仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

除夜の鐘で煩悩が消える?

「汝自身を知れ」
これは、古代ギリシアデルフォイの神殿に書かれている、不朽の名言。

私たちの人生の目的は幸せになることですが、
自分自身のことを知っていなければ、幸せにはなれません。
自分自身を知らないために失敗している人は、たくさんいます。

仕事でも、会社側の評価と自分自身の評価には隔たりがあったりします。
結婚となると、相手のことをよく吟味するのに、
自分のことはほとんど省みないんですよね。

こんなエピソードがあります。
昔インドで30人の貴公子たちが宴会を開いていました。
泥酔して眠ってしまい、起きてみると、お金が全部なくなっている。
一人の娼婦が混ざっていたんです。

その女性を探しに行く途中で、お釈迦様にお会いしました。
するとお釈迦様は
「一人の女性を探すことよりも、自分自身を探すことの方が大事ですよ」と。
一同は、夢から覚めた心地がしたそうです。

仏教のことを、別の言葉で「自覚教」とも言います。
また「法鏡」とも言います。

法というのは真実ということ。
仏教は、真実の鏡で自分のすがたを映し出す教えなんです。

「餓鬼」という言葉、時々使いますよね。
子どものことを「ガキ」と言ったりもします。

これはもともと仏教の言葉です。
餓鬼界というのは、いつも飢えている世界。
食べ物や飲み物を口元に持っていくと、燃えてしまって食べられない。

どうして餓鬼界に堕ちるのかというと、
生きている時にの虜になっていた、そういう人が堕ちる世界です。

欲の本性は「我利我利亡者」
我が利益と書くように、自分のことしか考えていない。

私たちは誰でも欲があります。
とにかく自分の利益、儲けが大事。
そういうものばかりが先に立って、そのためなら人を蹴落としても構わない。
自分さえいい思いができればそれでいい。
これが餓鬼です。

仏教では、人間の欲望を「五欲」として教えられています。
1つ目は食欲で、食べたい飲みたい、
2つ目は財欲で、お金が欲しい、
3つ目は色欲で、異性を求める、
4つ目は名誉欲で、認められたい、褒められたい、
5つ目は睡眠欲で、 楽がしたい。

朝起きると、まだ寝ていたいという睡眠欲。
学校で、あまりにも悪い成績だとかっこ悪いから勉強する。
これは名誉欲。
会社に入って、お金を稼ぐのは財欲。
町中で素敵な人とすれ違って色欲が起き、
お昼になるとお腹がすく食欲。

私たちは、この五欲を満たすことに、一生懸命で
心が揺れ動いているんです。

子どもの頃、親は子どもに色んなものを与えてくれます。
赤ちゃんはお腹がすくと、ワーンと泣く。
お母さんはミルクをあげる。
赤ちゃんはしてもらって当たり前。
これが成長しても変わらないままでいるのを「餓鬼」と言います。

旦那」という言葉がありますが、もともとはサンスクリット語の「ダーナ
英語の「ドナー(臓器提供者)」と同じ語源で与える人のこと。

仏教では「布施」と言います。
本来は親切をすること、他の人を幸せにすること。
自分の持てるものを与えて、幸せにすること。

なぜこれを親切というのかというと、
親を切るほど辛いことだからです。

私たちの本性は我利我利なので、常に自分を中心に考えています。
だから、自分の身を切って持てるものを相手に与える、幸せになってもらう。
これは、親を切るほど辛く、なかなかできないことなんですね。

父親が妻や子どもを養う。
教育費は、平均で3,000万円と言われています。
凄い金額ですよね。
なかなかできないから、旦那と言われる。

ところが子どもの方は、してもらって当たり前。
自分は与えないけれど、もらって当然。
これだと餓鬼になってしまう。

大人になっても、餓鬼の状態から抜けきれない人がいます。
何もかもしてもらって当たり前。
大人になるということは、他の人の立場に立って、人に親切をするということ。
これで餓鬼を脱して、旦那になるんですね。

たとえば、挨拶をする。
せっかくだから笑顔で。
これを和顔悦色施と言います。
柔和な顔、笑顔で挨拶。

人生がつまらない、今日は嫌なことがあった。
そんな理由で、自分がつまらない顔をしていたら、相手はどう思うでしょうか。
これを考えるのが、相手の立場に立つということです。

誰かに挨拶をしてもらう、微笑んでもらう。
これは有り難い。

でも、他の人に笑顔を振りまくのは苦手。
微笑んでもらうばかりで、自分は笑わない。
これが餓鬼です。

自分の姿を知るといっても、何もしないで分かるものではありません。
親切をしたり、布施をしていくと、自分が餓鬼であることが分かってくる。
他の人の立場に立って、初めて分かるんですね。

昔、海運王と呼ばれたアリストテレス・オナシスという人がいました。
とにかくお金があって、名声もある。
欲を満たしたけれど、幸せにはなっていない。

黄金の絨毯を走っていると、向こうの方にトンネルの抜け口が見える。
やがて抜けられると思ったけれど、出口はどんどん向こうへ行ってしまう。
求めても求めても、幸せにはなれない。
お金がないと、不平不満。
あればあったで、もっと欲しくなる。

この欲を表す言葉に「渇愛の法則」というのがあります。
渇は渇く、愛は愛でる。
「愛着」という言葉がありますが、愛とは、物事に対する執着を表します。

あれが欲しいという、異常なまでの執着。
自分のお金も放したくない。
あれだけあれば、もういいだろうと思うけれど、
お金はあればあったで、もっと欲しくなるんですね。

「満たされなければ渇き、満たせば2倍の度を増して渇く」
これが、私たちの持っている欲の本性です。

現代病とも言われるペットボトル症候群というのがあります。
清涼飲料水には、もの凄い量の砂糖が入っています。
それを飲むと、余計に喉が渇くので、もっともっと飲みたくなる。
1リットル、2リットル、多い人は4リットルも。

若ければ、すぐに病気にはならないかもしれないけれど、
50代、60代とかになると糖尿病になることも。
それで、食事制限や失明など大変なことになります。

飲まなければ飲まないで渇き、飲んだら飲んだで2倍渇く。
2600年前、お釈迦様は「海水のたとえ」を教えられました。
喉が渇いた人が、どうしようもなくなって海水を飲む。
すると塩で喉が焼ける。
それでまた飲んでしまう。
また渇く、また飲む。
ペットボトル症候群と同じです。

ある昔話があります。
大きな国と隣り合った小さな国のエピソードです。

大きな国の王様が、小さな国の人に言いました。
「1日で歩いた分だけ、土地をあげよう」

喜んだある人は歩き始めました。
もっと欲しい、もっと欲しいと思って、だんだんスピードが速くなり、
最後には全力で走ります。

滑り込みセーフ。
ところが、土地が手に入ると思いきや、その人の心臓が破裂してしまいました。
土地だけ残って、この人は何も持っていけない。

「哀れなやつだ。こんなに大きな土地は要らなかったのに」
と王様は言ったそうです。
この人は自分の欲によって殺されたんですね。

アメリカの諺に、こうあります。
「立って半畳、寝て一畳」
そんなに大きな土地は要らないということです。

ある東大の教授の話。
自分のやっている研究が評価を受けるというのは、大変な苦しみだと言います。
「逆じゃないの?」と思いますよね?

