ラフカディオ・ハーンは、なぜ日本の怪談に惹かれたのか  

- 南部ゴシックと「過去が語り続ける文学」

ラフカディオ・ハーン小泉八雲)は、日本で幽霊や怪談に深い関心を示し、それらを西洋に紹介したことで知られています。しかし、この関心は、日本という異文化に触れた結果、突然生まれたものではありません。むしろ、彼の関心はアメリカ南部、とりわけルイジアナで培った感受性の延長線上にあったと考えられます。

今回はラフカディオ・ハーンを通して、怪談の世界とアメリカ南部で生まれた文学の一形態である南部ゴシックとの関係について考えます。

ルイジアナで出会った「歴史の亡霊」

ハーンは19世紀後半、ルイジアナで記者として活動しながら、クレオール文化やブードゥー信仰、セント・マロのマニラメン(逃亡奴隷による共同体)といった、主流社会の外縁に置かれた世界に強く惹かれていきます。

アメリカ南部には、幽霊があふれています。それは単なる怪異譚ではなく、奴隷制、暴力、罪、そして忘却が生み出した記憶の残滓とも言えます。南部の幽霊は、個人の悲劇であると同時に、土地そのものが抱え込んだ歴史の重みを体現しています。この感覚は、のちに成立する南部ゴシック文学と深く共鳴します。

南部ゴシック文学における幽霊性

フォークナーやフラナリー・オコナーカーソン・マッカラーズといった南部ゴシック作家たちは、必ずしも文字通りの幽霊を登場させるわけではありません。しかし彼らの作品世界は常に「幽霊的」です。過去は決して過去にならない。罪は忘却されず、歪んだ形で現在に噴き出す。土地と血縁が人間を縛り続ける。フォークナーの有名な言葉にあるように、過去は死んでいない。過去ですらないのですこの感覚こそが、南部ゴシック文学の核心であり、同時にハーンが南部で体験した世界でもありました。

幽霊とブードゥー:南部における二つの霊性

ここで重要なのは、南部における「幽霊」と「ブードゥー」の違いです。南部の幽霊は、抑圧された歴史が制御不能な形で現れる存在です。特定の屋敷や土地に縛られ、語られなかった暴力や罪を沈黙のまま訴え続けます。一方、ブードゥーは霊を扱うための実践的な体系です。精霊や死者は儀礼を通じて呼び出され、鎮められ、生活世界の中に位置づけられます。幽霊が「歴史の傷口」だとすれば、ブードゥーは「その傷と共に生きるための知恵」だとも言えます。ハーンはこの両方を観察し、記録し、理解しようとしました。

日本の怪談との出会い

こうした南部での経験を経て日本に渡ったハーンが、怪談の世界に強く惹かれたのは自然な流れでした。日本の幽霊もまた、完全に死者の世界へ去る存在ではありません。怨念や因縁、未練を抱えたまま、生者の生活圏に留まり続けます。そこでは恐怖と敬意が分離されておらず、幽霊は道徳的・社会的な意味を帯びています。

日本の怪談は、南部ゴシック文学と同じく、過去が現在に侵入してくる物語形式として読むことができます。ただし両者には、その幽霊性を支える文化的基盤に違いがあります。南部ゴシックがキリスト教的罪意識や道徳秩序と深く結びついて発展したのに対し、日本の怪談は、宗教教義そのものよりも「語り」や「文学」として洗練されてきました。そのためハーンは、日本において怪談の翻訳者にとどまらず、創造的再話者となりえたのです。

南部ゴシックから日本怪談へ:一本の線

ルイジアナのブードゥー、南部の幽霊、南部ゴシック文学、そして日本の怪談。これらは文化的には大きく異なりますが、ハーンの中では一つの線で結ばれていました。

それは、近代が合理化の名のもとに切り捨てようとした「過去」「死者」「記憶」が、なおも語り返してくる瞬間への鋭い感受性です。ハーンが日本で怪談に傾倒したのは偶然ではありません。それは、アメリカ南部という「幽霊に取り憑かれた土地」で培われた視線が、日本の怪談世界において必然的に結実した結果だったと言えます。

フォークナーと『怪談』:「過去が語る」構造

南部ゴシック文学の中心的存在、ウィリアム・フォークナーと日本の怪談、一見するとまったく異なる文学伝統に属していますが、両者の語りの構造には、驚くほどの共通点があります。

フォークナーの作品では、出来事が直線的に語られることはほとんどありません。時間は断片化され、視点は錯綜し、過去は何度も現在に侵入してきます。重要なのは、「何が起きたか」よりも、「それがどのように記憶され、語り直されるか」です。彼の小説において、過去は決して終わりません。それは語りの中で何度も蘇り、現在を歪め続けます。

日本の怪談も同様のことが言えます。怪談における幽霊は、単なる恐怖の装置ではなく多くの場合、語られなかった恨みや不義、見過ごされた死が、物語として語り返されることで初めて姿を現します。怪談とは、「幽霊の物語」ではなく、「過去が語り手を通じて発話する構造」なのです。

フォークナーの「過去は死んでいない。過去ですらない」という感覚は、日本の怪談にもそのまま当てはまります。ハーンが日本の怪談に強く惹かれたのは、そこに南部文学と同質の語りの力を見出したからだと考えられます。

オコナーの「恩寵」と日本の怨霊観

フラナリー・オコナーは、南部ゴシック文学の中でも特異な存在です。彼女の作品に登場する暴力や破壊は、単なる絶望では終わりません。それらはしばしば、神の「恩寵(grace)」が人間に強制的に到来する瞬間として描かれます。

オコナーにおいて恩寵とは慰めではなく、人間の自己正当化や偽善を打ち砕く、苛烈で容赦のない出来事として現れます。暴力的な啓示の後にのみ、人間は真実に触れる可能性を得ます。ここで興味深いのは、日本の怨霊観との対比です。

日本の怨霊は、罪を裁く神的存在ではありません。むしろ、不正や裏切りによって生じた歪みそのものが人格化された存在です。怨霊は救済を与えるのではなく、秩序が破壊されたことを告げ続けます。鎮められない限り、世界は元に戻らないのです。

オコナーの恩寵が「神からの一方的な介入」だとすれば、日本の怨霊は「関係性の破綻が生み出した必然的な帰結」です。この違いは大きいですが、共通しているのは、どちらも人間が見ないふりをしてきた真実を、暴力的に可視化する存在だという点です。

ハーンは、日本の怪談の中に、この容赦なさと同時に深い倫理性を感じ取っていたとも言えます。

大江健三郎の「死者の声」とハーン

さらに時代を下ると、大江健三郎の文学が浮かび上がります。大江作品において「死者」は、しばしば沈黙しない存在です。彼らは直接語ることはなくとも、生者の言葉や行動を通して、執拗に現前します。

大江にとって重要なのは、死者の声を「代弁する」ことではありません。むしろ、死者の声に取り憑かれてしまうこと、そしてその重さを引き受けながら語らざるを得なくなることにあります。ここでもまた、過去は終わらないのです。

この構図は、ハーンの仕事と驚くほど重なります。ハーンは日本の怪談を「説明」しようとはせず、むしろ語りの媒介となり、死者の声が異なる言語で再び響く場を作ろうとしました。

大江が近代日本の内部で「死者の声」を引き受けた作家だとすれば、ハーンは文化を横断しながら、その声を世界へ運んだ存在だったと言えます。

ハーンがつないだ幽霊性の系譜

フォークナーの語り、オコナーの恩寵、大江健三郎の死者の声、そして日本の怪談。
これらはいずれも、幽霊を「超自然的存在」としてではなく、歴史・倫理・記憶が語り返してくる形式として扱っています。ラフカディオ・ハーンは、その交差点に立っていました。アメリカ南部という、幽霊に取り憑かれた土地で感受性を育み、日本という怪談の文化に出会い、それを文学として再構築したのです。

ハーンが怪談に惹かれたのは、文化的違いがありながら、近代が抑圧してきた死者と過去がなおも語り続けるという共通した事実を敏感に感じたからです。ハーンの怪談とは、異界の物語ではなく、近代が切り捨てようとした声なきものたちの倫理的回収であり、幽霊とは恐怖の対象ではなく、忘却に抗して語り続ける歴史そのものと言えます。

 

川崎大師と味の素 -「うま味」から読む近代日本

お正月に川崎大師へ初詣に行かれた方もいらっしゃるかもしれません。私自身も、年末に川崎大師を訪れる機会がありました。今回は、川崎大師とその近くにあった味の素工場を手がかりに、近代日本における「科学・宗教・文化・資本」がどのように交差していたのかを考えてみたいと思います。

川崎大師: なぜ味の素は寺と結びついたのか

味の素と川崎大師(平間寺)の関係は、企業史の片隅にしばしば「信仰」「奉納」といった言葉で触れられることもありますが、この関係は、もっと本質的です。

川崎大師は、厄除け・病気平癒・商売繁盛を担う現世利益的な寺です。江戸期から庶民の生活と密着し、近代に入ってからは企業や実業家の信仰対象としての性格を強めていきました。

