シネマの流星

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『ノートルダムの傴僂男』〜一杯の水が、世界を変えてしまった

『ノートルダムの傴僂男』〜一杯の水が、世界を変えてしまった

『ノートルダムの傴僂男』は、1923年に公開されたアメリカ映画。ヴィクトル・ユーゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』(1831年)を原作とするサイレント大作である主演は“変身の名優”として知られるロン・チェイニー。巨大なセットで再現された中世パリとノートルダム大聖堂の塔、身体そのものを表現に変えるチェイニーの演技が、言葉なき時代に圧倒的な感情のドラマを成立させた。

スタッフ

  • 監督:ウォーレス・ウォースリー
  • 脚本:エドワード・T・ロウ・ジュニア、パーレー・プーア・シーハン
  • 原作:ヴィクトル・ユーゴー『ノートルダム・ド・パリ』
  • 製作:カール・レムリ(ほかクレジットなし協力)
  • 製作・配給:ユニバーサル・ピクチャーズ
  • 公開:1923年9月2日(米)/1924年10月3日
  • 上映時間:102分

この作品は、主演のロン・チェイニーが映画化権を取得し、ユニバーサルに持ち込んだ15世紀のパリを再現した壮大な巨大セットは圧巻である。

キャスト

『ノートルダムの傴僂男』〜一杯の水が、世界を変えてしまった

  • カジモド:ロン・チェイニー
  • エスメラルダ:パッツィ・ルース・ミラー
  • フォッビュ:ノーマン・ケリー
  • ゴンドローリエ夫人:ケイト・レスター

ロン・チェイニーはこの映画でハリウッドのトップスターの仲間入りをし、その後も『オペラの怪人』など多くのホラー映画に主演した。

あらすじ

『ノートルダムの傴僂男』〜一杯の水が、世界を変えてしまった

1482年のパリ。ノートルダム大聖堂の鐘つき男カジモドは、背にこぶを持ち、群衆から嘲笑と恐怖の目を向けられて生きている。祭の日、彼は踊るジプシーの娘エスメラルダに心を奪われるが、主人に命じられた誘拐は失敗し、逮捕される。
公衆の面前で鞭打ちに遭うカジモドに、ただ一人水を与えたのがエスメラルダだった。その小さな親切は、孤独な男の人生を決定的に変える。
誤解と陰謀によりエスメラルダは処刑されかけるが、カジモドは命を賭して彼女を救い、大聖堂に匿う。群衆と権力が衝突する混乱の中、カジモドは最後まで鐘を鳴らし続ける。カジモドの行為は、報われない愛であり、同時に世界への静かな抵抗でもあった。

映画レビュー:鐘は、誰のために鳴るのか

『ノートルダムの傴僂男』〜一杯の水が、世界を変えてしまった

この映画が描くのは、怪物の物語ではない。世界から隔てられた人間が、ほんの一度だけ“人として扱われた瞬間”を、どこまで守り抜けるかという物語だ。

カジモドは言葉を持たない。だが、ロン・チェイニーの身体は雄弁だ。重く歪んだ背、ぎこちない歩み、塔にしがみつく指。彼の身体は、社会から押し付けられた役割そのものになっている。人々は彼を見世物にし、罰し、嘲る。世界は彼を「外側」に配置することで、自分たちの安心を保っている。

その秩序を崩すのが、エスメラルダの一杯の水だ。彼女は正義を語らない。救済を宣言しない。ただ、喉の渇いた者に水を与える。この行為は小さいが、取り返しがない。なぜなら、そこには「選別しない視線」があるからだ。カジモドはその視線に初めて触れ、世界が別の形で見えることを知る。

鐘楼は象徴的だ。地上の喧騒から切り離され、都市を見下ろす場所。そこは安全でも自由でもないが、距離がある。カジモドは距離を生きる人間であり、距離の中でしか誠実になれない。鐘は勝利を告げない。和解を約束しない。鐘はただ鳴る。鳴り続けるという行為そのものが、カジモドの選択だ。報いを求めず、理解も期待しない。それでも鳴らす。世界に届かなくても、鳴らす。ここに、この映画の強度がある。

『ノートルダムの傴僂男』は、悲恋の物語であり、都市の暴力を映す鏡であり、そして一人の人間が最後まで自分の選択に忠実であろうとする記録だ。鐘が鳴り終わっても、問いは残る。

映画レビュー:ニューシネマは、すでにここから始まっていた

『ノートルダムの傴僂男』〜一杯の水が、世界を変えてしまった

1923年の『ノートルダムの傴僂男』は、サイレント映画の古典であると同時に、アメリカン・ニューシネマの精神を半世紀先取りした作品でもある。

アメリカン・ニューシネマとは何か。それは「勝者の物語」からの離脱であり、「社会に適応できない者」「時代に取り残された者」を主人公に据える視線である。1960〜70年代に顕在化したその感覚は、この映画の中心に、すでにはっきりと存在している。

カジモドは英雄ではない。社会に受け入れられず、言葉も力も持たない。秩序の外側に配置された存在だ。だが、この映画はカジモドを矯正しない。救済もしない。社会に戻すこともない。ただ、その場所に立たせ続ける。

これは、のちのアメリカン・ニューシネマが繰り返し描いた人物像と完全に重なる。
『俺たちに明日はない』のアウトロー、『イージー・ライダー』の放浪者、『タクシードライバー』の孤立者。彼らは皆、世界に適合できないがゆえに、世界の歪みを最も正確に映す存在だった。

ロン・チェイニーのカジモドも同じだ。“正しい側”に立たない。群衆と権力のどちらにも属さず、ただ個人的な記憶と感情だけで行動する。エスメラルダから与えられた一杯の水。その体験だけが、行動原理になる。

ここにあるのは、制度や理念ではなく、きわめて私的な動機だ。アメリカン・ニューシネマが拒んだのも、この「大きな物語」だった。国家、宗教、秩序、正義。そうした言葉よりも、個人の感情や傷を優先する姿勢が、この映画ではすでに成立している。

特に重要なのは、ラストのあり方だ。カジモドは勝たない。社会を変えない。恋も成就しない。ただ、鐘を鳴らしながら死んでいく。これはハリウッド的なカタルシスの否定であり、「報われなさ」を引き受ける結末だ。

アメリカン・ニューシネマが観客に突きつけたのは、「それでも世界は続く」という感覚だった。主人公が倒れても、都市は回り続ける。価値観は更新されない。『ノートルダムの傴僂男』でも同じことが起きている。エスメラルダとフォッビュは再会し、鐘は祝福の音として鳴る。しかし、その音を鳴らしているのは、瀕死のカジモドだ。世界は犠牲の上で平然と動いていく。

『ノートルダムの傴僂男』は、形式こそサイレント映画だが、精神は完全に現代的だ。
言葉ではなく身体で語り、勝利ではなく余韻で終わり、社会の中心ではなく周縁から世界を見る。だからこの映画は、単なる文芸映画でも古典でもない。アメリカン・ニューシネマ以前に、すでにアメリカン・ニューシネマだった映画である。

100年後に観てもなお、鐘の音が胸に残るのは、その視線がいまの世界にも通じているからだ。時代に早すぎたのではない。世界のほうが、まだ追いついていなかっただけなのだ。