当方がギターを始めたのは,73年の夏ごろから。阿部保夫さんの「ギターをひこう」後期の記憶があります。
テーマ曲がソルの魔笛のテーマ部分でしたが,74年の3月だったか,番組のクラスでの発表会の時に,阿部先生自ら「今日は私も弾きます」とおっしゃって,テーマ曲を演奏されたのを覚えています。
テキストを買ってTVを視聴しながら本格的にやりだしたのが74年の4月からでした。担当講師は,当時若手バリバリのスペイン帰りの荘村清志さん。
大いに刺激的でした。それまで適当にコード弾きやメロディをポロンポロンと弾く程度でしたが,テレビ視聴を開始して,本格的にクラシック奏法を学び出して直ぐにハマりました。「難しそうに見えた曲が,案外弾けるものだ」と。むろん?テキストとは別に全音ピースを買って,「禁じられた遊び」の”Romace de Amor”を弾きました。何分,荘村さんはイエペスの愛弟子というのも,刺激的でした。
現在では信じられないほどのギターブームでもあったわけです。学生の部屋には必ずと言っていいほどギターが置いてありました。私が当初使った初心者向けのボロいギターも直ぐに行先が決まりました。引く手(弾く手)あまただったのでした。現在のシニアの方々で,「禁じられた遊び」のメインテーマの4小節目ないし8小節目までは弾けると言う方が多いのではないでしょうか?(むろんそれ以降で挫折する人も数知れず)。
当方にとっては,テレビ視聴とは言え,最初の独学からの脱皮?経験でしょうか。
翌年は故・渡辺範彦さん。荘村さんのテキストは標準的な練習曲やスペインものが多かったのに加え,渡辺さんのテキストではギターでバッハを弾けるというのが,新たな発見でした。さらに翌年の76年には故・芳志戸幹雄さんが登場。芳志戸さんのテキストには,バッハより更に古い古楽曲が取り上げられていました。3者3様,ギター初心者の十代の当方にはこの3年間は刺激的でした。
TV視聴でのレッスンですから,いわば公開レッスンを鑑賞するようなもの。大いに参考にはなっても,自分の技術的なクセは自分で治すしかありません。そこらへんは実際にレッスンを受けるのとは異なります。独学のクセは自分で気づいて自分で治すしかありませんが,それなりに演奏が改善すると,メキメキと上達した感じがするものです。
これらの期間は当方にとっては薫陶期とでもいえるでしょうか。
次の刺激は大学のサークルでした。入学した大学にはまだギター部は存在しませんでしたので当方が創設しました。楽器は国産の手工品になっていました(アルバイトと姉からの援助で手に入れました)。当方のレパートリーはソルやタレガでしたが,集まったメンバーにはバッハをバリバリ弾く人,アルベニスをガンガン弾く者,フレスコバルディを弾く者などいました。彼らはそれぞれの道を進み,大学に残った最後の人は旧帝大の教授にまでなりましたがギターを続けているのかどうかはついぞ聞いていません。大学時代と言うのは,人生で最もムチャをやる時期でもあっただろうと思います。当方は,派手なヴィラ=ロボスやアルベニスには魅力を感じませんでしたが,バッハには大いに傾倒しました。現在ではアウトな質問ですが,入社面接で聞かれた尊敬する人物としてバッハと答えて落とされた経緯は以前書いた通りです。
しかし。そうそう簡単には弾けません。リュートや無伴奏ヴァイオリンの組曲から易しいものを取り出して弾いてみる位が関の山。遂にギターを止めて(バッハを弾くのが比較的ラクな)鍵盤に鞍替えという禁断の所業に出てしまいました。ギターで四苦八苦するような曲でも,ピアノで両手で弾けば何でもありません。バイエルから始めて,1年以内にバッハの小品や2声のインヴェンションに取り組んでいたところで,大学院修士課程までの学生生活も終了してしまいました。
その後,ギターには暗黒の会社生活。最初の数ヶ月のカンズメ研修で,ピアノもすっかり弾けなくなり,9年くらい続けた独学ギターもまるでダメ。たまに思い出して弾いてみても,愛奏したアルハンブラにアラビア,魔笛変奏曲はいうに及ばず,月光練習曲すらまともに弾けなくなっていました。
少し戻ったのが,高等専門学校に奉職した97年ごろ*。それまでの間,会社と大学との二重生活を経て退社して学位を取得したりと,なかなかギターには触れられない状態でした。高専移籍後の2年目だったか,私がギターを弾くという事をどこからかかぎつけて来たのがインドネシアからの留学生のK君でした。クラシックギターの部か同好会を作りたいので,顧問になってくれというものでした。私は陸上部担当で嫌気がさしていましたので,一も二もなく引き受けました。陸上部は外されませんでしたが,ストレスが溜まる方と解消できる方とでバランスは取れました。