味の素が創業された1909年、日本人はまだ「化学物質を食べる」ことに不安を抱いていました。白い粉末。人工的。「これを身体に入れて大丈夫なのか」という感覚的な不安。川崎大師は、味の素を保証したわけではありません。しかし、工場で働く人々や、その製品を日常に取り入れていく人々にとって、科学がもたらす不可視の不安を宗教が引き受ける。これは新しい技術を生活の中に受け入れるための、近代日本特有の役割分担だったと言えるかもしれません。

川崎大師の「近く」に工場があったという事実

味の素と川崎大師の関係は、信仰や象徴だけの話ではなく、地理的に両者は近くにありました。川崎大師があるのは、現在の川崎市川崎区。多摩川の河口に近く、東京と横浜のちょうど中間に位置します。この一帯は、明治後期から大正期にかけて、急速に工業地帯へと変貌しました。理由は、多摩川の豊富な水量(化学工業に不可欠)、東京湾に近い水運、京浜間の鉄道網、東京市内より地価が安い、つまり、近代工業にとって理想的な立地でした。

味の素の製造には、大量の水、原料の輸送、製品の全国流通が必要でした。当時の東京市内では、すでに土地も水も不足し始めていましたが、川崎は「都市の外縁」でありながら、物流の要衝で、味の素を含む多くの化学・食品関連工場が、川崎臨海部から内陸にかけて集中することになります。

川崎大師は、その工業地帯のすぐ内側に位置していました。工場から大師まで、距離にして数キロ。徒歩でも行ける範囲です。当時の川崎は、煙突が立ち並ぶ工場地帯、労働者の住宅、そのすぐ近くにある古い寺院が、同じ風景の中にありました。近代日本では珍しいことではありませんが、川崎はその典型例でした。工場で働く人々にとって、川崎大師は、病気にならないため、事故に遭わないため、家族が無事であるために手を合わせる場所でした。

味の素の経営者や技術者にとっても同じことが言えます。化学工業は、常に危険と隣り合わせでした。科学が生まれる場所と、祈りが向けられる場所が、同じ生活圏にあり、東京と横浜の間に工業と生活と信仰が重なり合う場所、川崎という土地そのものが、
味の素と川崎大師を結びつけたのです。

味の素工場から生まれた「くずもち」

川崎大師名物のくずもちはこの関係を、もっと具体的に示しています。川崎大師のくずもちは、葛粉ではなく、小麦のでんぷんから作られています。

その原料の多くは、創業期の味の素製造過程で出たでんぷんの副産物でした。工場でグルタミン酸を抽出したあと、でんぷんが残り、それがくずもちに利用され、門前町で売られました。科学の副産物が、信仰の場の名物になるという循環が生まれました。

そして、京急大師線が敷かれた

この循環を決定的にしたのが、京急大師線(当初は大師電気鉄道)です。この路線は、
川崎駅付近から川崎大師へ参拝客を運ぶために敷設されました。目的は参拝客を大量に運ぶこと、門前町を活性化させること、寺と都市を直結することでしたが、結果的にこの短い路線は工業地帯・寺・門前町を一本で結ぶ線になりました。工場の労働者も、研究者も、参拝客も、同じ電車に乗り、京急大師線によって、味の素工場で働く人、川崎大師に参る人、くずもちを食べる人はすべて一つの生活圏の住人になりました。科学は、遠い存在ではなくなり、寺も、特別な場所ではなくりました。電車は、近代を「日常」に変える装置でした。

池田菊苗:「うま味」は発明ではなく発見

味の素の核心にいるのは、化学者・池田菊苗です。池田は「うま味」を発明したのではありません。彼自身は一貫して次のように考えていました。「うま味は、自然界にすでに存在していて、私はそれを化学的に発見しただけだ。昆布だしの中にあるグルタミン酸。それを抽出し、結晶化し、再現可能な形にした。」

重要なのは、池田がこれを「不自然な人工物」だとは考えなかった点です。むしろ、自然の摂理を明らかにしたにすぎない、と考えていたのです。だからこそ商品名は「グルタミン酸ナトリウム」ではなく、「味の素」でした。科学を科学の言葉で売らない、文化の言葉に翻訳する。この翻訳能力こそ、池田菊苗の最大の資質でした。

漱石と池田菊苗:同じ問いを、別の方法で

池田菊苗を理解するうえで、同時代に生きた夏目漱石の存在は、とても分かりやすい手がかりになります。漱石は、小説や評論を通して、近代文明が人間に与える違和感や息苦しさを描いた作家でした。西洋の価値観をそのまま受け入れていいのか。個人はその中で、どう生きればいいのか。これが、漱石が文学で問い続けたテーマでした。

一方、池田菊苗も、実はよく似た問いを抱えていました。ただし、彼はそれを小説ではなく、味覚を通して考えたといえます。西洋の科学や合理主義は、理屈の上では正しく見える。しかし、それは日本人の身体に本当に合っているのか。池田は、その答えを
「舌」と「胃袋」で確かめようとしました。昆布だしのうま味を分析し、それを世界共通の理論として説明する。それは、文明を頭ではなく、身体で理解できるかを問う試みでした。漱石が「個人の内面」を掘り下げたとすれば、池田は「食べる感覚」から世界を考えたともいえるかもしれません。

漱石と池田菊苗の関係は、単なる同時代人や思想的な類似にとどまりません。二人は、ロンドンという異郷の地で、実際に生活を通じて関わっていました。1900年前後、文部省の留学生としてロンドンに滞在していた漱石は、極度の孤独と神経衰弱に苦しんでいました。狭い下宿で、言葉も文化も通じない中、西洋文明のただ中に放り込まれた漱石は、のちに「自分はロンドンで人間であることを失いかけた」と振り返っています。

その漱石の下宿を、同じくロンドンに留学していた池田菊苗は、たびたび訪れていました。池田は漱石より少し年下でしたが、実直で穏やかな性格の持ち主で、漱石を気遣い、話し相手となり、精神的に支えたと伝えられています。漱石は、近代文明が個人の内面に与える歪みを文学として結晶化させ、池田は、文明を身体に通す入口としての「味覚」に向かっていきます。

岡倉天心との親和性

漱石と池田菊苗がロンドンで接点を持っていたことに加え、もう一人、同じ都市で彼らと交差していた人物がいます。岡倉天心です。20世紀初頭のロンドンは、世界中から知識人が集まる「文明の中心」で、日本からも文学者、科学者、美術思想家が、それぞれ異なる使命を帯びて送り込まれます。岡倉天心は、日本美術の価値を西洋に向けて語るために、漱石は文学と文明を学ぶために、池田菊苗は近代化学の最前線を吸収するために同じ都市に身を置いていました。彼らはロンドンで実際に顔を合わせ、交流を持っていたことが知られています。

漱石は神経衰弱に陥り、天心は日本美術が「異国の装飾」として消費される危険を痛感し、池田は西洋科学の普遍性と、それが持つ文化的前提の強さを身をもって知ります。岡倉天心は『茶の本』で、日本文化の普遍性を日常生活の中に見出し、こう言いました。茶は生活の中の芸術である。

池田のうま味もまた、日常の中に潜む普遍原理、西洋には存在しない第5の味。それを世界に向けて理論化する。天心が美術で日本を語ったなら、池田は化学で日本を語ったともいえます。

飯盛里安との師弟関係:近代化学の正統

池田菊苗の背後には、師・飯盛里安の存在があります。飯盛は、日本近代化学の基礎を築いた人物の一人であり、無機化学・分析化学の権威でした。とりわけ、ドイツ化学の方法論である厳密な実験、定量分析、物質そのものへの徹底した注視を、日本に正統に導入した研究者として知られています。

飯盛流の特徴は明確です。理論よりもまず物質。机上の思弁よりも実験。概念よりも手触り。そして、純粋科学と応用科学を峻別しすぎない態度でした。池田菊苗は、その直弟子として、この方法を身体化した研究者でした。だからこそ池田は、「昆布を煮る」という、きわめて日常的で素朴な行為を、ためらうことなく近代化学の対象に引き上げることができました。そこにあったのは、料理か化学か、という二分法ではなく、「そこに物質があるならば、化学は成立する」という飯盛流の実践的リアリズムでした。

しかし、この飯盛里安という人物は、同時に、もう一つの顔を持っています。
飯盛は、日本放射化学の父とも呼ばれ、太平洋戦争期には、国家総動員体制のもとで原子爆弾開発研究に関わり、ウラン鉱の探索・採掘・精製といった研究にも従事しました。ここに見えるのは、個人の倫理の問題というよりも、近代科学そのものが持つ構造です。物質を正確に測定し、分離し、精製する技術は、昆布だしの中からグルタミン酸を取り出すことにも、ウラン鉱から核物質を抽出することにも、同じように用いられます。方法は中立であり、その用途は社会と国家が決定する。

