【書評】久保田正志『オウム真理教と解離性障害ー中川智正伝』
7年前の本日、オウム真理教元信者だった中川智正さんらが処刑されました。
このところ、ブログを書くことから離れていて、久しぶりに書くとしたら、今日しかないだろうと思いました。
書くことはかねてより決めていました。
昨年8月23日夜中、Twitter上で『中川智正伝』がついに発売されるということを知り、興奮してしまいました。
著者は、久保田正志氏。
中川智正さんとは岡山大学教育学部附属中学校以来の親友の方です。
私は、読売新聞の2008年ぐらいの記事で、東京拘置所に勾留されている中川智正さんに面会し続け手記を書こうとしている方だと直感しました。
是非、手記を出してほしいと願っていましたが、
オウム真理教関係書籍はあまり売れないので、おそらく中川智正さんの周辺だけで手記が共有され、一般向け出版はないと諦めてもいました。
だから、『中川智正伝』が出版されると聞いて、一晩眠れないまま、次の日に頭痛をこらえて仕事にいくほど、興奮していました。私ほど伝記出版を喜んだものはいないでしょう。
どうしても発売日に入手したくて、大型書店に予約まで入れました。
「♪もーいくつねーるとー」(発売日?)と思いながら、日々を過ごしてきました。
そうして、2024年9月19日(木)を迎えました。
- 二枚の写真
これまで見たことのない中川智正さんの二枚の写真が掲載されていました。
頁上部のは中学同窓会でほろ酔い笑顔のもの、下部は筋肉を誇示するポーズをとったものでした。
おそらく、この写真を見た人は、「どうしてこんな笑顔で元気な人がオウム真理教関係の死刑囚なのか」とまず思うのでしょう。
私個人は、中川智正さんについて勉強していたので、
頁下部の筋肉を誇示している姿の写真からは、麻原第161回公判(2000年6月22日)に出廷した中川智正に対し、
麻原彰晃が「脚力は強いんだ・・・」「麻原彰晃、松本智津夫はお前の父親」なる不規則発言をかけたことと
つながりを感じさせる写真を選んだと捉えました。
このように、著者も真正面から中川智正さんの巫病について取り組んだという意思表示でもあると思いました。
一番後ろに掲載されている、佐々木雄司・元東京大学教授が書いた鑑定意見書③麻原との関係のなかで
「石川公一証言」として提示されている
「新実(智光)ー麻原関係は、ある種N極とN極、S極とS極で反発し合いながらものすごい力で引きあっているような感じ。
でも中川ー麻原関係は、自然に融合しちゃっているような感じでした」を、
この写真から垣間見ることが出来たと思います。
おそらく中川さんとの付き合いが長かったので、たくさんの中川さんの写真をもっているであろう久保田正志氏が、
あえてこの写真を選んだのは、上記の証言を写真で見せようとしたのかもしれないと思いました。
- 著者・久保田正志氏
本著は、あの1995年3月以降のオウム報道一連後、死刑執行に至るまで、ただ一人、中川智正さんの話を傾聴することができた久保田正志氏の存在なくして成立することはなかった死刑囚の伝記であります。
オウム真理教の歴史を振り返る上で、中川智正の存在を抜きに見ることは難しいと思います。それはオウム真理教の犯した犯罪の多くに関わったうちの一人が中川智正だからです。その人物が何をどう思っていたのか知ることで、オウム真理教に関する新たな視点を得ることができます。
久保田正志氏は、一般的には接見禁止がついていた1996(平成8)年4月9日に特別に解除され、東京拘置所にて面会が許されたのでした。
接見者が拘置所から期待される役割とは、勾留者の「心情の安定」だったようです。
この時期、まだオウム真理教事件に関する悪いイメージが先行している中で、久保田正志氏は友人として接見禁止が解除され面会が許されたということは、それだけ拘置所側からも中川智正の心情安定の役割を期待され、それに応えながら、「接見禄」をワープロ打ち(当時はワープロが主流の時期)をし続けていたのでした。
「体のエネルギーは今も時々おかしくなる」
「麻原氏の前世は徳川家光だが、私も江戸時代に生きていて周りに重装備の兵士が沢山死んでいる小高い丘に坐っていたビジョンがある・・・」
「私は天人界にいたことがあるし、井上(嘉浩。諜報省長官。2018年7月6日大阪拘置所にて死刑執行)君も一緒でその時は私の方がステージが上だった。我々は天界では竜で、麻原氏は竜王だった」
あたりを書きとれるとは・・・。
久保田正志氏の優れた傾聴力と、メモを年代別に組み立てる労力がなくして、この『中川智正伝』は成立しえなかったと思います。
中川智正さんも、久保田氏に対して「あなたはましだが」といいながら、躊躇しながら神秘体験を接見で話したのだと思います。もとより幼い頃より「光の体験」「人の影響が自分に入ってくる体験」を中川さんは母親から口にすることを禁じられていたのでした。
裁判では証言を拒んでいた時期の中川智正さんの姿をここまで残してくださって、ありがとうございますと申し上げたいです。
中川智正さんも、だからこそ伝記の執筆を久保田正志氏に託したのだろうと思います。
私は最初一読した際、中川智正さんも麻原彰晃も「異常者であった」という事実に改めて気づかされて、神秘体験の部分を読んでいるだけで自分の頭がついていきませんでした。中川智正さんが死刑になってから7年。それ以降なぜか日々の勉強(趣味?)の一環として、中川智正さんが神秘体験を重視していたことを知っていても、読後驚くことばかりでした。裁判の証言で知ったものよりもさらに詳細だったから。
『ジャム・セッション』第9号(2016)の中川智正さんの俳句の中に
百日の行や七度の結願へ
というのがあり、小さく「中学からの友人の面会が六百回を超えた」とあるのは、久保田正志氏との面会が600回を迎えたことをいっているのでしょう。
我々が確定死刑囚である中川智正さんエッセイをネット上で読めたのは、久保田正志氏が外部交通者であったことが大きいことに気付きました。
ネット上で中川智正さんのエッセイを紹介していた、京都府立医科大学の事務課の俳人は、
中川智正さんと面会の経験があっても、外部交通者ではありませんでした。
中川智正さんがエッセイを書く
⇒拘置所からの手紙として久保田正志氏の元に届く(中川智正さんの直筆)
⇒久保田正志氏がWordで活字化して、京都府立医科大学の事務課の方に郵送かメール(メールの可能性が高い?コピーペーストができるから)
⇒京都府立医科大学事務課の方が中川智正さんの短歌とエッセイを『ジャム・セッション』として掲載
これだけの煩雑な手続きを経てネットにて公開されたものであったことがわかりました。
- 巫病とマインド・コントロール
「巫病」とは、文化人類学で使われる概念で、
シャーマン(シャマン:巫者)になるプロセスの途中などで、神秘体験と結びついて起こる心身の異常状態を指します。
この概念を中川智正さんに指摘したのは藤田庄市氏。2003(平成15年)10月頃だったということです。
中川智正さんもその概念を研究し、
「オウムの人は多かれ少なかれ私と同様巫病の傾向はあった。それが前面に出ているか出ていないかの違い」としたようです。
それでもこの概念を知ったことで、中川智正さん自身の精神状態は安定に近づいたようでした。
中川智正自身が巫病発症の理由の一つとして、医師国家試験前に柔道の稽古をしなくなり筋肉が衰えたことをあげていました。
なお、中川智正本人は、意識的にか、無意識的にかはわかりませんが、
「自身が留年するかしないかの不勉強さ」を出していないことが注目点です。
医学部の世界は、大学入試が終わってからも、今度は新たに医学という学問を地道に体系立てて学んでいかねばならない世界のようです。
留年スレスレで場当たり的に大学の定期試験を乗り切ってきたようなタイプの学生にとっては、
研修医になればその知識を患者さんのために適切に提示できないといけず、その上激務に伴う不眠も伴い病んでドロップアウトしてしまう人も
実は多いようです。
その面において、精神的に辛かっただろうに、そのことについては本人は頑として認めたくなかったようでした。
一方では、オウム真理教の信者に対して「マインド・コントロール」から解ける、解けないという報道がよくされていましたが、
中川智正さんはマインド・コントロール論については批判的でした。
「尊師は光を放っています。これはたとえ話ではなく、この光は視覚的に視ることができます。
(中略)
例えば尊師の部屋は外から見ても光っていましたし、尊師から500キロメートル以上離れた所でも私はこの光を見たことがあります。
(中略)ただ、トータルで言えば、この光を見ることができる人はほとんどいません。
教団内でも大部分の人がこの光をみていないと思います。
(中略)
自分がなぜ教団に居たのかわからない脱会者は「私はマインド・コントロールを受けていたのだ」と言っています。
しかし、その「マインド・コントロール」の実態はいまだに全く明らかになっていませんし、
これからも明らかになることはないでしょう。そのようなものは存在しないからです。」(88頁~89頁)
中川智正さんが死刑執行されたときの報道では「中川智正死刑囚は、(中略)裁判では麻原のマインド・コントロール下にあったと責任能力を否定しましたが、一審・二審で死刑判決を受け、2011年には最高裁で死刑が確定しました」とアナウンサーが伝えていました。
この点ひとつでも、最後まで、現世と合わないまま迎えた最期だったともいえると思います。
拙ブログのタイトルは「僕は二つの世界に住んでいる」ですが、そのタイトルを選んだのも、中川智正さんをテーマにする際、中川智正さん自身が、大学までの人間関係や、拘置所の職員さんなどとの関係を良好にしながら、
教団時代の話を否定もせず、批判も最小限にして、自分のみたものを外部に伝えたいという思いがあったということを示していると思ってつけました。
マインド・コントロールから解放された、されないという見方で中川智正さんを見ようとしても挫折するでしょう。
私はそれで一回中川智正さんを見る視点を誤っていたことに気付き、修正したのです。
- 「巫病」か「急性一過性精神病性状態」か?
