仏教では、死んだ後に恐ろしい一大事があると教えられています。
そういう話を聞くと、頭では分かるけど、正直ピンと来ないという声もあります。
この実感が湧くか湧かないかって結構重要だと思う。
例えば、美味しい焼き肉を食べてる時の幸せとか、
ぐっすり眠れた時の爽快感とか、
好きな趣味に没頭してる時の充実感って、すごく実感が湧くでしょ?
要するに、欲のような煩悩を満たすことって、
とても感覚的で分かりやすいですよね。
でも困ったことに、人間って実感が湧かないところに
本当の危険が潜んでることが多いですよね。
病気だって、痛みがあれば治療にも積極的になるけど、
自覚症状がないままガン細胞が静かに進行してるなんてことがあるでしょ?
実感が湧かないところで迫ってくる問題の方が、実は深刻だったりしますよね。
だから人生、実感が湧くか湧かないかだけで判断したら大変なことになることもある。
例えば、湖に張った薄い氷の上で
太郎くんと花子さんがスケートデートしてるとするでしょ。
完全にラブラブモードで、
「しっかりつかまって」
「ツルツル〜、こわ〜い」
「ちゃんとついてきてよ」
なんて言い合いながら、風を切って滑る爽快感を味わってる。
景色も最高で、スケーターズワルツでも歌っちゃって、
「ラララララ〜」って感じで、もう最高の気分。
でも突然、氷がメリメリっと割れて、2人とも湖に落ちちゃったとしたら?
さっきまで「僕の手につかまって」って言ってた太郎くんも、
今度は必死に自分だけ助かろうとするでしょうね。
湖の水は冷たくて痛くて、筋肉が凍りつきそうになる。
水面まで出ようとしても、もがいてももがいても上に上がれない。
氷は冷たく凍りついて、まるで剣みたいな鋭い氷の塊が迫ってくる。
どんなに苦しくても、お互いを助けることもできない。
そんな苦しみの世界に閉じ込められてしまう。
「こんなことなら、もっと注意深く滑っていればよかった。
何であんなにのんきに楽しんでいたんだろう」
気づいた時には、もう手遅れ。
氷の表側と裏側って、たった一枚の氷で隔てられてるだけなのに、
全く違う世界だった。
表側を滑ってる時は、裏側に落ちたら最後、地獄が待ってるなんて全然分からずに、
目先の楽しみばかり追い求めていた。
「なんてバカだったのか」って思っても、too late。
人生って、まさにこういうもの。
氷の表と裏が表裏一体なように、生と死っていつも背中合わせにあって、
私たちに突きつけられてる問題なんですよね。
「生死一如」って言葉があるけど、まさにそれ。
私たちは背中合わせにしてるだけで、何かの拍子で心臓がコトッと止まったら
大変な一大事が起こるのに、気持ちいいことばかり求めてる。
こういう実態を、仏法を聞くことによって初めて分かるんですよね。
「仏法は聴聞に極まる」って言われるのはそういうこと。
いつ割れるか分からない薄い氷の上を滑ってる、
そんな一大事を、後生にやってくるから「後生の一大事」って言うんですけど、
そういう一大事が待ち構えてるってことを聞いて、
この一大事をまず解決しなさいと。
人生という苦しみの海を渡る大きな船に乗って、
未来永遠に変わらない幸せ者になることを教えてくれる。
そんな教えが仏教です。
でも仏法には、私たちが過去に経験したことがないことが説かれてる。
死後の世界のこともそう。
死が来たらすべてが総崩れになるって言われても、実感が湧かなくて当たり前。
実感が湧かないことを後回しにして、表面的な楽しさばかりにとらわれてるから、
氷が割れて苦しむことになると。
だから私たちにとって大切なことは、たとえ実感が湧かないことでも、
真実の教えを重ねて聞くこと。
とにかく続けて続けて聞く。
続けて続けて重ねて重ねて聞いていくうちに、
たとえ自分が経験したことのないことでも、
正しい道理に従ってのことなら、正しい智慧が身について
分かってくることがある。
よく分からない本でも「読書百遍意自ずから通ず」って言葉があるように、
だんだん分かってくるってこと、あるでしょ?
真実の仏法は筋が通ってるから、どんな人でも納得のいく教えです。
だから、たとえ実感が湧かなくても、合点がいくことはあるから。
今まで考えたことがなかったけど、「そう言えばそうね」って思える内容だから、
続けて重ねて聞いてもらうことが大事なんですね。