これはなぜかというと、評価された時の、もっともっと上をいかなければならない。
「あの人は落ちぶれたね」と言われたくない。
見栄を張りたい。
一旦成果を収めて、全く注目されないのは辛い。
評価されればされるほど、またやらなければならないことに。

名誉や体裁を保つために自殺する人がいます。
今さら引き返せない。
結局、名誉欲に殺されているようなもの。

欲望というのは、満たしても満たしてもキリがない。
でも、私たちに与えられた命は有限です。
有限な命で、無限の欲を満たせるわけがないんですね。

有名な古典の一つ『歎異抄』の中に
「煩悩具足の凡夫」という言葉があります。

煩悩とは私たちを煩わせ悩ませるものです。
凡夫というのは、すべての人間のこと。
具足とは、塊ということです。

煩悩は108つあります。
除夜の鐘で、108回鐘を突きますよね。
その108つの煩悩の中の一つが「貪欲」という欲の心です。

私が幸せになるためには、私自身を知らなければならない。
でも、自分が欲を起こしているなんて、なかなか思えません。

煩悩を満たそうとばかりしていると、追いかけていた幸せが手に入らない。
ありのままに、自分自身のすがたを見つめる。
これが大事です。

でも、仏教はそこで終わりません。
煩悩あるがままで、その煩悩がそっくりそのまま喜びの種に転じ変わる。
これを無碍の一道とか、煩悩即菩提と言います。

まず、私たち人間のすがたはどんなものか、自分のすがたを知ること。
それが、本当の幸せへの第一歩です。

欲望の虜になって生きるのではなく、欲望の本性を知って
それを見つめていく。
そこに、本当の幸せへの道があるんですね。

無常を見つめて幸せに向かう道

12月は特に交通事故が多いですよね。
これは、どれだけ気をつけていても、避けられないこともあります。

本願寺僧侶蓮如上人という方の書かれたお手紙にも、
私たちがいつどうなるか分からないということが書かれてあります。
このお手紙のことを『御文章』と言われますが、
その「白骨の章」に、こんな言葉があります。

「朝には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり」

朝は元気だった人が、夕方には亡くなってしまう、
そういうものが私たちなのだと。

でも、私たちは「それは他人のことでしょ」と思ってしまいます。
自分のこととは、なかなか思えないんですね。

仏教では、「無常迅速の機」と言われますが、
いつどうなるか分からない、それが私たちの命なんです。

でも、私たちは錯覚しています。
自分の友達、家族、パートナー、自分の立場、
そういうものはいつまでもずっと続くものだと思い込んでいる。

「錯覚」というのは、本当は無常迅速でいつどうなるか分からないのに、
ついつい「まだまだ大丈夫」と、実際と違ったように見てしまうことです。

夜道で対向車のライトにピカッと照らされると、
至近距離のものが見えなくなる。
そして事故が起きます。
本当はそこに人がいるのに、それが分からない。

自分が無常のものなのに、「人のこと」と思って、自分のこととは思えない。
こういうのを、仏教では「妄念」と言います。
全く間違った、迷った思いを持っている。
しかもこれは、とても根深いものなんです。

室町時代に、とんちで有名な一休宗純という僧侶がいました。
その一休さんがまだ幼い頃、とある有名な和尚のもとで
小僧として修行をしていた時のこと。
この和尚さんは、時の足利将軍から直々にもらったお茶碗を
宝物として大事に大事にしまっていました。
誰にでも、そういう大切にしている宝物はあると思います。

ある時、和尚さんが外出することになりました。
「私は用事で出掛けてくる。大人しくしていなさい」
すると、心の中では「やったあ!」と思いながら、
表面上は「それは残念です」という顔をしている小僧たち。

和尚さんが出かけた後、みんなで遊んでいると、
一休さんの兄弟子が泣き出しました。
なんと、和尚さんが大切にしていたお茶碗を落として割ってしまったのです。

今なら接着剤とかもありますが、当時はありません。
どうやっても、元にはもう戻らない、「覆水盆に返らず」です。
兄弟子は、和尚さんにどれだけ怒られるかと思うと、
怖くて怖くて泣くしかありませんでした。

そこで一休さんが言いました。
「分かりました。私が身代わりになって、私が割ったことにします」

和尚さんが帰ってくると、一休さんが言いました。
「今日は、お師匠様の留守中に、一つの公案を練っていました」
公案というのは、禅宗でよく使われる、心を静めて答えを出すべき問いのことです。

「どんな公案だ?」
「午前中は『人の生死これいかん』という公案を練っていました」
一休さんは続けます。
仏教では、人は一度生まれたなら必ず死なねばならないと言われます。
 でも、自分の大切な人が突然死んでしまうのは耐えられません」

先ほどの「白骨の章」にはこうあります。

「朝には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり。
 すでに無常の風来りぬれば、すなわち二つの眼たちまちに閉じ」

どんなに家族が「もう一度、目を開けて」と言っても、
もう元通りにはならない。

「さてしもあるべきことならねばとて、野外に送りて
 夜半の煙と成し果てぬれば」

どんなに悲しくても、そのままにしておくことはできません。
なぜなら、腐ってしまうからです。
だから、火葬の相談をすることになります。

「そんなの当たり前じゃないですか」
そう思う人もあるかもしれません。
でも、自分の大事な人が亡くなったら、簡単にはできない。
可能なら、ずっと自分の近くにそのままにしておきたいとなります。

それでも、ずっとそのままにしているわけにはいかない。
だから火葬する。
これが「さてしもあるべきことならねばとて」です。

死ぬということは、頭では分かっていても、
自分の大事な人が死んでしまったとは思えない。
どこかで生き続けているんじゃないかと、そんなふうに思ってしまうんですね。
いざ自分にとってかけがえのない人が死んだとなったら、
とても受け入れることはできません。

一休さんは続けます。
「午後の公案は『物の生滅これいかん』でした。
 仏教では、どんな物でもいつかは必ず滅すると言われますが、
 自分が宝として大切にしてきたものなら、
 中には滅しないものがあるのではないかと」

すると和尚さんが答えます。
「仏教では、すべてのものが因縁和合と言ってな。
 何かの因と何かの縁が和合しているのだ」

テーブルも、構成する材料と製法によって、
テーブルという形がしばらくの間できているだけ。
何かができた状態を「成」、それがしばらく続いて、
やがて壊れて、バラバラになったのが「」、
成住壊空を繰り返すんですね。

そのことを表した、こんな歌があります。
「引き寄せて 結べば柴の 庵にて
   解くればもとの 野原なりけり」

原っぱにたくさん落ちている柴、それを束ねて庵になっているけれど、
束ねているところを解いてしまえば、元の野原に戻る。
因縁和合して庵になっているだけなんですね。

このように和尚さんが教えてくれたので、一休さんは言いました。
「さすがお師匠様、博学多才!」
「これこれ、そんなに誉めてもお前に出すものなんかないぞ」
「いえいえ、お師匠様から頂くなんて。私から出します」
そう言って、割れたお茶碗を出しました。
「このように、因縁離れました」

和尚さんは、「そうか、諸行無常だからな」と言って、
怒ることができなかったそうです。

大事にしている人でも、いつか別れなければなりません。
このことは分かっているつもりでも、実は分かっていなくて
分かったつもりになっている、錯覚に陥っているんですね。

「あの人は寿命だったんだ」
「たまたま運が悪かっただけ」
そんなふうに、いつも他人事、他人事。
いざ自分の問題となったら、もう大変です。

そんな私たちに、お釈迦様は教えられます。
「自分の命だけはそんなことにはならないと思い込んでいるけれども、
 実際はどうなるか分からない。
 これが本当の姿なんですよ」と。

「笑う者も 続けて転ぶ 雪の道」
雪道を歩いていると、滑って転ぶこともあります。
それなのに、他人が滑ったのを見て笑う。
「アハハハハ、転んでるよ〜」
自分はそうならないと思っていなければ、人のことを笑えません。
でも、その笑っていた人も、そこに来ると転んでしまう。

滑るというのは、無常です。
人間はいつ死ぬか分からない。
しかもそれは100%確実です。

死んでいく時には、何の役にも立たないものを
生きている間、一生懸命かき集めているのが私たち。

例えば、よく滑る道なのに、たくさん荷物を持っているとか、
雪道なのに、自転車に乗っている。
自転車はもともと不安定なのに、スノータイヤもありません。
そういう人を見て、「えー、自殺行為だよ」
「危ないってこと知らないんじゃない?」

人に対してはそう思うけれど、自分もいつもと同じで無防備で、
危ないものを持っていく。
そして転んでしまうんですね。
無常に対しては、全く無策です。

いつ死ぬか分からない、100%必ず死ぬのに、
死ぬ時には何の役にも立たないものばかりを集めている。
この世は無常なのに、自分だけはそんなことにはなるまいと思い込んでいる。
そういう錯覚をしているから、自分は大丈夫と思い込まされてしまっているんですね。
みんなそうだから、自分も大丈夫だと。