「巫病」は文化人類学的概念ですが、「急性一過性精神病性状態」は、精神科で使われている病名のようなものらしく、複数名の現役のお医者様がそのような病名の患者さんを診察したことがあると言われています。
中川の巫病には一考ありです。
— Vicarius Amidae (@ApplerV30) March 24, 2025
当時は研修医を酷使する野蛮な文化があり、優秀では無かった中川も不眠を呈した可能性は高度に有ります。
一部の精神障害は不眠を直接の契機として出現します。
急性一過性精神病様反応など、まさにコレです。
病的体験の内容も酷似してます。
数名の自験例あり。
中川智正がもし、医師国家試験後に精神に変調をきたした段階で、精神科に通院して診察を受けていたとしたら、「急性一過性精神病性状態」と診察され、投薬治療を受けていたと思います。ただ、精神科の先生方は、医師国家試験後の変調状態にフォーカスし、「急性一過性精神病性状態」と診察するでしょうが、中川智正さん本人は納得しなかっただろうと思います。もしかしたら、タイトルの通り「解離性障害」とも診察する医師もいたでしょう。
そうなると、どうして本著のタイトルを『オウム真理教事件と解離性障害』にしたのだろう・・・という疑問がわきます。
『オウム真理教と巫病ー中川智正伝』にするかどうするか悩んだのではなかったかと思います。
中川智正さんは、麻原自身も巫病であるとして、巫病を理解しようとする人に対しては、巫病について
語り、さらに死刑確定前には教団関係者で巫病の疑いのある人をカウンセリングしたりもしていたのでした。
このように、中川智正さん自身は、巫病という概念を使おうとしていたけれど、
自分の状態を現世の概念で当てはめて理解しようとする人、
例えば、アンソニー・トゥー先生には内面的な話をされても
「麻原氏がヨガの教師として優れていたから」以上の話をしないよう心掛けていたのでした。
オウム真理教がなかったとしたら、中川智正さん自身はどうなっていたのでしょうか?
おそらく、研修医が続かないといった時点で自殺か、精神科病院への入退院を繰り返す生活以外になかったと思います。
私は、自分自身も精神疾患を患いながらなんとか生活している身のため、中川智正さん死刑執行の一報を聞いたとき
なんだかうらやましかったのでした。死刑執行されたことはショックでしたが
もうこれで苦しまないでいいので、うらやましいとさえ感じました。
この自分自身の直感から、自分なりに資料に当たったりして現在に至りますが、
中川智正さんがオウム真理教に入信し、各種事件を起こした結果死刑執行となったことに関しては、
「裁判で自分なりの陳述ができて、
佐々木雄司先生のような、フィールドワークに重点を置く精神科の先生に巡り合えてよい鑑定書を書いてもらえて、
支援者にも恵まれて、死刑とはいえ人生を全う出来たのだから、
閉鎖病棟に閉じ込められたり、
医学部を出たのにニート扱いされる人生
(本当は名もなくこのような立場を余儀なくされている方は見えないけれど、我が国では多いと思っています)
にならないで、確実に死なせてもらえてうらやましい、という気持ちだけは私個人は変りません。
本人のプライドだって守られていたと思います。
医学生時代の時の中川智正さんは、留年スレスレで、医師国家試験の合格さえ教授から危ぶまれていたと書籍には
ありますが、実際は以下の通りだったようです。
府立医大では国試で不合格になりそうな者は、当時ほぼ皆無でした、、、その点は流石ですよ。
— Vicarius Amidae (@ApplerV30) 2025年3月24日
不勉強過ぎて成績は悪かった中川でしたけど、国試の心配だけは周囲の誰もしてませんよ。勉強しろっとハッパを掛ける意味での警句が基本と考えた方が良いです。
国試合格率だけは日本有数の医大でした。
意地悪い目で見るならば、中川智正さんが追試、再試に追われないで、授業をしっかり受けて
疑問点をその都度解決していくなどの努力をしていれば、沖縄県立中部病院の研修医だって受かっただろうから
今もなお、現役のお医者様として尊敬されていたと思います。
しかしながら、研修医をドロップアウトしていった先がオウム真理教だったのと、
麻原彰晃が、中川智正の身体の状況に配慮して、医療業務に関わらせたのは最小限だったらしい。
その最小限の中には、麻原彰晃が起こした事件の治療役というのがあったし(それで死刑になった)。
その他にもwikipediaからですが

医師としての技能が足らないにも関わらず、麻原彰晃以外の信徒に対して、注射だけでなく、帝王切開の経験もないのに
行うなどしているため、この部分を見た「マトモな」医者ならば、中川智正さんが医者として無能であることに気付くはずです。
その人が医師免許を返上しても、なぜか最期まで拘置所内において、「医者」扱いを受けているし、
本人も、7月2日アンソニー・トゥー先生宛手紙においても「私は医者ですから」と書いているように
人生の最期まで医者として生きることが出来てしまった・・・。
そして、オウム真理教内部において、中川智正さんによって傷つけられた人はいたでしょうし、
共犯者の中には彼に怨みを抱いているひともいるでしょう。
さらにオウム真理教の事件によって今も苦しんでいる被害者の方もいます・・・。
ある意味、「麻原彰晃の力を借りた『無敵の人』」の側面も見逃せません。
210頁に、平成元年(大学卒業、研修医生活が始まるのと前後して精神的に変調をきたしてオウムに救いを求めた時期)を振り返って
「薬は投与されたが、飲みたくなくて飲まなかった。
神秘体験を病気とは思っていなかった。
佐々木(雄司)先生が診たとしてもカウンセリングのみで、 場合によっては投薬ということだろう。
巫病について、医者としてできることはないと思う。なんともならない。
江川(紹子)さんからカルト対策としての協力]を求められたが、
巫病については何ともならないから協力しなかった。
医師がカウンセリングするだけなら、宗教団体の方に行った方が体験者としては良い。
巫病は史上ではたくさんいて、旧約聖書にも出てくる。
巫病は精神分裂症とは違って、細胞の異常とか物質的な基礎がないので、薬をだすというロジックにもならない」とのことです。
中川智正さん自身が、自分の学んできた医学を拒絶していたのでした。
中川智正さんは、再審請求はしていたものの、一貫して死刑以外の判決はないとの思いで過ごしていた方と思います。
だから、7年前の今日、居室から連れ出されていくときに、
他の死刑囚なら看守たちの肩を借りて刑場に赴くものとされそうですが、
「自分の足で歩いていきます」と落ち着いて死刑執行を迎えられたのでした。
東京拘置所で精神的にも物理的にも守られて、自分の行動を省みたり、研究したりしながら、55歳で死刑になった中川智正さんは
家族によって自室に閉じ込められた医学生slownews.com
よりも自由だったのではないかという今日この頃です。そのことをさらに教えてくれたのが、本著でした。
中川智正さんという人の人生を辿りながら、ある人は自分の心の傷に気付いたりする機会になれば
中川智正さんの魂がどこかで喜んでくれるのではないか、と思っています。
「地下鉄サリン事件史観」への違和感
オウム真理教事件において、確定死刑囚となった13人が処刑されてから、6年が経ちました。
私個人は、2018年7月6日朝に死刑の一報を聞いてから、なんとなく中川智正さんとオウム真理教について調べることが日常の一つとなりました。
死刑の報道を含め、オウム真理教の事件を調べていくにつれ、私にはある違和感が芽生えるようになりました。
それは、「地下鉄サリン事件史観」という、地下鉄サリン事件からオウム真理教の問題を視る考え方でオウム真理教に対して総括していることです。
地下鉄サリン事件で、確かに多数の一般市民に被害を与えたのは事実で、いまもその障害が癒えないまま日常を過ごしている方もいらっしゃいます。
地下鉄サリン事件が我が国の歴史的な事件として風化されないことも、もちろん大切ではあります。
しかし、地下鉄サリン事件からさかのぼってオウム真理教を見ようとすると、
それでは
地下鉄サリン事件まで国民の安全を守るための警察は何をしていたのか、そして、報道機関であるマスコミはオウム真理教に対してどのように報道していたのかという反省点が見えてこないのです。
やはりオウム真理教を視るには、せめて坂本弁護士一家殺害事件、できればそれ以前までさかのぼって、そこから地下鉄サリン事件までを順に追って丹念にみていくことこそ大切だと痛感しています。
広瀬健一さん(地下鉄サリン事件実行犯、自動小銃密造事件で死刑執行)の手記の最初はこのような書き出しです。
「アビラケツノミコトになれー」
突如、麻原彰晃に訪れた啓示が、オウム真理教による破壊的活動の原点になりました。
1985年5月、神奈川県三浦海岸。
麻原は解脱・悟りの成就を発願し、頭陀を行じていました。
もともとは、オウム真理教が宗教団体として認定される以前から、教団は一般社会とは別の規範で動いており、それゆえトラブルを起こしていました。
