
『灰とダイヤモンド』(原題:Ashes and Diamonds)は、1958年公開のポーランド映画。アンジェイ・ワイダが、イェジ・アンジェイェフスキの同名小説を脚色し映画化。
ノルヴィッドの詩句「灰の底深く、燦然たるダイヤモンドの残らんことを」が、敗戦後の瓦礫から立ちのぼる光の形を、映画全体のモットーとして刻む。
スタッフ

監督・脚本:アンジェイ・ワイダ
脚本:イェジ・アンジェイェフスキ
音楽:フィリップ・ノヴァク、ボーダン・ビエンコフスキー
撮影:イエジー・ヴォイチック
編集:ハリナ・ナヴロツカ
配給:NCC
公開:1958年10月3日(ポーランド)/1959年7月7日(日本)
上映時間:103分
製作国:ポーランド
キャスト

マチェク:ズビグニエフ・チブルスキー
クリスティーナ:エヴァ・クジジェフスカ
シュチューカ:ヴァーツラフ・ザストルジンスキ
アンジェイ:アダム・パヴリコフスキ
市長秘書:ボグミウ・コビェラ
あらすじ

映画レビュー:“灰の掟”と“ダイヤモンドの眼差し”

アンジェイ・ワイダ最高傑作。そして、ポーランド映画の最高の宝石。ワイダは、敗戦を描くのではなく、“敗戦直後の呼吸”を歌い上げた。
この映画が描くのは、勝者も敗者も名乗れない“終戦直後”という空白をどう生きるか、という人生の重心である。マチェクは若きレジスタンスだが、旧敵が去った瞬間、暴力は“解放の手段”から“政治の残響”へと意味を変える。ワイダはこの転調を、夜のホテル、廃墟の教会、朝焼けの広場という三つの空間で進行させる。バーカウンターのグラスに点る火が、戦死者への鎮魂であると同時に、これから燃え尽きる命の予告であるように。
誤殺は物語の偶然ではない。体制の切り替わりが、人の意図を越えて他者の生を奪ってしまうという、歴史の持つ盲点だ。マチェクのサングラスは、地下水道の闇に馴染んだ“戦時の視力”の名残であり、いま見ているのは“かつての敵影”の残像である。マチェクは任務の照準で世界を見ている。だが、バーカウンターの向こう側に立つクリスティーナの横顔に、久しぶりに“照準ではない視線”を取り戻す。
恋はマチェクにとって非政治の誘惑ではなく、政治の外にある「壊すためでなく、生きるための関係」の回復である。
詩が重要だ。『松明のごとく われの身より 火花の飛び散るとき われ知らずや、わが身を焦がしつつ自由の身となれるを もてるものは失わるべきさだめにあるを 残るはただ灰と、嵐のごとく深淵におちゆく混迷のみなるを 永遠の勝利の暁に、灰の底深く 燦然たるダイヤモンドの残らんことを』
教会の廃墟でクリスティーナが読み上げるノルヴィッドの言葉は、「失われたものの下に残るもの」を指す。灰は敗戦であり、ダイヤモンドはその中に潜む固い価値。人間の尊厳、愛、そして選択だ。
そして、暗殺の夜に打ち上がる花火。それは勝者たちの祝祭であり、国家が「新しい時代」を祝う音である。だが、その光が夜空に咲く瞬間、同じ街角ではひとつの命が消える。花火は、体制の誕生と個人の死が同時に成立するという、歴史の二重露光である。
ワイダは花火を希望としてではなく、政治のまばたきの速さとして描く。上空では光が瞬き、地上では血が滲む。国家の歓喜と個人の終焉が同一のリズムで打ち上がるとき、映画は祝祭そのものの暴力性を露わにする。

ワイダは“新しい大義”への勧誘に乗らない。むしろ、大義が取りこぼした個の声を拾い直す。祝賀の花火と暗殺の銃声が同時に鳴る夜、国家の時間と個人の時間が交差し、短絡するショットは、政治と生の接点がつねに不器用であることを暴く。
夜明け、ゴミ捨て場でのマチェクの死は、英雄譚の終止符ではない。瓦礫にまみれ最期は、壮麗な史詩を拒むためでもある。死体が“語り”を拒む場所へ退けられることで、映画は観客に問いを返す。この死をどの言葉で引き取るのか。ワイダは解答を用意しない。灰の中に残るダイヤは、観客の側で光らせよ、と突き返す。
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