性根玉を磨くのが修行じゃ。人間の性根玉は元来、清浄であるけれども、永らく宿業(過去の身・口・意の行ない)によって性根玉が曇っておる。それで元のきれいな性根玉に磨き出してゆかねばならぬのじゃ。
何で磨くかというと、坐禅をして「ムー」「ムー」と「無」を砥石にして心を磨いてゆくのじゃ。
なかなか「無」になり切るのはむつかしい。心が乱れる時には「南無阿弥陀仏』でも、『延命十句観音経』でもよい。心の中でお経を繰り返し、繰り返して念じておれば、自然に身も心も清浄になって性根玉が磨かれて来る。
性根玉が磨かれると、どうなるかといえば、自然に物事の道理が解って来る。「天下の理に従う者は天下を保ち、天下の理を恣(ほしいまま)にする者は天下を失う」ということがあるが、物事の道理が解って来ると、一切の物が護法神となって自分を守ってくれる。また何を行なっても自然に成功し、成就するようになる。人生において一番大切なことは、この、何故かは知らぬが、何事も自然に成就するということである。そうなるには、性根玉を磨かねばならぬのじゃ。
性根玉は磨くだけではいけない。性根玉を自覚し、悟らねばいけない。本当に自分の性根玉が解ると、いつでも風呂から上がりたてのような、饅頭の蒸したてのような、ぽかぽかした楽しい気持がするものだ。
『回想 山本玄峰』






