「なぜ私たちは、これほど自由に繋がれる時代に、これほど孤独なのか?」 かつて『中間コミュニティ』が担ってきた機能の変遷を辿りながら、現代特有の『断片化された救い』の正体に言及しています。
僧侶だった頃の経験も合わせて忘備録として書いています。
僧侶だった頃の経験を交えながら、目に見えない世界を通して見えてきたことを中心に書いていきたいと思っています。
「なぜ私たちは、これほど自由に繋がれる時代に、これほど孤独なのか?」 かつて『中間コミュニティ』が担ってきた機能の変遷を辿りながら、現代特有の『断片化された救い』の正体に言及しています。
仲良くなることを目的にしない「中間コミュニティ」という視点から、町内会や地域、職場のつながりを見つめ直します。濃すぎず切れすぎない関係が、現代社会にどんな余白をもたらすのかを考える記事です。
生産性や成果で自分の価値を測るほど、人生は細くなります。時間の直線に縛られず「いまここ」に戻ることで、ありのままの自分を取り戻すヒントを綴ります。
SNSや通知で「間」が消え、刺激→感情→反応が加速する現代。終わりのないスクロールや数値評価、生活の細切れ化がこころのゆとりを奪う構造を整理し、日常動作の「作務化」で間を取り戻す入口を提案します。
自己を磨き、完成させよ。資本主義社会に生きるために究極の命題です。実は、お釈迦さまは、この真逆の方向性を示されています。
『PERFECT DAYS』に観る、暮らしに“間”を取り戻すということ
映画『PERFECT DAYS』をきっかけに、情報化社会で失われつつある“間”の大切さを考察。SNS疲れを抱える現代人へ、日常に静けさを取り戻すための小さな工夫と仏典に見える智慧を紹介します。
このブログを始めて半年近くが経ちました。伝えることの難しさを身をもって知ることもできました。一方で、この説教じみた記事に、お付き合い頂き深く感謝申し上げます。
宗教としての仏教、スピリチュアル、お釈迦さまの思想の決定的な違いを、例を挙げながら丁寧に解説してみました。宗教やスピリチュアルに陥ると見えなくなる“こころ”の本質とは何か。願望実現よりも深い、お釈迦さまの思想が照らす人生の核心にアプローチします。
スピリチュアルでも宗教でもない領域で綴ってきた体験と思想。過去生の理解と仏説が自然に重なっていく流れを、ブログの節目として整理します。
「誰でも座れば仏になれる」という言葉は、お釈迦さまの直接の教えではなく、後に仏教が設けた方便にすぎません。本記事では、因縁・修行・方便の本質を見つめ直し、座ることの本当の意味──“いまを生きるこころ”──について考察します。
形式に囚われた信仰の危うさと、お釈迦さまの「形を離れてこころを見よ」という思想の共鳴を探ります。
『薔薇の名前』はわたしの好きな映画のひとつです。そこから見えるお釈迦さまの思想を読み解いていきます。
願い事が叶わない理由 ― スピリチュアルの罠と、お釈迦さまが示した本当の近道
願い事が叶わない本当の理由を、スピリチュアルの限界と仏陀の縁起の思想から解き明かしてみました。欲望ではなく“こころの在り方”が縁を変え、生き様が未来を実現させる──願望実現の最短ルートです。
確定できる未来もあることが分かってきました。その仕組みと方法について考察します。
死に向かうときに寄り添う言葉―ヴァッカリーとお釈迦さまの対話から
サンユッタ・ニカーヤのヴァッカリーの対話を手がかりに、身体の老いにとらわれず、恐怖や後悔を和らげながら心を軽くしていくための視点をやさしく解説します。
お釈迦さまの「塔を起てて供養せよ」は、魂の慰めではなく、法を生きる実践の指針である。供養とは、縁起の流れを自覚し、感謝と敬意を日々の行いに映すこと。
菩薩については、聞いたことがある方が多いことでしょう。しかし、菩薩とは一体何なのでしょう。できるだけ簡潔に記してみました。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」に象徴される近代的自我を見直し、お釈迦さまの仏説に基づく「無我」の智慧から、変化を恐れず生きる道を考察します。