飯盛里安の研究人生は、日本の近代化学がたどった道そのものでもありました。
生活を豊かにする科学と、国家の存立を支える科学。その両方が、同じ実験室から生まれうるという現実です。

池田菊苗の「うま味」研究は、この飯盛流近代化学の正統な延長線上にあります。それは、家庭の台所へと向かった近代科学の一つの到達点でした。しかし同時に、同じ系譜の科学が、戦時体制の中で、より危険な方向へと動員されていったことも忘れてはならないでしょう。この意味で、「味の素」は、近代科学の明るい側面だけでなく、その影の部分とも、同じ系譜を共有しているのです。

戦時体制と「うま味」:栄養を管理する国家

1930年代から戦時期にかけて、日本では「食」が国家管理の対象になっていきます。食糧不足、配給制度、栄養失調への不安。こうした状況の中で、少ない食材でも味を補い、食欲を維持できる装置として、「うま味」は新しい意味を持つようになります。味の素は、贅沢品ではなく、合理的な栄養補助の道具として評価されます。

ここで重要なのは、うま味が「個人の好み」ではなく、集団の身体を管理する技術になったことです。池田菊苗が構想した「普遍的な味覚理論」は、この時点で国家総動員体制の内部に組み込まれていきます。

川崎大師と味の素が示す、近代日本のかたち

ここまで見てきたように、川崎大師と味の素の関係は、単なる「企業と寺の縁」ではありません。それは、近代日本が西洋科学とどう向き合い、どう生活の中に取り込んだか
を示す、きわめて具体的な事例でした。近代科学は、人々に豊かさをもたらす一方で、
目に見えない不安も生み出しました。白い粉末、化学物質、人工的な味。その不安を引き受けたのが、川崎大師という現世利益の寺でした。祈りは、科学を否定するためではなく、科学を安心して受け入れるための装置として機能していました。そしてこの関係は、地理的にも、生活のレベルでも、実際に近かったのです。工場、寺、門前町、住宅地は同じ空間にあり、味の素の製造過程で生まれたでんぷんは、くずもちとなって参拝客の口に入りました。さらに京急大師線が敷かれることで、工場で働く人、寺に参る人、甘味を楽しむ人は、一本の線路で結ばれた一つの生活圏になりました。科学は遠い研究室のものではなくなり、宗教は特別な非日常でもなくなった。電車は、近代を日常の中に運び込む装置だったのです。そして、この循環を可能にしたもう一つの要素が、資本でした。資本は、科学を商品に変え、宗教と結びつけ、鉄道を敷き、全国へ流通させました。しかし資本は、前面に出ることはありませんでした。味の素は「企業の論理」としてではなく、「家庭の味」として受け取られたからです。
川崎という場所は、資本が人々の生活に溶け込み、意識されない形で機能していた、近代日本の縮図でもありました。

池田菊苗は、「うま味」を発明したのではありません。自然の中にすでに存在していた感覚を、化学の言葉で発見し、世界に通じる形に翻訳しました。それは、漱石が文学で問い続けた「この文明は人間に合っているのか」という問いを、舌と胃袋で確かめる試みでもありました。岡倉天心が、茶という日常の行為から日本文化を語ったように、池田は、だしという日常の味から日本の感覚を語ったのです。しかし、「うま味」は常に中立だったわけではありません。戦時体制の中では、それは個人の嗜好ではなく、国家が集団の身体を管理する技術になりました。少ない食料で食欲を維持し、栄養を効率よく摂取させるための道具として、うま味は国家に組み込まれていきます。同じものが、時代と文脈によって、安心の象徴にも、管理の技術にもなり得ることを如実にしめしています。

正月に川崎大師で手を合わせ、帰りにくずもちを食べ、家庭で味の素を使う。その何気ない行為の連なりの中に、近代日本が選び取った、とても現実的で、身体的な答えがあったのかもしれません。

 

ノースカロライナの星をめぐる先住民の伝承

ノースカロライナ州西部および南東部には、長い歴史の中で多様な先住民文化が栄え、自然や天体をめぐる象徴的な物語を伝承してきました。ここでは、ジョージア州北部に隣接するノースカロライナ州南西部に伝わる星に関する伝承を手がかりに、先住民の星の神話や宇宙観について考えてみましょう。

パイロットマウンテン周辺に住んでいたサウラ族

地上約427メートルにそびえるパイロット・マウンテンの大尖峰(ビッグ・ピナクル)は、ノースカロライナ州で最も有名なランドマークのひとつです。山頂部は、もともと砂岩であったものが熱と圧力によって変成されてできた石英岩(クォーツァイト)で構成されています。周囲の柔らかい岩石が何百万年もの風雨で侵食される中、硬い石英岩の部分だけが残って突出し、現在の姿を保っています。

先住民のサウラ族(Saura/Sara Indians)は、紀元前7000年頃からパイロット・マウンテン周辺に居住していたと考えられています。サウラ族は農耕・狩猟・採集をおこない、山や岩といった地形を、移動や儀式の際の目印、あるいは聖なるランドマークとして活用していました。パイロットマウンテンは「Jomeokee(偉大な案内者/パイロット)」として、日常生活における方角の指標であると同時に、精神的・宗教的世界をつなぐ象徴的な役割も果たしていたと考えられます。この時期は後期アルカイック期にあたり、自然と天体の観察が生活や儀礼に密接に結び付いていたと考えられます。天体観察を農耕儀礼、季節の祭り、祖先・神話伝承と結びつけた行為を行っていた可能性が高く、岩や山を目印として天体を観測していたと思われます。

ワッカマウ族に伝わる「スターピープル」

ノースカロライナ州南東部、サウスカロライナ州境に近い低地帯に位置するワッカマウ川流域には、ワッカマウ族(Waccamaw Indians)が古くから居住していました。この地域の口承に見られる「スターピープル」の伝承では、何千年も前、巨大な隕石が夜空に輝きながら地球に突進し、地中に深く激突したとされます。その後、周囲の湿地や河川の水がクレーターに流れ込み、宝石のように青く緑豊かなワッカマウ湖(Lake Waccamaw)が形成され、その周囲に祖先が住み着いたと伝えられています。このため、部族は「落ちる星の人々」と呼ばれるようになりました。

ワッカマウ族の口承に登場するスターピープルは、宇宙から来た超自然的な存在で、知恵や技術、霊的な指導を人間に授ける祖霊的存在と考えられています。この伝承は、後期アルカイック期(紀元前2000年~1000年頃)の出来事として語られ、口承を通じて数千年にわたり伝えられてきました。伝承上のスターピープルは、宇宙現象や祖先の神秘体験を象徴する存在であり、16世紀以降のヨーロッパ人接触よりはるかに古い時代を示しています。

ムーンアイピープル

同じく南東部の伝承には、ムーンアイピープル (Moon-eyed people)の話もあります。ムーンアイピープルはチェロキー族の伝承で、ブルーリッジ山地やアパラチア周辺に住んでいたと伝えられています。小柄で髭を生やした白い肌の人々で昼間の視力が悪かったため月目と呼ばれていたと言われ、ジョージア州のフォートマウンテンの回で説明しましたが、フォートマウンテンの名前の由来になっている岩でできた砦の遺跡を残したとも言われます。碑文には、「この人々は特定の月の相の間、視力を失ったと言われている。その相の一つのとき、クリーク族がこの人々を滅ぼした。」と書かれています。ムーンアイピープルの活動時期も、後期アルカイック期からウッドランド期(紀元前2000年~紀元後1000年頃)とされ、ワッカマウ族の星伝承と時代的に重なる部分があります。夜や天体にまつわる象徴的テーマが共通することから、これらの伝承は、地理的に離れた地域であっても文化的に類似した思想・象徴体系を共有していた可能性があります。

ジュダカラ岩

ジュダカラ岩(Judaculla Rock)は、ノースカロライナ州ジャクソン郡に位置するペトログリフの巨岩で、約1,548の彫刻模様が刻まれています。岩自体は後期アルカイック期(紀元前3000~1000年)に形成されたソープストーン(滑石)ですが、ペトログリフの制作は中期ウッドランド期から後期ミシシッピ文化期(紀元200~1400年頃)にかけて行われたと推定されています。

