織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、真田幸村(信繁)、武田信玄、上杉謙信……。歴史に名を残す英雄たちは、どのような失敗を経験し、そこから何が学べるのか。日経BPから『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』を刊行した歴史家の加来耕三氏が、独自視点の軽快かつ濃密な歴史物語で、25人の英雄たちの "知られざる失敗の原因" を明らかにし、ビジネスパーソンに役立つ教訓を浮かび上がらせる。

 今回取り上げるのは戦国最強とも称えられた猛将、立花宗茂。天下人となった豊臣秀吉が、居並ぶ大名たちを前にして「その剛勇、鎮西一」と激賞した武将だ。戦国ファンの関心が高い宗茂は、どのような武将だったのか。加来耕三氏に話を聞いた。

(聞き手は田中淳一郎、山崎良兵)

立花宗茂(たちばな・むねしげ)といえば、武勇に優れた戦国武将として大変人気が高い人物です。豊後国(現・大分県の大半)の大友宗麟(おおとも・そうりん)の家臣として活躍した後に、豊臣秀吉の直参となり、九州征伐や朝鮮出兵で活躍したものの、関ヶ原の戦いでは、西軍につきました。東軍方の大津城を陥落させるなど活躍したものの、宗茂が参加しなかった本戦では東軍が勝利して、いったんは牢人となります。しかし徳川家康の評価は高く、江戸時代になって大名に返り咲いた稀有(けう)な武将でした。宗茂はどのような武将だったのでしょうか。

加来耕三氏(以下、加来):天下人となった豊臣秀吉が、居並ぶ大名を前に宗茂と初めて対面した際に、「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」と激賞した話は有名です。

「多勢に無勢でも勇猛果敢に戦ったことが宗茂の評価を高めた」と語る加来耕三氏
「多勢に無勢でも勇猛果敢に戦ったことが宗茂の評価を高めた」と語る加来耕三氏

 秀吉の九州征伐において、北上してきた島津勢3万余りを、宗茂はわずか3000の手勢で、博多近郊において迎え撃ち、秀吉の大軍が到着するまで持ちこたえたからです。

 宗茂はもともと大友宗麟の家臣でしたが、主君が天正6年(1578年)の耳川の合戦で島津勢に大敗します。大友家の命運が尽きようとする中で、各地で奮戦し、戦闘経験を積み重ねていきました。

 その経験を生かして、多勢に無勢の状況下で、島津の大軍を向こうに回して、勇猛果敢に戦い、秀吉の高い評価を得たのです。

 その後、宗茂は秀吉の直参(じきさん)となり、肥後(現・熊本県)の一揆の鎮圧に活躍して、さらに評価を高めます。とりわけ朝鮮出兵では、天正20年(1592年)に始まった文禄の役で、明の名将李如松(り・じょしょう)の10万とも称された大軍(実際には4万8000人)を3000余で打ち破ったことで、その勇名をとどろかせることになります。

宗茂にとっての関ヶ原は新型コロナに襲われた有名店のようなもの

天下に名を知られるようになった宗茂ですが、関ヶ原の戦いの際には西軍側として参戦します。

加来:宗茂にとっての関ヶ原の戦いは、自分のうかがいしれないところで、新型コロナウイルスの感染拡大で営業できなくなった有名店のようなものだったと私は思っています。

 宗茂自身は関ヶ原での本戦には参加せず、大津城の攻略を主導し、城主の京極高次(きょうごく・たかつぐ)を降伏開城させています。しかし関ヶ原で西軍が敗れたために、窮地に追い込まれました。

 まさに「緊急事態宣言」です。国に帰ったら土地も取り上げられる。そこで宗茂は全部捨てて、一からやり直す方法を考えました。宗茂は最終的には、家康や二代将軍:徳川秀忠に認められ、関ヶ原で失った領地を取り返して、大名に返り咲きます。

領地を失い、どん底まで落ちても、宗茂はなぜ復活できたのでしょうか。

加来:宗茂は自分に対する自信を最後まで失いませんでした。私は新型コロナの問題に直面している経営者のみなさんに問いたいことがあります。「あなたはこれまで何もしてこなかったんですか。今もプライドはあるんですか」。そう問われたら、きっと多くの方が「ここまで一生懸命にやった。これだけのことをやってきた、その自負はある」と答えられるはず。ぜひその矜持(きょうじ)を思い出してほしい。そうしたらきっと「もう1回やれるはずだ」という気持ちになれるのではないでしょうか。