老いることによって変わり行く時間の中で、瞑想の在り方について考えてみました。
日本の仏教の黎明期。文盲率の高い中世の世では、お釈迦さまの思想を解説することはできませんでした。高校進学率95%を超える現代、唱題だけ盲信していては本願は遠くなるだけです。
仏教の衰退とこれからの仏教の在り方についての最終考察です。
目に見えない世界を手放しで話せない社会について、止めどもなく書いてみました。結論はありませんが、手探りで進んでいくしかありません。
瞑想は自分が生きている世界を変えていくことです。苦から楽への移行を少しずつ体験することができます。今回は、瞑想を"行"ではなく"効果"について着目してみました。
ストレスと人生は切っても切れない苦しみの最大要因です。その対処を自分なりに考えてみました。
わたしたちが当たり前のように使っているこころとは、知っているようで漠然としています。こころの真の概念について考察してみました。
気分とは不思議な仕組みです。侮ればしっぺ返しを被ります。ただ、気分を上手に利用することは幸せになるための近道でもあります。
お断り この記事は特定の食品や添加物を否定しているわけではありません。 はじめに この世には様々な食べ物が溢れています。食べ物に関連する書籍や講習会は星の数です。もっとも、最初から庶民の手に届かないところにあるから星の数なのかなと余計なこと
( )付きのわたしとは何か。わたしを巡る考察の一般論です。
はじめに 遠い昔、お釈迦さまが現われて、人のこころに焦点をあてた思想を伝えられました。やがて、有志の人々が、自身を高め、より良い生(せい)のために集いました。仏教のはじまりのはじまりです。 仏教とは「仏の教え」と書くように、お釈迦さまの思想
人には、「人」と「もはや人ではない人」との間に明確な一線が存在します。多くの人が知ることなく人生を終えてしまいます。今回は、そんな人の一線についてお話ししてみました。
瞑想は人生を好転させます。今回は、座禅を取り上げています。今まで縁のなかった座禅についてです。
誰にでも訪れる「老い」。現実に直面して、不安や焦りで戸惑う人々が増えています。そこで、「老い」への向き合い方をわたしなりに整理してみました。
煩悩を欲望と混同されることが多いようなですので、今回さらに煩悩についてわたしの解釈を記事にしてみました。
今回は、あの世では、足かせになってしまう、誰でもが持つかもしれない執著について考えてみました。
仏教が宗教化して数千年。わたしたちは、仏教の本質を見通せない現状に気が付いてもいません。如何にこころにお釈迦さまの言葉を認知させることが出来るかで、二世の行く末が左右されます。
漫画・アニメの作品から感じたことを記事にしました。現代の日本は「今」がただ上塗りされていくだけの社会です。そこから見えてくる現状への課題を考えてみました。
タイトルが「元僧侶の独り言」と変更になった経緯とこれからの抱負などを書いています。
現代における日本の仏教は目に見えない世界を肯定していません。その要因をたどるとインド哲学に行き当たります。今回の記事は少し難しくなりますが、お付き合いいただければと思います。
煩悩の滅徐に通じる行としての瞑想について、手順と手法について解説してみました。
はじめに このブログを読み進めていく内に、これから瞑想で行でもはじめてみようかなと思っている方に、前もって知っておいてほしいことがあります。それは、今回取り上げている呼吸についてです。 画像はイメージです。 瞑想と呼吸とは、密接に関係してい
禅定を仏教の修行の観点から考察してみました。修行としての禅定には、そんな意味があるのかをできるだけ簡潔に記事にしてみました。
生老病死は、お釈迦さまも修行の際取り組んだ人の性です。数々の書籍や動画で克服法や思い方の解説がなされています。本当に、その解決法はあるのでしょうか?
