仏教では心を最も重く見られます。
実際、私たちの日常生活でも、心を重んじていますよね。
他人のことを表現する時に、
「根性が曲がっている」とか「心がきれい」と言ったりします。
私たちはその人の心を見て、判断しているんです。
ロシアの作家ツルゲーネフが貧しかった頃、
自宅にやってきた乞食に、あげるものがなかったので、
「兄弟!」と言って手を握りしめたという話は有名です。
当の乞食も、この心の施しをとても喜んだとか。
「ボロは着てても心は錦」なんて言葉もありますが、
私たちは外見よりも心を大切にしているんですよね。
一生懸命着飾ってはいるけれど、心は貧しいよりも、
貧しい身なりをしていても心は錦のように美しいほうがいい。
仏教では私たちの色々の行いを、心と口と身体の三方面から見られます。
その中でも心を重く見られるのは、
口や身体の行いは心の指示によるものだからです。
心は火の元で、口や身体は火の粉のようなもの。
川の上流で青いインクを流したら、下流も青いインクの色に染まりますよね。
それと同じで心が源、口や身体の行いはその結果にすぎない。
だから本当に問題なのは、心なんですよね。
「よもすがら 仏の道を 求むれば
わが心にぞ たずね入りぬる」
一晩中仏の道を求めていったら、結局自分の心に行き着いたと。
仏の道というのは、自分の心を見つめること。
こんな話もあります。
ある禅僧が、大変な修行をして、みんなから尊敬されていました。
けれどもある日、托鉢に出かけて肉屋の前を通りかかった時、
お肉のいいにおいに思わず生唾を飲み込んでしまった。
その姿を見ていた人が「心が生臭い」と言ったそう。
表面上は立派な修行僧でも、心の中では肉を食べたいと思っている。
それが「心の生臭さ」なんですよね。
石川五右衛門の辞世の句にも、こうあります。
「石川や 浜の真砂は 尽くるとも
世に盗人の 種は尽きまじ」
これは泥棒の種は尽きないということです。
それは、人の心に欲の心があるからなんです。
法律や倫理、道徳は、口や身体にあらわれたものしか
取り締まることはできません。
なので、実際に身体で盗みを働きさえしなければ
捕まることはないんですよね。
でも仏教では、心が重んじられます。
それを表した歌があります。
「殺るよりも 劣らぬものは 思う罪」
実際に身体で殺すよりも、心で「殺したい」と思う方が恐ろしい。
そう言われているんです。
たとえば、こんな場合を考えてみてください。
全く殺そうなんて思ってなくて、たまたま包丁が手から滑って
飛んでいってしまった。
これは過失ですよね。
でも、身体では殺しはしないけれども、心の中で
「あの人が憎い、殺してやりたい」と思い続けている場合。
後者のほうが、実は恐ろしいんです。
心で悪を思う罪は、最も恐ろしい。
自己の真実というのは、心の真実が問われているんですね。
心を見つめていかなければならないんです。
だから、仏教イコール法鏡。
仏教を聞くということは、本当の自分を知らされるということです。
本当の自分のすがたを知らされた親鸞聖人という方は、
4歳の時にお父さん、8歳の時にお母さんを亡くされました。
そして「今度は自分が死ぬ番だ。死後明るい身になりたい」と
9歳で出家され、仏門に入られたんです。
そして20年間、比叡山で修行されました。
比叡山が始まって以来、わずかな人しか成し遂げたことのない
厳しい修行までされたそうです。
それで「比叡山の麒麟児」とまで言われるようになられました。
でも、そんな親鸞聖人が気づかれたことがあったんです。
ある日、親鸞聖人が修行をされている時、
平家のにわか坊主たちに出会われました。
彼らは夜になるとこっそり抜け出し、お酒を飲んで肉を食べ、
好き勝手に生きている。
親鸞聖人は、彼らを見て「戒律も守らず、何をしているんだ」と思われた。
でも、にわか坊主の一人が言ったんです。
「あなたは立派な修行僧のフリをしているけど、
心の中では私たちと同じことを思っているんじゃないか」
親鸞聖人は、ハッとされました。
そうだ、口や身体では立派に修行をしているが、
心では思ってはならないことばかり思い続けている。
そのことを、にわか坊主に見透かされてしまった。
身体では悪いことをしていないけれど、心では思い続けている。
だったら、心のままにやっている彼らの方が、余程正直者ではなかろうか。
上辺だけを取り繕って、仏の眼を欺こうとしている親鸞こそ、
偽善者ではなかろうか。
言わざる、聞かざる、やらざる、はできても、
思わざるだけは、どうすることもできなかった。
「心口各異 言念無実」
心で思うことと、口で言うことが全く違う。
これが偽善なんです。
そういうこと、よくありませんか?
