仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

無常を見つめて幸せに向かう道

12月は特に交通事故が多いですよね。
これは、どれだけ気をつけていても、避けられないこともあります。

本願寺僧侶蓮如上人という方の書かれたお手紙にも、
私たちがいつどうなるか分からないということが書かれてあります。
このお手紙のことを『御文章』と言われますが、
その「白骨の章」に、こんな言葉があります。

「朝には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり」

朝は元気だった人が、夕方には亡くなってしまう、
そういうものが私たちなのだと。

でも、私たちは「それは他人のことでしょ」と思ってしまいます。
自分のこととは、なかなか思えないんですね。

仏教では、「無常迅速の機」と言われますが、
いつどうなるか分からない、それが私たちの命なんです。

でも、私たちは錯覚しています。
自分の友達、家族、パートナー、自分の立場、
そういうものはいつまでもずっと続くものだと思い込んでいる。

「錯覚」というのは、本当は無常迅速でいつどうなるか分からないのに、
ついつい「まだまだ大丈夫」と、実際と違ったように見てしまうことです。

夜道で対向車のライトにピカッと照らされると、
至近距離のものが見えなくなる。
そして事故が起きます。
本当はそこに人がいるのに、それが分からない。

自分が無常のものなのに、「人のこと」と思って、自分のこととは思えない。
こういうのを、仏教では「妄念」と言います。
全く間違った、迷った思いを持っている。
しかもこれは、とても根深いものなんです。

室町時代に、とんちで有名な一休宗純という僧侶がいました。
その一休さんがまだ幼い頃、とある有名な和尚のもとで
小僧として修行をしていた時のこと。
この和尚さんは、時の足利将軍から直々にもらったお茶碗を
宝物として大事に大事にしまっていました。
誰にでも、そういう大切にしている宝物はあると思います。

ある時、和尚さんが外出することになりました。
「私は用事で出掛けてくる。大人しくしていなさい」
すると、心の中では「やったあ!」と思いながら、
表面上は「それは残念です」という顔をしている小僧たち。

和尚さんが出かけた後、みんなで遊んでいると、
一休さんの兄弟子が泣き出しました。
なんと、和尚さんが大切にしていたお茶碗を落として割ってしまったのです。

今なら接着剤とかもありますが、当時はありません。
どうやっても、元にはもう戻らない、「覆水盆に返らず」です。
兄弟子は、和尚さんにどれだけ怒られるかと思うと、
怖くて怖くて泣くしかありませんでした。

そこで一休さんが言いました。
「分かりました。私が身代わりになって、私が割ったことにします」

和尚さんが帰ってくると、一休さんが言いました。
「今日は、お師匠様の留守中に、一つの公案を練っていました」
公案というのは、禅宗でよく使われる、心を静めて答えを出すべき問いのことです。

「どんな公案だ?」
「午前中は『人の生死これいかん』という公案を練っていました」
一休さんは続けます。
仏教では、人は一度生まれたなら必ず死なねばならないと言われます。
 でも、自分の大切な人が突然死んでしまうのは耐えられません」

先ほどの「白骨の章」にはこうあります。

「朝には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり。
 すでに無常の風来りぬれば、すなわち二つの眼たちまちに閉じ」

どんなに家族が「もう一度、目を開けて」と言っても、
もう元通りにはならない。

「さてしもあるべきことならねばとて、野外に送りて
 夜半の煙と成し果てぬれば」

どんなに悲しくても、そのままにしておくことはできません。
なぜなら、腐ってしまうからです。
だから、火葬の相談をすることになります。

「そんなの当たり前じゃないですか」
そう思う人もあるかもしれません。
でも、自分の大事な人が亡くなったら、簡単にはできない。
可能なら、ずっと自分の近くにそのままにしておきたいとなります。

それでも、ずっとそのままにしているわけにはいかない。
だから火葬する。
これが「さてしもあるべきことならねばとて」です。

死ぬということは、頭では分かっていても、
自分の大事な人が死んでしまったとは思えない。
どこかで生き続けているんじゃないかと、そんなふうに思ってしまうんですね。
いざ自分にとってかけがえのない人が死んだとなったら、
とても受け入れることはできません。

一休さんは続けます。
「午後の公案は『物の生滅これいかん』でした。
 仏教では、どんな物でもいつかは必ず滅すると言われますが、
 自分が宝として大切にしてきたものなら、
 中には滅しないものがあるのではないかと」

すると和尚さんが答えます。
「仏教では、すべてのものが因縁和合と言ってな。
 何かの因と何かの縁が和合しているのだ」

テーブルも、構成する材料と製法によって、
テーブルという形がしばらくの間できているだけ。
何かができた状態を「成」、それがしばらく続いて、
やがて壊れて、バラバラになったのが「」、
成住壊空を繰り返すんですね。