以前のエントリーにも掲載したこの年表を見てほしいです。
中川智正さんが入信する以前に、すでに教団は多額のお布施を取った「血のイニシエーション」やら、信徒殺害を隠蔽したり、多数の信徒で都庁に押しかけて宗教法人の承認を得るなど無理なことをしています。

今年も、松本サリン事件前後から、公安調査庁が連続ツイートをしています。それを見ていきたいと思います。
【オウム真理教とは①】
— 公安調査庁 (@MOJ_PSIA) June 29, 2024
オウム真理教は、過去に凶悪な事件を多数引き起こしています。麻原彰晃とはどんな人物だったのか。今では考えられませんが、当時の若者には彼を神格視する人たちが多数いました。
詳細はこちら↓ pic.twitter.com/VTfsOwmo6v
このツイートの詳細はこちら↓以下の部分を読むと、
「オウム真理教は、(中略)かつて麻原の指示のもと、一般市民を対象に猛毒の化学兵器であるサリンを使用して無差別大量殺人行為に及んだ松本・地下鉄両サリン事件など数々の凶悪事件を敢行した。世界的にも類をみない両サリン事件の発生から30年近くが経とうとしている今もなお、組織を維持しつつ活動しているオウム真理教とは一体どんな団体なのか。両さりん事件の風化も危惧される中、改めてその過去を中心に振り返る」とし、サリン事件を起こした凶悪団体としており、
さらにサリンの説明を詳細にしています。
このブログで特に取り扱っている、中川智正さんは裁判において
「私が死んでも、償いになることでないことが少しでもわかってきた。
やはり大きな事件だっただなと、徐々にわかってきたんです。世界の歴史に残る汚点となることをしたんだなとわかってきた」
この話を裁判で証言したのが2000(平成10)年。
事件から5年も経過してでした。
5年経過してようやく、この点に気づけたことを裁判で証言できた事実こそ、
オウム教団の内部の怖さであると思いました。
中川智正さんはサリン製造(松本、地下鉄とも)、実行グループ(松本)として教団とは無関係な一般市民に対して加害者であることは間違いないです。
その中川智正さんらサリン製造者はすべて処刑されており、サリンを製造する施設や材料もないのが、今のオウム後継団体です。
おそらく死刑執行日の明日は、家宅捜査をされるでしょう。
それにやはりその団体を知らないで近づくのは危険であることは変らないと思います。
それは、かつてサリン事件を起こした団体というだけでは足らないと思います。
公安調査庁の表からは、オウム真理教およびその後継団体の怖さについて、いまひとつ伝わってこないと思いました。
なぜか。
今のオウム真理教の後継団体は、サリンを製造する能力は失われているし、損害賠償もまだ残ってもいます。
危険なワークをせずに、静かな出家生活を送るなら問題ないと思って入ることが怖いのだと思います。むしろ怖いのは入信することによって自らの精神面を壊してしまうことが発生する可能性がある団体だということです。
この辺は、公安調査庁が注意喚起しても見えにくい部分だと思います。
やはり、藤田庄市氏の本や、広瀬健一氏の手記などを自分の中でしっかり読んでみきわめることが大切だと思います。
オウム信徒で逮捕された人の話を知ると、
他人に加害をする以前に、自分自身が教団から虐待行為を受けているが、それを受けても虐待とは考えず逃げられなくなっていく点です。
これは元信徒の手記などからもわかります。
- 一畳間のポータブルトイレ付の部屋に監禁(新實智光・中川智正)
- 破戒行為したとして剃髪の上監禁(井上嘉浩)
- 犯罪行為時に手袋をしていなかったとして、熱したフライパンによる指紋消去(早川紀代秀・村井秀夫)
- 修行道場の一角で、竹刀を手にした監視人に脅えながら「グルに帰依します」と叫ばせられていた(中川智正 1995年2月下旬頃。高橋英利『オウムからの帰還』より)
- 殺人事件に関与してしまったあとに退会しようとしたら、自分がポア(殺人)されてしまうかもしれないという恐怖感(早川紀代秀・杉本繫郎)
- 恋人を作ることが禁止されているのに、恋人を作ったのがバレたら、自分も薬物つかって自白させられるし、恋人もどうなるかわからないことの恐怖(林泰男)
このように、出家信徒は、程度に差こそあれ、オウム真理教での共同生活を送っていくなかで、自らを精神的に傷つけられるような場面を経ているが、逃げるという手段がとれなくなるようです。
そして、そのような教団に対して忠実で真面目な信徒が、犯罪を行う上で実行者に選ばれてしまったということです。
公安調査庁のHPをみると

2点、違和感を覚えました。
それは、①オウム真理教が「真理党」として出馬したときの写真が使われているが、
麻原教祖の隣にいる人物は、その後麻原をゆすって教団から逃走した岡崎(佐伯)一明さんだが、その説明がない。
②サリン事件(松本・地下鉄)は触れていても、坂本弁護士一家殺害事件(1989年)については一言も説明がない。
①②はいずれも、1989(平成元)年~1990(平成2)年の出来事であるが、のちにオウム真理教事件の死刑囚になってしまう人たちが出家した時期でもあるにもかかわらず、それに触れないで、「サリン事件を起こしたから凶悪団体」だとするのは無理があるのではないでしょうか。
まさに死刑になった中川智正さんが確定死刑囚になる際に危惧していたように
「自分たちのことが(事件も、その背景も)体系的に明らかになっていない」まま、
事件のあった日、関係者の死刑執行があった日を中心に、ほんの少しの振り返りがされているにすぎないのです。
しかも当初から破壊願望やら、反社会性を有していたオウム真理教を、地下鉄サリン事件までは肯定的に取り上げていたマスコミの反省は一つも見たことがありません。
そして、公安調査庁。
オウム真理教の後継団体に麻原彰晃を知らない若者が、ヨガ教室と称して入ってしまうことを、サリン事件を約30年前に起こした団体だと注意喚起しているが、そのような危険な団体であることをサリン事件が起きるまで放置していたからこそ、信徒だけではなく、一般市民にも多数の被害を出してしまったという反省が見られません。
年表に坂本弁護士一家殺害事件を敢えて書かないのはなぜでしょうか。
選挙の写真を掲げながら、しかもその写真には選挙中に麻原を強請って逃亡した坂本弁護士一家殺害事件の実行犯が掲載されているのに、それに関しても無関心であるように思いました。
直接事件を起こした実行犯は、裁判で死刑判決を受けて、自らの生命をもって償いましたが、では公安調査庁やマスコミはオウム真理教事件を、サリン事件から語ることで
敢えて自分たちの罪には触れない、自分たちを変えたくないのではないかと思わざるを得ません。
「中川君はとても怯えていて、話す声も震えていた」
私はこの証言を書物で読んだのは
藤田庄市氏のこの著書内でした。
中川さんが死刑になった直後に、一番欲しい情報が掲載されていた本で、
今も手許においています。
新宿駅青酸ガス事件のときに共犯者であったヤスさん(林泰男)の証言ですが、
最初にヤスさんが法廷でこの話をしたのは、中川公判に呼ばれたからではなかった
のです。それを前回のブログでは誤解していました。
ヤスさんは、当時の共犯者の様子を答えていただけで、中川さんについて
何か有利になるとかそういうことを考えてこの話をしたわけではなかったのです。
今回のエントリーでは、中川さんが逮捕される前、新宿駅青酸ガス事件の時の
このヤスさんの言葉を読んでいきたいと思います。
このヤスさんの証言は、新宿駅青酸ガス事件共犯者部下2名(刑期満了者)の
法廷(1997年7月22日)でのものでした。
ヤスさんは、部下二名は犯行に加担はしたが、深い事情はしらなかったと述べて、
二人に詫びました。その上で、教団が強制捜査を受けている中での生活状況を
証言したのでした。
この部下二名を犯行に巻き込んでしまったのは、井上嘉浩・中川智正・林泰男が
所在を探されている立場だったから、自由な活動ができなかったためだと。
新宿駅青酸ガス事件は一回目が失敗し、5月3日の二回目の実行の際、ヤスさんはまた
自分がやらされるのかと嫌な表情をしたら、それを見ていた中川さんが、
「今度の装置は複雑だから、ワシがやるわ」と
※ワシ(儂)
当時のオウム真理教幹部の一部は、自分のことをワシ(儂)と呼んでいたらしいです。
これは元信徒・MPプロジェクト氏(@P48338092)のブログにあります
中川さんもこの時はワシを使っていたようです。
中川さんが仕掛け役をやることにはなったけれど、新宿駅までこの部下2名とヤスさんと女性信徒がついていくこととなりました。
地下鉄サリン事件後ではあったのですが、中川さんたち一行は、京王線に乗車して(切符に指紋をつけないようにして)移動していたのが驚きです。
個人的には地下鉄サリン事件では被害に遭遇しなかったものの、
当時の通学路線の一つが京王線でもあったため、ニアミスしてなかっただろうか?