 戦国時代は実績がモノを言う社会でした。大坂の陣で徳川家康は、宗茂が大坂城に入ったら大変なことになる、と考えていました。そこで家康は宗茂を試しています。宗茂には何十万石の大名にしてもらえるだけの実績があるにもかかわらず、あえて旗本で来ないか、と誘いました。旗本の収入は数千石なので、普通なら断って当然でしたが、宗茂はこのオファーを受けました。

「殿は今でも志を忘れていない」と家臣がうれし泣き

 大きな失敗を犯して再生しようとするときに、宗茂は前と同じ規模でやろうと考えませんでした。まずは、小さくてもいいだろうと考えた。徳川の旗本を選んだ理由は、「きっと大名に返り咲ける」と宗茂が自らを信じていたからのように思います。

宗茂は身の丈に合う形で再起する道を、あえて選んだということでしょうか。

加来:武勇で知られた宗茂です。何万石という仕官の話がたくさんやってきましたが、すべて断りました。京都や江戸で牢人生活を送ります。

 面白い話があります。牢人時代に、宗茂自身は働かず、従ってきた家臣の中で音楽が得意な人は尺八を吹いたり、力自慢の人は力仕事をしたりして、宗茂の生活費を稼いでいました。それでも台所事情は苦しく、お米が残り少なくなってきたため、家臣が食事に雑炊を出したのです。

 すると「こんなものが食えるか」と宗茂は、出された雑炊をひっくり返しました。家臣たちは泣きましたが、それは腹を立てたのではなく、実はうれし泣きでした。「殿は今でも、お家再興の志を忘れていない」と思ったのです。

 

 また家臣がお米を外に干した状態で、外で稼ぐために外出したところ、にわか雨が降ってきたことがありました。「取り込んでくれたらいいのだが…」と家臣たちが思うのは自然ですが、宗茂は気にとめず、そのまま放置していました。しかしそんな主君の姿に家臣たちは、また感動する。自分の値打ちをどう考えるのか、というところで、宗茂は決してプライドを捨てず、再起を念じ続けていたのでしょう。

自分の価値をよく分かっていた

行動だけを見ると、ずいぶん自分勝手な人物のようにも思えますが、落ちぶれた主君に最後まで付いてきた家臣たちは、そうした宗茂に心酔していました。何があっても、この主君を信じて仕え続けようと決意を新たにしたのでしょう。

加来:その後、宗茂は慶長9年(1604年)に、徳川家康の後継者で二代将軍になった秀忠に、5000石の幕府相伴衆(しょうばんしゅう)として取り立てられます。そして元和6年(1620年)には10万石を超える(旧領の)柳河(現・福岡県柳川市)の領主に復帰しています。

 関ヶ原の戦いの後に改易されて領地を取り上げられた大名のうち、旧領において大名として復帰できたのは、宗茂だけでした。大坂の陣へと向かう不穏な情勢下にありながら、豊臣方について大坂城に入ろうとせず、市井にとどまったことが、徳川幕府の世になって、宗茂の処遇にプラスに働いたように思います。

 つまり宗茂は逆境下でも、自分の価値を冷静に理解していました。徳川方の思惑を察知しつつ、うまく振る舞うことで、小さいながらも復活のチャンスをつかみ、信頼を得て、大名に返り咲きました。自分を客観視し、無理をせずに旧領を回復した宗茂の復活劇には、ビジネスパーソンにとって参考になる点が少なくありません。

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・明智光秀は、なぜ “絶好のチャンス” を生かし切れなかったのか。

・夢ではなかった黒田官兵衛の “天下取り” が消えてしまった一言。

・のちの関ヶ原の戦いに活かした、徳川家康の失敗とは?

・山陰の太守・尼子と、名門甲斐武田の家が続かなかった共通点…

歴史上の英雄たちも失敗しています。

歴史家の加来耕三氏が、独自視点の軽快かつ濃密な歴史物語で25人の英雄たちの “知られざる失敗の原因” を明らかにし、現代に通じる教訓を浮かび上がらせました。

見逃しがちな落とし穴、絶対に失ってはならない大切なものを見極める技、避けられない危機を最小限に食い止める対処法…。失敗に学べば、「成功」「逆転」「復活」の法則が見えてきます。

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