ジュダカラ岩は、チェロキー族にとって特別な意味を持つ聖地です。1838年、チェロキー族はインディアン準州(現オクラホマ州)へ強制移住させられましたが、その後も口承史や伝承の教育は続けられています。チェロキー族の伝承では、ジュダカラ(別名ツルカル/Tsul-ka-lu / Juthcullah)という斜視の巨人の伝説や、岩がかつてのチェロキー集会所への古い道の中間地点に位置することが示されています。ペトログリフの巨岩は、かつて集会所があったカロウィー(Cullowhee、「ジュダカラの場所」)と、タナシー・ボールド(Tannasee Bald、別名 Tsunegûñyĭ)のジュダカラ集会所を結ぶ古道沿いにあります。現在、連邦認定を受けた東部チェロキー族(Eastern Band of Cherokee Indians)は、西ノースカロライナ州スウェイン郡とジャクソン郡を拠点に、この巨岩を宗教的・文化的に重要な聖地として尊重しており、オクラホマ州の二つのチェロキー部族も同様に尊重しています。

ホピ族の星伝説

ワッカマウ族の口承に見られるスターピープルは宇宙から来た超自然的な存在で、知恵や技術、霊的な指導を人間に授ける祖霊的存在とされます。この存在は、天空からの来訪者として描かれ、星や天体に象徴的に結びついています。一方、ムーンアイピープルはアパラチア地方のチェロキー族伝承に由来し、夜目が利く小柄な白い肌の異民族として描かれます。彼らは先コロンブス期の住民や地域の古代遺跡建造に関与したとされ、地上の特定地域に強く関連付けられる存在です。

これらの伝承と比較すると、ホピ族の星伝説もまた「天空や星からの神秘的存在」という象徴的モチーフを共有していることがわかります。ホピ族はアリゾナ州北東部の高地に住み、天文学と宗教・文化体系が密接に結びついた独自の宇宙観を持っています。ホピの伝承では、祖先は地底世界(下の世界・Sipapuni)から誕生し、地上へと出現したとされます。この地底世界は原初の人々や祖先の霊が存在する神秘的な空間であり、地上に出る過程で自然や社会の法則を学び、儀礼や社会秩序の基盤を築いたと考えられています。星や天体は、この地底から地上へ出た祖先たちを導く存在であり、暦や儀礼の指標として重要な役割を果たします。プレアデス星団(ホピ語でチュフコン)は特に重要で、祖先の霊や天地の秩序の象徴として、春の農耕儀礼や雨乞い、収穫の儀式のタイミングを決める中心的な星団です。また、星々は未来の出来事や予兆を示す存在としても解釈され、流れ星や彗星の出現は戦争、疫病、自然災害などの前触れとされることがあります。星の観察は、子どもたちへの道徳教育やコミュニティの秩序教育にも用いられ、天空の存在は「祖先の守護者」として文化的・宗教的に重要な位置を占めています。

スターピープルの伝承は、ホピ族の星伝説における「天空からの導き手」という象徴的モチーフと類似しています。ムーンアイピープル伝承は、地上に現れた異質な存在と古代遺跡・地域との結びつきという点で、ホピ族の地底からの出現と星との結びつきの構造に概念的な類似性を持っています。つまり、北米先住民の伝承全体を通して、「天空や星を媒介として、祖先・守護者・知恵の存在が地上世界に関与する」というテーマが繰り返し現れることがわかります。

ホピ族の星伝説は、地底世界からの出現、地上での生活、星や天体の観察と儀礼という三層構造に基づき、祖先や神々の加護、暦や農耕、社会秩序の維持を包括的に示す独自の体系を形成しています。雨乞い儀礼など具体的な儀式を通じて、星は単なる象徴ではなく、文化的・宗教的な実践と密接に結びつき、祖先の教えと自然の秩序を現世に伝える役割を果たしています。この体系は、スターピープルやムーンアイピープルの象徴的モチーフとも呼応し、北米先住民の宇宙観や祖先観を理解する上で重要な手がかりとなります。

ジョージア州のペトログリフとカリブ海文化とのつながり

ジョージア州の主要な河川であるスウィートウォーター・クリーク(Sweetwater Creek)やチャタフーチー川(Chattahoochee River)の流域には、多くのペトログリフ(岩面彫刻、岩石線画)が見られます。スウィートウォーター・クリークで発見され、現在は州立公園内に展示されている石碑のペトログリフと、その近くの教会にあるオウル・ロックを見に行きました。

スウィートウォーター・クリークのペトログリフ

1909年、ジョージア州ダグラス郡のスウィートウォーター・クリーク沿いで七面鳥狩りをしていたウィリアム・ハーヴィー・ロバーツは、「インディアンの墓地」として知られていた高さ約30メートルの急な丘を登りました。この丘からはスウィートウォーター・クリークとチャタフーチー川渓谷の両方を見渡すことができ、周辺では先住アメリカ人の遺物が多数見つかっていたといいます。

ロバーツは丘に彫られた石段を見つけ、それを登ると、直径約30メートルの楕円形の石の輪にたどり着きました。石の輪の中央には、地面に横たわる高さ約1.2メートルのペトログリフ石碑がありました。花崗片岩の石碑は重さ約113 kg、高さ約117 cm、幅約56 cm、厚さは約25 cmでした。

石碑には人型の図像が刻まれています。腕と足があり、足は蔦や根に変化しているようです。頭には目が三つと口があります。頭の上には非対称の線が刻まれ、髪の毛、あるいは蔦を象徴しているかもしれません。肩の上には円形の模様があり、片方の脇の下にも円があります。また腕の下には象形文字のような線刻があり、右側のものはヘビのように見え、左側のものは円を描く形をしています。

 

この石碑は石段を登った先の突出した丘の上に置かれ、石の輪の中央に配置されていたことから、宗教的な記念碑または神殿の一部であったと考えられています。

スウィートウォーター・クリークのペトログリフは、ジョージアで知られる他のペトログリフとは異なる特徴を持っています。ジョージアの多くのペトログリフは非常に抽象的で、星の地図や時間の通路の位置、あるいは何らかの通信手段を示すように見えますが、この石の独特な形状と刻印は抽象的でなく特異なものです。底部に意図的に切られた深い切り込みがあり、横木や棟木に置くことを意図して作られた可能性も示しています。

カリブ海文化とのつながり

2011年、このペトログリフアメリカ、カナダ、および一部のラテンアメリカ諸国の大学人類学部に照会され、プエルトリコ大学からはカリブ海地域に類似した先住民アートが多く存在すると指摘されました。プエルトリコはスペイン到来時にトア族(Toa Peopleの居住地として知られており、トア族はキューバのトア川流域にも居住していました。また、1540年3月23日、スペイン探検家エルナンド・デ・ソト(Hernando de Soto)がジョージア州内を進んだ際、トアという先住民の首長国があったと記録されています。当時、彼らは計画的に整備された町に居住し、街路、居住区画、広場が設けられていたといいます。さらに、ジョージア州南西部にはトア湿地帯 (Swamp of Toa)という地名があったという記録もあります。

プエルトリコ、アレシーボラのクエバ・デ・インディオ石碑 (プエルトリコ、アレシーボラのクエバ・デ・インディオ石碑)

タノ族の研究者ロベルト・ペレス・レイエスは、この図像をカリブ族(Kalinago)の力強い人々を象徴するものと解釈し、力強い姿勢と多くの指を広げた手が、強大な人々の住む土地を示していると述べています。この図像は旅人に、この地が神聖な領域であることを知らせる守護霊の存在を示唆しているといいます。

一方、プエルトリコの考古学者は、この存在をマイブヤ(Mabouyaとし、宿主に憑依して病をもたらすカリブ族由来の悪霊とみなしています。

さらにこの図像がタノ族の農業神ボイナイエル(Boinayelを表す可能性も指摘されています。ボイナイエルは涙を流して雨をもたらし、大地を潤す神として崇拝されていました。こうした多様な解釈は、この場所でタノ族とカリブ族の信仰が重なり合い、複層的な霊的世界観が存在していたことを示しています。

1930年代には、考古学者のリチャード・ウォーチョープとアーサー・ランドルフ・ケリーが、スウィートウォーター・クリークの流域で調査を行い、ペトログリフの石碑付近で外来の塊根類(サツマイモやヤムの先祖)が自生しているのを発見しました。

 

 

オウル・ロック(フクロウ岩、Owl Rock

スウィートウォーター・クリーク近く、オウル・ロック合同メソジスト教会(Owl Rock United Methodist Church)の墓地にオウル・ロック(フクロウ岩)と呼ばれるペトログリフがあります。岩の表面には、フクロウの目の模様が刻まれていたとされます。

この地域はチャタフーチー川沿いにクリーク族が定住し、町はオクタハタロファ(Oktahatalofa)またはサンドタウン(Sandtown)として知られ、川沿い砂地を利用した交易地・集落でした。クリーク族の間でフクロウは、生者の世界と霊魂の世界を行き来し、精霊とつながっているとして崇められていました。この岩は道標としての役割を果たし、オクタハタロファ(サンドタウン)への入り口を示すとともに、宗教的ランドマーク、聖地への道しるべ、スウィートウォーター・クリークへの道標になっていたと考えられます。