と一瞬思ってしまいました。
それはともかく、ヤスさんから「指紋つけるな」と注意を受けた部下信徒が、
自分が犯罪に関与しているのかもと思ったのか、精神的におかしくなってしまった
ようです。彼はアジトに一人帰されました。
それで、今回のタイトル「中川君は怯えていました」
これは、5月15日に井上嘉浩・豊田亨が今のあきる野市あたりで逮捕され
翌日に麻原彰晃が逮捕されてしまったので、
八王子アジトにいた中川さんは、永福アジトに転がり込んで来たのでした。
以下の証言は江川紹子氏の著書の方が詳細でした。
「中川君はとても怯えていて、話す声も震えていた。
夜も眠れないようで、ガバッ起きて窓の外を見たりしていた。
中川君は、『自分のしたことに耐えられない。これ以上悪業を積みたくない』と泣きながら僕(ヤスさん)に言っていた。そこへ、諜報省次官の某君が入って来て
『何か作ってないから、心が不安定な状態になるんだよ』と言い出した。
中川もそれに同調し、もう一度(何かを作るために)薬品を取りに行くことになりました」
ヤスさんは、中川さんのこの様子が恐ろしかったようです。
「せっかく心の中の良心が出てきたのが、諜報省次官(信徒)の一言で元の精神状態に戻ってしまう」と。
藤田庄市氏の著書によると、この林泰男証言は、中川公判の控訴審で重視されました。
諜報省次官は、中川に向かって「尊師を意識して」と元気づけたら、突然「これから頑張る」と元気になったとのこと。その急変が
「恐ろしい感じがした。豹変ぶりは。一瞬のうちに別の人格に変わってしまったようでした。これまで長く話して心を見せあっていたのに、中川さんの中に麻原が、怪物か魔物のように取り憑いているのを感じて怖い感じがしました。」
私もこの話を一番最初に目にした時、ぞくっとしました。
それと同時に、中川さんは他の信徒とは違う何かがあるとも思いました。
前回のエントリーでは杉本繁郎さんと麻原の法廷でのやり取りを長々と紹介しましたが、杉本さんと中川さんの違いを知ってほしかったからです。
杉本さんも古参信徒だったから、麻原とは長い付き合いだったと証言していますが、
杉本さんは裁判中に麻原に「あなたはグルなんですか」と言えていました。
それでも本人とすれば、刑務所に収監されて、オウムとの生活をきっぱり断絶して、
オウムの考え方から解放されるのに21年もかかったということです。
法廷のやり取りだけで、杉本・豊田亨ならば教団と離れられている、と我々は思ってしまいがちですが、一度精神的に捕らわれた状態になると、それを断ち切るのに十年単位の長い期間を要するのです。
ましてや、中川さんは杉本さんのようにはなれないでしょう。
それは杉本さんが無期懲役で、中川さんは死刑執行されてしまったからではないと思います。
中川さんは、麻原と精神的な共依存にあったのではないでしょうか。
おそらく、東京拘置所の特別配慮があったから、死刑囚として状態がよいまま(良くはないでしょうが・・・)広島に移送されて死刑執行まで行ったと思います。
それに気づくきっかけを藤田庄市氏の著書で得ることが出来ました。
まだ全体としては中川さんの一審が全く終わっていないのですが、この藤田庄市氏の著書に掲載されている中川の「麻原化」について、紹介したいと思います。
控訴審の時には、法皇内庁で中川の部下であった女性信徒が証言したようです。
「麻原と中川がダブって、どこからどこまでが中川さんなのかがわからず不気味でした」
ダブって見えたのはいつかについては、
「部下になった1994年。中川さんと話しているとき、背後に麻原がいるようにダブって見えました。意識として(麻原を)感じました。中川さんは麻原の影が重なっている。一対一で話す感覚ではありませんでした。」
「よくわからない。どうなっているんだと常に思っていました」
もう一人、法皇内庁時代の部下も
「中川の強い印象エピソードは?」と問われて
「彼に他人の状態が移ってよく体調を崩していた」
「顔がむくみ、鼻をグズグズさせ、顔色が悪い」のだけど、麻原の部屋に入り、出てくるときは回復して調子良くなっていることが何回もありました。

今回、このブログを書くにあたり、出家以降の中川さんの写真を集めたので、それを並べたのが上です。
顔が同一人物かどうかわからないぐらい、差があるように私も思いました。
むくみが酷い(左上)とか顔色が悪いものが多いです。
この元信徒女性が「視覚的に麻原と会って体調が変わったのがわかるのは中川さんだけでした」と言っているように、麻原と会って体調が良くなった信徒は他にいるけれど、
中川さんのそれは違うのだとのこと。
「中川さんは神秘体験イコール日常生活と双方が重なっていました。意識がどうなっているのかわかりませんでした。」
「中川さんは前世や来世の話を良くして、その世界を体験として、事実として知っている感じでした」
「神秘体験の波に中川さんは苦しそうにしており、助けが要るように見えた」
中川さんのそんな状態を助けた一人が、村井秀夫さんだったのではないか?とも思えます。それは、以前の記事
で触れたように、地下鉄サリン事件の少し前に、中川を修行に入れて(他人から見て暴力だとしても)麻原の体調をよくしてやろうとしていた。
中川がサリン製造するときに、ヘッドギアを付けないで作業していることを𠮟ったことなどから。
麻原、中川、村井の三者の関係について、もっと中川さんから証言を聞きたかったです。なぜ、教団から逃げる発想がなかったのか、その一端が少しわかってくるかもしれないからです。
「あなたは本当にグルなんですか」
昨日に引き続きエントリーです。
タイトル「あなたは本当にグルなんですか」。
これは、1999年11月10日の杉本繫郎・豊田亨の公判にて、証人出廷して、不規則発言をし続けた麻原に対し、杉本繫郎・豊田亨の二人がそれぞれ自分たちの思いをぶつけた時のことです。
人間関係を図にしました。

本当はここを中心にオウム裁判を描いたら、当時テレビでオウム裁判の報道に接していた人も、オウム事件を知らない人もわかりやすいものとなるのではないかと思います。
Amazonの古本で、3500円。
再刊されない本は高いですね。そして『オウム法廷』シリーズは図書館にも置いていないことが多いので、今回はその問答の様子を、長くなりますが、紹介していきたいと思います。
動画でもありますので、そちらも掲載します。
動画のように不規則発言をし、自分は無罪ですべて弟子がやったことだと、英語を使いながら主張していました。
1999年9月22日の杉本繫郎・豊田亨公判から2回出廷したのですが、9月の時に、すでに
杉本繫郎さんは天界にいるとか、豊田亨さんは中華人民共和国に生まれ変わっているなどと発言をしていました。
この日は、麻原彰晃の不規則発言で午後5時になりました。公判が終わろうとした時に、被告席の杉本繫郎さんが麻原に対し、問いかけを始めました。
それから約1時間の間のやりとりになります。このシーンだけでも知った上で、さらに昨日のエントリーで紹介した杉本繫郎さんの手記を読むのに役立ててほしいです。
杉本:「杉本から伺います。杉本はわかりますか。」
麻原:「ガンポパ正悟・・・、ガンポパの声が出てますが。」
杉本:「ガンポパということも分かりますね。それともあれですか、天界の杉本と言っ たほうがよろしいですか。」
麻原:「・・・・天界、いいでしょう。天界の杉本君しかわかりません、私にとっては」
杉本:「じゃ、前回の証言(注:1999年9月22日)あなたの空中浮揚の写真の写真のことで、弁護人から聞かれましたね。誰が撮ったのかというふうに、ご記憶ありますか。」
麻原:「空中浮揚については、杉本君が1986年に見てるはずですから、それを順に見たものを投影してください」
(中略)
麻原:「(英語での説明をやめようとしない・・・)」
杉本:「質問がかわるんですけれども、何度か質問が出た地下鉄サリン事件で、井上嘉浩君が、地下鉄サリン事件を持ち込んだ話だとか、あるいは井上嘉浩君が暴走したということを今日申しましたね。あなたがそうおっしゃっている根拠は何なんですか。
(中略)それで遠藤君は、あなたに条件が整えばサリンが出来るのではないかと答えたと証言してるそうですけれども、あなたの口から遠藤君という名前は出てきませんね。井上君、あるいは村井さんですね。なぜ井上君なんでしょうか。」
麻原:「えっ、何がでしょうか」
杉本:「地下鉄サリン事件の話の中で、遠藤さんの話は出てこないけれども、井上嘉浩君と村井秀夫さんの名前が出てくると。それは何らかの根拠があったからあなたはその人たちの名前を出しているんじゃないかと思うんですけれども、その根拠は何なのかということがお聞きしたいんです。」
麻原:「(小声で何事かブツブツ)」
杉本:「例えば、あなたの法廷で、中川君が、井上君にジフロを預けていたというような証言をなさったそうなんだけれども、それが根拠になっているのか、あるいは井上君のほうから具体的な話があって、あなたの記憶の中に残っているのかということがお聞きしたいんですよ。あなたの記憶ではどうですか。単に中川君があなたの法廷で言ったことを前提にしているのか、それともリムジンの中で井上君が何らかの発言をしたから、井上君が暴走したということをあなたが言っているのか、どちらなんでしょうか。」
麻原:「(英語で説明。何も言うことが出来ないという意味のことを言い、最後に)アイム・ソーリー」
杉本:「すみませんということですか。よく答えられないということですね。それは、じゃあ」
麻原:「答えられないと、使っちゃいましたから・・・」
杉本:「私とあなたは割と長くお付き合いがありましたね。運転手とか私がやっていたから。私が運転手をやっていたことは覚えていますね。」
麻原:「何が覚えてるんだね・・・・」
杉本:「あなたが何かを言うときは必ず根拠があるはずなんですよ。だから何らかの会話がそこであったんではないかと思えるんだけれども、あなたの記憶ではどうですか。」
麻原:「(意味不明ブツブツ)」
杉本:「特に記憶はよみがえってきませんか。それとも今記憶を呼び出していらっしゃるのか、どちらですか。」
麻原:「(ブツブツ)」
(このあたりで豊田亨が盛んに小首を振っている)