恐ろしい罠というのは、罠にかかっている本人が、
罠にかかっていることが分からないというものです。
罠にかかっている本人が
「罠にはかからないよ。罠については知っているよ」と言いながら、
その対策をせず、罠にかかっていく。
罠にかかって転んでいる人はたくさんいるのに、
自分はそうならないと思い込んでいる。
これが恐ろしいところです。

蓮如上人は、こう言われています。

「まことに死せん時は、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、
 我が身には一つも相添うことあるべからず。
 されば死出の山路の末、三途の大河をばただ一人こそ行きなんずれ」

いよいよ死んでいかなければならないとなった時、
これまでずっと頼りにしてきた、生きる支えにしてきた妻や子ども、財産、
そういうものは全く役に立たない。
だから、ひとりぼっち死後の世界へ旅立っていかなければならない、
ということです。

死ぬ時には何の頼りにもならないものを、今までずっと頼りにしてきた、
そんな自分の愚かさが知らされる。
「かねてたのみおきつる」というのは、かねてからずっと頼りにしていた、
あてにしていたということです。
これがあれば自分は幸せになれると、生きる支えとしていたもの、
生きがいとしていたもの。

でも、臨終を迎えると、価値観が一変してしまいます。
これまで自分が大事だと思っていた、幸せにしてくれると思っていたものは、
何一つあてにならない。
「意味のないことに時間を使っていた」
そういう後悔が起きるんですね。

私たちは今、色んなものを頼りにしています。
その頼りにしたり、あてにしているものが、
いよいよ死んでいくとなった時に、役に立つかどうか。
このことをしっかり考えてみる必要があるんですよね。

私たちは、大きな錯覚の中で生きています。
「自分は大丈夫」
「死ぬのは、まだまだ先のこと」
「それは人のこと」

でも本当は、いつどうなるか分からない、
それが「無常迅速」という真実です。

一休さんの話が教えてくれるように、
どんなに大切なものでも、因縁が離れれば壊れてしまう。
人も、物も、すべては無常で、
変わらないものは何一つありません。

でも、この真実から目を背けて、
「自分だけは大丈夫」と思い込んでいる、
これが、私たちのかかっている罠です。

死ぬ時には何の役にも立たないものを、一生懸命かき集めている。
本当に大切なことから、目を背けている。
でも、そのままでは何の解決にもなりません。

「無常を観ずるは菩提心のはじめなり」と言われます。
無常をしっかりと見つめること。
それが、本当の幸せへの第一歩なんですね。

阿頼耶識が生み出す世界に生きている

仏教では、人が亡くなる時に3つの段階があると教えられています。

まず「心明了位の臨終」で、これは前五識、
つまり視覚や聴覚などの感覚が終わりを迎える段階です。
次に「身体愛法位の臨終」、意識がなくなる段階。
そして最後が「心不明了位の臨終」で、
阿頼耶識が次の世界に転生する段階です。

「転生」と聞くと、何か難しそうな感じかもしれませんが、
実は、私たちの日常にも似たような経験があります。

小学校の頃は小学校特有の風景があって、友達がいて、
思い出があったと思います。
中学校に進学すると、また違う世界が始まります。
高校、大学、社会人と進んでいくと、
それぞれの時代で見える景色も、出会う人も、経験することも全く違ってきます。

転校した経験がある人なら、よく分かると思いますが、
環境が変わると、友達も風景も何もかも変わってしまうんですね。

そのことを分かりやすく表現した、
存覚上人という方の辞世の句を紹介します。

「今ははや 一夜の夢と なりにけり
   往き来あまたの 仮の宿々」

旅の宿というと、何だか寂しい響きですが、
これは人生そのもの。
現代のホテルとかでは、あまりないと思いますが、
昔の旅の宿では、色々な人との出会いがあったとか。
「どこから来たんですか?」なんて話をしながら、
一緒に食事をしたり、思い出話をしたり。

でも朝が来れば、みんなそれぞれの目的地に向かって別れていきます。
前日の夜に、どれだけ楽しく過ごしたといっても、もう会えないかもしれません。

人生も同じです。
常に変化し続けて、同じ場所にずっといることはできない。

「私は生まれてからずっと同じ場所にいる」という方もあるかもしれません。
でも、物理的に動いていなくても、時間は確実に流れています。

周りの人も変わっていきます。
おじいさんが亡くなったり、赤ちゃんが生まれたり。
顔ぶれは次々と変わっていくんですね。

私たちは、空間の旅というより、時間の旅を続けています。
昨日から今日へ、今日から明日へと。
楽しかったこと、悲しかったこと、すべてが過去になっていく。
写真を見返すと、「あの時は楽しかったな」と思うけれど、
その頃にはもう二度と戻れません。

それぞれの時代には、その時代の風景があって、出会いがあって、思い出がある。
でも時が過ぎれば、全部が過去になってしまいます。

面白いことに、体も環境も時代も変わっていくのに、
「私」という存在は変わらない。

小学生だった私も、今の私も、これから年を重ねていく私も、
同じ私です。
世界が変わっても、統一的な私がいる。

仏教では、この考え方をもっと広く教えています。
人間として生きている間だけでなく、そのずっと前から、
死んだ後も続く永遠の生命があると。
それが「阿頼耶識」です。

仏教では、迷いの世界が六つあると教えられています。
それは、地獄界餓鬼界畜生界修羅界、人間界、天上界の六つで、
これを六道とか、六界と言います。

体は変わっても、阿頼耶識という統一的な主体は変わらない。
そしてそれが次の世界を生み出す。
これが「転生」なんです。

ちょうど小学校から中学校へ、中学校から高校へと進学するように、
人間界の寿命が尽きたら次の世界へと。
経験する世界や時代は変わるけれど、統一的な私がいるんですね。

「セミは春秋を知らず」という言葉があります。
セミは生まれてから死ぬまで、わずか7日間ほどしか生きられません。
しかも、鳴いていられるのは3日間くらいだとか。

6月から8月を夏とすると、その中のたった1週間しか生きていられない。
生まれる前には春があって、死んだ後には秋がある。
でもセミには分からない。
経験したことがないからです。

私たち人間も同じです。
生まれてから死ぬまでのことしか分からない。

仏教では、生まれる前、死んだ後にも世界があると教えられています。
でも、経験がないから分からないんですね。
永遠の生命があって、その世界での命が終わると、次の世界を生み出す。

例えるなら、滝壺に向かって流れていく川のようなもので、
その川に船を浮かべて、その中で暮らしているようなものです。

船の中では色んなことがあります。
誰が良い席に座るか、誰と隣になるか、誰とどういうふうに過ごすか、
そんなことにこだわったりしているうちに、船はどんどん流されていきます。
あっという間に時間が過ぎて、気づいたら滝壺に近づいている。

滝壺に落ちる時、つまり死ぬ時に、世界が一変します。
それまで大事だと思っていたことが、何の役にも立たず、光を失ってしまう。
この大問題を「後生の一大事」と言います。

仏教で自業自得という言葉がありますが、
これは自分の蒔いた種は、自分が刈り取らなければならないということです。

苦しいことがあると、つい「あの人のせいだ」と思ってしまいますが、
実際は、自分の行いの結果なんですね。

こんな歌があります。
「火の車 造る大工は なけれども
      己が造りて 己が乗りゆく」

火の車、つまり苦しい状況をつくったのは、誰か他の人ではなく、自分自身だと。

をついたこと、ありませんか?
一つの嘘を隠すために、また嘘をつく。
その嘘を隠すために、さらに嘘をつく。
こうなると、どんどん苦しくなっていきますよね。
これは「自縄自縛」と言われて、自分で自分を縛ってしまうということです。

