これは、日記という名を借りた私の記憶。
某月某日
窓ガラスの端っこに、小さな水滴が並んでいる。指でなぞると、つめたい。季節は、こうして音も立てずに、私たちの暮らしのページをめくっていく。
今日のロマコメ号の巡回先で、少し重たい話を預かった。親戚の方だという女性が、カウンターの縁を指でなぞりながら、ぽつり、ぽつりと語ってくれた。あるおばあさんのこと。朝、夢にせかされるように飛び起きるのだという。「あの着物を虫干ししなきゃ」「あれは、あの子の七五三のために出しておかなきゃ」と。でも、現実に立ち戻った瞬間、すべては「アレ」でなくなってしまったのだと思い出す。
私の頭のなかの索引カードが、カタカタと音を立てて「喪失」の項目を探し始める。整理整頓は、私の数少ない武器だ。衣類をたたみ、引き出しに収める。そうやって、自分の毎日を一冊の本みたいにきれいに綴じておきたい。でも、その方の物語は、途中でページがびりびりに破られ、二度と修復できない。その欠落を、季節の風が容赦なくめくってしまう。
手元にあるペンの、インクが残り少なくなっている。幸田文さんの『きもの』を思い出した。着物の一枚一枚に、その人の生きてきた時間が織り込まれている。その方が夢のなかで探していたのは、たぶん布切れじゃなくて、自分の人生そのものだったんだろう。
業務日報の特記事項には、「近隣住民の近況聞き取り」とだけ書いた。本当は、その方が夢のなかで触れたはずの、柔らかな正絹の感覚や、樟脳の懐かしい匂いを、どこかに書き写しておきたかった。明日は、すこし明るい色の栞になるような本を、棚の目立つところに並べてみようと思う。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