杉本:「じゃ、もうそれで結構です。それで、先ほど弁護人の方から冨田さん(元信徒。麻原の命令により杉本らがリンチ殺害した人)を殺害したことを私が報告したということを弁護人の質問でお答えになったんですけれども、あなたは場面を混同してらっしゃいませんか。私が報告したのは、地下鉄サリン事件の後にあなたの元に帰ったときに、新實智光があなたに報告していたんだけれども、ちょっとろれつが回らない答えをしてしまったので、私が代わりに答えたと。多摩川で衣類を燃やしていたから遅くなりましたというふうに答えたその場面と、冨田さんのことを報告した場面とをあなたは混同していませんか」
麻原:「(無言で、チッチッと音を立てる)」
杉本:「どうですか、思い出せますか」
麻原:「(無言)・・・・・」
杉本:「思い出せないんでしたらもう結構です。もうあんまり時間もないので用意していたこともあまりお聞きしませんでしたけれども、あなたは前回、教団関係者が地下鉄サリン事件に関与したことを認める証言をしましたね。そのことによって、信者の間に動揺が広がったというニュースは、拘置所のラジオのニュースで知ってますね」
麻原:「(何かブツブツ)」
杉本:「あなたは、前回、自分のことをオウム真理教の代表かつ教祖と答えていますけれども、あなたは今現在、いまだに自分が教祖のつもりでいらっしゃるんですか」
麻原:「私ですか」
杉本:「・・・はい」
麻原:「それは、オウム真理教が存在していれば教祖ですね、本当のオウム真理教があれば」
杉本:「じゃ、存在していなければもう教祖じゃないということですか」
麻原:「存在してないなら教祖とは言わないですね」
杉本:「でも、もう既にあなたがそういう発言する前から教団関係者から切り捨てられてるんじゃないですか。」
麻原:「・・・・」
杉本:「なぜかと言えばね、あなたが二年半前に、地下鉄サリン事件は村井さんと井上君に押し切られる形になったという発言をしてますね。もし本当に教団の関係者に動揺が走るのであれば、そのときでなければいけなかったんじゃないですか」
麻原:「うんと、それは宗教ですね。つまり。(再び英語の説明を始める)」
杉本:「それはもう前回、わかりましたから、お聞きしていますから」
麻原:「(構わず英語説明)・・・」
杉本:「それで、教団関係者においては、意見陳述であろうが、証人としての証言であろうが、あなたの尊師としての言葉ですよね。その言葉に違いがあったのは何故だと思いますか。」
麻原:「うん?何でしょうか」
杉本:「意見陳述の際にあなたが発言したことと、前回この法廷であなたが発言したこととの内容はほぼ同じなわけでしょう。にもかかわらず、教団関係者の間に反応が違ったというのはどういうことなのかお聞きしているんですよ」
麻原:「わかんないな」
(中略)
杉本:「要するに、あなたは教祖としての名前があっても、その言葉の力というものはもう既に失ってるということですよ。そのことにあなたは気づかないのかとお聞きしているんです。」
麻原:「(英語説明に変える)」
杉本:「今の教団の幹部の者たちにとっては、一部の者たちにとっては、あなたよりもあなたの教義の方が大事だと、だからこそ今回は反応が違ったんだと、そうあなたは考えませんか。」
麻原:「(小声でブツブツ)・・・」
杉本:「言っていることがわかりませんか」
麻原:「うん」
杉本:「脳が破壊されているから、言っていることがわからないんですか」
麻原:「・・・えっ、オウム、・・・悲しくなってくるよ、オウム、オウム・・・」
杉本:「あなたは最終解脱なさったわけですね」
麻原:「わかった。・・・うん・・・」
(中略)
杉本:「あなたね、いい加減にもう目を覚まして現実というものを認識したらどうですか。いつまでも最終解脱者だとか、教祖とかいう幻影に溺れててもしょうがないでしょう。」
麻原:「・・・・(突然沈黙する)・・・・」
(中略)
杉本:「それから、あなたご自身、被害者の方々に対してどう考えているんですか。」
麻原:「(腹を立てた様子で杉本に向って)おい、でもあんまりペラペラ言うと・・・私に対する。お前、黙ってた方がいいと思うけどな。(中略)遠藤にいわれて私に対して始めにLSD使っただろう。私が知らないと思っているのか、そういうことを」
(中略)
杉本:「あなたが事件に関与したかどうかは別として、自分の弟子が事件に関与したことについて、どう考えてらっしゃるんですか。」
麻原:「・・・・・」
杉本:「あなたはかつて、他の苦しみがわからなければ、人を救うことは出来ない。あるいは他を救済することはできないと、私たちにも説いて聞かせてくれましたね。今現在あなたは、地下鉄サリン事件、あるいは一連の事件の被害者の方々の苦しみとか悲しみ、そしてそして怒りというものがわからないんですか。あなたの教義では、ステージが高くなればなるほど、他の苦しみに対して敏感になるんじゃなかったんですか」
麻原:「・・・(左手でひげをしごきながら、無言)」
杉本:「そういうことを真剣に考えたことが、あなた、ありますか。もし、あなたが最終解脱者だとしたならば、誰よりも人の苦しみというものがわかるはずでしょう。それがなぜわからないんですか、あなたは。
あなたは救世主だったはずですよね。」
麻原:「・・・・・」
杉本:「また、あなたがこの世に生をうけたのは、生きる者を苦しみから救うためだったのはないんですか。」
麻原:「・・・しましたよ・・・・うん」
杉本:「だったら、あなたから被害者の方々に対して、何か言うべきことがあるんじゃないですか。」
麻原:「(突然)ゴー・ツー・ヘブン(と叫んで、英語説明を始める)」
杉本:「私も豊田君も同じ気持ちだと思うんだけれども、今現在も被害者の方々に対して、何と申し上げていいのか、その言葉すら見つけられないんですよ」
麻原:「(英語説明の続き)」
杉本:「私たちは、どうすれば被害者の方々に対して償いをすることができるんですか」
麻原:「(意味不明)」
杉本:「私たちがたとえ刑に服しても、それではポイにならないでしょう。一体私たちはどうすればいいんですか。何をどうすれば本当の意味で償うことが出来るんですか。私はどうすればいいかわからないけれども、しかし、あなたの、最終解脱者の知恵というものをもってすれば、お答えがいただけるんじゃないですか。それとも、ただあくびして、ぼーっとしてるだけですか」
麻原:「(小声の英語説明)」
杉本:「自分の都合の悪い質問になるとお答えが出来ないんですか。それとも、一体どうすればいいですか、私たちは」
(中略)
杉本:「私たちは、自分をごまかして、現実から逃避することが出来るんですよ。あなたもそうでしょう。今現在、現実から逃避しているだけでしょう」
麻原:「(英語を続ける)」
杉本:「私たちの刑が確定した段階で、あるいはその後死を迎えるまでの間に、例えば、私たちはあなたにだまされたと、あなたを信じた自分がバカだったと、あるいは私たちが刑に服することで償えたんだと、そのように考えて自分をごまかすことが可能なんですよ。そうやって自分を納得させることができるわけでしょう。でも被害者の方々はそうはいかないでしょう。自分をごまかすことも、現実から逃避することも出来ないでしょう。その方々に対して、一体どうお詫びすればいいわけですか。一体どうやって私たちは償えばいいのですか」
麻原:「これは難しくてね。これ、私、彼らに記憶修習の・・・」
杉本:「難しいんですか。その答えは」
麻原:「テンションズ、だからやめてしまったんだよ」
(中略)
杉本:「まさか、この一連のオウム事件で、あなた、あるいは教団との縁が出来て、未来世において、被害者の方々が救われるなんてバカな考えをあなたは持っているんじゃないでしょうね。」
麻原:「それはシャットアウトしてきているから、そして、思案した上で、何も答えられないんだ・・・」
杉本:「結局、あなたは何も答えられないんですか。最終解脱者としての能力というものはどうしたんですか。」
麻原:「難しいんですよ・・・」
(中略)
豊田:「松本被告、僕は今日、何も言わないつもりで来たんですけれども、今日のあなたの態度を見て考えが変わりました。
あなたはグルなんですか。
グルなんですか。
グルじゃないんならはっきりとさせたらどうですか。」
麻原:「・・・・(無言)」
豊田:「質問に答えないで、かわしているだけで。何よりも被害者のことをどう思っているんですか。」
麻原:「・・・・・」
豊田:「あなたの態度を見ていると、自分の公判が長引くのに安住して、現実から逃避しているだけにしか見えないんです。どうなんだ。
どうせ、返事はないでしょう。最後に一点だけ言います。今、教団に残っている人、この現実をしっかり見た方がいいと思います。証人は前回、地下鉄サリン事件は井上と村井に押し切られたと言いました。つまり、彼には弟子を止める力がないわけです。そんなグルについていていいんでしょうか。しっかりと現実を見て欲しいと思います。これ以上過ちを繰り返さないでください。以上です。」
この裁判中の杉本・豊田と麻原の対話は、色々考えさせられます。本当はもっと長いので、出来れば『オウム法廷』10を読んでいただきたいです。
なおこの刊では、最後ヤスさんに対する死刑判決と、豊田・広瀬に対する死刑判決、
杉本に対する無期懲役の言い渡しまで詳細に書かれています。
最後に、ここに出て来ていない、広瀬健一さんは、1999年4月中旬ごろから時折意味不明なことをいうようになり、弁護人に「やっていることがまとまらなくなった。常に連想ゲームをさせられているようで苦しい」と訴え、一時期は拘置所内の自殺防止の房に移され、さらに声がまったく発せなくなってしまったとのことでした。
広瀬弁護団によると、広瀬は麻原と訣別しきっていたと思っていたが、医師の接見でいまだに麻原を憎めていないと指摘され、深く内省の途中でそのような状態に陥ったのではないか、とのことです。
広瀬健一さんは、一審の死刑判決言い渡しの時は、出廷しました。
オウム真理教の振り返りのドラマを作る際、杉本繁郎さんの手記から麻原との出会いや本物と感じてのめり込んでいったところや、関与した事件、そしてこの裁判でのこのやりとりと、オウムと訣別できたと感じられた現在の姿までを辿るようなストーリーであれば、数時間のドラマのなかで、20年分を感じさせられるなにかが見る側に得られるのではないか、と思います。杉本繁郎さんの手記を活用したドラマ制作をお願いしたいと思います。