仏教では、特に重い罪として、謗法罪と五逆罪があります。
謗法罪は仏教を謗る罪、五逆罪は親を害する罪です。

親がどれだけ苦労してくれたか、どれだけ私たちの幸せを願ってくれたか、
それを理解せずに、言葉とか態度で傷つけてしまうことがあります。

人間というのは感情的になると、大切なものでも平気で壊してしまいます。
それがいかに恐ろしいことか、冷静な時には分からない。

大切なものを大切にする。 これは善い種まきです。
お世話になった人に「ありがとう」と感謝を伝える。
真剣に学ぶ、これも善い種まきですね。

反対に、粗末にするのは悪い種まきです。
自分の蒔いた種によって、苦しい世界にも、楽しい世界にもなる。

人生は旅のようなもので、次々と景色が変わり、出会う人も変わっていきます。
でも、変わらない私というものがあって、その私自身が蒔いた種を
刈り取っていくんですね。

だからこそ、今この瞬間を大切に、善い種を蒔いていきたいですね。
周りの人に感謝して、大切なものを大切にする。
そんな毎日を積み重ねていけたらと思います。

無常の世の中で信じられるもの

以前、大阪府の小学校で、児童複数人が殺傷されたという事件がありました。
この事件をご存知の方も多いと思いますが、本当に衝撃的な事件でした。

最終的に8人もの命が失われてしまった。
本当に信じられません。

ご両親の立場からすれば、自分の子どもが亡くなったという事実を
受け入れるのは簡単ではないと思います。

自分の目の前で息を引き取って、葬式も終わった。
それでも信じられず、現実として受け入れることができない。

信じる、信じないに関わらず、現実に子どもはもういないんです。
世の中は無常だとよく言われますが、こんなにも残虐なことが起こるなんて
普通は考えられないですよね。

犯人は警察に捕まっているので、色々言いたいことがあっても、
怒りをぶつける先がない状況です。

犯人がたとえ死刑になったとしても、亡くなった子どもは戻ってきません。

右を見ても左を見ても、だらけと言っていいような人生の中で
最も真実に近いと言われるのが、母親の子どもに対する愛情です。

わが子を思う母親の愛。
永遠に変わらないものではないかもしれませんが、
最も真実に近いものだと言われています。

その思いが強ければ強いほど、子どもを失った時に受ける母親の悲しみも深い。
信じていたものに裏切られる。
愛していたものと引き離される。
愛する気持ちが強ければ強いほど、信じる度合いが深ければ深いほど、
受ける悲しみは余計に大きくなります。

男の子を失ったお母さんは「まだ温かいんですよ」と言いながら、
子どもを必死に抱きしめて、家に連れて帰ったそうです。
その気持ち、本当によく分かります。

最期を看取ったお医者さんも、犯人が憎いと語っていた。
その子と血のつながりがあるわけではないけれど、
母親の姿を見ていると、とても切なくて見ていられなかったそうです。
犯人に対する怒りと憎しみがこみ上げてきて、どうしようもなかったと。

世の中では、信じていたものに裏切られて苦しむこと、
愛していたものに裏切られて苦しむことがよくあります。

この事件はあまりにも衝撃的なものですが、海外でも似たような事件がありました。
王族の中で、皇太子が銃を乱射して10数人が亡くなった事件です。
王様夫婦はとても開明的で、民主化を進めて、
民衆に尊敬されていた方々だったそうです。

その王様が、自分の子ども、皇太子に殺された。
理由を調べてみると、皇太子は親に結婚を反対されていたんです。
好きな人がいて、どうしても結婚したかったのに、頑として反対された。
その反対理由が占いだったというから驚きです。

占いによると、皇太子は35歳まで結婚してはいけない。
それまでに結婚したら王が死ぬだろうと。
本当に無責任な占いです。

それで反対された皇太子は、愛する母親に裏切られたと感じて、
憎しみから殺害に至ったそうです。
子どもは親に裏切られたと思い、親は子どもに裏切られたと思っている。

でも、よくよく調べてみると、実は国王の弟の陰謀ではないかとも言われています。
結局は兄弟同士の権力争い。
その弟は民主化に反対していて、権力を自分のものにしたかった。
だから民衆に人気がなかったんです。

一体誰がどのようにして、こんな事件を引き起こしたのか、
それが分からなくて国民同士が疑心暗鬼になった。
信じていたものに裏切られるということは、どこの国でも日常茶飯事です。

夫婦関係でいえば、田舎の方では特に、男尊女卑のような考え方があって、
男性がいつも威張っているということがよくあるそうです。
いわゆる亭主関白で、「俺の後についてこい」とか
「俺の靴下どうした」「ワイシャツにアイロンかかってないな」
というような。

そうやって威張っているお父さんは、昔は多かった。
明治とか大正、昭和初期くらいのお父さんはそうだったのかもしれません。

でも、そうやって威張っているお父さんも、実はお母さんに頼っているんです。
お母さんがいないと、何がどこにあるか分からない。

自分の生活に関する基本的なことを全部、お母さんに頼りきっているんですよね。
だから、もしお母さんが早くに亡くなってしまうと、男性の寿命は本当に短くなるそうです。大体の場合、衣食住のことを全部頼りきっていますから。

それに対して女性は強いもので、しおらしく付き添っていた女性が、
夫が亡くなると俄然強くなって、長生きする方も多いんです。

つまり、強そうに見える男性が実は女性に頼っていて、
女性はしっかりしているとも言えます。

ドイツの思想家・ヒルティは愛について、
「心の底にしみ通る幸福ではあるが、あらゆるものを破壊する不幸ともなりかねない」
と忠告しています。

そして、こう書いています。
「愛情の幸福にすっかり身を委ねる人の心情が深く、かつ純粋であればあるほど、
 その人は確実に、そして完全に、不幸になるであろう。
 死によってこの苦い経験から逃れるのでないかぎり」

信じる心が強ければ強いほど、裏切られた時の悲嘆は大きいということです。
私たちの幸せというのは、必ず裏切られるものだからです。
だから、幸せと悲しみを切り離すことはできない。

「愛憎一如」という言葉があります。
愛していた人に裏切られた時、それが憎しみに変わるという。
その愛が強烈であればあるほど、憎しみもまた激しい。

「骨肉相食む」ということも言われます。
兄弟同士の争いは、それまで仲のいい兄弟だったらなおさら
一旦憎しみに変わった時に、骨や肉にまで食らいつくような激しい争いになる。

愛情が深ければ深いほど、計り知れない悲嘆を味わう。
だから今回の事件でも、親の悲嘆は本当に大変なものだと思います。

日本を代表する知識人と言われた江藤淳さん。
保守派の論客として、色んな人と議論して
ことごとく打ち破ってきたような人だったとか。

「公の精神」を説いて、
「日本人は公に命を懸けることを忘れている。
 国家のために生きることを忘れている」
と主張していた、いわば右翼的な思想の持ち主です。

ところがこの江藤さんが、奥さんが亡くなるという
最もプライベートなことで自殺してしまった。

「命はみんなのために使うもの」という主張を、
自分の奥さんが亡くなったという個人的なことで自殺することによって、
全面的に裏切ってしまった。
それによって、一気に自分自身の主張が崩れてしまったんです。

どれだけ固い信念や信条を持っていても、
愛する人を失ったことで木っ端微塵になってしまうことが分かります。

その時に受ける苦しみは、学問や思想や哲学では解決できません。
どれだけ頭で分かっていても、その苦しみは解消できない。
それほど奥さんを愛していた。
それが逆に大きな苦しみになってしまったんですね。

そういうことを知ると私たちは、
「そんなことになるなら何も愛したくない、何も信じたくない」
こう思うでしょうか?
「どうせ裏切られて苦しむなら、愛することが怖いし、信じたくない。
 だから恋人や家族なんて作りたくない」
という人もいます。

一度裏切られると、また同じ裏切りを受けて苦しみたくないので
信じるのが怖くなる。

でも、それでも幸せにはなれません。
私たちは何かを信じないと生きていけないので。

それでは、私たちが幸福になるにはどうすればいいのでしょうか。

絶対に裏切られないものを信じるしかない。
絶対に裏切られない幸福を手にするしかない。

そんなものがあるんだろうか、と思う人も多いと思います。

仏教では、それを「摂取不捨の利益」と言います。
がっちりとおさめ取って、決して裏切られることがない、捨てられることがない。
摂め取って捨てない、決して裏切られない
そういう幸せのことです。

幸せだったけれども捨てられて苦しむ、ということがない幸せ。
私たちが幸せになるには、それしかないんです。
そういう決して裏切られない幸せが「摂取不捨の利益」
利益とは幸福ということです。

では、それは一体何なのか。
それが書かれているのが、有名な『歎異抄』という本です。
歎異抄』は仏教書の中では最も多くの人に読まれている本で、
しかも大変な名文です。

