「本当の自分」って、一体何を指しているんでしょうか。
それは心のことです。
真実の自己というのは、心の真実ということ。
心でどう思っているか、それが本当の私のすがたなんですよね。
でも、隣にいる人を見たって、内面の心のすがたまでは分からない。
分からないからこそ、私たちはこうやって社会で生きていけるんです。
もし人の心が全部分かってしまったら、
または自分の思っていることが全部相手に知られてしまったら、
そうなると街を歩けますか?
満員電車に乗れますか?
心って、本当に大切にされているもの。
本当の心は、簡単には人には見せないものなんです。
その心を重視しているのが、仏教なんですよね。
「本当の自分のすがたなんて、私が一番よく分かってるよ」
そう思いますよね。
でも実は、自分ほど分からないものはないんです。
他人のことは結構よく分かるのに、自分のことになると、全然見えていない。
だから「自分探しの旅へ」ということになるわけです。
判事が逮捕される事件とかもありますが、
過去の事件でいえば、その人はわいせつ罪の裁判を担当していた人だった。
他人のことは「変態だ」と裁いていたのに、
自分が中学生の女子に不適切なことをしてしまった。
自分のことは、まったく見えていなかったということです。
電車の中で電話している人がいたら、「うるさいなー」って思うでしょ?
でも、自分に職場とかから電話がかかってきたら、
思わず出てしまう。
駆け込み乗車もそう。
自分が先に乗っている時は、心に余裕があるから冷静に見られる。
ベルが鳴っているのに、ダッシュしてくる人を見て
「いやいや、無理でしょ」と思う。
無理やり入ってきて平然としている人を見て
「ホントやめてほしい」と思うはず。
ところが、自分が遅れそうな時はどうですか?
もの凄い勢いで走ってきて、ドアに挟まれてもこじ開けて乗ってしまう。
これ、我が身知らずっていうんですよね。
待ち合わせもそうで、待つのが嫌いだから、
いつも集合時間ぴったりに行くようにしている。
でも何かあって遅れることもある。
自分が時間通りに着いている時に、相手が遅れてくると
「こっちの身にもなってほしい」って思うのに、
自分が遅れた時は「ごめーん!」の一言で済ませてしまう。
自分の欠点って、なかなか分からないもの。
癖なんかも同じで、「なくて七癖」って言うでしょ?
自分としては、普通だと思っているんですよね。
なぜ自分自身のことが分からないのか。
それは、近すぎるからなんです。
近いものは見えない。
自分の目で、自分の眉を見ることができますか?
できないですよね。
目が存在する顔を、自分の目で見ることができますか?
せいぜい鼻の先くらいまでしか見えません。
これ、昔から
「目、目を見ること能わず。
刀、刀を切ること能わず」
と言われているんです。
だから、自分のすがたを見る時は、鏡を使います。
鏡の命は、正しく、ありのままの姿を映すかどうかにあります。
正しく映さない鏡だったら、困りますよね。
仏教では、自分のすがたを写す鏡に3つあると言われています。
1つ目は他人鏡。
これは、他人の評価によって、自分を知るということ。
「私って、人にどう思われているのかな?」
こんなふうに私たちは他人の評価をすごく気にしますよね。
たとえば、今まであまり着たことのない服を着たり、
髪型を変えたり、メイクを変えたりした時。
特に女性は気になりませんか?