知り合いの子どもを見た時に、
心では「この子、全然可愛くないな」と思っていても、
口では「えー、可愛い」と言ってしまう。
家に帰って「一体誰に似たのかしら」なんて言っている。
心で思うことと、口で言っていることが全く違う。
なぜそんなことをするのかといえば、
人から悪く思われたくない、よく思われたいという名誉欲からです。
自分をよく見せようとして、口ではいいことを言う。
親鸞聖人は、心の中では思ってはならないことを思い続けていながら、
上辺は立派に修行して「麒麟児」とまで言われている。
そういうことで、自分は偽善者だと思われたんです。
こんな話もあります。
動物虐待とか、矢が刺さったカモが発見されたと聞くと、
口では「可哀想に」と言って善人ぶっていても、
心は肉や魚を食べたい心いっぱい。
実際に、鴨鍋を食べながら「可哀想に」なんて言っている人もある。
おとぎ話の浦島太郎もそうですよね。
たまたま1匹の亀を助けたということで善人と言われていますが、
漁師の浦島太郎は、たくさんの魚の命を奪う釣り竿を折ることはできなかった。
生きていくためには仕方がないと、たくさんの魚を殺していても、
1匹の亀を助けて善人面している。
これが、人間のぎりぎりいっぱいの姿なんです。
私たちは、自分のことは自分が一番よく分かっていると思っていますよね。
そして、「自分の罪悪を知らされました」と反省する心くらいはある
と思っている。
ところが親鸞聖人は、自分のことを「無慚無愧」と言われています。
無慚というのは、悪いことをして自分に恥じる心がないこと、
無愧というのは、他人に対して自分の罪を恥じないことです。
恥ずかしいとか反省する心もない。
だから懺悔の心もない。
悪を悪と感じる心もないと。
鼻が麻痺してしまっているようなもので、
悪を悪と感じる心があれば、それはまだいいんです。
でもそれがないから、助かる縁手がかりのない極悪人と言われた。
「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
善なんてとてもできない自分だから地獄しか行き場がないと。
そんな本当の自分のすがたは、法鏡、つまり仏教の教えによって
照らし出されたもの。
本当の自分のすがたが知らされた時に、
人間に生まれてよかったという本当の幸せになる。
そう言われているんです。
仏法は法鏡です。
「仏法は聴聞に極まる」と言われますが、
聴聞させていただくことでしか、本当の自分は分からないんです。
私たちは日々、いろんな顔を使い分けて生きていますよね。
会社ではいい社員の顔、
友達の前では友達思いの自分の顔。
家族の前では、いい子ども、いい夫、いい妻の顔。
SNSでは、キラキラした自分を演出して。
でも、一人になった時、ふと思う。
本当の私って、どれなんだろうと。
心の中では、もっと違うことを思っている。
誰にも言えない欲望だったり醜い感情。
嫉妬したり、人を恨んだり見下したり。
そんな心を、誰にも見せずに生きている。
でも、それが本当の私なんですよね。
親鸞聖人が20年もの厳しい修行の末に気づかれたこと。
それは、どんなに外側を取り繕っても、心は変わらない
ということです。
むしろ、取り繕えば取り繕うほど、偽善者になっていく。
私たちは、本当の自分の心を見つめることから
逃げているのかもしれません。
見たくないから、忙しくして、考えないようにして、
楽しいことで気を紛らす。
でも、本当の自分を知らないままで、本当の幸せになることはできない。
それで本当の自分というものを教えられているんです。
本当の自分を知るために、人間に生まれてきてよかったという
本当の幸せを得るために、真剣に聴聞させていただきましょう。