山本玄峰(1866~1961)

性根玉を磨くのが修行じゃ。人間の性根玉は元来、清浄であるけれども、永らく宿業(過去の身・口・意の行ない)によって性根玉が曇っておる。それで元のきれいな性根玉に磨き出してゆかねばならぬのじゃ。

 

何で磨くかというと、坐禅をして「ムー」「ムー」と「無」を砥石にして心を磨いてゆくのじゃ。

 

なかなか「無」になり切るのはむつかしい。心が乱れる時には「南無阿弥陀仏』でも、『延命十句観音経』でもよい。心の中でお経を繰り返し、繰り返して念じておれば、自然に身も心も清浄になって性根玉が磨かれて来る。

 

性根玉が磨かれると、どうなるかといえば、自然に物事の道理が解って来る。「天下の理に従う者は天下を保ち、天下の理を恣(ほしいまま)にする者は天下を失う」ということがあるが、物事の道理が解って来ると、一切の物が護法神となって自分を守ってくれる。また何を行なっても自然に成功し、成就するようになる。人生において一番大切なことは、この、何故かは知らぬが、何事も自然に成就するということである。そうなるには、性根玉を磨かねばならぬのじゃ。

 

性根玉は磨くだけではいけない。性根玉を自覚し、悟らねばいけない。本当に自分の性根玉が解ると、いつでも風呂から上がりたてのような、饅頭の蒸したてのような、ぽかぽかした楽しい気持がするものだ。

 

『回想 山本玄峰

 

ラーマクリシュナ(1836~1886)

ほんとうに正しい信念をもっている人 - 神こそが行動者であって、自分は全くの受動者、命令通りに動くものにすぎない、という信念をもっている人は、いわゆる罪なことや悪いことを、絶対にしないよ。踊りを正しく習って熟練した人は、間違ったステップなど踏まないものだ。心の奥まで清浄(きれい)にならないうちは、神が存在するということさえ信じられないんだよ!

 

『不滅の言葉』 (田中嫺玉・奈良毅 訳)

 

ラマナ・マハルシ(1879~1950)

明け渡しは、あなたが「神のみぞすべてなり」、「神の御心のままに」という境地に至ってはじめて完全なものとなる。

 

神への完全な明け渡しとは、すべての想念を放棄し、心を神に集中させることである。もしそれができれば、他の想念は消え去る。もし心、言葉、身体の行為が神に融け合えば、人生のすべての重荷は神のものとなるのである。

 

正邪の区別をつけることが罪の原因なのである。自分自身の罪が外側に投影されているのに、そのことに無知である個人は、それを他者の上に押し重ねて見る。それゆえ最善の方法は、そのような区別が起こらない状態に至ることだ。

 

あなたがどれだけ他者にアドバイスを与えようとも、その人は自分を正そうとはしないだろう。あなた自身が正しくあればいいのだ。そしてただ静かにしていなさい。あなたの言葉や行動よりも、静かにしているほうが影響力を持つ。それは意志力の上達だ。そのとき、世界は「天の王国」となる。そしてそれはあなたの内にあるのだ。

 

『静寂の瞬間: ラマナ・マハルシとともに』(山尾三省・ 福間巖 訳)

 

ラマナ・マハルシ(1879~1950)

他者に与えてるものは、すべて自分自身に与えているのだ。もしこの真理が理解されるなら、他の人々に与えようとしない人がいるだろうか?誰もが自分自身の真我なのである。誰が何をするにしても、誰に対してするのであっても、それは自分自身にしているのである。

 

あなたは他の誰を助けているのでもない。ただあなた自身を助けているのである。

 

彼の御心に従い、すべてを明け渡しなさい。神のはからいにまかせない。もしあなたの希望に沿うように神に頼むとしたら、それは明け渡しではなく命令である。

 

神は何が最善であり、いつ、どのようにするべきか知っている。彼にすべてを完全にまかせなさい。重荷は彼のものだ。あなたはもはや何の心配もしなくていい。あなたの心配はみな彼のものである。明け渡しとはそのようなものだ。

 

『静寂の瞬間: ラマナ・マハルシとともに』(山尾三省・ 福間巖 訳)

 

ニサルガダッタ・マハラジ(1897~1981)

死においては身体だけが死ぬ。生命、意識、実在は死なない。そして生命は死の後、かつてなかったほど生き生きとするのだ。

 

すべての恩寵はあなたの内側からやってくる。内面に目を向けなさい。

 

意識のなかで、世界は出現し消滅していく。存在するものはすべて私であり、すべては私のものだ。すべてがはじまる以前にも、そしてすべてが終わった後にも - 私は在る。

 

あなたが髪の毛の成長を心配する必要がないように、私も言葉や行動についてマインドを煩わせたりはしない。それらはただ起こる。そして私は気にかけない。なぜなら、私の世界ではけっして何も間違いは起こらないからだ。

 

世界のことを考えずとも、何であれ私がすることは世界への恩恵となる。身体が無意識にそれ自身を正しく調整するように、私も絶え間なく世界を正すように活動している。

 

『アイ・アム・ザット 私は在る』(福間巌訳)

 

Osho(1931~1990)

The highest poetry is the lowest mysticism. 『Grass Grows by Itself』

 

Live in the market but don't allow the market to live in you. Act without being active, move but remain unmoving inside. 『The Three Treasures』

 

Paradise is nothing, paradise is a capacity to enjoy yourself right here and now. 『The Three Treasures』

 

Be aware, and wine becomes water. Be aware - sex becomes love. Be aware - love becomes prayer. Be aware - prayer becomes meditation. Simply one thing has to be rememberd : do whatsoever you like, but do it with full consciousness, and then you will not go astray. 『The Three Treasures』

 

 

五井昌久(1916~1980)

悪い想いや汚れた想いが出てくるということは、その人の潜在意識層に、そうした想いがあるからなのであります。ですから、抑えようとしても、いけない、と想っても、いつかは外に出てくるものなのです。そこでそうした想念を消えてゆく姿として、祈りの中で消して貰うのであります。いいかえれば、業想念と光とを入れかえて貰うのです。そう致しますと、潜在意識層の業想念が減って、光の波動が代って入ってゆくことになり、悪い想いや汚れた想いの出る度びに、光が潜在意識層に入っていって、いつの間にか、潜在意識層が光に充たされてくるのであります。そうなればもうしめたもので、その人は、自然法爾に、ひとりでに、善いことのみを想い、よい行いだけのできる人になってくるのであります。想念の入れ代えが、つまり祈りということなのであります。業想念と神の光との入れ代えなのですから、悪かろうはずがありません。祈りぐせがつきますと、何んにつけても、すぐにでも祈りの心になってきます。想念の習慣が、いつの間にか、神と一体の想念の流れとなってしまい、自然に人格が高くなってくるのです。

 

『生きている念仏』