歎異抄』第1章の冒頭に、こう書かれています。

「弥陀の誓願不思議に助けられ参らせて往生をば遂ぐるなりと信じて、
 念仏申さんと思い立つ心の起こるとき、すなわち摂取不捨の利益に預けしめたまうなり」

弥陀の誓願に助けられた時に、摂取不捨の利益に預かる。
弥陀の誓願に摂取されて、絶対に崩れない幸せになれることができるんですよ、
と書かれています。

でも私たちには、こういう幸せがあると言われても、なかなか信じることができません。
「この世に裏切られない幸せなんてないだろう、
 今までもそうだったし、もう二度と裏切られたくない」
と「お金」を信じる人もいます。

けれども、お金も何かのことで失うことがあります。
絶対に裏切らないものではないんですね。

では、この世に裏切られないものは何なのか。 

歎異抄』では、弥陀の誓願に救われた時、弥陀の誓願不思議に助けられた時に、
決して捨てられることのない摂取不捨の利益に預かるんだと書かれています。

これが『歎異抄』の冒頭のお言葉であり、結論です。

すべての人はそういう幸せを求めている。
裏切られて苦しむために生まれてきたわけじゃない。
一生懸命努力した結果、結局すべてを失って、泣きながら死んでいく。
そんな悲劇の人生を送るために生まれてきたのではない。

決して変わらない、崩れない、裏切られない幸せ。
それをみんな求めているんですよね。

人生には大小色々の裏切られた経験があります。
友達に秘密をバラされたとか、そういう小さな出来事から、
大切な人を失う大きな喪失まで色々です。

それでも私たちは何かを信じて生きていかなければなりません。
絶対に裏切られない幸せ、そういう幸せになることが
私たちの本当の生きる意味なんです。

天上天下唯我独尊に込められた人生の意味

天上天下 唯我独尊
 三界皆苦 吾当安此」

これは、人生の目的は万人共通だということを断言されたお釈迦様のお言葉です。

普通、人生の目的というと、
「人それぞれでいいじゃない」
「みんな違って、みんないい」
と思いますよね。
そんな人生観を持っている人が多い。
相対主義というか、確固たる人生の目的がない。

でも、お釈迦さまは違います。
人生の目的は万人共通だと断言されています。

その根拠が「唯我独尊」の「独」。
ただ私たち人間だけに、たった一つの尊い目的があると。
「各尊」であれば、みんな違っていいということになりますが、
「唯我独尊」です。
こんなことを言う人は、この世の中にいません。

天上天下唯我独尊」は「誕生偈」と言われます。
お釈迦様がお生まれになった時に言われた詩。

生まれられたのはルンビニー園という花園です。
お母さんのマーヤー夫人が草の上に産み落とされた。
その時、お釈迦様は立ち上がって、東西南北に7歩ずつ歩かれ、
天と地を指さしてこれを言われたと伝えられています。

4月8日は、お釈迦様の誕生日で花祭りと呼ばれています。

生まれた時に、こんな難しいことを言われた。
子ども向けだなと思っていても、この漢字16字の意味を知れば、
後世の人がこのようなエピソードを残された理由がよく分かります。

実際の意味をよく知ることが大事なんです。

まず「7歩」ですが、 これは6プラス1で、六道から1歩出られる、という意味。
六道は苦しみ悩みの世界で、この世界を巡り巡っていることを
「六道輪廻」と言われます。
輪廻転生という言葉、聞いたことがある人もいるかもしれませんね。

苦しみの絶えない迷いの世界には6つあります。
1つ目が地獄界
2つ目が餓鬼界
3つ目が畜生界
4つ目が修羅界
5つ目が人間界、
6つ目は天上界です。

それぞれ「界」とありますが、世界といっても、仏教では色々な世界があります。
今日でも、「男の世界」「芸能界」「政界」とか言いますよね。
そのようなものです。

地獄界はアンドロメダ星雲にあるというのではなく、「業界」と言われ、
自分の、自分の行いが生み出した世界です。

阿頼耶識は一人一人の業をおさめて、世界を生み出します。
口の業や身体の業、心の業が阿頼耶識に蓄えられ、
それが縁によって、日々受ける運命を生み出している。
自分の行いが生み出した世界ということで「業界」と言います。 

一人一人の行いが生み出す世界で、過去にやってきたことは皆違うので
同じ運命を受けることはありません。
一人一人変わるのは当然です。

落語にこんな話があります。
伊豆の大島と飛騨の高山の人が、一生に一度の江戸見物をした。
当時は新幹線なんてないから、そう何度も見に行けなかった。

宿泊先が同じで、話をしていると喧嘩になった。
その内容は「太陽はどこから昇って、どこに沈むか」について。

伊豆の人は「海から昇って海に沈む」
飛騨の人は「山から昇って山に沈む」
それぞれ、自分が見てきた真実。
明らかに見てきたことなので、
「オレだけじゃない、父ちゃんも爺ちゃんも見たんだ!」

そこで宿屋の主人が出てきて言った。
「あんた達、無知だね。太陽は屋根から昇って屋根に沈むんだ」

そんなこと、人工衛星から見なければ分からない。
環境が違うから、同じものを見ても同じように受け取れないんですね。

同じ場所にいる人でも、違う世界に住んでいると言えます。

同じ部屋を見て、「汚い」と思う人もいれば、
「きれい」と思う人もいます。
今まで自分の部屋をどれだけ掃除したかで違ってくるわけです。

アメリカ人は大きな家に住むので、
日本の住宅を「兎小屋」と思うそうです。
私たちは、アメリカ人の家を見て
「こんなに広ければ落ち着かないだろ」と思う。

「空は青い」というけれど、自分が見ている青と、人が見ている青は、
本当は違うんじゃないか。
お互い「青」という言葉だけは知っているけれど、
実際は違うものを見ているのかもしれません。

人間関係も、思い込みで全然違う、ということがあります。
厳密に言うと、一人一人全然違う。

トンボの複眼で見た世界は、人間が見た世界と全然違います。
では、人間は同じものを見ているのかというと、心が違うんですね。
これを「業界」と言います。

一人一人、業界が違う。
「これ大好き」「これ大嫌い」と、大きく違うのは、
住んでいる世界が違うからです。

ですが、境遇が似たような人もいます。
たとえば、日本人としての境遇、教育、環境、業が、アメリカ人より似ている。
だから分かり合えることがある。
梅干しを食べられるとか。
アメリカ人は食べないので、梅干しを見ると唾が出るのは日本人だけ。

そういう意味で、過去の行いが似ているから、世界を共有する点が多い。
これをカテゴリーでまとめたものが、六道なんです。

この六道は、苦しみの激しい順番から苦しみの少ない順番に書かれています。

一番苦しみが激しいのが地獄界。
地獄というと、地面の下を掘ったら監獄がある、
という幼稚なものではありません。
自分の怒りの心などのによって生み出した世界です。

インドの言葉で「ナラカ」と言いますが、「奈落の底」とか、日本語になっていますね。
直訳すると「苦界」で、苦しみの最も激しい世界です。

麻薬中毒アルコール中毒の人は、虫が這う幻覚で苦しむそうです。
人形が歩くとか、そういうものが見えるらしい。
そんな幻覚症状で苦しむんですね。
幻聴もあって、「おまえなんか、いない方がいい」
誰も言ってないのに、そう聞こえるんだとか。

治った人に聞くと、「本当としか思えなかった」と言います。
地獄というのも、それと同じです。

2番目は餓鬼界。
平安時代の絵巻で「地獄絵図」とか「餓鬼絵図」というのがありますよね。
体中痩せ細って、お腹だけプクッとなっている。

飢えた鬼の世界。
」というのは、慈しみに遠いということ。
角が生えた赤鬼、青鬼、黒鬼を豆で退治する、というのは幼稚な仏教です。

飢えた鬼ということで、自分のことしか考えられない。
これはの世界です。
さっきの地獄は怒りの世界。

餓鬼界には2種類の餓鬼がいます。
「無財餓鬼」と「有財餓鬼」。

お金がなくて飢えて苦しんでいる餓鬼と、
お金があって、それでも自分のことしか考えられない餓鬼。
まるまると太った餓鬼もいます。

お金がない人は借金で首が回らない。
「強盗でもしようか」と、借金返済のためにそういうことをしてしまう。

有財餓鬼は、お金があっても、もっと欲しくなる人。
名誉がある人でも、もっと欲しい。

プロ野球選手に「君のミート、うまいね」と言っても喜ばない。
「日本一」と言われてもそう。
「さすがに200本安打は無理か」とか言われると
「じゃあ、メジャーへ行く」となる。
ヒット1本に高揚感を感じない。