会議でプレゼンする時も、みんなからどう思われているか、気になる。
美容室に行った帰り道、「失敗したかも……」って思う時。
道でつまずいた時。
電車で寝ていて、ビクッとして起きた時。
朝から晩まで、人の目が気になるのが私たちです。
でも、人の評価ってどんなものでしょうか。
結構いい加減だったりしますよね。
その人の都合で、評価は簡単に変わってしまう。
私たちは自分の周りにイエスマンを求めてしまいがちです。
自分の意見に同調してくれる人の方が、気持ちいいから。
いちいち批判してくる人には、イライラしてしまう。
でも考えてみてください。
評価って、本当にコロコロ変わるんです。
太平洋戦争の時の首相、東條英機は国民を率いて戦いましたが、
戦争に負けると、その責任を追及され、死刑となりました。
芸術家でも、生きている時は評価されなくても、
死んでから有名になる人もいます。
浄土真宗の親鸞聖人も、大変な非難攻撃を受けたことで知られます。
聖人のこんなご和讃があります。
五濁の時機いたりては
道俗ともにあらそいて
念仏信ずる人を見て
疑謗破滅さかりなり
(正像末和讃)
道俗というのは、道は僧侶、俗は在家の人のことで、
すべての人ということ。
この念仏は、真実の仏教のこと。
真実の仏教を信じる人を「疑謗破滅さかりなり」ということで、
疑ったり謗ったり、果ては命を狙ったりする。
親鸞聖人は最も疑謗破滅された方です。
今だったら、親鸞聖人には称讃の言葉が多いですよね。
こういう言葉を聞くと、「親鸞聖人って素晴らしい人なんだな」と思います。
でも当時の人は散々な言いようだった。
なぜこんなに違うのかといえば、人の評価は人それぞれで
みんな違うから。
10人いたら、10通りの評価になりますが、
その人は1人だけ。
例えばどういう非難の言葉があったかというと、
肉食妻帯の堕落坊主
背師自立の横着者
偏執者
仏教を破壊する悪魔
破壊坊主
色坊主
仏敵など。
親鸞聖人は当時の僧侶には考えられなかった結婚をされています。
それで、肉食妻帯の堕落坊主と。
当時の仏教では、肉を食べず、妻をめとらないという
戒律を守るのが常識でした。
ですが親鸞聖人は、これをなされた。
当時、公然と結婚することは大変なことでした。
背師自立の横着者というのは、師に背いて自らの考えを打ち立てたということ。
弟子にとって、背師自立と言われるのは辛いことだそうです。
師匠を尊敬している人ほど、
「君は師に背いている」と言われるのは辛い。
偏執者というのは、偏った執着を持った者ということ。
親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願でなければ、本当の幸せにはなれない
ということを明らかにされた。
それ以外の先祖崇拝、神信心などをバッサリ切り捨てられています。
それで、そういうものを信じている人から、非難轟々。
そのほか、悪魔とか破壊坊主とか、すごい言われよう。
これを普通の人が言われたらどうか。
「あなたはホント偏ってるね〜」
「堕落している横着者」
「色欲に狂っている敵だ」
こんなこと言われたらヘコみますよね。
それも1人や2人じゃない、周り中から言われるわけです。
人を見て偏っていると言う人は、
自分は偏っていないというところに立っていないと
そんなことは言えません。
「あの人、マクドナルドばっかり行っている」と言う人は、
自分があるお店にばかり行っていたら、言えないはず。
「どうして米津玄師だけしか聞いてないの?」というのは
自分はまんべんなく聞いていると思っていなかったら言えないこと。
そして、自分が堕落していると思っている人はいません。
親鸞聖人はこれだけでなく、石を投げられたり槍で突かれたりする。
これで平気でいられるでしょうか。
何か主張して、もし石を投げられたら、
「じゃあ撤回します」となるのが普通です。
でも親鸞聖人は、生涯、真実の仏法を叫ばれました。
そして石を投げられて、色んな非難をされて、
挙げ句のはてに死刑になられた。
死刑は結局、流刑になりましたが、そんな状況でも
親鸞聖人はそれを貫かれます。
ここに多くの人は、凄い方だと評価する。
人の評価は本当にコロコロ変わるもの。
だから、それで浮いたり沈んだりする必要はないということで、
とんちで有名な一休さんが、こんな歌を残しています。
「今日ほめて 明日悪く言う 人の口
泣くも笑うも ウソの世の中」
今日は立派な人だと言っていた人が、
明日になると最悪だと言う。
それが人の口なんですよね。
食べ物でもそうじゃないですか?
