歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

滋賀県近江八幡市の町名説明板と町名表示板

2025年4月7日、宿泊地は大津市なのだが、観光の初日に大津市にある三井寺の予約が取れなかったため(予約するのが遅すぎた)、当初の予定を変更して初日は近江八幡観光することにし、京都駅から近江八幡駅へ直行する。

近江八幡駅から目的地の八幡堀まではバスで八幡堀八幡山ロープウェイ入口まで行く。

平日は本数が少ないね。

11時15分発に乗る。

ほぼ満席になるが、立っている人はいない。

乗客は日本人より中国系の観光客が多い感じ。

近江八幡の町並みについて


近江八幡市は、天正13年(1585年)に豊臣秀次豊臣秀吉の甥)が八幡山に城を築いたことに始まります。
秀次の楽市楽座等による商工業の発展政策は、その後の近江商人の活躍の原動力となりました。天正18年(1590年)に秀次が移封され、ついで京極高次が城主となりますが、わずか5年後の文禄4年(1595年)に廃城となります。城下町商人としての特権は失われましたが、船や街道を利用して多くの人や情報、文化が入ってくる地の利を活かし、その先進性と自立的な商法により八幡を本店として江戸や大坂に出店を設けるなど活躍していきます。
今なお碁盤目状の整然とした町並みは旧市街地に残され、特に新町や永原町にはかつての近江商人本宅の家々が立ち並び、八幡堀に面した土蔵群は往時の繁栄を偲ばせます。



八幡堀の歴史

八幡堀は、天正13年(1585年)、 豊臣(羽柴)秀次により、八幡山城の築城に際し琵琶湖に繋がる運河として建設され、その長さは約4.7kmに及びます
特に江戸時代は、水運の流通拠点として賑わい、この地から八幡商人たちが全国に商いを展開しました。
昭和の経済成長期になると、 運河としての利用価値は失われ、 埋立て計画が持ち上がるほど荒廃しました。
しかし「堀は埋めた瞬間から後悔が始まる」を合言葉に市民有志の保存再生運動が展開され、埋立ては中止され、堀はかつての姿を取り戻しました。
今日も、市民による清掃と美化活動が続けられることで、映画やドラマのロケ地になるなど、四季折々情緒ある風景を見せてくれます。


天気も良く、桜は満開だった。

当然、観光やグルメも楽しんだが、当ブログなので、旅行記を書くつもりはない。観光客が書かないと思われるものにフォーカスすることにする。

観光していると、ところどころに町名説明板と町名表示板が設置されていた。どれくらい設置されているのかわからないが、探し回り全部撮りたかったのだが、連れ合いがいるし、そのような時間もない。
たまたま出会ったものだけで我慢することにした。

東畳屋町

畳大工職人が集まり住んだところ。大工町と共に工匠の保護という意味からその地子すなわち年貢を免除されていました。寛政4年(1792年)には畳大工仲間が公認され、同年の作法帳によれば仲間は八幡町全体12軒で組織されていました。江戸時代末期には、西畳屋町の松前屋藤兵衛をはじめ八幡町全体で24軒の畳大工職人が住んでいました。

博労町

軍馬を売買することを仕事とする人が住んでいた町。秀次公の掟には、近江国(現:滋賀県)中の馬の売買は八幡以外では禁じていたことから、近江の国の馬のすべてがここで売買されていたと考えられます。また、路上で馬をつなぐために特に道幅を広くしてあります。

仲屋町

八幡城下形成時に仲買商人の町として成立した町で、町名は商売の仲買を意味する『すあい』に因みますが、後には他の商人町と変わるところはありませんでした。また、”市助町”とも呼ばれましたが、これは豊臣秀吉奉行衆の一人だった一柳一助直末が居住していたことに由来するといわれています。

町名表示板「仲屋町 上」


「仲屋」を「すわい」とは読めない。難読町名だ。
「仲屋町」は「仲屋町上」、「仲屋町中」、「仲屋町元」の三ヵ町からなる。

魚屋町」もあるのだが、町名説明板を見つけられなかった。「魚屋」は「うわい」と読み、こちらも難読町名だが、電柱には「ウオヤ」と書かれているものがあった。



新町


安土城下の新町を移したものだと考えられます。その内、四丁目については「浅小井町」と呼ばれた時期があり、ここは安土の新町とは異なり浅小井出身者が占めたと考えられます。また、江戸期以降に多くの豪商を輩出しており、主な商人に安南屋西村太郎右衛門や山形屋西川甚五郎、大文字屋西川利右衛門、大文字屋西川庄六、一扇屋森五郎兵衛などが挙げられます。 

町名表示板

木製のものと金属製のものがあった。

大杉町


八幡堀の対岸は日牟禮社(現:日牟禮八幡宮)境内で、元禄町絵図では同堀に架かる宮ノ橋が描かれています。日牟禮社の門前町的性格を有しており、町名は同宮境内の杉の木に因むといわれています。また、久兵衛町とも呼ばれていたこともあり、これは豊臣秀吉・秀次に仕えた田中久兵衛吉政が居住していたことに由来すると言われています。

鍛冶屋町

字の如く、鍛冶を仕事とする人が住んだ町です。隣接する多賀村には後の享保年中(1716-1736年)に八幡鋳物師を名乗る国松氏などがいました。 これは、当町から多賀村にかけて鍛冶・鋳物師が集まり住んでいた名残とも考えられます。

バス停