクターにとって、エリザベスはこの世の良心そのもの。

経済的に恵まれ、見目麗しく、賢明で、慈愛に満ちた存在。

そんなエリザベスに愛されながら、「愛される資格がない」と自分のことばかり考えるヴィクター。かわいそう。

 

・「罪のない者」「美しい者」の死――誰がこの世にいるべきか

 

幼い弟ウィリアムが殺され、無実の罪でジュスティーヌが死に、自責の念に駆られながら、誰にもそれを告白できないヴィクター。

ここでもヴィクターは命そのものの喪失ではなく、「美しい者」が失われたことに胸を痛める。

ヴィクターの世界では、醜いものに価値などなく、自分の心の醜さは価値のない方に傾き始める。

そして自分が語らないせいで増していく孤独に「誰にも理解できない」と絶望の自家中毒を起こすスタイル。

お前の孤独はお前のせいだよ、と近代的な価値観を振りかざしても仕方ないよなあ。

 

・「愛されない者」――みじめさと孤独の受肉

「おれのことを人殺しと難じておきながら、おまえはその手で自ら創り出したものを平然と殺そうとしている。良心の呵責すらなく、平然と。まったく大したものだな、人間の不朽の正義というやつは。だが、勘違いするな、おれは生命乞いをしようというのではない。ただ話を聞いてほしいのだ。」

 

プライドの高いヴィクターには決して口にできない、孤独の告白。

最初からもう一人のヴィクターなんだよな、「怪物」は。

 

・ヴィクターが生命の神秘を知ろうとする中で全く感動しなかったものに対して、一つずつ感動していく「怪物」

 

「怪物」が見る世界は、きらきらと輝いて美しい。

ヴィクターが生まれてからずっと味わってきたような当たり前の世界に、一つずつ感動していく「怪物」のいじらしさが胸を打つ。

月の光、火の温かさ、鳥の声。

「生命」の神秘を知りたかったはずのヴィクターからは全く見えてこなかったこの世界の美しさ。

ヴィクター、マジで心無いじゃん。

そして世界が美しいほどに孤独を強める「怪物」の悲しい運命。

 

・この世の美徳を「自分のものにしたい」と心から願う「怪物」

 

ヴィクターの家を出て、人里で迫害されながら、「怪物」は村はずれの家の小屋に潜り込む。

母屋の壁に隣接する裏手の小屋に身を隠しながら、「怪物」は漆喰の穴を見つけて「幸せ」を覗き見ることになる。

 

「何よりも深く印象に残っているのは、母屋の人たちの穏やかな態度のことだった。できるものなら、おれもそのなかに加わりたいと思ったが、そこまでの勇気が出なかった。前の晩、野蛮極まりない村人どもから受けた仕打ちが身にしみていたから、この先どんな行動を取るにしても、差し当たってはこの小屋に身を潜めてひそかに観察を続け、母屋の人たちがどうしてあんな風に振る舞うことができるのか、じっくり探ってみることにした。」

 

ここで「怪物」があこがれるのはヴィクターの暮らしではなく、つましい農村の中にある心の交流のある家族の暮らしなのだというところ。

自分の悲しみよりも老いた父親を思いやり、繰り返される貧しい日常の中で歌を歌い慈しみあう、愛でつながれた一家。

無邪気で献身的な怪物が、「彼らに良いことをしたい」という思いだけで、薪を集めてそっと門前に置いておく様子は、加害とはかけ離れてあまりにも健気で泣ける。

「怪物」が幸せの体現を見るアガサの家の描写が作中で一番好き。

「怪物」に教えてあげたい。アガサの家みたいな理想的な姿は、人間の間にだってそうはないんだよって。

慈しみあう家族なんて、幸運な組み合わせの中にしか存在しないんだよって。

そんな幸運なアガサの家も、怪物が今以上を求めることで、思いを募らせることで、平穏が壊れていく。

なんて苦しいんだろうね。

「怪物」が存在するかのようなこの世だよ。

 

・言葉を覚え、思慕を募らせ、それが報われない経験を経て、非モテの狂気を備えていく「怪物」

「おれのために女を造るのだ。 共に暮し、心を通わせあえる相手を造ってくれ。 生きていくのには、そういう相手がどうしても必要だ。 これはおまえにしかできないことだ。 おれはそれを、俺の権利として要求する。 拒否することは、おまえにはできないはずだ」

 

つらい!!!!!!!