「無我」とは、分かり難いこともあってか、お釈迦さまの教えの中でも論考の多い項目です。論述する必要性を感じているわけではありませんが、わたしが感得したことを書いておきたいと思いました。今回で108記事目となり、煩悩の数と掛けているわけではありませんが、当面の終了とさせていただきます。今後も更新などは、行っていこうと思っております。
縁とは、わたしたちを取り巻いている目に見えない繋がりです。個々からはじまり、さながら血液のように循環しながら人を生かしている不思議な要素です。
はじめに わたしたちは、さながら言葉を発するように文字を書いています。忘れずにメモったり、日々の出来事を日記に残したり、街中を見渡せば装飾された文字で溢れかえっています。 文字に記すという文化は、主流をネットへと移行しつつある今でも、わたし
わたしたちは幸せを求めて生きています。そのカギは、すべてこころを如何に治めていくかにかかっています。
中世日本に発展した日本仏教。中世の時間尺度と合わせて、現代における仏教の問題点を考察していきます。
中高年になると若い頃には思ってもみなかった様々な思いが浮かんできます。中高年が陥りがちな悩みを特集している記事を元に、わたしなりの見解を書いてみました。
経済発展から、現代の情報化社会に至る最大の弊害は、人々の「わたし」における気持ちとこころとの乖離であるとわたしは思っています。その乖離について考察してみました。
このブログにはその趣旨について【ブログについて】を掲載しています。心境・信条の変化から、旧ブログについては忘備録として残し、ここに修正することにいたしました。
カラダの健康を保つには、決まった法則があります。実はこころとカラダには密接な関係があります。にもかかわらず、食や生活環境など目に見えるところばかりが注目されています。カラダとこころの関係について考えてみました。
忙しない現代では、常に結果や効果を求めタイパを求めています。仏教は宇宙やミクロの世界をも表わしている時間の概念を内包しています。そんな現代にあって、時間と仏教の関係を考察してみました。
西洋文化から芋ずる式に入ってきた個人主義。ネット社会を起点にして、今やいかに情報をたくさん持ち発信するかに価値観は変化し情報主義とも言える世界が広がってきています。そんな時代において、なおさら「わたし」に立ち返って行く意義を考えてみました。
普段改めて考えることない「わたし」について。お釈迦さまの教えの焦点であることは、知る人ぞ知ることです。今回は、この愛おしくもあり、煩わしいこともある「わたし」について改めて考えてみました。
親ガチャなど悲しい言葉がはやる世相から、家族のあり方を考えてみました。
意識と時間という言葉から、解脱についてとりとめのないお話しをしてみました。
インドにおけるヒンズー教のように、広がらなかった日本仏教。その衰退の要因と仏教の今後について考えてみました。
不安な日々にある人々にとって、真の幸せとは何なのか考えてみました。
根本分裂から興った仏教の様々な形態。その中でも大乗仏教と南伝仏教を取り上げ、出家者、在家者における修行の在り方を考えてみました。
現在インドでは仏教はヒンズー教に取り込まれ、聖地を含めてその管理下にあります。ヒンズー教と日本の曖昧な宗教観はとても近く、鎌倉時代から続く日本における仏教も、実はインドでのヒンズー教下の仏教と似たような状況下にあるのではないかと思っています。
とてもなじみ深い節分の豆まきの掛け声に、仏教的意味を見出してみました。
一時はコンビニよりも多いとされたお寺も減少が急速に進み、生き残る仏教施設は文化財かきれいな庭園くらいだと思われます。その衰退の問題を出家者のあり方を中心に書いてみました。
仏種(ぶっしゅ)とは、誰でもこころの中にある聖人になるための種です。これを育み大きくしていくことが、人として生まれた理由なのです。そんな仏種を今回取り上げてみました。
「ノアの方舟と三界の火宅」に続いて、キリスト教の概念とともに法華経の罪障という言葉に迫ってみました。
ノアの箱舟と三界の火宅、2つのことなる宗教におけるお話しの簡単な説明からその共通点について記事にしてみました。
お釈迦さまの言葉の中に「塔を建てて供養すべし」とあります。他の大切な教えの中では、見落とされがちな言葉ですが、実は人にとってもっとも基本的な教えでなのです。この塔の意味合いとその歴史について記事にしてみました。
わたしは若い頃に、今にしては少し恥ずかしいある種の価値観をもって生きていました。その価値観のとは人の価値についてです。わたしの若き日の迷走と経緯を記事にしてみました。
ネット社会は、自由な発言を享受できる一方、こころない発言は人を簡単に傷つけてしまう諸刃の刃です。目に見えない世界から観たネット社会の現状を記事にしてみました。
20年以上前にマトリックスという映画がありました。表面上は、SF娯楽大作ですが、人の世の仕組みについても少し考えさせられる映画です。そんなことを記事にしてみました。
