熱砂がニュース画面を吹き抜ける。
遠い中東の戦火に、無力な怒りが胸を焦がす。
瓦礫に埋もれた街、人々の絶叫、煙の向こうに漂う死の匂い――画面越しに感じるその惨状に、私は思わず息を止めた。
だが、その瞬間、頭の奥にひとつの疑問が閃いた。
もし今、この戦火のただなかに「ユダヤ人のイエス・キリスト」がいたなら、
果たして彼は生き延びられるのだろうか、と。
歴史に刻まれた逆説
イエスが生きたとされる時代、彼は「ナザレのユダヤ人」にすぎなかった。弟子たちもまたユダヤ人。
だが歴史の皮肉は、彼の名を掲げる共同体が拡大するほど、ユダヤ人そのものが異端視され、排除されていったことだ。
十字軍の戦場では、神の名を掲げる兵士たちの剣がユダヤ人を襲った。
井戸に毒を投げ入れたという噂で迫害され、強制隔離や追放が繰り返された。
20世紀、ナチス・ドイツによるホロコーストでは、計画的に迫害が実行され、炎と煙の向こうで数百万の命が消えた。
迫害の底流には、「神の子を拒んだ民族」という神学的理屈が潜んでいた。
だが冷静に考えれば、その「拒まれた者」こそ、ユダヤ人のイエス自身であった。
預言者は自分の郷里で
イエス自身も、この逆説を予感していたかのようだ。
「預言者は自分の郷里では敬われない」(マタイ13章57節)
その言葉は、故郷で理解されない愚痴ではない。自らの存在が同胞から拒絶され、異邦人に担がれてゆく未来を暗示しているようにも響く。
もし今日、ユダヤ人イエスが現代の戦火のただなかに立ったなら――
彼は迎え入れられるのだろうか、それとも再び拒まれるのだろうか。
終末を待つ者たち
現代にもなお、強烈な矛盾が息づいている。
キリスト教原理主義の一部には、「エゼキエル戦争」(エゼキエル書 第38~39章) ののちにイエスが復活すると信じる者がいる。
彼らは終末を待望し、ユダヤ人国家や中東情勢を、まるで戦場の布陣のように見ている。
だがそこに、現実のユダヤ人一人ひとりの命や生活は映し出されない。
信仰の物語の中で、ユダヤ人は救い主の民族として祭り上げられると同時に、なお迫害や偏見の対象となり続けている。
現代への問いかけ
この矛盾を見つめるとき、私は思う。
問題は「イエスが実在したか否か」ではない。
重要なのは、物語を信じる人々が、現実の隣人をどう扱うのかだ。
二千年にわたり繰り返された迫害の歴史は、
「崇高な理想の名の下に現実の人間を犠牲にする構造」
を映し出している。
宗教に限らず、あらゆる共同体に潜む病理である。
結びに
「反ユダヤはイエスを殺すか?」
この問いは過去を指すと同時に、現代をも射抜いている。
信じる物語と現実の人間をどう折り合わせるのか。
崇高な理想の名のもと、現実の隣人を見殺しにしてはいないか。
熱砂の風に吹き寄せられた怒りとともに、私は考え続ける。
もしユダヤ人イエスが今ここに立っていたら――
彼は、果たして救われるのだろうか、と。