2025-05-01から1ヶ月間の記事一覧
正徳5年10月30日。巳(午前9時)頃、修理宅で都筑分之右衛門が改易となる。京、江戸は出入り禁止。大目付内藤浅右衛門、御目付山崎兵大夫、御供番長岡丹左衛門。卯半(午前6時)頃、分之右衛門を駕籠に乗せ、伝左衛門・惣兵衛・忠助が従い、修理殿宅…
正徳5年10月29日。この日の御蔵での扶持方への渡しは差支えがあって、渡しかけたが中止になる。来月6日に渡すこととなる。この日のことか、林光院殿妹おとみが高橋司書へ嫁ぐ。(翌年離別する)無器量。円覚公(徳川吉通)が言い残される。
正徳5年10月28日。御蔵米のこの年末の買留は2分で値段は7斗。引起は6斗5升。新酒は100文、昨年の酒は160文。銭1分で815文。米は1両で6斗5、6升。文左衛門の米などは7斗位。
正徳5年10月27日。辰(午前7時)過ぎ、文左衛門は甚左のところへ出かける。酒を頂く。そこから瀬左とともに一緒に橘町へ出かける。そこで先日の焼け跡を見る。通所へも出かける。持たせてくれた酒などを頂く。道具を買い求めてから七ツ寺の拝殿で弁当…
正徳5年10月25日。御用人大崎一郎右衛門のことは常々目上の者を軽んじ、勤務態度も良くないと言いつけられ、加増の100石と元々の知行から100石減り、200石となり、御馬廻となる。その夜に江戸を発つようにと云々。誰にも出かけて世話などしな…
正徳5年10月23日。先頃、御宮番人の中間が御宮の釘を隠れて盗んだことで中間頭に預けられる。先頃甲斐守(志水)家来で、喧嘩で行方をくらました者について親に尋ね出させるようにと云々。
正徳5年10月20日。近頃、船の運賃が2両上がる。先年は100石について5両だったが、堀治部右衛門に代わるまでに段々と1両2分上がり、6両2分となる。今度は一気に8両2分となる。
正徳5年10月18日。行赦が4人あり、法事が終わる。名代は駿河守(大道寺)が勤める。紀州様からの使者は寄合下条伊兵衛。侍9人、中間22人、乗馬1疋。御香典は銀20枚、御香典属は足軽吉田弥五七、御目録持中間1人、持人同3人。御馳走懸りは沢井…
正徳5年10月16日。近頃、兵庫殿と細井又六・鈴木安太殿が用務で評定所へ出向く。ただし、昨日朝の内は安太殿建中寺へ出向く。御家中より上ケ物(献上品)のことと。近頃、惣御代官衆へ今年は豊作であるので、4つ概(ナラシ)にと言いつけられるが、そ…
正徳5年10月15日。名代は周防守(織田貞幹)が勤める。丑(午前1時)前、灰取場の押の者がいる側の家から出火し、2、3町(1町は約100メートル)が焼け、寅(午前3時)頃鎮まる。風は吹いておらず。梅香院は焼けず。門は壊す。この門前や長栄寺…
正徳5年10月12日。真巌院様(徳川五郎太)の法事が始まる。御馳走奉行は五味平馬・服部仁左衛門・星野七右衛門が勤める。惣門は荒川武兵衛・藤田左門が勤める。三門は遠山所左衛門・武野治兵衛が勤める。裏門は牧野甚左衛門が勤める。名代は隼人正が勤…
正徳5年10月11日。今年の早稲(わせ)の出来はとても良く、晩田(遅く植えた稲)はほどほど。麦などはこの30年ないような出来と云々。代官衆の耳にも豊年と入ると云々。免については引き上げるようにと言い付ける。
正徳5年10月10日。夜、高須の西河原という町が大方焼失してしまう。300軒ほどの町で4、5軒だけが残る。諸士の家は1軒も焼けず。ただし諸士の明屋敷が1軒焼ける。名古屋からも火の光が見えたと云々。
正徳5年10月8日。濃州武儀郡吉田(キツタ)村真言宗新長谷寺の末寺一塔寺は先年勢州松坂成福院の仲介で御室(仁和寺)の末寺となる。このことを3年江戸で審議したところ、昨日判証(権威者による判定)が済む。一塔寺は不届きとのことで袈裟を剝ぎ(僧…