ジョージア州の代表的ペトログリフの多くは川や水系と密接に関係しています。スウィートウォーター・クリークのペトログリフは丘の上に設置され、川沿いの丘から周囲を見渡せる位置にあり、交易・移動ルートのランドマークや宗教的聖地としての機能を持っていたと考えられます。

他の例として、トラック・ロック・マウンテン(Track Rock Mountain)のペトログリフは複数の大きな岩に円形や渦巻き、抽象的な図形が彫られています。また、クライン・ファミリー/ラインハルト・ペトログリフ(Cline Family/Reinhardt Petroglyphも、重さ約5トンの花崗岩に渦巻き模様や円形、抽象的な形状が刻まれています。これらのペトログリフは川沿いの自然の高台に置かれ、交易ルートの目印や儀礼的な印の役割を果たしていました。

 

ジョージア州の先住民文化とペトログリフの流れ

ペトログリフはどの時代に誰によって作られ、用いられたのでしょうか。

  1. ウッドランド期(Woodland Period:約紀元前1000年~紀元後900年)

この時期、ジョージア州および周辺地域には小規模な集落が形成され、土塁や丘陵上に儀礼用の構造物が作られました。川沿いの丘や高台は交易・移動ルートとして利用され、自然の地形がランドマークや宗教的儀式の場として機能しました。
この時代のペトログリフには、円形や渦巻き、天体や目のモチーフが多く見られます。神話や伝承には、ムーンアイピープル(Moon-Eye People)やスターピープル(Star People)など、天体や夜空に関わる存在が登場します。ペトログリフはこうした神話的存在や守護霊の象徴に関連していたと考えられています。

  1. ミシシッピ文化期(Mississippian culture:約900~1600年)

ウッドランド期を引き継ぎ、より大規模な土塁集落や都市が河川沿いに発展しました。河川は集落間の重要な交易路であり、ペトログリフは川沿いの丘や高台に配置され、宗教的・象徴的なランドマークとして機能しました。
スウィートウォーター・クリークの石碑やオウル・ロックなどは、こうした集落や交易路に関連して作られたと考えられています。

  1. 二つの文化期におけるカリブ海文化の影響

スウィートウォーター・クリークの石碑に見られるマブーヤや、他のペトログリフ渦巻き模様や円形は、カリブ海先住民文化の象徴と類似しています。
これは、カリブ海の人々がフロリダ半島を経由し、メキシコ湾岸沿いを北上してジョージア内陸まで到達した可能性を示唆しています。
多くのペトログリフは、ミシシッピ文化期の集落跡や交易路付近に位置しており、カリブ海文化との象徴的・文化的接点があったことが考えられます。

  1. クリーク族(17世紀以降)

ミシシッピ文化の集落や交易ネットワークを引き継ぎ、クリーク族は河川沿いの土地に定住しました。ペトログリフや土塁、古代の交易路を認識しながら、社会・政治・宗教の制度を整備しました。
また、カリブ海文化の象徴的要素やミシシッピ文化以前の天体信仰は、クリーク族の儀式や伝承にも影響を与えたと考えられます。

ペトログリフと世界的海洋ネットワーク

ジョージア州ペトログリフは、単なる定住集落内の表現にとどまらず、海洋民族との文化的交流の痕跡を示しています。河川沿いの高台や丘陵に設置されたペトログリフは、定住者が宗教儀式や象徴のために作っただけでなく、海洋民族にとって航行の目印、儀礼の場、交流のポイントとして機能した可能性があります。つまり、ペトログリフ定住集落の文化と海洋民族の象徴文化が交差する場として成立したと考えられます。

河川を通じて内陸に到達した海洋民族は、カリブ海フロリダ半島、メキシコ湾沿岸、南米北部など広い範囲で文化交流を行っていました。さらに、ペトログリフに見られる渦巻きや円形の文様は、カリブ海だけでなく、太平洋の海洋民族や北アメリ東海岸の先住民文化でも類似の象徴が存在し、海上交易や宗教的象徴を介した広域的な文化のつながりを示唆します。このように、ペトログリフ川という交通網を介した海洋民族と定住集落の交流のランドマークであり、世界的な海洋民族ネットワークの痕跡としても理解することができます。

ジョージアの小さなホワイトハウス:リトル・ホワイトハウスとルーズベルト

アメリカ南部ジョージア州ウォームスプリングスにあるリトル・ホワイトハウス(Little White House)。フランクリン・D・ルーズベルト大統領が療養のためにたびたび訪れた地であり、彼の人生と政治に深い影響を与えた場所です。

 

ウォームスプリングとフランクリン・ルーズベルトの出会い

ウォームスプリングスはパインマウンテンの山腹から湧き出る温泉水を利用し保養地として利用されていました。1923年、実業家であり銀行家、そして慈善家としても知られたジョージ・フォスター・ピーボディ(George Foster Peabody)がここに土地を購入します。ピーボディはウォームスプリングスの温泉療法でポリオが改善した少年の話を、当時下半身不随となった友人のルーズベルトに伝えます。1924年10月3日、ルーズベルトは希望を抱いてこの地を訪れます。到着翌日、療養用温泉プールに入ったルーズベルトは3年ぶりに右脚を動かすことができ、その効果を確信。新聞の特集記事でも紹介され、翌1925年には他の患者たちも治療を求めて訪れるようになりました。

 

1926年、ルーズベルトはピーボディから温泉リゾートと周辺1,200エーカーを約20万ドルで買い取り、翌1927年に「ウォームスプリングス財団」を設立。財団は世界初のポリオ専門病院を創設し、後に「幼児麻痺国家財団(National Foundation for Infantile Paralysis)」として「マーチ・オブ・ダイムズ(March of Dimes)」運動を支援して、ポリオ治療法の研究促進に大きく貢献します。

 

症状の比較研究からルーズベルトはポリオではなく、ギラン・バレー症候群に罹ったという説もありますが、1921年発症後、日常生活では車椅子を常用しつつも、自身の障害を知られないよう細かく周りに指示していました。完全に歩行能力を取り戻すことはできませんでしたが、1928年までに政界復帰、ニューヨーク州知事に当選して、1932年には民主党の大統領候補に選出されます。同年、平屋建て6室の簡素な木造コテージ、リトル・ホワイトハウスが完成。ルーズベルトはここを頻繁に訪れ、療養と執務を兼ねて過ごすようになります。

ウォームスプリングスを通じた人脈と社会的信用の形成

ウォームスプリングス財団の設立にあたり、土地提供や資金調達の仲介者としてピーボディーは需要な役割を果たしました。彼はルーズベルトの慈善活動の基盤を築いただけでなく、金融界・教育界・慈善界に広い人脈を持っており、ルーズベルトは彼を通じて財界の支援者や社会的信用を得る機会を持ちました。とりわけニューディール政策の実施期には、ピーボディを通じた上流層とのネットワークが、ルーズベルトの資金調達や政策推進を間接的に支えたと考えられます。

政治活動における主要な資金支援者

若い頃のルーズベルトは、母サラ・デルノールーズベルトの財産に大きく依存していました。サラはニューヨーク上流社会の名門デルノー家の出身で、豊かな資産を有していました。サラの父ウォーレン・デルノーは広州にあったアメリカ商社ラッセル商会(Russell & Co.)に勤務しており、同商会はイギリス東インド会社が独占していた貿易体制の外でインドからアヘンを中国へ密輸し、アヘン戦争後の不平等条約体制のもとで莫大な利益を得ていました。サラはルーズベルトの政治活動を経済的にも精神的にも支え続けました。州上院議員選挙や海軍次官補時代の社交活動、さらにリトル・ホワイトハウスの維持費なども、多くが母親の資金で賄われました。

ルーズベルトが1928年にニューヨーク州知事に当選し、1932年の大統領選に挑むころには、民主党の州組織が主要な資金源となります。大統領就任後はウィルソン大統領の側近で戦時産業局長官として軍産複合体の実権を握ったバーナード・バルーク(Bernard Mannes Baruch)を顧問とします。バルークの指導のもと、ニューディール政策は均衡予算・通貨価値の維持・増税などによって政府支出を大幅に制限しつつ進められました。また、失業者の直接救済は地方政府に委ねられ、ハリー・ホプキンスを長とする雇用促進局が設立され、数百万の労働者に雇用を提供することで民主党の集票マシーンとしても機能しました。

ニューディール政策での保守的大企業との対立

ルーズベルトニューディール政策は、1930年代のアメリカにおいて国家が積極的に経済へ介入し、労働者保護や社会保障制度の整備、金融・産業の規制を強化するものでした。こうした政策は、従来の自由放任的資本主義の枠組みを脅かすものとして、多くの保守的な大企業や金融財閥の強い反発を招きました。