大リーグでヒットを打ったら何か感じるんじゃないか。
でも、また首位打者を続けると、同じになる。

ある人は、美人だったら内面を誉めて欲しい。
お金があったら、もっと欲しい。
これが有財餓鬼です。

3番目の畜生界は、動物の世界。
仏教の根幹、因果の道理が分からない、先の先まで考えられない。
色んな運命が起きた時、反省できない世界。
そういう愚痴の世界です。

4番目の修羅界は、争いの絶えない世界。
「修羅場」という言葉がありますが、喧嘩ばかりしている
そういう世界です。

5番目の人間界は、苦しみと楽しみが相半ばする世界で、
私たちの住んでいる世界です。

6番目の天上界は、「天女の羽衣」という昔話に出てくるような天女が、
琵琶を弾いたりして、楽しい世界。
毎日パーティーの世界で、楽しみの多い世界です。

私たちは人間界にいながらも、地獄界から天上界まで行き来しています。

受験生は戦々恐々としていて、心が忙しいので、人生の目的なんて聞けません。

天上界は、この世の春。
結婚したばかりの新婚とか、合格したばかりの受験生。

そういう色んな世界を行き来している。
自分の姿をよく見ていけば分かります。

この六道の6つの世界は、どれも苦しみ迷いの世界です。
地獄界は苦しみが絶えない苦しい世界ですが、
天上界もいつかは崩れる幸せなので、苦しみがないわけではありません。

これらの世界を、生まれては死んでを繰り返し、
何のために生まれてきたかも分からず、
生まれて苦しむのを延々と繰り返している。
これが輪廻の世界です。

車の輪が回るように、いつまでも回っている。
私たちの苦しみの世界。

平安時代源信僧都という方が言われています。

「まず三悪道を離れて、人間に生まれたことを
 喜ばなければならない」と。

人間に生まれたことを呪い、
「こんなことなら生まれてこなければよかった」という人がありますが、
まず人間に生まれたことを喜ばなければならない。

こういう発想は大事です。
アフリカとかでは、生きたくても生きられない人もいます。

仕事ばかりで勉強ばかりで「何のために生きているんだ」という人に対して、
「3度の食事が食べられるんだから」
「学費を出してもらえているんだから」と。

東南アジアを見て人間観が変わった、という人は多いです。
生きる意欲が湧いたとか。
こういうことは大事ですね。

地獄、餓鬼、畜生の三悪道に比べたら、
人間に生まれたことを喜びなさいよ、ということです。

でも、それは相対的な理由で、絶対的な理由は
天上天下唯我独尊」にあります。

六道の中で、どこに行きたいですか?
普通は天上界だと思いますよね。

でも、お釈迦様は「人間に生まれたことが一番いい」と言われた。
なぜかというと、人間に生まれた時しか仏教を聞けないからです。

この輪廻を抜け出して、永遠に変わらない幸せの世界、
真如の世界に出ること。
これを「六道出離」とか「解脱」と言います。

その迷いの世界から抜け出すことができるのが、仏教です。

仏教を聞けない8つのさわりのことを「八難」と言います。

  1. 在地獄の難(地獄界にいると苦しくて聞けない)
  2. 在餓鬼の難(餓鬼界にいると苦しくて聞けない)
  3. 在畜生の難(畜生界にいると苦しくて聞けない)
  4. 在長寿天の難(天上界で楽しみが多くて聞けない)
  5. 在辺地の難(天上界で楽しみが多くて聞けない)
  6. 聾盲瘖瘂の難(身体に障害があると聞きづらい)
  7. 智弁聡の難(知識や地位に驕って聞けない)
  8. 仏前仏後の難(の前後に生まれると聞けない)

苦しみが激しすぎて仏法を聞けない。
心が地獄の時は聞けない。
借金地獄とか、恋愛で苦しんでいる時とか、
その時は静かに仏法を聞けない。
肉体的苦痛でのたうち回る時も。

末期がんになったら、
「いよいよ死ぬ時に聞けるんじゃないか。
 背水の陣になった時、初めて聞けるんじゃないか」
と思う人があります。

でも、まず肉体的苦痛で疲れて、とても静かに仏法を聞けません。
30分も静かに聞こうとならずに、それより早く休みたいとなる。

餓鬼界もそう。
「うまいことやれば、1日で何千万も儲かる。
 もっと儲けなければ」という気持ちで、仏法を聞けない。

畜生界は、因果の道理が分からない、先が見れない人、
刹那的な人は仏法を聞けません。

修羅界は、争いの絶えない世界。
受験時代とかは聞けないし、出世競争に一生懸命になっている時は
とても仏法を聞けない。

そして天上界は、楽しみが多くて仏教を聞けないんですね。
「この人と結婚できて本当に幸せ」という新婚の人たちに、
諸行無常」と言っても響かない。

そう考えると、あまり幸せでもなく、苦しみもなかった時、
何かの間違いか聞けた。
人間界の中の人間界でないと聞けないということです。

ふと人生を真面目に考える、ターニングポイント。
その時だから聞けたということもあります。
人間界の中で人間らしい心の時に聞ける。

身体に障害がある人は、仏法を聞くこと、聴聞が難しいと思います。
政治などで、こういう人たちが仏法を聞けるようにしてもらいたいです。

智弁聡の難は、東大生とか、京大生とか、教授とか。
仏教は「心の頭を垂れて聞け」と言われますが、
一端の知識を持っている人はなかなか聞けません。
他にも、政治家とか、人に頭を下げさせるのが当たり前と思っている人は聞けない。

学生の中にもいて、徳や実績はないけれど、うぬぼれだけは一人前という人。
そういう人はすぐに反発したり、相手の意見に耳を傾けないので聞けません。 

仏前仏後の難ということで、お釈迦様が生まれる前に生を受けた人、
2600年前より前に生まれた人。
たくさんいるけれど、人生の目的を求めても、仏法は聞けない。

そして、お釈迦様の教えがなくなった時も聞けない。

仏教を正しく教える先生、善知識が現れた時には、
爆発的に仏法を聞く人が増えます。
ですが、その方が亡くなられると、真実を聞く人はいなくなる。
ちょうど波が引くように、人がいなくなるんですね。

だから、今、仏教の教えを聞くことができる人は幸せです。
真実の仏法を話される善知識から仏法を聞ける人は幸せ。

芥川龍之介ハイデガーも、人生の目的を考えているという点では
痛々しいほど真面目でした。
でも、教える人がいなかったから、分からなかった。
そういう人もいる中で聞けているというのは素晴らしいことです。

人間に生まれたのは何のためでしょうか。
お金を得るためかというと、死んでいく時にお金は持っていけません。
褒められるためでもない。

人間に生まれたのは、六道から抜け出すため。
人間に生まれてこそ、人間にしかできない、
たった一つの尊い目的を果たすことができる。
これが「天上天下唯我独尊」です。

人間の世界を、本当に変わらない安心満足の世界にするために生まれてきた。
仏教とは何が教えられたのかが分かれば、この誕生偈のエピソードも納得できます。

私たちは今、仏法を聞けるチャンスに恵まれています。
輪廻している私たちの心の中で、仏法を聞けるという焦点が合ったようなもの。

「なぜ生きるのか知りたい」という心が芽生えた。
そのチャンスに恵まれた。

せっかく人間界に身を置いても、他のところに行っては意味がありません。
このチャンスをものにしなさい。
それが仏教なんです。

人間に生まれて本当によかった、仏法を聞けて本当によかった。
もしこの人生で本当の幸せになれなかったら、
何のための人生だったのかと。

それが、お釈迦様が「人身受け難し」、
人間に生まれることは難しいとおっしゃった意味なんです。

たとえ孤独になっても譲れないこと

お釈迦様お経
「独生独死 独去独来」
と教えられています。
人間はみな、ひとりぼっちだということを
言われているお言葉です。

また、「独りゆかれた親鸞聖人」なんてことを言われます。
でもこれは、親鸞聖人が生涯、誰とも付き合いをされず、
いつも一人だったということではありません。

私たちは、どうすれば孤独にならないか、
寂しい思いをしないためにはどうすればいいか、
そういうことに一生懸命で、戦々恐々としています。
他人からどう思われるかを、やたらと気にしている。