次は、ヤスさんが見た中川さんの一面について書きたいと思います。
5回目の7月26日を迎えて
本日は7月26日。
ここ数回のブログに登場してもらっている
林(小池)泰男さんのほか、6名の方々が、自らの命で罪を償われた日でした。
多分テレビでも特集も組まれないように思います。

林泰男さんは、外部交通者でもあった、田口ランディさんに
死刑になることについて、このような手紙を書いていたようです。
「現在の私の人生は、死刑囚として独房で生活し、日々贖罪のために刑の執行を待っている、というものです。もちろん刑の執行のみが贖罪なのではなくて、すべての日々の生活が贖罪となるものです。
だけど、私のこの生活がほんとうに贖罪となるものなのか私にはわかりません。
私は罪について、反省について、自分の思いをうまく説明することができません。
ほんとうは、格好をつけて、いつでも死を受けいれる覚悟がありますと言いたいところですが、覚悟なんかありません。
ただ、死刑になるときは、執行のボタンは自分で押したいです。
あるいは足元の扉は開けておいてもらって、自分からそこに飛び込みたいです。
ロープも自分で首にかけさせてもらいたいです。
刑務官の人に、人を殺すという負担をかけたくないんです。
もう誰にもなんの負担もかけたくない。誰にも苦しみを与えたくない。
そう思います。」
おそらく、1998年ぐらいのやりとりかと思いますが、このようなことも書かれていました。
「先日、雑誌に掲載された林郁夫の手記を読みました。殺人者は、人から反省しろ、言われることが多いのですが、反省とは、どういうことなのかと考え出すと、わからなくなります。ただ、私は林郁夫が見せたような、ああいう反省の仕方はしないという意味で、私にとっては一つの指針となりました」
林(小池)泰男さんは、東京拘置所から仙台拘置所に移送されて、
このような気持ちを持ちながら、刑に服したのだと思います。
もっとヤスさんの言葉を聞きたかったです。
7月26日に処刑された方々の多くは、地下鉄サリン事件の実行犯だった方です。
宮前(佐伯)一明さんは、坂本弁護士殺害事件で、端本悟さんも坂本弁護士事件の他、
松本サリン事件に関与)
彼らの体験を見聞きするに、もし自分がオウム真理教にいたとして、麻原や村井秀夫に知られて、実行犯に選ばれてしまったならば、現世の刑法によって裁かれて死刑になる可能性があったかもしれないと思わせられるほど、教団に入るまでの思い、教団での生活、麻原との関係、事件に関与・・・。読めば読むほど考えさせられます。
ヤスさんも本当はもっと外部に自分の言葉を発信したかったのかもしれない・・・。
私もヤスさんたちの言葉をもっと聞きたかったです。
それがかなわないため、少しでもカルト宗教に心を捕らわれてしまった人の体験記を
見つけては読んでいる最中です。
理解が中々追いつかないです。
最近、二冊の本を見つけました。
一冊はこちら
もう一冊は
探した基準は、杉本繁郎さん(現在、無期懲役として山形刑務所に服役)の体験記が
掲載されているからです。
オウム真理教の死刑囚がいなくなってしまい、
オウム真理教での体験を語ってくれる貴重な方の一人です。
杉本繁郎さんは、地下鉄サリン事件のときに、ヤスさんを送迎しました。
その他教団内のリンチ事件で殺人に関与して、無期懲役となりました。
広瀬健一さんや横山真人さんは、教団でのリンチ事件などの殺人事件に関与していないのに、地下鉄サリン事件での殺人(広瀬健一さんの路線では1人、横山真人さんは犠牲者を出していない)と、自動小銃密造事件で死刑となりました。
杉本繫郎さんは直接殺人事件に関与しています。
現世の法律、裁判の力点が教団武装化に重きを置かれた結果で広瀬健一さん・横山真人さんらは死刑になってしまった・・・。
このブログでは中川智正さんについて書いていますが、
次に書こうとしている内容の前に、杉本繁郎さんの体験を紹介しておきたいと思います。それは、杉本繫郎さんは藤田庄市さんに
「(オウムで無自覚のうちに意識変容、呪縛があったことを認識できたのは)麻原や教団から離れ、かつその情報等を完全に遮断した状態で私なりに考え続けたものの、
21年の歳月を要した末の結果」と書いています。2016年のことだったとのことです。
前回のエントリーで、林泰男さんは新宿駅青酸ガス事件の頃、逃亡生活中に逮捕されたら自分らは死刑になると中川さんに言ったが、中川さんは、自分たちが死刑になるとは全く考えていなかった、にもかかわらず、逮捕されて取調の時には「私は死刑ですね」
などと警察官に話したりしているのがあまりにも無自覚なのに気づいたのです。
中川さん自身は、実際どこまで
自分の中の「二つの人格」を意識できていたのでしょうか。
中川さんも東京拘置所生活で、麻原の姿なしに守られた生活の中で、ある程度は
気づきがあったに違いないですが、中々そのことを自分で言語化するレベルまでは至れなかったのではないかとも思いました。
せっかく郵便のやり取りが出来る相手となった江里昭彦氏も残念ながら、オウム真理教に関する理解は、私たちが事件時にテレビやマスコミを見たそれとほぼ同じぐらいなのではないかと思ったからです。
「ジャム・セッション」と銘打ちながら、中川さんの話を引き出すというのまでは力及ばないまま、中川さんの死刑が執行されたのが残念です。
ヤスさんや、杉本さんは、教団に疑問を持っていた人だったのですが、
その人たちでも21年もオウムの呪縛から逃れるのに時間を要していたのなら、
中川さんはもっと深いに違いないと思ったので、またここでも「寄り道」をすることとします。
江川紹子氏の著書に掲載されている杉本繫郎さんの手記は、
「第3章 ある元信者の手記」です。
杉本繫郎さんは、大卒後、身体の調子が悪かったり、仕事がうまくいかなかったりしたある時に、麻原彰晃の本に出会ったのです。
ヨーガについて、杉本さんがしていた体験を言語化した記載を見て、どうしても会いに行きたくなったとのことです。
麻原の元で修行をはじめて約10日のうちに、自分の意識が体から抜けて行く体験や、三人のチベット僧からの祝福を受けてエネルギーが上昇していくような感覚などをし、
麻原を師匠と心底から思い込むようになったということです。1986年の頃とのことです。
杉本さんはこのように書いています。
「信者となった他の人たちを見ていても、オウムにのめり込む上で、「神秘体験」は大きな要素でした。
ただ、ほんとうは、ヨーガの行法によって何らかの身体的変化が起きるのは、いわば当然なのです。問題はその変化が、本当に「神秘体験」などと呼べるものだったのか、ということです。
セミナーに参加している人の大部分は、セミナー中に何らかの「神秘体験」をしたい、あるいは自分の身体に起こった変化を「神秘体験」と言ってもらいたい、という願望を胸に抱えています。
このひょうな人たちは、あまり意味のない体験をしたとしても、「それはアストラルの体験ですね」とか「クンダリニーの上昇ですね」など、自分が求めている答えが得られるまで質問し続けるのです。
こうして、意味のない体験が、いつの間にか意味のある「神秘体験」として認識され、自分は貴重な「神秘体験」をしたと思い込む自己満足の世界に浸っていくこととなるのでした。
もう一つ、多くの人が麻原を崇拝し、教団に出家したのは、次のような我々の疑問に、麻原が一つの答えを提供したからです。
我々は、なぜ生まれ、なぜ死んでいくのでしょう。そして、我々はどこからやってきて、死後はどこへ行くのでしょう。
(中略)
輪廻転生などは、麻原独自のものではなく、日本でも仏教の教えとしてよく知られているが、麻原の言葉が作り出す世界観にリアリティを感じ、あたかもそれが現実のものであると思い込んでしまったのです」
そのようなことを書いた杉本繫郎さんは、教団を抜け出したことがありました。
1993年2月でした。
麻原の運転手をしていた杉本繫郎さんは、麻原の行動の秘密を知って、言っていることとやっていることが違うと疑問を抱き、麻原から理不尽に怒られることが続いて不信感が溜まって広島の実家に帰ってしまったのでした。
そうしたら、何人かの古参信者が教団に戻るように説得にやってきたとのことです。
その古参信者の一人が、5年前の今日死刑となった林泰男さんでした。
「尊師に挨拶もしないで下向するのはよくない。とにかく尊師に挨拶をしてからにしましょう」
それで杉本さんが戻ったのは、やはり麻原は特別な存在であり、裏切ったら無間地獄という恐怖もあったので、麻原に直接教団を離れたいというつもりで広島から教団へと戻ったのでした。麻原の承諾が欲しかったのでした。
教団に戻ってきた杉本さんにたいし、麻原は優しい対応をしたのでした。
「お前を帰すことは、私にとっても大きな賭になる。お前は教団の秘密をあまりにしりすぎているから」といい
最後に、満面の笑みをうかべて
「お前には、一緒に死んでほしかったのだが」
どなられるよりも、その笑顔に底知れぬ怖さを感じてしまったのでした。
そのあとに、杉本さんは二つの信徒リンチ殺害事件に関与することとなります。
そして地下鉄サリン事件の前日の早朝に、林泰男に車の運転を頼まれたのでした。なんのためかは、指示の理由や目的を聞かないという不文律があったので聞かず、合計7人が東京に向かったのでした。
7人中、4人が「科学技術省次官」でした。林泰男・広瀬健一・豊田亨・横山真人の四人で、杉本さんは林泰男以外の3人の次官に対しては学者と思って、何か大変なことをさせられるという心配もせずに東京までの車を出したということです。
杉並のアジトで、林泰男が井上嘉浩と待ち合わせをしている時の会話から、良からぬことをやろうとしているのは感じたとのこと。
車の中で、広瀬健一さんと二人きりになった時間があったのですが、広瀬健一さんは杉本さんからみて、「告げ口」をしない人だったので、「今回は何をやるの?」と聞いたら、広瀬健一さんは怪訝な顔をして「地下鉄のような密閉空間で撒いたらどうなるか、の実験」と答え、杉本さんが「何を撒くの?」と聞いたら「サリン」。
何のためにと聞くと、広瀬健一さんは「強制捜査を阻止するため」と答えたということでした。