そのことを表した、こんな歌があります。
「引き寄せて 結べば柴の 庵にて
   解くればもとの 野原なりけり」

原っぱにたくさん落ちている柴、それを束ねて庵になっているけれど、
束ねているところを解いてしまえば、元の野原に戻る。
因縁和合して庵になっているだけなんですね。

このように和尚さんが教えてくれたので、一休さんは言いました。
「さすがお師匠様、博学多才!」
「これこれ、そんなに誉めてもお前に出すものなんかないぞ」
「いえいえ、お師匠様から頂くなんて。私から出します」
そう言って、割れたお茶碗を出しました。
「このように、因縁離れました」

和尚さんは、「そうか、諸行無常だからな」と言って、
怒ることができなかったそうです。

大事にしている人でも、いつか別れなければなりません。
このことは分かっているつもりでも、実は分かっていなくて
分かったつもりになっている、錯覚に陥っているんですね。

「あの人は寿命だったんだ」
「たまたま運が悪かっただけ」
そんなふうに、いつも他人事、他人事。
いざ自分の問題となったら、もう大変です。

そんな私たちに、お釈迦様は教えられます。
「自分の命だけはそんなことにはならないと思い込んでいるけれども、
 実際はどうなるか分からない。
 これが本当の姿なんですよ」と。

「笑う者も 続けて転ぶ 雪の道」
雪道を歩いていると、滑って転ぶこともあります。
それなのに、他人が滑ったのを見て笑う。
「アハハハハ、転んでるよ〜」
自分はそうならないと思っていなければ、人のことを笑えません。
でも、その笑っていた人も、そこに来ると転んでしまう。

滑るというのは、無常です。
人間はいつ死ぬか分からない。
しかもそれは100%確実です。

死んでいく時には、何の役にも立たないものを
生きている間、一生懸命かき集めているのが私たち。

例えば、よく滑る道なのに、たくさん荷物を持っているとか、
雪道なのに、自転車に乗っている。
自転車はもともと不安定なのに、スノータイヤもありません。
そういう人を見て、「えー、自殺行為だよ」
「危ないってこと知らないんじゃない?」

人に対してはそう思うけれど、自分もいつもと同じで無防備で、
危ないものを持っていく。
そして転んでしまうんですね。
無常に対しては、全く無策です。

いつ死ぬか分からない、100%必ず死ぬのに、
死ぬ時には何の役にも立たないものばかりを集めている。
この世は無常なのに、自分だけはそんなことにはなるまいと思い込んでいる。
そういう錯覚をしているから、自分は大丈夫と思い込まされてしまっているんですね。
みんなそうだから、自分も大丈夫だと。

恐ろしい罠というのは、罠にかかっている本人が、
罠にかかっていることが分からないというものです。
罠にかかっている本人が
「罠にはかからないよ。罠については知っているよ」と言いながら、
その対策をせず、罠にかかっていく。
罠にかかって転んでいる人はたくさんいるのに、
自分はそうならないと思い込んでいる。
これが恐ろしいところです。

蓮如上人は、こう言われています。

「まことに死せん時は、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、
 我が身には一つも相添うことあるべからず。
 されば死出の山路の末、三途の大河をばただ一人こそ行きなんずれ」

いよいよ死んでいかなければならないとなった時、
これまでずっと頼りにしてきた、生きる支えにしてきた妻や子ども、財産、
そういうものは全く役に立たない。
だから、ひとりぼっち死後の世界へ旅立っていかなければならない、
ということです。

死ぬ時には何の頼りにもならないものを、今までずっと頼りにしてきた、
そんな自分の愚かさが知らされる。
「かねてたのみおきつる」というのは、かねてからずっと頼りにしていた、
あてにしていたということです。
これがあれば自分は幸せになれると、生きる支えとしていたもの、
生きがいとしていたもの。

でも、臨終を迎えると、価値観が一変してしまいます。
これまで自分が大事だと思っていた、幸せにしてくれると思っていたものは、
何一つあてにならない。
「意味のないことに時間を使っていた」
そういう後悔が起きるんですね。

私たちは今、色んなものを頼りにしています。
その頼りにしたり、あてにしているものが、
いよいよ死んでいくとなった時に、役に立つかどうか。
このことをしっかり考えてみる必要があるんですよね。

私たちは、大きな錯覚の中で生きています。
「自分は大丈夫」
「死ぬのは、まだまだ先のこと」
「それは人のこと」

でも本当は、いつどうなるか分からない、
それが「無常迅速」という真実です。

一休さんの話が教えてくれるように、
どんなに大切なものでも、因縁が離れれば壊れてしまう。
人も、物も、すべては無常で、
変わらないものは何一つありません。

でも、この真実から目を背けて、
「自分だけは大丈夫」と思い込んでいる、
これが、私たちのかかっている罠です。

死ぬ時には何の役にも立たないものを、一生懸命かき集めている。
本当に大切なことから、目を背けている。
でも、そのままでは何の解決にもなりません。

「無常を観ずるは菩提心のはじめなり」と言われます。
無常をしっかりと見つめること。
それが、本当の幸せへの第一歩なんですね。