でも、親鸞聖人は違いました。
安易に周りに合わせたり、流されたりするのではなく、
「これは伝えたい」と思うことには、断固として強い態度をとられています。
だからこそ、そんな聖人のもとに多くの人が集まった。
これは納得ですよね。

そういう聖人の生涯をよく表した事件として、
長男・善鸞の義絶という事件があります。
これは聖人が84歳の時のことでした。

親鸞聖人は仏教の教えに救われ、変わらない幸せになられた方です。
そんな聖人にとっては、仏教の正しいみ教えだけが生命であり、
それを広めることがすべてでした。

親鸞聖人は、自宅の全焼という悲運にあいながら、長男の善鸞を義絶されます。
これは、聖人の護法精神を最もむき出しにされた事件と言えるでしょう。

護法精神というのは、仏法を護らねばという信念のこと。
そのためには、たとえ自分の子どもでも、間違った教えを広めていれば縁を切る。
そんなことをすればどうなるか、
家庭破壊の張本人として、世の中の顰蹙を買うことは当然ご存知でした。

そうなったとしても、真実の仏法をねじまげたり、よこしまに教えることは、
断じて許されないことだったということです。

親鸞聖人は、とても優しい方に描かれている部分と、
先ほどのように、とても厳しい面があります。
厳しい親鸞聖人の姿を、初めて知ったという人もいるようです。

長くお寺に参っている人でも、日ごろ聞かされているのは、とても柔和な親鸞聖人。
こんなお姿を知らされて、そこに何か真剣なものを感じる
と言っていた人もあります。

31歳で肉食妻帯を断行された親鸞聖人の、
厳しく激しい面は、あまり語られていません。
直筆の文字は、とても鋭いものがあります。

どうしてそのお姿は知られていないのか。
それは、どういうことを聖人が教えられたかが知られていないからです。
厳しい聖人ということを話すと、都合が悪いということで。

普通84歳とかだと、頼るとしたらまずは子どもでしょう。
そのわが子を勘当される。
それは、仏法を正しく説かないだけでなく、
まったくねじ曲げて教えていたからです。

親鸞聖人が関東から京都に戻られる時、
「関東を頼むぞ」と聖人から言われた善鸞
でも彼は、関東の教団を自分のものにしようというにとりつかれ、
権力者に近づきました。

聖人は、権力者には近づいてはならないと教えられていました。
「余の人々を縁として念仏をひろめんと計らいあわせたまうこと
 ゆめゆめあるべからず」と。

当時の関東には、親鸞聖人を慕って、
後に「関東の二十四輩」と言われる人たちがいました。
聖人不在の関東でも、それらの人たちがリーダーシップをとっていました。

善鸞は、関東の教団を自分のものにしたかったのに、
頭の切れる人たちが何人もいる。

正しく導く人がいなくなると、欲の心によって、
とても仏法者とは思えない方向に走る人があります。
善鸞の場合は、権力欲でした。

五欲は権力欲におさまるとも言えます。
権力があれば、そこに財が集まる。
そして、色欲も名誉欲も権力欲におさまります。

権力を持つと、たとえば周りの人が飲み物を買ってきてくれる。
権力を手にしてしまうと、その権力に溺れて、とんでもないことをやる。
歴史上、いくらでもありますよね。

太陽のような親鸞聖人が京都へお戻りになって、
その後、関東をうまくまとめなければならない。
善鸞には、「私は聖人の長男だ!だから私が引っ張らねばならない!」
そういう思いがあった。

他人から使われるより、少しでも他人を使える立場になりたい。
こういう気持ちは誰にもあるそうです。

若いうちはまだいいかもですが、40代とかになると、
年下の人から「コーヒーいれてください」なんて言われると耐えられない。
他人を使う立場になりたいと思う。

その気持ちに迷って、善鸞は色々の策略をめぐらせます。
どうすれば権力者を後ろ盾にできるか、
どうすれば村の人たちを自分の意のままにできるか。

あれこれ考えて自分の欲を満たそうとする。
これは今日まで、お釈迦様が説かれた仏法が
非常に曲げて伝えられているということからも分かります。

本当の人生の目的が仏法に説かれているのなら、
どうしてもっとたくさんの人に伝わらないのか。
そう思う人もいるでしょう。

でも、なかなか正しくは伝わらないんです。
煩悩いっぱいの私たちですから、自分の欲のために
いくらでも教えを曲げてしまう。

今、仏教といえば、まず葬式法事が思い浮かぶと思います。
どうしてそんなふうになったのか。
それはやっぱり、お金になるからです。

保険金とかでお金を手にしようと思ったら、色々作戦を立てなければなりません。
でも葬式とかの場合は、何もしなくても、依頼がやって来ます。
それで、「坊主丸もうけ」とか「3日やったらやめられない」となるわけです。
欲によって曲げられているんですね。

善鸞もそうでした。
そんな姿勢を、親鸞聖人は厳しく咎められます。

善鸞は、権力者の次は大衆受けを狙って、
に仕えてもよい」と言い始めます。
当時も今も、みんな神信心です。

日本は神の国だ。
これが太平洋戦争を引き起こした。
神の国が負けるはずがないと。

お正月にみんなで手を合わせる。
これも神信心です。
でも仏法では、そうした神信心を徹底的に破ります。

何が間違っているのかというと、お釈迦様の説かれた一切経は、
厳然たる因果の道理で貫かれています。
死んだ人間や畜生の霊がそのまま留まるということがあるわけがない。
また、それらが生きている私たちに禍福を与えるなどということもない。

各自が、自分のまいたタネによって、生み出していくのが運命であり、
さらには後生です。

未来の自分の運命は、自分のまいたタネまきが生み出すもの。
因果応報の因果の道理からハッキリと説かれる仏法から、
こうした一切の迷信を破っておられる。

そして「秘密の法文」です。
ここまでくると、善鸞の独擅場です。
自分の子どもだけに、密かに教えられたなどと聞くと、
知りたくなってくるものです。

善鸞は、他ならぬ親鸞聖人の長男ですから、
「夜中に伝えられた秘密の法文がある」と話せば、
みんな集まるわけです。

正しい仏法を、このようにねじ曲げた善鸞の行い。
仏法のことをまったく知らないのなら、諫めの手紙を書くことも、
勘当することもありません。

でも聖人は生涯かけて、この後生に起きる大問題、
後生の一大事の解決一つを説かれた方です。
こんなを許すことはできなかった。
そこには親子の恩愛などありません。

もし善鸞のことを許していたなら、
後の世の人たちがどれだけ地獄に堕ちるか分からない。

正しく仏法を説く人は、真剣にならずにいられません。
「信用する者少なし」ではありますが、
だからといって、あきらめられるものではない。

すべての人は着陸するところのない飛行機に乗っている。
たとえ、にこやかに笑っていても、まさか自分の足元が噴火山で
爆発するなんて思っていない。
だからこそ叫ばずにいられないということです。

そういうお気持ち一つで、仏法を明らかに説き続けられることに
生涯をかけられたのが親鸞聖人でした。
時には、「そんな厳しく言わなくても」と聖人を非難した人もあったそうです。
それで「独りゆかれた」生涯になったんですね。

でも今は、そんな教えはどこにもない。
念仏称えていれば極楽へいける」などと伝えられていますので、
若者は寄り付かない。

親鸞聖人は、大変なこだわりを持って、真実を曲げる人と戦われました。
「こだわらない」ことが美徳のように言われることもありますが、
親鸞聖人ほどこだわりの強かった方はありません。

仏法には、時代や場所によって変えていいこと、
また変えなければならないところもあります。
でも、絶対変えてはならない部分もある。
そこは曲げてはいけないんですね。