特にモルガン財閥(J.P.モルガン系)やデュポン財閥は、ルーズベルトを「反企業的な大統領」「階級闘争を煽る指導者」と見なし、ニューディールに対して激しく対立しました。彼らは高所得層に対する累進課税の強化や反トラスト政策、労働組合の台頭を嫌い、1934年にはデュポン家を中心として「アメリカ自由連盟(American Liberty League)」を結成。この団体は、ニューディール政策を「社会主義への道」と批判し、財界・保守派の政治的抵抗の中心となりました。モルガン系の金融人脈もこの運動に資金的支援を行っていました。

しかし、すべての財閥がルーズベルトに敵対していたわけはなく、たとえばウォームスプリングスで縁を得たピーボディは南部ジョージア州にルーツを持ち、産業資本家でありながら進歩的な価値観を共有し、ルーズベルトと親しい関係を築きました。このように、1930年代のアメリカにおけるルーズベルトと財界の関係は一枚岩ではなく、保守的な北東部の金融・産業財閥(モルガン系・デュポン系)による強い反発と、南部や進歩的実業家による個人的・理念的な支援(ピーボディ系)という二重構造が存在していました。結果として、ルーズベルトは「財界に立ち向かう庶民の大統領」というイメージを強め、政治的支持を広げることに成功します。

フリーメーソン・メンバーとのつながり

ルーズベルトフリーメーソンの正式な会員であり、彼の政治的・個人的ネットワークの中にはメーソン関係者やメーソン的価値観を共有する人々が複数存在しました。副大統領のハリー・トルーマン、ヘンリー・ウォラス、ジョン・ガーナー、国務長官コーデル・ハル、郵政長官ジェームズ・ファーレー、陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルはメーソン会員であり、政権運営を支えていました。また、当時のアメリカ上流社会では、銀行家、法律家、大学教授、軍人、政治家の多くがメーソンに属しており、その人脈を通じて政治資金や地方ロッジによる支持基盤を獲得するとともに、慈善活動を通じて「公共奉仕者」というイメージ強化しました。

さらに、イギリスのウィンストン・チャーチルフリーメーソン会員であり、大西洋憲章など第二次世界大戦中の両者の協力は地政学的利害の一致に基づくものであると同時に、メーソン的価値観、友愛精神を信奉する連帯感にも支えられていました

宋美鈴とのつながり

前回触れたように、蒋介石の妻である宋美齢は、ジョージア州メイコン(Macon)にあるメソジスト系大学ウェズリアン・カレッジ(Wesleyan College)で学びました。彼女の教育背景や信仰は、蒋介石との結婚生活や中国での政治活動にも影響を与え、国際舞台での発言や行動にキリスト教的価値観が色濃く反映されていました。

1933年、ルーズベルトがウォームスプリングスのリトル・ホワイトハウスで療養中、蒋介石夫妻はアメリカ訪問の一環として彼を訪れます。宋美齢はここで、ウェズリアン・カレッジで培ったキリスト教的価値観と倫理観を背景に、蒋介石政権の正統性や中国の苦境を説明し、ルーズベルトの共感を得ます。この出会いにより、ルーズベルト蒋介石政権を中国の正統政府として認識し、支援する決断を後押しされます。

さらに、第二次世界大戦中の1943年2月、宋美齢は初めて中国代表としてアメリカ議会で演説を行います。流暢な英語で「自由・信仰・家族」を結びつけ、アメリカのキリスト教社会に訴える形で中国国民党への支持を引き出しました。キャンプミーティング由来の情熱的かつ感情的な語り口で、自己の信仰や使命感を根拠に、「共産主義無神論」と対置し、メソジスト的道徳観に訴えることで、ルーズベルト夫妻をはじめ、多くの議員、女性団体、教会ネットワークの支援を得ます。この演説により、アメリカ議会は中国国民党への軍事・経済支援を拡大し、戦略的にも重要な同盟関係が強化されました。

 

リトル・ホワイトハウスとラジオ演説

ルーズベルトとその妻エレノアはプロテスタントの家庭に生まれ、幼少期からキリスト教倫理観を育みました。ジョージア州のリトル・ホワイトハウスを訪れる中で、彼らはメソジストやバプティスト系教会文化の影響を受けた南部の人々の社会的・宗教的価値観を理解するようになります。リトル・ホワイトハウスのあるウォームスプリングスは、南部メソジスト教会の信者が多く住む地域であり、ルーズベルトは地元住民との交流を通じて南部の信仰と倫理観を深く学びます。

1933年から始まったラジオ演説「炉辺談話(Fireside Chats)」で、ルーズベルトは家庭の暖炉のそばにいるかのような親しみやすい口調で、ニューディール政策金融危機への対応を国民に説明しました。当時、ラジオは最も身近な国民メディアであり、多くの家庭で日常的に聞かれていました。その語り口には、南部メソジストの教会で培われる共感、安心感、倫理的配慮が盛り込まれ、国民に心理的な安心と信頼を与える効果も生みました。

 

ルーシー・マーサー・ラザフォードとエレノア・ルーズヴェルト

ルーシー・マーサー・ラザフォード(Lucy Mercer Rutherfurd)は、1914年にエレノア・ルーズベルトの秘書として雇われ、まもなくフランクリン・ルーズベルトと深い関係を持つようになります。1918年、エレノアはこの関係を知り、離婚も考えました。しかしフランクリンは、政界での将来を守るためにルーシーとの関係を断つ決断をします。この際、母親サラ・ルーズベルトも介入しました。サラは、不倫関係が公になればフランクリンの政治家としての評判が傷つき、将来の大統領への道も閉ざされると考え、息子に関係を断つよう強く促したのです。

その後マーサーはルーズベルト家を辞め、ニューヨークの社交界名士ウィンスロップ・ラザフォードと結婚しましたが、フランクリンとの交流を完全には絶ちませんでした。1944年にラザフォードが死去すると、フランクリンは娘アンナの取り計らいで再びウォームスプリンスのリトル・ホワイトハウスでルーシーと会うようになります。そして、1945年4月12日、ここでルーズベルトは急性脳出血により死去。彼のそばにルーシーがいたことは、1966年まで公に知られませんでした。

ウォームスプリング巡礼とパインマウンテンの銅像

リトル・ホワイトハウスのあるウォームスプリングスは、長年人々にとって巡礼の地となってきました。1960年には大統領候補ジョン・F・ケネディがここで演説を行い、1976年にはジミー・カーターが大統領選の一般選挙運動をこの地で開始しました。ルースベルトが歴代大統領の中でも人気が高く、大統領候補がこの地を選挙戦の目玉にしていたことからも、その象徴的存在感がうかがえます。

ルーズベルト世界恐慌第二次世界大戦時の大統領として、20世紀前半の国際政治の中心に位置する人物でしたが、その評価も分かれます。ラジオ演説を通じた庶民に寄り添う政治家像を作り上げる一方、南部票や保守層の支持を維持する戦略的計算も働かせました。キリスト教的倫理を掲げつつ、政策決定では政治的安定や南部票確保、安全保障を優先し、日系アメリカ人の収容やニューディール政策における黒人差別など、批判も多く存在します。1940年の大統領選で「アメリカは参戦しない」と国民に約束したにもかかわらず、戦争準備を密かに進め、世論操作や外交関係の活用も行うなど、国家戦略と政治的支持維持の間で巧みにバランスを取っていました。

ウォームスプリングスに隣接するパインマウンテンでは、ルーズベルトが恐慌期の雇用対策として創設した市民保全部隊(CCC) がトレイルや施設を整備し、ルーズベルト州立公園が造られました。パインマウンテンからの眺めはルーズベルトのお気に入りで、展望台には彼の銅像が設置されています。ベンチに静かに腰かけ、眼下に広がる山々を眺めるルーズベルトは何を考えていたのでしょう。

 

 

ジョージア州にみる第二次大覚醒と福音派保守主義の流れ

アメリカ南部のジョージア州は、いわゆるバイブル・ベルト(Bible Belt)の一部であり、キリスト教信仰が生活文化や地域社会に深く根付いています。人口10万人あたりのプロテスタント系教会の数は全米平均を上回り、特にメソジスト教会バプティスト教会が多く存在しています。

ジョージア州で起こった第二次大覚醒とメソジスト、バプティストリバイバル運動は、現在のアメリカ保守派を支えるキリスト教福音派(Evangelicals)の思想的・宗教的ルーツとなっています。今回は宗教が地域社会や政治文化に与えてきた影響の連続性を振り返ります。

第一次大覚醒(1730年代~1750年代)

アメリカでは、社会情勢の変化に伴い、時代ごとにプロテスタント運動、すなわち「大覚醒(Great Awakening)」が起こりました。18世紀前半には植民地化による急速な人口増加や社会発展の中で、宗教的権威や伝統のみに依存する信仰への反動として、「個人の霊的回復」を強調するプロテスタント運動、第一次大覚醒が生じます。この運動の特徴は説教者による罪の自覚を促す説教にあり、理性と悔悟を通じた救済体験が重視されました。そのため、身体的表現は比較的抑制的であり、内面的信仰体験が中心でした。

