B級グルメの食べ過ぎに注意
7月10日は「納豆の日」だってさ。7と10で「なっとう」というこじつけらしい
自分の中華好きはいつから始まったのか。回らない頭を回して考えると、どうも小学生のころからだったように思う
「ロシアで毒キノコ中毒死発生」。30年近く前の夏、こんなニュースが国際面に載った
今ではメタボが原因で山とは縁遠くなってしまった私だが、若いころは社会人の山岳会に所属して
若いころは本当に無茶苦茶な生活をしていた。毎晩、野毛や福富町で呑んだくれて散財し、その合間に麻雀、競馬で負けてスッテンテンになる
もう10年くらい前のことになるが、作治さんと一緒に関内の老舗バー「パリ」に初めて入った
数年前まで関内にこんなお爺さんがいた。壊れかかったビニール傘をツエ替わりにして、Cの字に曲がった足を引きづって歩く
相変わらず「食」に関わる不祥事があとを絶たない
肉類の産地偽装事件が続いているが、私が食べたコジュケイは正真正銘の小田原産だった
あれは10年ほど前の真冬のこと。私はスペインでギターを弾くことになり、仲間10数人と一緒にマドリッドへ行った
太平洋無着陸横断飛行にまつわるリンゴの話。デリシャス系にはこんな過去があったのだ
先日、久しぶりに野毛小路の「フライ屋」へ行った
1975年の暮れも押し迫ったある日、シベリア行きの話が持ち込まれた。日本全国から青年を集め、バイカル湖畔でキャンプをしようというのだ
まだ学生だった頃、私は学費を稼ぐために、さまざまなアルバイトをこなしていた。最初は日給800円、町工場での雑役だった。しかし、次第に高給を求め
いまでこそ梅干しといえば、お湯割り焼酎の友として欠かせない食材であるが、昔はこれを竹の皮で包みチューチュー吸っていた。今でいうオヤツだったのである
「ビギナーズラックって、やっぱり、あったんだぁ」
20年ほど前の冬。ボクたちのジャズバンドは、宝川温泉で合宿を行った。バス停から宿までは除雪していないので、交代でラッセルして行かねばならず、楽器を抱えた身にはひどく厳しかったことを憶えている。
「家庭・家族機能の外部化」ということが言われて久しい。ボクが初めてこの言葉を聞いたのは、60年代から70年代にかけての頃である。核家族化や女性の有業化が進むなかで、子どもの保育は保育園や学童保育へ、食事は外食産業へ、洗濯はクリーニング店へ…
柿には懐かしい想い出がある
横浜に住んでいる外国人に日本料理を教える機会があった。それは私の所属するボランティアグループが主催したもので、自分は材料買い出しの役目を仰せつかった。先生から渡された食材リストを見ると、聞いたこともない外国種の豆や缶詰と並んで「百合根」と…
横浜は競馬発祥の地と言われているが
スペインの町なかを歩いていると、しばしば「Bar」というネオンを見かける。ホステスが接客する日本の「バー」とは違って
昭和20年10月、戦後初の映画「そよかぜ」が封切られた。主題歌は並木路子が歌う「リンゴの唄」だった。翌年、この曲がラジオから流されると
横浜スタジアムから海に向かう大きな道路。幅員は36mとか32mとか言われていますが、ここが日本大通です。 慶応2年に大火があり、居留地や日本人町の大半を焼失しました。そこで、街を再建する際、外国人土木技師であるブラントンが、防火帯の意味をこ…
幕末から戦前にかけて、横浜では酪農・乳業が盛んだった。近世の庶民にとって無縁であった牛乳が、急速に消費されるようになったのは
いわゆるホームレスの定義とは何なのか、考えさせられてしまう光景を見た。その人は新港ふ頭への入り口、税関の向かい側の空き地に住んでいた。 今まではあまり目立たなかったのだが、海岸沿いに残っている旧臨港線の高架がプロムナードになったおかげで、そ…
学生時代は、ほとんど毎月、アルバイトをやっていた。当時の日当はだいたい800円位だったが、あるとき、深夜4時間で2000円というバイトが舞い込んできた。それは、新築ビルの中にエスカレータを取りつけるという仕事だった。 今でこそ重機を使って簡…
いま、中華街ではフカヒレがブームだ。スープは言うに及ばず、高級な姿煮からラーメン、饅頭まで、様々なバージョンが登場している。そして、これに飽き足らないグルメな日本人が、本場のフカヒレを求めて香港・シンガポールへと繰り出している。 今日は、そ…