浜松市頭陀寺(ずだじ)町に残る「松下屋敷」は、戦国時代の武将、松下氏の館跡と伝わる場所で、頭陀寺城とも呼ばれています。松下氏は今川氏の家臣で、引間城主飯尾氏に仕えていました。天正2年(1574年)頃、虎松(井伊直政)の母・ひよは、井伊直虎と祐椿尼の計らいにより、松下常慶の兄で、頭蛇寺城主・松下加兵衞の従兄弟である松下清景(源太郎)と再婚。清景は、鳳来寺から帰った虎松(井伊直政)を養子に迎えました。天正3...
大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「豊臣兄弟」😊他にも歴旅の記録を綴ります。
浜松市頭陀寺(ずだじ)町に残る「松下屋敷」は、戦国時代の武将、松下氏の館跡と伝わる場所で、頭陀寺城とも呼ばれています。松下氏は今川氏の家臣で、引間城主飯尾氏に仕えていました。天正2年(1574年)頃、虎松(井伊直政)の母・ひよは、井伊直虎と祐椿尼の計らいにより、松下常慶の兄で、頭蛇寺城主・松下加兵衞の従兄弟である松下清景(源太郎)と再婚。清景は、鳳来寺から帰った虎松(井伊直政)を養子に迎えました。天正3...
地域タグ:浜松市
今まで歩いてきた道、見学してきたところを対岸から眺めながら、浴龍池のまわりを歩いていきます。千歳橋松並木を通り、出口へと向かいます。急な斜面の登り下りを含め約3kmほど歩いてことになります。結構な運動をした感じでした(^^;また機会があれば、この素晴らしい修学院離宮を見学してみたいと思います。この記事をもって、修学院離宮の記事は終わりです。最後までお読みいただきありがとうございましたm(__)mにほんブログ村 ...
地域タグ:京都市
※修学院離宮の記事の続きです😊窮邃亭を出て、浴龍池の周りを歩いて行きます。池に映る樹々。まるで鏡のように映し出されています。土橋下離宮から歩いてきたところを上から見下ろすことができます。回遊式の庭園としてつくられているので、様々なアングルから池を中心とした景色を楽しむことができます。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキング...
地域タグ:京都市
豊国神社から東に約100m、妙行寺のすぐ北側にあるのが、加藤清正一族の円住院日誦上人によって秀吉をまつるために創建された太閤山・常泉寺です。境内には「秀吉手植えの柊」のほか、「秀吉産湯の井戸」、「秀吉の像」があります。しかし、常泉寺のあるところが秀吉出生地ではないという説もあります。秀吉の父・木下弥右衛門の死後、母は築阿弥と再婚しましたが、秀吉は築阿弥と折り合い悪く、いつも虐待されており、家を出て、遠...
地域タグ:中村区
今年の大河ドラマの主人公である豊臣秀長は、天文9年(1540年)、竹阿弥の子(一説には木下弥右衛門の子)、秀吉の異父弟(一説に同父弟)として尾張国愛知郡中村(現・名古屋市中村区)に生まれました。名古屋の中村公園駅の3番出口を出ると、すぐ目の前に、京都の平安神宮の鳥居を思わせる赤い大きな鳥居が見えます。この鳥居は豊国神社の鳥居として1929(昭和4)年に建てられたもので、豊国神社のある中村公園へと続く参道の入り...
地域タグ:中村区
続いて、上離宮の窮邃亭へ。窮邃亭は、創建当時から現存する唯一の建物だそうです。後水尾院によって造営された上の茶屋・下の茶屋の建物のほとんどが滅失または再建されているなかで、本建物は唯一、創建当時のものとされている。ただし、幕末頃には相当に荒廃していたようで、大幅な修理が加わっている。大きい中島の上に建ち、宝形造、杮葺、屋根頂部に瓦製の露盤を置き、その上に切子頭の宝珠を乗せる。南面と東面は縁および土...
地域タグ:京都市
新年あけましておめでとうございます。昨年も、たくさんの応援ありがとうございました。今年は、浜松がまた大河ドラマ「豊臣兄弟」の舞台のひとつになるかと思います。どうぞ今年もよろしくお願いしますm(__)m隣雲亭から浴龍池に向かいます。千歳橋中島と万松塢の間に架かる橋は、千歳橋という屋形橋で、東には宝形造、西には寄棟造の屋根を架け、宝形造屋根には金銅の鳳凰が飾られています。文政7年(1824年)の離宮改修時に、京...
地域タグ:京都市
隣雲亭は、 海抜150メートル、浴竜池との標高差10メートルのところに建っています。床、棚などの座敷飾りはなく、装飾は欄間の花菱文と釘隠にみられるほどの池を眺望するための簡素な建物です。当初の建物は延宝5年(1677年)に焼失し、現存する建物は文政7年(1824年)の再建。では、ここからの素晴らしい眺望をもう一度ご覧ください!今年も当ブログへの応援ありがとうございましたm(__)mお陰様で、また一年頑張ることができまし...