修行によって培われた目には、表に出さない、表に出ない内面が映る様になります。そんな事情を書いてみました。
このブログを始めて半年近くが経ちました。伝えることの難しさを身をもって知ることもできました。一方で、この説教じみた記事に、お付き合い頂き深く感謝申し上げます。
煩悩の正体を知ることは、自分を知ることにもなります。一方、煩悩を執著まで拗らせないで、煩悩のまま生きることは生きがいにもつながります。仏教用語である煩悩を再考してみました。
現代は生きづらい世の中です。一旦レールから外れてしまうとなかなか修正できない、難しいかじ取りが要求される時代です。失敗に対して寛容ではない社会のため、余裕のない人々で溢れかえっています。そんな時代だからこそ、自分をもう一度見つめ直してほしいと思っています。
世渡りは難しく、人の世を生き抜くのはとても難しいことです。目に見えない世界を信じている利点を生かした思い換えは、生きていくための智慧のひとつです。
ストレスと人生は切っても切れない苦しみの最大要因です。その対処を自分なりに考えてみました。
毎日作っている食事について、わたしの修行時代の経験を交えながら記事にしました。
週末の午後、このブログで大切なことをまとめてみました。たったひとつでも、この記事の中に琴線に触れる言葉があれば、たったひとりでも自分を見直して頂ければ幸甚です。
わたしはひどい近視です。年を取るにつれ、目で見る人はボケていく一方ですが、人を見る目は修行で養うことができます。
本日は母の月命日で、今年は十七回忌にあたります。いつも笑顔で、わたしを育ててくれた母について書いてみました。
僧侶の独り言でもっとも主張したいことを改めて記事にしてみました。あなたのこころは、人類の未来に繋がっていることを気が付いてほしいと願っています。
昨日の記事中、四聖という言葉の補足解説です。
人には、自分の人生を花咲かせるように、持って生まれた「稟」というものがあります。この難しい漢字に秘められた教えを記事にしてみました。
禅定の学術的な観点を少し補足して、禅定に取り組むべき心構えを書いてみました。
瞑想について今回は禅定と瞑想の違いについてです。混同されがちな二つの言葉について簡単にまとめてみました。
目に見えない世界を手放しで話せない社会について、止めどもなく書いてみました。結論はありませんが、手探りで進んでいくしかありません。
死を恥と捉え、死を遠ざけていく現代社会。個の時代が進んでいくと、自分の周りには、自分の好みだけを置くように、見る様になっていきます。その行く末が心配される昨今です。
人の人生にとって、何を目標とすべきか。それを簡潔に記事にしてみました。参考になれば幸甚です。
登校拒否の娘にどのように対峙してきたか。経験を交えながら、目に見えない世界の視点から記事にしてみました。
わたしの娘の登校拒否について記事にしました。1回目は、そのきっかけとなった出来事と娘にとっての長い試練の始まりを書いています。
社会に出て人と接していくと、軋轢が起こりがちです。そんな時、ちょっとした気持ちの切り替えで楽になったりします。人生とは、気持ちの切り替えの繰り返しで、良く生きることもできます。
人生を支配しているかのようにも見える運命論。実は、自分の人生は自分でコントロールするものなのです。運命と宿命について考察しながら、人生をより良く生きる術を見出していきます。
わたしには二人の兄がいます。相対する兄の人生について考察してみました。皆さんにとって何か得るものがあれば幸いです。
「なぜ私たちは、これほど自由に繋がれる時代に、これほど孤独なのか?」 かつて『中間コミュニティ』が担ってきた機能の変遷を辿りながら、現代特有の『断片化された救い』の正体に言及しています。
仲良くなることを目的にしない「中間コミュニティ」という視点から、町内会や地域、職場のつながりを見つめ直します。濃すぎず切れすぎない関係が、現代社会にどんな余白をもたらすのかを考える記事です。
生産性や成果で自分の価値を測るほど、人生は細くなります。時間の直線に縛られず「いまここ」に戻ることで、ありのままの自分を取り戻すヒントを綴ります。
SNSや通知で「間」が消え、刺激→感情→反応が加速する現代。終わりのないスクロールや数値評価、生活の細切れ化がこころのゆとりを奪う構造を整理し、日常動作の「作務化」で間を取り戻す入口を提案します。
自己を磨き、完成させよ。資本主義社会に生きるために究極の命題です。実は、お釈迦さまは、この真逆の方向性を示されています。
映画『PERFECT DAYS』をきっかけに、情報化社会で失われつつある“間”の大切さを考察。SNS疲れを抱える現代人へ、日常に静けさを取り戻すための小さな工夫と仏典に見える智慧を紹介します。
このブログを始めて半年近くが経ちました。伝えることの難しさを身をもって知ることもできました。一方で、この説教じみた記事に、お付き合い頂き深く感謝申し上げます。
