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長森稲荷社の扁額に書かれていた「武蔵國橘樹郡稲毛領上菅生郷飯室村」

2025年8月30日、川崎市多摩区東生田に鎮座する長森稲荷社を訪れた。



真新しそうな扁額に目が引き寄せられた。

ストリートビューで見てみたところ、最新が2024年6月で、その時点では設置されていなかったので、それ以降に設置されたものと思われる。

ここに

武蔵國橘樹郡稲毛領

長森稲荷社

上菅生郷飯室村鎮守

と金色で書かれていた。

扁額に地名が書かれているのは珍しいのではないか。

縁起にこの地名のことが書かれていると思ったが、特に触れられてはいなかった。

ネットで"飯室村"のことを調べてみたが、情報は見つからなかった。

長森稲荷社 縁起

御祭神 長森稲荷大明神

御配神 海光耀大明神・星夜大明神

御眷属 長現金狐神・渡一銀狐神・阿通紅狐神
    阿參玄狐神・阿權白狐神

示 現 元禄 十年(一六九七年)    京 鳥羽繩手

創 建 元禄十一年(一六九八年)    麻布 日ヶ窪

遷 座 元文 五年(一七四〇年)十一月  飯室谷

縁起

江戸時代に編纂された「江戸名所図会」と「新編武蔵風土記稿」には当社の縁起が次のように記されています。

時は元禄10年、伊予宇和島出身の相馬左仲という浪人が、京都の鳥羽縄手で「私は伏見藤長長森明神の眷属(祭神の遣い)渡一銀狐神である」と名乗る一人の美女に出会いました。翌年の元禄11年4月20日、再び同じような体験をした左仲は御告げに随い江戸を目指します。縁あって麻布日ヶ窪(現在の六本木周辺)に住んでいた中原与兵衛という者にこの霊験を語ったところ、与兵衛は大いに感動し自ら5寸(約15cm)ばかりの長森大明神の御神体を彫り上げ邸宅内に御祀りました。これが当社の始まりと言われています。

その後、正徳5年(1715)に左仲が亡くなると御神体は子息の相馬加藤次に譲られましたが、元文5年11月に与兵衛の娘の子息である佐伯助五郎重真に受け継がれる事となり、日蓮宗法言山安立寺の日限聖人によって当地に遷されました。佐伯家は鎌倉時代から江戸時代まで約700年に亘り在郷領主として当地一帯を治め、建久年間(1190~1199)には館内に「飯室の釈迦堂」と呼ばれた持仏堂を建てましたが、この御堂が室町時代後期に安立寺となった事から、重真が氏寺に遷座を依頼したものと考えられています。以来、安立寺が当社の別当寺(神社を管轄する寺院)となり、歴代の住持職別当職を務めて祭祀を司っています。

長森稲荷大明神の御利益は当地に遷された後も変わることなく、遠く江戸府内からも多くの参詣者が訪れました。「江戸名所図会」に取り上げられていることからも窺えますが、当社に残る手水盤が安政5年(1856)に新橋・赤坂の商人衆によって奉納された物でる事もその証です。

現在当社は篤信の講中「長森稲荷講」によって大切に護られています。

『江戸名所図会』八 「飯室山・長者穴・長森稲荷」



手水盤

奉納者 赤坂の大塚屋久治郎・山本半兵衛・橋本長吉・東屋熊次郎



奉納主 新橋の大和屋直吉・糸屋喜兵衛・東屋吉五郎