第二次大覚醒(1790年代~1840年代)

アメリカ革命、独立戦争(1770年代~1780年代)を経て、西方への拡大、産業化が始まり、人口移動や急速な社会変化(市場革命)を人々は経験します。政治的にはより広範な白人男性の参政権拡大と地域間格差が顕著となります。

西部・南部のフロンティア地域では、社会的インフラ(学校・教会・行政)が十分に整っていませんでした。そこに巡回説教者(circuit riders)が入り、野外での大集会キャンプミーティング)が効果を発揮します。第二次大覚醒は、特に西部・南部の辺境地域で広がった野外集会型の運動で、集団的な説教や祈りを通じて集団の共感と個人の魂の救済体験が融合しました。賛美歌・ゴスペルの反復、感情を高める踊りや叫びといった熱狂的な身体表現も信仰体験の一部となります。

なぜジョージアで第二次大覚醒が広まったのか

19世紀初頭、ジョージアは内陸部の開拓が進む地域でした。新しく入植してきた農民や小規模なコミュニティは、定着した教会組織を持たない場合が多く、巡回説教者の活動が受け入れられやすい環境にありました。辺境の孤立感を埋める共同体的行事として、キャンプミーティングが有効に機能します。特に、メソジストの巡回牧師やバプティストの地方教会中心の組織は、正式な教会建築や牧師常駐を必要とせず、広大な土地に素早く広がることができました。これらの宗派は個人的回心会衆の参与を重視し、辺境の人々の精神的、社会的ニーズに合致していました。

メソジストは教育(学校・カレッジ)設立を積極的に行い、教会ネットワークと教育ネットワークが相互に補強し合いました。(例:ウェズリアン・カレッジやエモリー大学など)。これが長期的な宗教文化の根付きを生むことになります。ジョージアやアパラチアの民衆は音楽や口頭伝承が豊かで、賛美歌や証(testimony)の文化が受け入れられやすい土壌がありました。ゴスペルやアカペラ賛美などを通じてリバイバル文化は自然に地域文化として定着していったのです。

女性の社会的役割の拡大

ジョージアでは、女性の改宗者が特に多く、教会活動を通じて教育・慈善活動・家族の宗教指導に積極的に関わるようになります。女性たちは「家庭の道徳的柱」とされ、子どもの信仰教育を担います。都市部や町では、女性の祈祷会や慈善組織(missionary societies)が作られ、貧困者支援や宣教活動を行いました。これが後の禁酒運動・教育改革・女性の権利運動の下地となります。

黒人信徒と独立教会の誕生

第二次大覚醒は、黒人奴隷や自由黒人にも強い影響を与えました。南部のバプテストとメソジストは、奴隷主と奴隷の双方に説教したため、黒人信徒が多く生まれました。奴隷たちは説教の中に「自由」「救い」「出エジプト(解放)」の象徴を見出します。奴隷制の下でも、夜の森や納屋で秘密裏に礼拝が行われることが多く、見えざる教会(invisible institution)と呼ばれました。19世紀初期、黒人バプテスト教会が成立し、黒人信徒たちは信仰を通して共同体意識と自尊心を育て、奴隷制下における精神的抵抗の基盤を築きました。

地下鉄道とジョージア州の教会

地下鉄道は、奴隷制度から逃れようとする黒人奴隷を北部やカナダに逃がすための秘密のネットワークです。白人と黒人信徒がネットワークで協力し、教会や家庭を「駅」として利用しました。第二次大覚醒で設立されたサバンナのファースト・アフリカン・バプティスト教会 (First African Baptist Church) は、最も古い黒人教会の一つであり、地下鉄道の活動に深く関与します。逃亡奴隷に対して隠れ家を提供し、北部への移動を支援する役割を果たします。教会内に隠し部屋や秘密の通路が設けられ、逃亡奴隷が床下に隠れた形跡を示す通気口が今も残っています。

ジョージア州奴隷制が深く根付いていたため、地下鉄道活動は秘密裏に行われました。第二次大覚醒系のキャンプミーティングや教会集会は、信仰共同体としての結束を強める場であり、地下鉄道活動の情報や支援を密かに伝える機会にもなりました。

第五次大覚醒(1960年代~1970年代)

1850年代~70年代の南北戦争期の第三次大覚醒、1870年代~1910年代の第四次大覚醒では社会福音運動など社会改革的運動がありました。そして、1960年代~1970年代アメリカ南部では第五次大覚醒と呼ばれる宗教的リバイバル運動が広がります。この運動は、第二次大覚醒のときのような感情的礼拝、踊りや叫び、証の共有などを伴う熱狂的な集会が特徴でした。この熱狂的礼拝文化は、社会的困難や差別に直面する黒人コミュニティにとって精神的な支えとなります。第一次世界大戦後や大恐慌期の都市への大移動(Great Migration)に伴い、黒人は都市部でも南部でも差別や貧困に苦しんでいました。教会での熱狂的礼拝は、恐怖や不安を乗り越える勇気と共同体意識を培う場となり、個人の霊的覚醒とコミュニティの結束が密接に結びつきました。

このような背景の中、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア (Martin Luther King Jr.) は黒人教会で育ち、熱狂的礼拝で培われた信仰の熱意、倫理観、集団の結束感を公民権運動に応用します。「すべての人は神の子で平等である」という福音派的価値観は、非暴力抗議や平等権要求の倫理的根拠となり、熱狂的な礼拝で共有された勇気と希望は、差別や暴力に立ち向かう原動力となりました。

ジョージア州の第二次大覚醒と日本への宣教

ジョージア州における第二次大覚醒は、アメリカ南部の宗教文化を根本から変えた運動であり、その影響は日本にも及びました。とりわけ、メソジスト派バプティスト派の急速な拡大は、南部に強い信仰共同体を形成し、19世紀後半になると世界宣教運動(Foreign Mission Movement)として外へ向かっていきます。アメリカ南部の教会や大学では、「異教の地にキリスト教を広めることこそが神の使命である」という信念が若者たちに浸透していきました。日本に対しては明治維新以降、アメリカ南部の教会からも伝道師が派遣されるようになります。ジョージア州を拠点とするメソジスト監督教会(Methodist Episcopal Church, South)はその中心的存在でした。彼らは教育を通じた宣教を重視し、横浜、神戸、熊本などにミッションスクールを設立します。こうした学校は単なる宗教教育の場だけでなく、女子教育や近代的英語教育の先駆けともなりました。たとえば、南部メソジスト派の宣教師アリス・タルカット(Alice E. Talcottマリア・ダッドレー(Maria E. Dudleyキリスト教教育を通じて女性の人格形成と社会的地位向上を目的とし、1875年に神戸女学院を設立します。ウォルター・R・ランバス(Walter Russell Lambuth, 1854–1921)は南部メソジスト派が海外派遣を支援し、1886年来日して関西学院の創立に携わります。

 

宋美齢とのつながり

蒋介石の妻である宋美齢も、ジョージア州キリスト教文化と深い関わりを持っていました。彼女はジョージア州メイコン(Macon)にあるウェズリアン・カレッジ(Wesleyan College)で学びました。この大学は第二次大覚醒の南部メソジスト派教会と直結しており、その教育理念や信仰文化を色濃く受け継いでいます。宋美齢と彼女の二人の姉妹もこの大学で学び、キリスト教の価値観や教育理念に触れました。こうした背景が基盤となり、ルーズベルト大統領夫妻との交流、アメリカの政治家や福音派支持層との関係構築を通じて蒋介石政権への支援を得ていきました。

そして現代に…

ジョージア州では第二次大覚醒(1790年代~1840年代)が広がり、メソジスト派バプティスト派は急速に信徒を増やし、地域社会に深く根付きました。教会は単なる礼拝の場にとどまらず、教育・布教・コミュニティ活動の拠点としても活用され、福音派的価値観の基盤を築きました。黒人コミュニティにおいては、教会は教育やリーダー育成の場となり、後の公民権運動の精神的支柱となりました。白人コミュニティでは、メソジスト・バプティスト教会が地域社会の倫理観や道徳規範を形成し、信徒の結束を強めました。20世紀に入ると、南部バプティスト(Southern Baptist Convention)やメソジスト系福音派は、福音派保守層の中心として政治や社会に大きな影響力を持つようになり、現代アメリカの保守派の基盤を形成しました。信仰に基づく倫理観、家族・地域社会の価値、そして個人の救済と社会正義を重視する姿勢は、第二次大覚醒期に培われた教会文化の延長線上にあります。

現在もキャンプミーティング運動の建築様式を残す集会が30箇所以上で開かれ、地域での活動が続いています。

 