宗教としての仏教、スピリチュアル、お釈迦さまの思想の決定的な違いを、例を挙げながら丁寧に解説してみました。宗教やスピリチュアルに陥ると見えなくなる“こころ”の本質とは何か。願望実現よりも深い、お釈迦さまの思想が照らす人生の核心にアプローチします。
スピリチュアルでも宗教でもない領域で綴ってきた体験と思想。過去生の理解と仏説が自然に重なっていく流れを、ブログの節目として整理します。
「誰でも座れば仏になれる」という言葉は、お釈迦さまの直接の教えではなく、後に仏教が設けた方便にすぎません。本記事では、因縁・修行・方便の本質を見つめ直し、座ることの本当の意味──“いまを生きるこころ”──について考察します。
形式に囚われた信仰の危うさと、お釈迦さまの「形を離れてこころを見よ」という思想の共鳴を探ります。
『薔薇の名前』はわたしの好きな映画のひとつです。そこから見えるお釈迦さまの思想を読み解いていきます。
願い事が叶わない本当の理由を、スピリチュアルの限界と仏陀の縁起の思想から解き明かしてみました。欲望ではなく“こころの在り方”が縁を変え、生き様が未来を実現させる──願望実現の最短ルートです。
確定できる未来もあることが分かってきました。その仕組みと方法について考察します。
サンユッタ・ニカーヤのヴァッカリーの対話を手がかりに、身体の老いにとらわれず、恐怖や後悔を和らげながら心を軽くしていくための視点をやさしく解説します。
お釈迦さまの「塔を起てて供養せよ」は、魂の慰めではなく、法を生きる実践の指針である。供養とは、縁起の流れを自覚し、感謝と敬意を日々の行いに映すこと。
菩薩については、聞いたことがある方が多いことでしょう。しかし、菩薩とは一体何なのでしょう。できるだけ簡潔に記してみました。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」に象徴される近代的自我を見直し、お釈迦さまの仏説に基づく「無我」の智慧から、変化を恐れず生きる道を考察します。
老いることによって変わり行く時間の中で、瞑想の在り方について考えてみました。
日本の仏教の黎明期。文盲率の高い中世の世では、お釈迦さまの思想を解説することはできませんでした。高校進学率95%を超える現代、唱題だけ盲信していては本願は遠くなるだけです。
「無我」とは、分かり難いこともあってか、お釈迦さまの教えの中でも論考の多い項目です。論述する必要性を感じているわけではありませんが、わたしが感得したことを書いておきたいと思いました。今回で108記事目となり、煩悩の数と掛けているわけではありませんが、当面の終了とさせていただきます。今後も更新などは、行っていこうと思っております。
縁とは、わたしたちを取り巻いている目に見えない繋がりです。個々からはじまり、さながら血液のように循環しながら人を生かしている不思議な要素です。
はじめに わたしたちは、さながら言葉を発するように文字を書いています。忘れずにメモったり、日々の出来事を日記に残したり、街中を見渡せば装飾された文字で溢れかえっています。 文字に記すという文化は、主流をネットへと移行しつつある今でも、わたし
わたしたちは幸せを求めて生きています。そのカギは、すべてこころを如何に治めていくかにかかっています。
中世日本に発展した日本仏教。中世の時間尺度と合わせて、現代における仏教の問題点を考察していきます。
中高年になると若い頃には思ってもみなかった様々な思いが浮かんできます。中高年が陥りがちな悩みを特集している記事を元に、わたしなりの見解を書いてみました。
経済発展から、現代の情報化社会に至る最大の弊害は、人々の「わたし」における気持ちとこころとの乖離であるとわたしは思っています。その乖離について考察してみました。
このブログにはその趣旨について【ブログについて】を掲載しています。心境・信条の変化から、旧ブログについては忘備録として残し、ここに修正することにいたしました。
カラダの健康を保つには、決まった法則があります。実はこころとカラダには密接な関係があります。にもかかわらず、食や生活環境など目に見えるところばかりが注目されています。カラダとこころの関係について考えてみました。
忙しない現代では、常に結果や効果を求めタイパを求めています。仏教は宇宙やミクロの世界をも表わしている時間の概念を内包しています。そんな現代にあって、時間と仏教の関係を考察してみました。
西洋文化から芋ずる式に入ってきた個人主義。ネット社会を起点にして、今やいかに情報をたくさん持ち発信するかに価値観は変化し情報主義とも言える世界が広がってきています。そんな時代において、なおさら「わたし」に立ち返って行く意義を考えてみました。
普段改めて考えることない「わたし」について。お釈迦さまの教えの焦点であることは、知る人ぞ知ることです。今回は、この愛おしくもあり、煩わしいこともある「わたし」について改めて考えてみました。