杉本さんは広瀬さんに
「そんなことをしたら招き猫になっちゃうんじゃないの?」
オウム裁判においては、途中から杉本さんは、地下鉄サリン事件の実行犯であった広瀬健一・豊田亨さんと3人で受けることとなりました。
それは信徒リンチ事件について自首が認められたこともあったと思います。
杉本さんは、
「実行役になるのも、運転役になるのも、麻原が決めたことです。私も実行役に選ばれていたら、広瀬健一・豊田亨と同じように行動していたでしょう。麻原が誰を何の役に指名したかで、生と死が分かれるというのは本当にいたたまれない気持ち」と記しています。
オウム裁判のうち、広瀬健一・豊田亨・杉本繁郎の三名一緒の公判は、異質であったと思います。
3名とも、法廷内で私語をせず、顔を合わせて自分のしたこと、思いを証言していく裁判で、2000年7月17日の一審判決で広瀬健一・豊田亨は死刑、杉本繫郎は無期懲役と言い渡されました。
その瞬間、動揺したのは、死刑になる広瀬健一・豊田亨ではなく、杉本繫郎さんでした。
罪悪感を認識したかのように、顔を真っ赤に膨れ上がらせて、豊田・広瀬のほうをみる杉本にたいし、死刑判決を受けた豊田・広瀬は正面を見据えたままでした。
2009年5月に、藤田庄市さんは、刑務所に移送される杉本繫郎さんに面会をすると、
「言葉が見つからない、自分が今、生かされていること自体申し訳ない。刑に服しても償えないことはわかっている。どうしていいかわからない・・・・」と
突然わっと涙を流して、声を震わせたとのことです。
7月26日処刑の方々についても触れてみたくて、今回は少なくなってしまったオウム事件の語り部である杉本繫郎さんにご登場願いました。
麻原の命令によって偶然実行犯、運転手と決められたことが、現世の法でまた死刑と無期懲役に切り分けられた事実を思いながら、この日を過ごしたいと思います。
横山さん、端本悟さん、宮前(佐伯)一明さんについてあまり触れられなくて残念ですが、ご冥福を祈っております。存在を忘れてはいません。
「尊師は信じる、信じないの対象ではなかった」
中川智正さんが死刑執行されてから、ちょうど5年が経ちました。
私は中川さんが死刑執行された報道に接し、
そういえば、私は中川さんという人を知らないと思い、
中川さんに関する書籍や事件当時の新聞記事あさりを始めてしまったことで
5年後の今でも続く自分の勉強テーマの一つになってしまいました。
調べれば調べるほど、どのように取り上げたらよいのか分らないぐらい
毎回ブログ書く時に苦しんでいます。
おそらく中川さんについて、世間の少しオウム真理教に興味を持つ人は
・麻原に騙された
・麻原にマインド・コントロールを受けた
・宗教冷やかしをしていたらオウムに取り込まれた
・医学の限界を感じた
などなど評価するでしょう。
中川さんは、麻原氏の指示で事件を起した自分が処刑されるのは
仕方がないが、
オウム真理教に関して、当時の報道だけで切り取って
評価してもらいたくない、
誰か体系的にオウム真理教と起した事件について
日本でずっと読まれる書籍を書いてもらいたい、
そのためであれば
自分は協力したいと思っていたのかもしれません。
森達也氏は数少ない一人だったと思います。
前回のエントリーから、新宿駅青酸ガス事件・都庁小包爆破事件で共犯者であった
林(小池)泰男(ヤスさん)に登場してもらっています。
今回もヤスさんの裁判において、中川さんが証言した言葉を紹介したいと思います。
林泰男第8回公判(1998年3月23日)のときの証言です。
検察官から「今も教祖に帰依し、信を置いているのか」
と聞かれた中川さんは
「その言葉にはいろいろ意味があると思うが、
私は教団にいたころから、単純に尊師を信じていたわけではない。
もともと尊師は信じる、信じないの対象ではなかった」
と証言しました。
これは、ヤスさんが、麻原に対する恐怖心と自分のそれとは違うということを
示すものでした。
偶然とはいえ、裁判では当時あまり証言していなかった中川さんにしては
めずらしく自分の言葉で伝えようとしていたと思います。
(法廷画は、「朝日新聞」1998年3月28日朝刊より)

ちなみにヤスさんは、
麻原第66回公判(1998年2月13日)で
「なぜ地下鉄サリン事件で実行役に選ばれた時に断れなかったのか」
に対して
「断れば制裁があると思った。
恋人との仲がばれて殺された友人と同じことが、自分にも起こると考えた」
という恐怖の気持ちを証言したのです。
サリン散布時に教団の教義を考えなかったのか?という質問にも
「その場では考えなかった。直感的、潜在的には人を傷つけ、人の命を奪うのだから、
ヴァジラヤーナによる救済だとか、ポアだとか関連して、仲間は考えていたと思う」
と、自身と他の共犯者との間には違いがあることを示唆していました。
さらに
「自白剤を使ったり、周囲の間違った報告をうのみにしているのをみて、
相手の心の状況を読む、といっていた麻原の能力には限界があると思った。
オウムは間違っているとわかったが、
しかし教団を抜けよう、逃げようとしても不可能だし、
仮に逃げおおせても見つかれば自分の命はないだろう、と思っていた」
証言しました。
おそらくヤスさんの証言を読んだ人は、
オウム事件の報道とも関連させて、
「オウムが間違っていることを分っていても、麻原に自分の心がバレてしまったら
殺されるのが怖いまま、たまたま地下鉄サリン事件で実行犯に任命されてしまった
ヤスさん。もし自分がヤスさんの立場であったなら、やはり同じことするだろう」
と納得する人も一定数いると思います。
私はヤスさんの行動で、よくオウムが理解できた気がしました。
教団が誤った方向に進んでおり、そのガンでもある村井秀夫の部下で
科学技術省次官に異動になったのは、ヤスさんはしんどかったろうな・・・と。
ヤスさんの立場、思いと対比させるための証言として
中川さんは出廷することとなったのだと思います。
ヤスさんの弁護人・中島尚志氏の著書によると
中川さんは
「捨て鉢的な態度と強力なエネルギー」を感じる人物であったと記されており、
中川さんには、霊的な事柄に敏感に反応する能力があると感じたとのことでした。
中川さんと教祖との間には、霊的な共鳴現象が起こっていたと。
ヤスさんは、当時の教団や教祖の姿勢についていけなくて
教団にいる以上、その指示を破れば他の人みたいに殺されるのが
「恐怖」と言いました。
中川さんのいう恐怖とは、ヤスさんのそれとは全く異なるものです。
「私は尊師に殺されるというような、他の人がいう恐怖を感じたことはない。
それとは違って、例えば、私を何者だと思うかと尊師に聞かれたとき、
僕は、(尊師は)化け物だと思います、と答えた。そういう恐怖だった。
尊師はある種の自滅行為をしていたと思う。
そういうことをやりかねないことは、尊師も言っていたし、
僕は入信前からわかっていた」
そのような自滅的行為に、できれば「自分は関わりたくなかった」
しかし、入信前にいろいろと神秘体験をして、
普通の社会生活ができないと思ったので
助けてくれ、という感じで入信した。仕方なかった。
僕としてはその後いろいろなことがあっても、
しょうがない、という感じで冷めていた」
裁判長から
「すると犯罪になることでも救済のためには許されるという教義があるので、
犯罪行為に加わった、と他の被告たちはいうが、あなたはそう考えていなかったのか」
「私は教義で許されるから犯行に加わったという認識はない。
林(ヤス)さんは、地下鉄サリン後、自分たちは死刑になる、と言っていたが、
林さんは個人主義でマイペースな人だからそう考えるのだと思う。
私は全然、死刑になるなんて考えていなかった」
想像以上のことを言っていますが、
あまり中川さんのこの証言を取り上げた人はいなかったと思います。
中川さん自身は、その後、このヤスさんの公判で話したことをベースに
教団や麻原氏に関する質問をされた場合に回答していたように思うのです。
それにしても、ヤスさんは、中川さんからみると「個人主義でマイペースな人」なのか・・・。
そして、週刊誌では「取調中に良く泣いて、オウムを狂団といい、
私は死刑ですね」などと書いてあった、そのような言動もしていながら、
ヤスさんのように死刑になるとは全然考えないで逮捕された中川さんの
この両面性をどのように捉えたらよいのでしょうか。
全く判りません・・・。
中川さんは、このヤスさんの裁判に出廷して証言した言葉を
形を変えて語り続けていたように思います。
それだけ、世間で報道されている「中川は麻原にマインド・コントロールされた」
というのが違うことを理解してもらいたかったのだと思います。
江里昭彦氏との同人誌「ジャム・セッション」には
そのようなエッセイが掲載されています。
第10号(2016年12月号)には
麻原氏は膨大な説法や著書を残していますが、その中には
「私を人間と見てはいけない」
「自分は弟子のためにいる」
「自分が救済のためにボロボロになるのは本望である」
「私には苦が存在しない」
などという趣旨の話があります。
今から思うと、当時の麻原氏は、その頃私が考えていたよりもずっと無理をしていたのです。
さらに第7号(2015年6月)の俳句には
逮捕前の教祖について
亀鳴くや齢のしれぬ沼深く
と詠んだあとのエッセイで
「私は、法廷で『殺されるとかそういう意味ではなく、麻原氏のことが恐かった」という証言をしました(念のためにいうと、麻原氏が恐かったから麻原氏に従ったという意味ではなく、麻原氏に対して感じていたことの一つをこう述べただけです)。
教団内での麻原氏は、教祖としての威厳を保ち、信者の掌握から教団の運営に至るまで卓越した能力を発揮していました。
私は麻原氏の日常生活を知っていましたが、信者の前だけ教祖を演じていたのではなく、日常的にも教祖でした。
それだけではなく、あの頃の麻原氏には、
この生命体は何年生きているのだろうと思わせる底知れぬ部分がありました。
彼の生まれ年は私より七年上です。
しかし麻原氏に接していると、時折、この人物は何百年、何千年と生きているのではないか、と感じてしまうのです。私はそんな麻原氏をすごく恐く思いました。
(中略)
山梨の田舎のソファーに座っている目の不自由なこの人物が千人以上の人間をいいように動かしている。