正徳5年10月6日。瑞祥院様(徳川吉通正室)が大森寺へ出かける。山の腰かけ(休憩所)で景色を楽しまれる。住持は留主分とする。
正徳5年10月4日。黒門の番は今まで御城代の足軽が勤めていたが、今後は留主であっても黒門の足軽が勤めるように。
正徳5年10月1日。文左衛門は昼から円右へ出かける。この朝、名吉(ボラの幼魚)2頭250を持たせて遣わす。三ツ目(婚礼から3日目の祝い)であった。
正徳5年10月2日。岡崎儀右衛門母の妙孝が亡くなる。同9日夜、体也日輝が71で亡くなる。水瀉痢(激しい下痢)で。忌日は10日。8日の内に義右衛門は両親を失くす。
正徳5年10月1日。明け方前から雨が降る。夜明けに雨が止む。晴。時に雲が現れ、暑い。正徳5年10月2日。薄曇。朝から暖かい。正徳5年10月3日。快晴。正徳5年10月7日。薄曇。夜更けに時々雨が降る。正徳5年10月8日。朝、小雨が降る。小雨…
正徳5年9月28日。真巌院様(徳川五郎太)の三回忌の法事を言いつけられる。竹田三益が召され、20日の支度でこの日尾張を出発し、江戸へ下る。
正徳5年9月25日。渡辺新左衛門が上京の使者を仰せ付けられる。
正徳5年9月23日。日の出頃、文左衛門は小左へ十郎右と出かける。由平は手錠を前に下ろさせ、袷を羽織らせて編笠を着せ、胴縄を両方の袖口に引き通し、両人で袖口からこれを持つ。他に中間1人、刀指2人が附き、卯半(午前6時)頃、勘兵衛のところへ向…
正徳5年9月22日。申(午後3時)前、善左・勘兵から手紙が小左へ来る。自分の家来由平に尋ねることがあるので雇い人を附け、明日23日5つ(午前8時)頃、勘兵衛のところへ寄こすように心得るように。以上。
正徳5年9月20日。早朝に箕形善右・堀勘兵から相原小左へ手紙が来る。召仕元助を探しているので取り逃がさないように、もっともこの者にあれこれ話さないよう申し渡すよう心得るように。以上。小左がやって来て文左衛門にかれこれしかじかと話をする。十…
正徳5年9月19日。文左衛門の米は1両で6斗。地酒の新種は丁(樽)で64文。横井伊右衛門にあげ鷹(隼猟)は他国では行われないので、月日が経つとその伝統も失せてしまうので、そろそろあげ鷹(隼なり)を調達するようにと仰せ付けられる。元の役に戻…
正徳5年9月18日。渡辺元右衛門が午刻(午前11時)に源右衛門のところに到着する。辰(午前7時)過ぎ、文左衛門は用務で相役とともに大森寺へ出かける。藤入も一緒に出かける。昼は新そば、夜には食膳所の小祠の祭りということで踊りと狂言をこの年か…
正徳5年9月17日。この日、巾下薬園の跡地が新たに屋敷の土地として下された衆。550坪、新御番岩田文之右衛門。同、御鉄炮打篠岡左源太。300坪、五十人御供組中村平兵衛。同、西郷彦蔵。同、五十人吉田金平次。同、田中弾十郎。同、留書役武藤善右…
正徳5年9月16日。文左衛門は朝飯の後に甚左へ出かけ、酒を頂く。甚左と共に市兵衛のところへ出かけ、ふぐ汁・すびて(酢押)で酒を頂く。市とともに3人で大須などへ出かける。稲荷へも出かけ、稽古浄瑠璃をしばらく聞く。夕暮れ頃帰宅する。近頃、荏油…
正徳5年9月15日。この日の明け方、政秀寺門の外で鈴木平七若党赤尾丹六が御馬廻渡辺弥左衛門召仕の女しなをふゑ(喉笛)を1ヶ所刺して殺し、自分もふゑを刺したが死ねなかった。丹六は23才で濃州安八郡二俣村の者で、しなは28才で中島郡一宮の生ま…
正徳5年9月14日。文之右衛門を兄伝左衛門に命じて探させる。御番も退く。志水甲斐家来牧野作右衛門という者が一緒に住む甥高村善左衛門を昨日教え諭す。善左衛門はこのことを甚だ恨んでいた。作右衛門を切ってやるなどと大きなことを言うのを、作右衛門…