親鸞聖人のご生涯には、非難攻撃が起こるようなこともたくさんありました。
その中でも大きなものが、84歳の善鸞義絶だったのです。

私たちも、同じような誘惑にさらされていませんか?
出世欲、承認欲求、SNSの「いいね」の数やフォロワーの数を増やしたい。
人より上に立ちたいと。

そして、本当に大切なことを曲げてしまう。
自分の都合のいいように解釈してしまう。

親鸞聖人の厳しさは、そういう私たちへの警鐘でもあるんです。
曲げてはならないものがある。
どんなに非難されても、孤独になっても、貫くべき真実がある。
それが「独りゆかれた」生涯の意味なんですね。

お釈迦様から脈々と受け継がれてきた教え

浄土真宗親鸞聖人といえば、教科書にも掲載されるほど有名な方。
そんな親鸞聖人がとても尊敬された高僧が7人あって、
これを「七高僧」と言います。

仏教お釈迦様が説かれた教えです。
その教えを正しく説かれる仏教の先生を、仏教では善知識と言います。
そんな善知識の元祖はお釈迦様です。

その後、お釈迦様から親鸞聖人まで、7人の優れた高僧方が
本当の仏教を教え伝えてくだされたからこそ、
正しい教えを聞き、変わらない幸せになることができたと
親鸞聖人は言われています。

仏教の教えを聞いて、何があっても変わらない絶対の幸福になることを
信心決定と言いますが、どんな人でも信心決定すれば、
この7人の方々のご恩が知らされると思います。
これらの方はいずれも、信心決定の体験と、深い仏教の学問を兼ね備えた方々なんです。

少なくとも、名前と出身国、そして主著くらいは知っておいてもらいたいと思います。

  1. 龍樹菩薩(インド)——『十住毘婆娑論』
  2. 天親菩薩(インド)——『浄土論』
  3. 曇鸞大師(中国)——『浄土論註』
  4. 道綽禅師(中国)——『安楽集』
  5. 善導大師(中国)——『観無量寿経疏
  6. 源信僧都日本)——『往生要集』
  7. 法然上人(日本)——『選択本願念仏集

それでは、1人ずつ見ていきましょう。

まずは龍樹菩薩
この方は、お釈迦様が亡くなられた600年後にインドに現れた方です。
お釈迦様の次に偉い方で、「小釈迦」と言われています。
サンスクリット語ではナーガールジュナ。

この龍樹菩薩のお陰で、大乗仏教が明らかになりました。
大乗仏教を組織的に体系化された方。

そして、あらゆる宗派の人が「私たちの祖師である」ということで
「八宗の祖師」とも言われます。
次の天親菩薩もそうですが、龍樹菩薩と天親菩薩を悪く言う人は、
仏教界ではいません。

龍樹菩薩、天親菩薩が明らかにされた仏教が本当の仏教であり、
今日「仏教学」という学問がありますが、
これは龍樹菩薩と天親菩薩が明らかにされた学問なんですね。

龍樹菩薩は沢山の本を残されていますが、
主著は『十住毘婆娑論』です。
これ、説明すると頭がこんがらがるので、名前だけ覚えておいてください。

2番目の天親菩薩は、お釈迦様が亡くなられた900年後に、
同じくインドに現れた方。
この方が「唯識学」を大成されました。
信心決定されて、唯識を明らかにされています。

この方も沢山の本、背丈以上の沢山の本を残しておられます。
主著は『浄土論』で、浄土三部経と言われる大無量寿経観無量寿経阿弥陀経
本意を正確に明らかにされたものです。

「論」というのは、お経を解釈した本のこと。
お経の内容は深くて読んでもなかなか分からないので、
分かりやすく解釈されたものを「論」と言います。

天親菩薩は、浄土三部経の本意を『浄土論』で明らかにされました。
天親菩薩が亡くなられたのは80歳です。

今度は中国です。
3番目は曇鸞大師
この方はまた有名な方で、親鸞聖人の「鸞」の字は、
曇鸞大師からいただかれたそう。

ある天丼の好きな人が、これを言おうとして、
親鸞聖人は、天親菩薩の『天』の字と、曇鸞大師の『曇』の字を取って
 『天丼』だ」と言った人がいたとか。
これは間違いです。

曇鸞大師の主著は『浄土論註』で、天親菩薩の『浄土論』を解釈されたものです。
天親菩薩の『浄土論』は短いのですが、内容はなかなか理解できないだろうということで、
『浄土論』を解釈されています。

親鸞聖人も沢山『浄土論註』を引用されています。
『浄土論註』がなかったら、私たちは『浄土論』の心が分からなかっただろうという
優れた本です。

曇鸞大師が亡くなられたのは67歳でした。

曇鸞大師が亡くなられてから、道綽禅師という方が現れました。
この方は『安楽集』という本を書かれています。

浄土三部経のお釈迦様の本当の御心を明らかに解釈されたものです。
道綽禅師は83歳で亡くなっていますが、亡くなられるちょっと前に
善導大師と会われて、正しい仏教を伝えられています。

次に5番目は善導大師
この方の時代は、『観無量寿経』というお経がインドから中国に入ってきて、
これを解釈する人が沢山現れました。

ところが、こういう素晴らしいお経があるにも関わらず、
間違った本が沢山出された。
正しい仏教を知らない人たちがこれを解釈して、
お釈迦様の真意が明らかになっていなかったんです。

その誤りを正すために善導大師は『観無量寿経疏』を書かれて、
誤りを正しておられます。
観無量寿経』の正しい御心が明らかになっている、
そのための『観無量寿経疏』です。

善導大師は30代で信心決定なされたと言われます。
ハッキリは分かりませんが、道綽禅師に会われて本当の仏教を知らされ、
大活躍されました。
69歳で亡くなっています。

次は日本です。
善導大師が伝えられた正しい仏教を明らかにされた源信僧都
主著は『往生要集』で不朽の名著です。

私たちが極楽浄土往生するその要を、あらゆるお経や解釈書の、
大事なところを集められて、私たちが本当の幸福になれる道を
示しておられます。

これを読めば、知らず知らずのうちに、仏教の教えを聞かずにいられなくなる。
ただ大部なので、なかなか読めないのですが。

源信僧都は76歳で極楽往生されています。

最後7番目は法然上人で、この方は親鸞聖人の直接の先生です。
選択本願念仏集』という凄い本を書き残されています。

全部で16章で、これを読んだら、非常に論理明快。
浄土真宗でなければ本当の幸せになれないことが、
お経や解釈書を出されて明らかにされている本。
誰も反論できない内容で書かれています。
親鸞聖人の主著『教行信証』は、法然上人の『選択本願念仏集』の解説書です。

こういう素晴らしい本があるのに、それを正しく理解できなかった人が「浄土宗」を開いた。 親鸞聖人は「浄土真宗法然上人が開かれたものだ」と言われています。
結果的にお弟子が間違ってしまったので、親鸞聖人が「浄土真宗」として
正しく伝えられたんですね。

いずれも、素晴らしい本が沢山残されています。
親鸞聖人からすれば「さらに珍らしき法をも広めず」という思いです。
つまり、お釈迦様から七高僧を通じて正しく伝えられてきた教えを、
そのまま正確に伝えているだけだと。

この七高僧方がおられなかったら、どうなっていたでしょうか。

お釈迦様の教えは、インドから中国、そして日本へ
2600年以上の時を経て、私たちに届いているんです。

その間、何度も誤りや間違いが生まれかけました。
でも、七高僧方が、その都度正しい教えを明らかにしてくだされた。
だからこそ私たちは、今、本当の仏教を聞くことができるんです。

2600年前のインドの教えが、現代の日本に住む私たちに届いている。
それは、七高僧という素晴らしい方々が、命をかけて
正しい教えを伝えてくだされたからなんです。

スマホもインターネットもない時代。
翻訳も大変だし、本を作るのも大変、伝えるのも大変。
それでも、この教えを後世に残さなければならないと、
必死で本を書き、教えを広められた。

私たちが今、こうして仏教を聞けるのは、七高僧のおかげです。
そのご恩を忘れてはいけないと思います。

信心決定した時、この7人の方々のご恩が、本当の意味で知らされます。
「ああ、この方々がいてくだされたから、私は救われたんだ」と。

今はまだ、名前と国と本の名前だけかもしれません。
でも、いつか必ず、そのご恩が分かる日が来ます。

だから、まずは名前を覚えてください。
そして、この方々が命をかけて伝えてくだされた教えを
真剣に聞いていきましょう。