最近、noteで源氏物語のフェミニズム批評本の記事を二本書いたので、まとめてこちらにも載せておきます。
「拝啓 紫式部様」で序章が始まります。
序章では、いきなり、紫式部に対する熱いメッセージが展開します。なにしろ、序章の最後は、
「紫式部様。ありがとう。熱い熱い握手と抱擁をおくります。わたしは今、あなたに出会えた幸せに打ち震えています。」
と結ばれているんですから。大変な入れ込み方ですねー。
第二章「『源氏物語』の主人公たち」。私の興味はもっぱらここにありました。著者はまず「桐壺」巻を取り上げます。ここがこの人の立論にとって大事なところらしく、
「式部は、この桐壷の巻において、この動機と主題を集約的に示している」
と言っています。
この章において、著者は、桐壺更衣の悲劇を「幸せな女の不幸」を克明に描いたものと論じます。
「天皇から愛されるという、当時の貴族女性にとっては最高の身の上も、内部を露わにすれば不幸この上ない。ということは、女の幸せは不幸と抱き合わせだということである」
というわけです。帝の闇雲で身勝手な愛によって桐壺更衣は不幸のどん底に陥れられると、著者は主張します。
まあ、確かに、そういう側面はあると思います。しかし、
「おそらく帝は桐壺更衣を愛していても、彼女の方はその愛を推しいただいているだけで、自分の愛を傾けるという関係ではなかった」
とまで言っちゃったのは、どうだったかな。
この著者は、どうやら小学館の『日本古典文学全集』に頼って源氏をお読みだったらしいのです。そうすると、桐壺更衣の絶唱、
「かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり
いとかく思ひたまへましかば」
の部分の訳文を
「いまは、そうよりほかなく別れることになっている死別の道が悲しく思われますにつけて、私の行きたいのは生きるほうでございます
ほんとうに、このようなことになろうとかねて存じ寄りましたなら」
(『日本古典文学全集』)
と読み、全集頭注の「ここでは、なまじ帝のご寵愛をいただかなければよかったろうに、などの言葉を更衣は言いおおせなかった」という説明に従って解釈していたんでしょう。
この一節をそのように読んでしまうと、この著者の主張もあり得るのかなということになりそうです。
でもね、その解釈間違ってます。語法的にも文法的にも間違っているんです。
更衣の歌の「命なりけり」の「けり」は気づきでなければならないし、「かく思ひ給へましかば」の「ましかば」は、気付きに対する反実仮想のはずです。
この更衣は、死の間際まで、著者の言う通り、「彼女の方はその愛を推しいただいているだけ」だったんでしょう。男性の決めた社会制度の中でひたすら「女」の役割を全うするだけの受身の存在だったんでしょう。
でも、この絶唱の直前で、帝の、位を投げうってでも愛に生きたいという言葉に触れ、「今まで気づかなかったけど、今、別れようとしているこの人を私は深く愛していたんだ。本当はこの人と一緒に生きていきたかったんだ」と気づいたんです。
「もっと早く、こんな気持ちに気付いていたら…」
最期にそう言いさす彼女は、もう、退出を願っていた時の彼女ではないんですよ。「更衣」という「女」の役目を果たそうとするお人形じゃなくて、最期になって人としての愛に目覚めるんです。
そのように読んだ時、申し訳ないけど、著者の立論は瓦解します。彼女の立論は「桐壺」巻の解釈が出発点だったのだから、全ての論が崩壊してしまいます。
私は別に、フェミニズム批評が嫌いなわけではありません。そういう思想があっても良いと思います。ただ、古典文学批評においては、文法という怜悧なメスで切り分けた材料に基づかなくては、どんなに精緻な論法もどんなに熱い立論も砂上の楼閣なのだと思います。
続いて『ミライの源氏物語』。売れたらしいですね。うらやましひ。
何となく、今まで読む気にならなかったのは、断片的な評判を聞いておよその見当がついてしまった気がしたので。でも、この「図書館の片隅から」をシリーズ化するにあたって、まず読まなきゃならないと思ったのは、この本でした。売れてますからね。
予想に反して、この本の著者、山崎ナオコーラという人は、真面目な方でした。失礼ながら、ネーミングセンスから言って、もっと軽い人なのかと思っていました。
著者は序章で、「『源氏物語』の読書を楽しむ」ためには、「平安時代の読者に近づく努力をするよりも、現代人としての読書の楽しみ方を極める方向にシフトした方がいい」と提案します。
そこで、現代の社会規範を取り上げて『源氏物語』を切ってみようと試みた…らしいんですが、うーーん。
ルッキズム・ロリコン・マザコン・ホモソーシャル…次々、現代の社会批評文芸批評の諸問題が取り上げられていきます。
まあ、根が大変真面目な方なので、深く掘り下げていくその取り上げ方は、決して嫌いじゃありません。しかし、『源氏』にそれを当てはめていって、「現代人としての読書の楽しみ」ということになるんですかねえ。
たとえば「ロリコン」の章。著者は、「『源氏物語』は昔の物語ですから、登場人物たちは今の社会規範とはまったく違う所で生きています」と認めながらも、光源氏と紫の上の結婚を、
「被害者である子どもが恋愛の視線を投げられ、性行為を強いられたわけなので、ここは『ロリコン』という読みが適当だ」
と主張するんですが、結婚適齢期の認識が異なっている古代のことを、現代の感覚で切ってるような気がするんですけどね。14~16くらいの結婚が標準の世界です。結婚の社会的ルールが違うと言っても良い。
なんだか、ラガーマンがサッカー選手のナイストラップを見て、「これはノックオンと見るのが適当だ」と言い張っているみたいな…。
そりゃ、瞬間的には面白い発言だろうけど、一試合を観戦するのにルールの違いを前提に考えないと、サッカー見ても楽しくないでしょう。
最後の章「受け身のヒロイン」は、面白く読めました。桐壺更衣と浮舟を並べて論ずるのはちょっと新鮮な感じがします。
でも、この章、問題があります。著者は、桐壺更衣という呼称を、
「後世の読者は桐壺更衣と呼びますが、その呼び名は作中にはありません。でも、桐壺帝に仕えている更衣という役職なので、わりとそのままの呼び名です。『桐壺更衣』という呼び名は、今の感覚で捉えるとちょっとひどいです。…桐壺帝の付属物としてしか見られていないわけです。」
って力説してるんですが、ね。
桐壺という後宮の建物に住んでいた更衣だから、「桐壺更衣」って呼ばれてるんです。「弘徽殿女御」と同じこと。正直に言って、そんなこともわからない方に『源氏物語』を利用した本を書いてもらいたくないです。
そもそも、作中に「桐壺更衣」ってちゃんと出て来ます。「桐壺」巻で藤壺の母の先帝の后が「桐壺更衣」って呼んでます。ということは正式名称なんです。
実は、「桐壺帝」「桐壺院」という呼称の方が作中に出てこないんです。この人の言い方を借りると、「桐壺更衣の付属物」だから、この帝は「桐壷帝」と呼ばれてたんですよ。
よって立つ事実の確認を怠ると、どんな御立派な立論も砂上の楼閣。そのくらいのことは、わかってなきゃいけないんじゃないですか。