食わず嫌いだったものが、食べてみたら意外と美味しくて
好物になったとか。
誰の心にも、やじ馬根性みたいなのがあって、
適当なことを言ってしまう。
言われた方は、悪く言われると落ち込んで、
食欲もなくなって、夜も眠れなくなる。
好きな人に「嫌い」って言われると、相当へこむ。
それが誤解だったと分かると、途端に安心して喜ぶ。
それほど人の評価は、いい加減なものだということなんです。
昔から「ブタは褒められてもブタ、ライオンは謗られてもライオン」
なんて言われますよね。
だから、他人鏡は自分を正しく映す鏡ではないということです。
2つ目は自分鏡で、別の言葉で言うと、自己反省ということ。
自分の良心に照らし合わせて、自分を評価する。
これは、その人だけが知る世界ですよね。
では、この鏡なら正しく自分のすがたを映せるでしょうか。
実は、自分のことは欲目と自惚れがあるんです。
これなくして自分を見ることは、どんな人でもできることではありません。
少しでも自分をよく見たい心。
自分にとって近い人ほど、大切な人ほど、いい人に見えてしまう。
好きな人は、すべてがよく見えるでしょ?
全部いいって思えてくる。
自分を少しでもよく見たいという心があるから、
その結果、正しく見れないということです。
だから自分鏡も、コロコロ変わってしまう。
不確かなものなんですよね。
子どもの頃から今まで、自分の評価も変わってきていませんか?
キャラも変わってると思うし。
もちろん、他人鏡も自分鏡も、どうでもいいというわけじゃないんです。
3人の人から同じことを言われたら、改めなければならないって言われますしね。
でも、本当の自分のすがたを映すものではないということです。
3つ目は法鏡。
本当の自分とは、ありのままの自分のすがた、 変わらない自分のすがたのこと。
他人の都合とか、自分の欲目では変わらない、本当の自己のすがたです。
それを教えているのが、仏教なんです。
だから仏教のことを「法鏡」とも言われるんですよね。
ありのままを映す鏡ということです。
『大無量寿経』というお経には、私たちのすがたを
このように教えられています。
「心常念悪
口常言悪
身常行悪
曽無一善」(大無量寿経)
私たちのすがたを、心と口と身体の三方向から見られています。
中でも最初に「心」がありますが、
仏教では心が一番重視されます。
それは心が根本だから、心に動かされて、口や身体が動くからです。
川の上流で青いインクを流したら、下流も青くなるでしょ?
だから問題は心なんです。
これが一番問題になってくる。
口や身体がきちんとしていても、心はどうか。
口や身体は表面のことで、心が本心です。
表面は、普通ちゃんとできます。
人の評価を気にするので。
いい人だと思われたいから、そういう言動をとるんですね。
ところが、心はどうかというと、 まるっきり反対で、
とても人には言えないことを思っていたりする。
こういう人を、偽善者って言うんですよね。
たとえば、セミナーとかに参加する時も、
みんなちゃんと座って静かに聞いています。
見た目は同じ、でも問題は心です。
何がなんでも学ぶぞと思って聞いている人。
ダルいなと思って聞いている人。
冷やかしで聞いている人。
そのように、形は同じでも結果は全然違ってくるんですね。
心って伝わってしまうので恐ろしい。
本当に分かってもらいたいと思って話している人と、
自分の知識をひけらかしたいだけの人。
雰囲気で分かるはず。
心のあり方が、本当に大事なんです。
仏教では「同行、善知識には親しみ近づけ」と言われています。
善知識というのは、正しい仏教の教えを説かれる人のこと。
そして、本当に分かってもらいたいという気持ちが強い人のこと。
そういう人に近づくと、場の空気が違うんですよね。
心のあり方は、極めて大事。
同行・善知識にはよくよく近づくべし。
『親近せざるは雑修の失なり』と 『礼讃』にあらわせり。
悪しき者に近づけば、それには馴れじと思えども、
悪事よりよりにあり。
ただ仏法者には馴れ近づくべき」由仰せられ候。
俗典にいわく、「人の善悪は近づき習うによる」と。
また「その人を知らんと思わば、その友を見よ」といえり。
「善人の敵とはなるとも、悪人を友とするなかれ」
という事あり。(御一代記聞書150)
本当の幸せという同じ目的に向かう人や善知識には
どんどん近づいていきなさい。
悪を行う人に近づいたら、自分はそうならないと思っていても、
その人のようになってしまう。
だから仏法者に近づきなさいと言われています。
また、その人のことを知りたいと思えば、
その人の友達を見れば分かると。
自分のすがたと言えば、自分の心のすがた、
これが一番問題にされています。
よく自分の心のすがたを、問題にしてみてください。
今の自分の心、どんな自分のすがたがあるのか。
ここを見ていってもらいたいと思います。