小鳥の声に感動し、姿を見せずとも善行を重ね、拾った『若きウェルテルの悩み』を擦り切れるほど読んでいたあの怪物が、モテなさ過ぎて狂ってしまった…。

「権利」って…なに…。

「怪物」は賢いから、作られたつがいが偽物の愛だってわかってるはずなのに、「それでもいい」って思ってしまうほど絶望が深いの?

しかも「俺と同じくらい醜い」ってさ、それやってること稲中の前野だよ。

前野も純粋だもんね。

 

 

 

この物語の中では、「顔が悪い」ということは大きな罪で、神に見放されて愛される資格を失うようなことなんだよな。

「心の美しさ」は彼を痛めつけるだけで、「顔が悪い」ということは呪われた運命である。

こんな苦しいことある!?

「怪物」が美しいものを理解すればするほど、「怪物」はそうではないということが明らかになっていく。(怪物の中で)

言ってあげたい、けど、現代でもその悩み全然解決してない。

足細くするために神経切るような人が増えてるような時代だよ。

怪物、怪物に幸せになってほしいよ。

どうすればいいんだ。

 

 

・以下結末

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メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』読んだところまで_2

藤田和日郎『三日月よ、怪物と踊れ』

・高松美咲『スキップとローファー』劇中劇

ギレルモ・デル・トロ『フランケンシュタイン』

・ジェイムズ・ホエール『フランケンシュタイン』

・100分de名著『フランケンシュタイン』

 

原作小説を読んでみようと思ったのは、2025年に本当にいろいろなところでフランケンシュタインの引用に行き当たったから。

みんな自分の中に怪物を見出しすぎだろ。

あまりにも有名な、怪物を作り出してしまった男と望まれなかった出生に苦しむ怪物の話。

 

 

メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』は3つの章からなる。

第1章は将来を嘱望されるうぬぼれやの青年・フランケンシュタインが、怪物を作り出し悲劇が起こるまでの数年間が描かれる。

 

 

・文章自体の流れるような気持ちよさ

 

「かねてより、私の興味をとりわけ惹きつけてきたのは、人体の構造――というよりも、生命というものを持ってこの世に生まれてくる、生きとし生けるものの生体の成り立ちでした。 わたしはたびたび自分に問いかけました。 生命というものは、いったいどこからどうして生まれてくるものなのか? 考えてみれば、ずいぶんと大胆な問いかけです。これまでは常に神秘の領域とされてきた課題です。 けれども、われわれの探求心を妨げてきたのは、そうしたあきらめや臆病風ではないだろうか? そうした妨げを取りのぞくことができないために、われわれはあと一歩のところで多くのことを知り得ずにいるのではあるまいか?」

 

芹澤恵さんの訳のおかげで、古典の格調高さと読みやすさが両立している!

美しい翻訳。

 

・簡単に増えたり減ったりする家族

 

物語の導入にある、北極へ向かう船の中の会話から、『フランケンシュタイン』は友という理解者を求める物語なのかと思いきや、第一章は家族の物語だった。

ヴィクターの父、アルフォンスは両親を亡くしたカロリーヌの「面倒を見る」形で結婚する。

箱入り息子でプライドが高く人見知りのヴィクターは、大学入学までほとんど家族としか関わらない。

その大学入学までに、裕福な両親は貧しい農家で見かけた美しいエリザベスを養子同然に育て、母親からつらい仕打ちを受けていた召使いジュスティーヌを家族や友人のように近しい存在として迎える。

出て来る女性のほとんどが容姿端麗であると書かれていて笑える。

わざわざ書かなくていいのに。

作者のメアリー・シェリーが当時からどんな目にさらされてきたのかを垣間見る気がする。

美しいものを家族として引き入れ、醜いものをその輪の中から排除する。

怪物の足音が忍び寄るのを感じるねえ。

 

・終始自分のことしか考えていないヴィクター・フランケンシュタイン

ヴィクターが身勝手なのは怪物を作り出したことに結実するだけで、基本的にはずっと自分のことしか考えていない。

そしてそれが彼の悪徳であることを指摘する人間はいない。

この物語はヴィクターの主観で書かれているから。

しかしこの小説の白眉は、彼が繊細で、聡明で、善良な人間であることを描きながら、その中に自己保身があり、うぬぼれがあり、プライドの高さから間違いを認められない狭量さがあることを描いているところ。

その人間の複雑さが単純な出来事の中で浮き彫りになっていく。

これぞ名作!