ジキル島の歴史をたどる旅:先住民からFRB誕生まで

ジョージア州南東部の美しい 4 つの堡礁島、ゴールデンアイルズ(Golden Isles)。その中で最も南に位置するジキル島 (Jekyll island)を訪れました。大西洋に面した異世界のようなドリフドウッド・ビーチを起点にジキル島の歴史をたどります。

ジキル島とトモチッチ、ジョージア初期史の知られざる舞台

ジキル島は18世紀、先住民ヤマクロウ族とイギリス入植者が交わる歴史の舞台となりました。ここで重要な役割を果たしたのが、ヤマクロウ族首長 トモチッチ(Tomochichi, 1644–1741) です。彼はもともとクリーク族の出身でしたが、イギリスやスペインとの関係をめぐる内部対立の末に追放され、1730年頃にヤマクロウ族を創設します。新しい部族の規模はおよそ200人。彼らはサバンナ川の高台に定住しつつ、交易や交渉のためにジキル島にも活動範囲を広げました。

当時のジキル島は、海路と川の交差点に位置する戦略的な場所。南のスペイン領フロリダ、北のイギリス植民地カロライナとを結ぶ中間地帯であり、交易や外交にとって欠かせない拠点でした。トモチッチはこの地を通じて、先住民とヨーロッパ人の架け橋となります。

1733年2月にイギリスは南部植民地の防衛と交易拡大を目的に、ジョージア植民地を設立します。植民地創設者ジェームズ・オグルソープ(James Edward Oglethorpe、1696 – 1785はトモチッチと面会し、互いに信頼関係を築くことで、植民地の安全と交易の安定を確保しました。入植者たちは土地を利用する許可を得る一方で、ヤマクロウ族は入植者たちと農産物や毛皮の交易を行いました。ジキル島は植民地と先住民をつなぐ重要な拠点であり、交易や協力を通じて地域社会の安定に寄与しました。

1743年、トモチッチはオグルソープに同行してイギリス本国を訪問します。妻セニオイキス(Senauki)、甥トゥーニー(Toonahowi)、そしてヤマクロウ族の仲間たちを伴ってロンドンに到着すると、異国からの使節として大きな注目を集め、新聞にも報じられました。トモチッチ一行はジョージ2世および王妃キャロラインに謁見し、友好のしるしとしてイーグルの羽を贈ります。また、博物学者ハンス・スローン卿(後の大英博物館設立に寄与した人物)と出会い、先住民の生活や文化について話したとされます。トモチッチとトゥーニーはセント・ポール大聖堂にも招かれ、イギリス国教会の礼拝を体験しました。

イギリスから帰国した後も、トモチッチはオグルソープとの友好関係を保ち続け、甥のトゥーニー(Toonahowi)に将来の指導者として教育を施し、オグルソープもまたトゥーニーを可愛がってイギリス式の教育を与えようと努めたといいます。

 

ウィリアム・ホートンとジョージア植民地の防衛

ジョージア植民地が誕生してまもなく、南のスペイン領フロリダとのあいだで緊張が高まっていきました。オグルソープは入植者の安全が脅かされていると感じ、イギリス本国に援軍を要請します。ウィリアム・ホートン(William Horton)もその呼びかけに応じ1736 年 2 月サバンナに到着し、この地域の駐屯部隊長に任命されます。ホートンは有能な士官として功績が認められ、ジョージア植民地信託委員会からジキル島の土地を与えられます。 彼は農業を営みながら、周辺地域の防衛にも貢献します。 特に、1742年のスペイン軍による「ジョージア侵攻」において、オグレソープと共にスペイン軍を撃退し、ジョージア植民地の安全を確保し、ジキル島の防衛拠点としての役割を強化しました。ホートンは大麦やインディゴなど実験的作物栽培を試み、ジキル島初のビール醸造も行いました。家や付属建物は、タビーと呼ばれる石灰・牡蠣殻・水を混ぜた建材で建てられ、ジョージア州最古の建造物の一つとなっています。

 

プランテーション時代とアメリカ最期の奴隷貿易

1792年、フランス革命の混乱を逃れたデュビニョン一家がフランスからジキル島に到着し、アフリカ系奴隷を使ったプランテーションを発展させます。

1808 年にアメリカ政府はアフリカ人奴隷の輸入を禁止しましたが、密輸は続きました。1858 年 11 月 29 日、サバンナの実業家チャールズ・ラマーが所有する「ワンダラー号」が違法に運んだ約400人のアフリカ系奴隷が島に上陸します。この船はアメリカで最後に奴隷を運んだ船となりました。

ワンダラー号はニューヨークで遊覧用に建造されたスクーナーでしたが、チャールズ・ラマーと投資家グループによって購入され、違法な奴隷輸入に使われました。船はコンゴ王国(現コンゴ民主共和国)の港から出港し、490〜600人もの人々を狭い船倉に詰め込みました。食料も水も足りず、船内は病気と死が蔓延しました。

それでも約409人が生きてジキル島にたどり着いたといいます。生存者の中には、ギニア出身のルシウス・ウィリアムズという青年がいて、のちに「船内では魚や貝を手づかみで捕まえ、みんなで生き延びた」と語っています。

上陸した人々は、デュビニョン家の所有地に送り込まれ、サバンナやオーガスタのプランテーションに分配され、売られていきました。

生存者の記録には、子どもたちが母親と引き離される様子や、初めての西洋の生活に戸惑う様子が残されています。言葉が通じず、身振りで作業を覚える日々。しかし、彼らは少しずつ新しい土地で生きる術を見つけ、家族を築いた者もいました。

ワンダラー号の違法行為は北部で大きな怒りを呼び、ラマーや関係者は起訴されましたが、ジョージア州陪審は彼らを無罪とします。この事件は、南北の対立をいっそう激化させ、やがて南北戦争への一因となっていきます。

 

ジキル島クラブ

1886年、デュビニョン家と投資家は、島を冬の休暇地として開発するためにジキル島クラブを設立しました。クラブハウスは1888年に完成し、53名のメンバーが株式を購入。メンバーたちは自転車、狩猟、乗馬、テニスなどを楽しみ、豪邸のようなコテージで休暇を過ごしました。ニューヨークのユニオン・クラブとも強いつながりがあり、会員にはマーシャル・フィールド、ヘンリー・ハイド、J・P・モルガン、ジョセフ・ピューリツァー、ウィリアム・K・ヴァンダービルトといった実業家たちが名を連ねました。国際的に著名な実業家が集まっていたため、歴史的に重要な出来事もいくつか起きました。1915年1月25日、AT&T社長のセオドア・ヴェイルはジキル島からニューヨークに電話をかけ、長距離通話技術の進歩を示しました。

 

連邦準備制度 (FRB) の計画

1910年11月、後に「ファーストネーム・クラブ」として知られるメンバーがジキル島で極秘会合を開き、連邦準備制度 (FRB) の設立につながる議論を行います。

ファーストネーム・クラブ」は、連邦準備制度の創設に関わった 6 人の主要人物で構成されていました。アメリカ上院議員ネルソン・オルドリッチ、A・ピアット・アンドリュー(財務次官補兼国家通貨委員会顧問)、ヘンリー・P・デイヴィソン(J・P・モルガン社のパートナー)、ベンジャミン・ストロング(バンカーズ・トラスト社の副社長)、フランク・ヴァンダーリップ(ナショナル・シティ銀行の社長)、ポール・ウォーバーグ(クーン・レーブ商会のパートナー)がメンバーでした。彼らは偽名を使い、カモ猟師になりすましてジキル島へ渡り、約 1 週間をかけて「オルドリッチ案」と呼ばれる金融改革案を作成します。この中で今のFRBの骨格となるアイデアが出そろいます。中央集権を嫌う国内事情から「中央銀行という名称は使わずに中央集権的な機能をもたせる」「15の地域連銀をワシントンの理事会で統括する」「金融危機時に最後の貸し手として機能する単一通貨の管理」などが決まります。

この案は 1912 年に議会に提出されましたが当初は可決されませんでした。しかし、ウッドロー・ウィルソン大統領はこの案を基に計画を立案。1913年、連邦準備法が成立し、アメリカの中央銀行制度として連邦準備制度FRBが誕生します。

ジキル島での秘密会議の存在は約20年間も公にされませんでした。FRB設立に大手金融資本が関与していたことは伏せられ、後に判明すると根深い不信の種を生むことになります。

FRBの構造は理論上は公的機関でありながら、民間銀行が株主となり、地区連銀の運営に影響力を持つ仕組みが採用され、実務上は大手銀行の利益と結びついていました。特に大恐慌期 (1929〜33年)には、FRBは積極的な銀行救済を行わず、金融収縮を放置したと批判されます。約1万行の銀行が倒産。人々の生活と信用が大きく揺らぎました。この教訓からFRBを「ウォール街の銀行」から「国家的中央銀行」へ転換する改革が1935年銀行法により行われ、理事会+連邦公開市場委員会FOMC)体制がとられ、現在に至るFRBの基本形が整えられたのです。