彼は非常に優秀な上に「ギター・オタク」でした。私が見た事も無い膨大な数のギター楽譜(のコピー)を持っていました。
たしか東京にいる時,「街角ギタリスト」で賞品の楽器をゲットしていました。今から思えば,私の奏法とは少し違いましたが,むしろ彼の方が新しい奏法を身に付けていたのでした。彼を指導するというよりむしろ彼から教わった方が多かったように思います。彼は福田進一さんの大ファン。当時の私の知識は,山下和仁さんのパリコン優勝で止まっており,福田さんを知りませんでした。
彼は都内の一流大に編入して卒業後,一旦は外資系シンクタンクに勤めた後,伊藤園に転職しインドネシア法人に移りました。
有名どころのギターを何本も持っていて,近年では奥様から「またギター買ったの」と言われるような状態ですが,まあギター・オタクならば,あるある状態です。当地で福田進一さんの公開レッスンがあった時は通訳を務めたと言っていました。福田さんに聞かれて伊藤園所属を伝えると,「佳織ちゃんと同じだね!」などと言われたと(伊藤園の「充実野菜」のCM**)。日本人学生に漢字を教えていたほどの日本語力な上に福田さんの大ファンでギター・オタク,無二の適任者でしょう。
話は前後しますが,K君のような優秀な教え子(たち)を(曲がりなりにも)指導しないといけないので,きちんとレッスンを受けた方が良かろうというので,門をたたいたのがA先生でした。そこで10年余りレッスンを受けることになりました。結果的には顧問とは別に自分の趣味になりました***。実は,その前に当地の草分け的なN先生(A先生の恩師)が教えておられたカルチャーセンターにてレッスン見学をさせていただき,そこでクラブ運営のあり方をうかがったのでした。かつて記事にしましたが,それは,「クラシックギターでクラシック曲をやる」という当たり前の事でした。
人気取りでポピュラー曲をやったりすると,直ぐにクラシック曲が駆逐されて,わけわからんようになるというものでした。ご自分の弟子にも(食えないからと)老人向けに大正琴をやる人がいるが,それをやったらダメだと仰っていました。N先生はそれから1年以内に逝去されてしまいました。N先生からはクラブ同好会運営の心得を教わったわけですが,当方の独学後の最初の技術向上に役立ったのはやはりA先生のレッスンでした。大変なほめ上手で,うまく行くと大いにほめてくれました。本格的にプロについた最初の先生になりました。
1回目2回目は比較的良かったのですが,何回目からか大会場でマイクを使って暗譜で弾く発表会で異常に上がりまくるという事態が続き,暗譜の不安を訴えて楽譜を見て弾きたいと申し出ましたが,許可は出ませんでした。A先生にしたら故N先生や関東のT先生の教えを厳守しているのかなとは思いました。いろいろあって,現在のだいぶお若い先生にたどり着きました。
私の歳以上の先生だと,始めたのが大学のサークルだったという方も少なくないものです。そもそも日本の音大にはギター科は殆どなく,大学のサークルでやるというのが割と普通だったのです。苦労して独学から始め,各地から集まった腕自慢同士が切磋琢磨したと言うのが大学のギターサークルの実態だったのでしょう(現在もそうかもしれませんが)。
村治佳織さんや大萩康治さんの年代からですと,ピアノやヴァイオリンなどの楽器同様幼少期からきちんと先生について勉強し,すでに大学生年齢ではプロレベルに達している人が増えてきた様です。
*その前の高等学校在籍中もちょっとやりました。
**村治佳織さんは,伊藤園の他にトヨタのアリストのCMも担当していました。
***当方のギター再開のきっかけとなった同好会は,当方がアメリカの大学に研究員で赴いた僅か1年の間に無責任な後継者がつぶしてしまいました。
この記事へのコメント
てんてん
Enrique
>
>(。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
ありがとうございます!
アヨアンイゴカー
面白い答えです。バッハの好きな面接官だったらよかったですね。
Enrique
>
>>入社面接で聞かれた尊敬する人物としてバッハと答えて落とされた
>面白い答えです。バッハの好きな面接官だったらよかったですね。
当時就職の事とか全然考えていなくて,その時の気持ちが正直に出てしまったのでしょうね。正直者がバカを見る一例でしょう。
風太郎
ギター演奏できるひとが羨ましいです。
Enrique
>
>ナイスです!!
>ギター演奏できるひとが羨ましいです。
ありがとうございます。
何分半世紀以上やっております。