 

「あのときのわたしの精神状態は、余人にはおそらく、想像もつかないものでしょう。 私に言わせれば、生と死の境界は観念的なものに過ぎず、まずはそいつを突破してわれわれの暗黒の世界に光の本流を呼び込まねば、と考えました。 わたしの手で新たに生を受けた種は、わたしのことを造物主と讃え、 やがて幸福にして優れた者たちがわたしのおかげであまたこの世に出現することになるのだ、と。 彼らがわたしに向ける感謝の念は、世のどんな父親に捧げられるものよりも深く大きなものとなるはず……。」

 

誰にも知られない場所で、自分にしかできない偉業を成し遂げるため、恐ろしい怪物を作り出してしまったヴィクター・フランケンシュタイン

その恐ろしさを誰にも打ち明けることができず、悲劇は起こり続ける。

「生を受けること」「それを慈しむこと」「愛したものを失うこと」

そのすべてに鈍感だったヴィクターの失敗により、美しい者の命は次々と失われる。

しかし、自分のせいで、無実の罪で処刑されようとしているジュスティーヌを前にしても、ヴィクターは自分の苦しみで精一杯。

 

「ふたりがことばを交わしているあいだ、わたしは監房の片隅に引っ込んで、わが身を襲う忌まわしい苦悩をなんとか隠そうとしていました。 絶望? そんななまやさしいことばで言い表せるものではありません。 明日には生と死を隔てる恐ろしい川を渡ろうとしている、この哀れな娘とて、わたしほどの深く苦い苦悩は感じてはいないはず。」

 

本当に自分のことばっかりだねヴィクター。ちょっと前まで「生と死は観念的なもの」とかのたまってたのに。

全てにめぐまれていたはずの男の傲慢が、彼から人生を奪っていく。

怪物はヴィクターの影であり、エリートの恐怖心そのもの。

なんてスリリングなんだ。

 

・繰り返される容姿に対する執着

 

怪物の醜さについて語られがちな『フランケンシュタイン』。

一方、美醜についての視線は怪物だけでなく登場人物のすべてに向けられる。

中でも笑えたのはクレンペ教授の描写。

クレンペ教授はそれまでヴィクターが執心してきたアグリッパやパラケルススをあざ笑い、「学びなおせ」とつれない態度を取るいけ好かない教授だが、

その教授の容姿についての描写がルッキズムそのもので笑えた。

 

「クレンペ教授は小柄でずんぐりした男です。だみ声で、顔つきも冷ややかというか親しみが持てませんでした。そんな人物を見て、その人の専門分野を学びたいという気が起きるわけがありません。」

 

言いすぎだろ!

初対面の人間に対しては内面の情報がないので、悪口が容姿のことになるのはしかたないけど、それにしても顔のことばっかり言いすぎ。

そしてヴィクターが怪物に対して恐怖を抱くのも容姿に起因しているところも興味深い。

 

「これまで、文字どおり苦しみもがきながら、労苦に労苦を重ねてきた結果、こうして生まれたこのおぞましい生き物を、どう説明したものか……。 わたしとしては、四肢は均整が取れた状態に、容貌も美しく造ってきたつもりです。 そう、美しくです! その結果が――なんとこれか?」

 

ヴィクター、結婚して子供産んだりしなくて本当によかったね。

子どもなんて絶対に自分の思った通りにはならないのに、全て自分の手で作ったものにすら失望して、それを自分の傲慢や身勝手ではなく、「怪物への恐怖」としか思えないんだから、本当に勝手な男だよ。

メアリー・シェリーと紫式部は、ともに尊敬できる伴侶を得ながら、自分を虐げてきた構造の正体を男性の中に見る視線の鋭さを持っていて本当に人生の先輩という気がする。

 

第一章読み終わった。

続きが楽しみ!

メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』読んだところまで

近年原作映像化や作品引用が相次ぎ、注目度が高まっている古典小説。

新潮文庫の新装丁は紙のさわり心地が最高で、クラシカルかつおどろおどろしい表紙も素敵。

 

フランケンシュタイン(新潮文庫) [文庫]

 

前置きは長いが、文章が美しい。

「僕の子ども時代のことを尋ねられましたが、そんなものは話したところであっという間に終わってしまいます。けれども、それをきっかけにさまざまな思いが浮かんできて、ぼくは友と呼べる相手がほしかったこと、これまでに出会ったどんな仲間よりも心を通わせることのできる相手を渇望していたことを語りました。そして、きっぱりと断言したのです。友を持つ歓びを知らない者は、幸せとは言えない、と。」

 

フランケンシュタインマッドサイエンティスト自己実現のためにすべての倫理を犯して死体に生命を吹き込む話だと思い込んでたけど、

理想の友だちを作る話だったのか?

 

読み終わった後にどう思うのか楽しみだ!