その中には殺人に関わる者がある。
月に何千万とお布施を集める者もいる。
何十人と入信させる者もいる。
自分も必死になってこの人に従っている。
ふと、この人は何者なのか、何で皆この人に従っているのか、この人の中の何が人を
惹きつけているのかと考えた時、恐ろしいものがありました。」
そのように教祖をみていた中川さんに、教祖が世間話でもするような口調で
「お前は私を何者だと思うか?」と聞くと
中川さんは
「言葉は悪いと思いますけれど、化け物だと思います」と答えたとのこと。
麻原氏はその言葉を聞いて黙って微笑していたとのことでした。
教祖以下6人の死刑執行日だからこそ、
今年は、中川さんの、ヤスさんの公判にでて話したことが核となった、このエッセイを
思い巡らすこととしたいと思います。
むしろ、マインド・コントロールにかけられて事件を起こしたとでもした方が
世間的にも「わかりやすい」のかもしれません。
でも中川さんはそれを何とか違うと言いたかった。機会を求めては違うと書き続けたのですが、同人誌をともに作っていた人にも理解されないまま執行されてしまったのは
残念だったと思います。
中川さん本人は、結果として25人もの殺害などをしているため、死刑は免れないことは承知していたと思いますが。
麻原氏の元に居る限りは、死刑になる発想さえ、当時はなかった。
取調官の前では、現世の人として接しながら、死刑にはならないと考えていた。
この理解しがたい中川さんを取り巻いていた何かを見ようとして、力不足を感じます。
ヤスさんの言うことは何とか理解できますが。
理解しようとして、あえて理解できないものをそのまま出すということを
今年はしてみました。
【殺人マシーン】林(小池)泰男の人物像【ヤスさん】
こちらのブログ、本当に久しぶりの更新となってしまいました。
今回は林(小池)泰男さんの人物像について説明したいと思います。
このブログは中川智正さんに関する内容ですが、林(小池)泰男さんの裁判での言動を知ることによって、中川さんに関して新たな見方が出来るようになると思っているからです。
ところで、私自身は、中川智正さんについて調べ始めたころ、林(小池)泰男さんについてどうイメージしていたか、というと
この雑誌記事通りです。
『週刊宝石』1995年7月13日号の記事より。

当時は教祖も共犯者もほぼ逮捕されている状況の中、地下鉄サリン事件の実行犯である上、さらにサリンを持って逃亡して何かしようとしている『殺人マシーン』というイメージでした。
この雑誌記事にあるように、早川紀代秀さんの側近であると書いてあるので、きっと教団の武闘派のひとなのだと思っていました。
しかし実際は、外部交通者にもなった田口ランディさんの本からうかがえるように
一度もお目にかかったことのない私でも「ヤスさん」とお呼びしてしまうような
実直で、穏やかで、不器用な方だという見方に変わりました。
中川智正さんと林(小池)泰男さんの接点は、
新宿駅青酸ガス事件です。
なぜ地下鉄サリン事件ではないのでしょうか。
書類上では確かに共犯者にされると思います。
役割が異なったからです。
製造側と、実行側は井上嘉浩さんを除いては接点はありません。
村井秀夫、井上嘉浩、遠藤誠一は、3月18日深夜のリムジン謀議の場にいました。
(なお、この謀議の場にいたのが、柏原弁護士と芦川順一もでした。柏原弁護士は、懲役刑が終わったあと、社会で生活していて、芦川順一は起訴もされなかったのでした。
実行犯と、実行犯を送迎した運転手が死刑と無期懲役等で罪を償ったのです。)
製造者は上九一色村におり、
実行犯と送迎者は、東京都内にいたので、
共犯者とはいえ、接点はなかったのです。
中川智正さんと林(小池)泰男さんとの直接のかかわりは、そういうわけで、地下鉄サリン事件後、アジトを転々としながら麻原の指示を受けた井上嘉浩を中心としたテロ行動の時だったのです。
このアジトを転々としている時期ですが
川越のウィークリーマンションにいた時、中川智正さんが一緒にいた豊田亨さんについ
地下鉄サリン事件の話を断片的にしたところ、さらに豊田さんが気落ちしてしまった様子をみて、何となく「豊田が実行犯の一人だ」と製造者側として思ったという話が、
『オウム法廷』4にあります。
(松本智津夫被告第24回裁判、1997年1月31日)
基本は事件の話をしないままアジトを転々とする生活内で、中川さんはこのような小さな会話で、自分の製造したサリンを撒いた役の一人が豊田さんだったとわかったらしいです。
林(小池)泰男さんの話に戻ります。
彼がなぜ「殺人マシーン」とマスコミから言われたのかというと、彼が担当にした
日比谷線の被害が甚大であり、死者が8人も出たことなどによります。
地下鉄サリン事件のサリンは、麻原の指示により、松本サリン事件の時とは異なる製造方法でした。
読売新聞の報道により、オウム真理教がサリンを製造していることが報道された1995年正月に、製造したサリンを破壊してしまっていたから。
とはいえ、大量なので作業者はサリン中毒になりながら寝ないで作業したけれど、破壊しきれなかったのでした。破壊しきれなかった材料(ジフロ)を今川アジトに隠していたのを、麻原からサリン製造を命令されて持ち出してきたのをもとに製造しました。
そのサリンの袋が11個できました。
村井秀夫が、実行役5名(林(小池)泰男、豊田亨、横山真人、広瀬健一、林郁夫)にサリン袋を分ける時、どうしても誰かが一袋多く引き受けなければならなくなりました。
村井から「どうだ。(3袋)持ってくれるか」と声を掛けられたときに、麻原の命令だし、引き受けざるを得ないと、ヤスさんは思ったということです。
ヤスさんは、皆に愛される人でした。
その一つは、「他人の嫌がる仕事をすすんで引き受ける」です。
「人の嫌がる仕事を進んで引き受ける」タイプの人は、どんな組織でも重宝されるはずです。それがヤスさんの場合は、オウム真理教の地下鉄サリン事件実行犯に麻原、村井から選ばれてしまったことでした。
しかも、ヤスさんの場合は、1994年ぐらいから麻原の言動に理解しがたい物を感じていたが、それに逆らったら殺されてしまうのが怖くて逃げられないと思い、逃亡しなかったことや、さらに悪いことに、行きたくなかった科学技術省に異動となり、村井秀夫が上司となったことで身動きが取れなくなったのです。
ヤスさんこそ、嫌な仕事ではあるが、所属している組織の命令だからと実行したことで
自分の命をもって最期償う事となってしまった人物であります。
ヤスさんを見ていると、現在何らかの組織に嫌々所属している私たちだって、時と場合によってヤスさんに立場になり得るのではないかと思えてしまいます。
ヤスさんは、サリン袋を突く時に、「スカでありますように」と念じつつ何度も傘の先でついたということです。
地下鉄サリン事件後、アジトを転々とする生活中、ヤスさんは、深夜映画にのめり込み、オウム事件の報道をなるべく見ないようにしていたとのことです。
新宿駅青酸ガス事件後、井上嘉浩、豊田亨、中川智正さんが逮捕されていくなかで、
恋人と東京、名古屋、京都、沖縄と逃亡生活を続け、1996年12月3日に石垣島で逮捕されました。
他のオウム事件の被告に比べて、初公判が開かれたのは遅かったけれど、死刑が確定したのは2番目でした。
それは、全面的に罪を認めて裁判に臨んだことが大きかったと思います。
死刑判決文には
「被告人には善良な人柄を読み取ることができる。…被告人の資質ないし人間性、それ自体取り立てて非難することはできない。…およそ仰ぐべき師を誤るほど不幸なことはなく、この意味において、被告人もまだ、不幸かつ不運である」
とあります。
⤵はヤスさんの国選弁護人を務めた中島尚志氏の著書より
林(小池)泰男さんは、死刑時は「小池泰男」でした。
これは教団信徒の女性と獄中結婚をして、改姓したからです。
私個人は、林(小池)泰男さんが元オウムの女性と獄中結婚をしたと聞いても
「ああそうか」ぐらいにしか思いませんでした。
しかしながら、中川智正さんが死刑執行後、実は獄中で教団元信徒女性と養子縁組をしていたというこのツイートを見た時、正直、ショックを受けました。

当時(今は自分のミスで消してしまったブログですが)、中川智正さんについて書いていたので、自分が何か悪いことを発信していたのではないか、と勝手に悩んでしまいました。
脱会したのに、元オウム信徒と養子縁組していた?
死刑執行後、本人は実家に戻らなかったのか?
とにかく数か月ショックを受けていました。
当時、中川智正さんが実家に戻らなかったことで、「裏切られた」と感じ、離れたひともいました。
私は、オウム真理教のような宗教から完全に離れるのは難しいのではないか、特に死刑囚だからこそ、と思い、
再度調べ直したりするきっかけとなりました。
その際に、資料を読み直すと、特に接点が多いとは言えない、林(小池)泰男さんの言動を手掛かりに見ていくなら、死刑囚として死んでいく人が、強がって教団と縁切りして孤独のまま死刑囚生活を送るよりは、死刑を受けるまでの日を精神的にサポートしてほしいと思って、元信徒の方を外部交通者として持つのは当たり前ではないかと思うようになりました。
中川智正さんは一審だけで8年近くかかりました。
本人は、2000年以降積極的に発言するようになったのですが、なぜかその内容が
世間では知られていません。
2014年死刑囚としてオウム信徒の公判に出廷し冒頭に謝罪。2017-2018年にかけてVXに関する論文を獄中で反省の意味を込めて書いたことで、なんとなく「オウム真理教事件を反省しているひと」とされているけれど、
中川智正さん自身は、それ以前に自分が確定死刑囚になる前に「オウム真理教の事件が若い人に体系的に理解できるようになっていない」と嘆いてもいました。
その一端が、江里明彦氏との雑誌『ジャム・セッション』のエッセイをよく読むと分かる気がします。
それにしても、林(小池)泰男さんならスルーされることが、なぜ中川智正さんだと問題になるのでしょうか。これは私たちの「思い込み」が原因ではないかと思う今日この頃です。
今後数回、ヤスさんにご登場願って、中川智正さんの裁判中の言動を見ていきたいと思います。