地域タグ:京都市
上離宮の表門に当たる御成門に到着!急な石段を上って行った先には、こんな絶景が広がっていました。眼下に巨大な人工池の浴龍池(よくりゅうち)と大刈込を中心とした庭園。浴竜池は、谷川を堰き止めて造った人工池で、堤防は高さ13メートル、延長200メートルに及んでいます。遠方には、借景の山々を望むことができます。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記...
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中離宮へ中離宮は、後水尾上皇の第8皇女・光子(てるこ)内親王のために1668年(寛文8年)造営された朱宮(あけのみや)御所が前身で、この地にはそれ以前、上皇の第1皇女である梅宮が出家して円照寺という尼寺を構えていました。上皇の離宮建設により、奈良八島の地へ移っていき、朱宮御所は上皇の死後、林丘寺(りんきゅうじ)という寺に改められました。1885年(明治18年)、楽只軒(らくしけん)と客殿を含む、林丘寺境内の約...
地域タグ:京都市
下離宮の参観を終え、松並木を眺めながら中離宮へ向かいます。明治天皇が行幸する際に、赤松を植樹し、砂利を敷き整備したことから御馬車道とも呼ばれているそうです。この辺りは、田園風景が広がり、比叡山、東山、北山が一望できます。離宮内には田んぼがあるとはびっくりでした。近くの農民が離宮内にあるた田んぼで作った米を献上していたそうで、今も宮内庁が農家と契約し、米・野菜を作っているとか。にほんブログ村 歴史ブ...
地域タグ:京都市
寿月観後水尾院行幸時の御座所となった建物。 当初の建物は岩倉殿(顕子内親王)の山荘から移築したものでしたが、享保年間(18世紀前半)に失われ、文政7年(1824年)に再建されました。 「寿月観」後水尾天皇の宸筆の額 東側に「一の間」、その西に「二の間」、その南に「三の間」と続き、三の間の西には5畳の茶室があります。二の間の北には4畳半、その北には10畳半の「玄関の間」が突出し、建物の北西端に式台玄関(御輿寄)が...
地域タグ:京都市
2015年の12月、京都の修学院離宮の見学をしてきました。早いものでそれからもう10年も経ってしまいました。なかなか予約が取れなかった離宮ですが、秋の紅葉シーズンが終わったあたりで、運よく参観予約の空きがありました。修学院離宮は、17世紀中頃、1653年(承応2年)~ 1655年(承応4年)に後水尾上皇の指示で造営された離宮で、上御茶屋(かみのおちゃや)、中御茶屋(なかのおちゃや)、下御茶屋(しものおちゃや)という3か...
地域タグ:京都市
泉岳寺の大石主税の墓の横に堀部安兵衛の墓があります。討ち入り後、赤穂浪士たちは4つの大名家の屋敷にお預けとなり、堀部安兵衛は、大石主税らとともに、伊予松山藩主・松平定直の江戸屋敷へ預けられました。 元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府より赤穂浪士へ切腹が命じられ、屋敷にて松平家家臣・荒川十大夫の介錯により切腹。享年34。主君・長矩と同じ江戸高輪の泉岳寺に葬られました。法名は刃雲輝剣信士。忠臣蔵:堀部...
地域タグ:港区
続いて、大石主税の墓です。大石主税(大石 良金 おおいし よしかね)幼名は松之丞(まつのじょう)、通称は主税(ちから)。父は大石良雄。母はりく。元禄元年(1688年)に播磨国赤穂藩筆頭家老大石良雄の嫡男として赤穂に誕生。幼いころには疱瘡を患ったという。 元禄14年(1701年)3月14日(4月21日)、主君浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩が即日切腹、赤穂藩が改易となった時、良金は数え年で14...
地域タグ:港区
大石内蔵助(良雄)の墓「良雄」は諱で、通称(仮名)は「内蔵助」。一般にはこの大石 内蔵助(おおいし くらのすけ)の名で広く知られています。 没年:元禄16.2.4(1703.3.20)生年:万治2(1659)江戸時代中期の赤穂事件の浪士47人の中心的指導者。名は正しくは「よしたか」。幼名は喜内。通称は内蔵助播磨国(兵庫県)赤穂藩の重臣の家に生まれ,父権内良昭の死後,祖父内蔵助良欽の家督を嗣ぐ。若くして家老職となった。石高1500石。...
地域タグ:港区
続いて、浅野内匠頭のお墓です。冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士の戒名が読み取れます。浅野長矩あさのながのり(1667―1701) 播磨(はりま)赤穂(あこう)城主、5万3500石。広島浅野家の分家。妻は浅野長治(ながはる)の長女(瑤泉院(ようぜいいん))。1645年(正保2)浅野長直(ながなお)が常陸(ひたち)(茨城県)笠間(かさま)から赤穂に転封となり加里屋(かりや)城を築いたが、長矩はその孫で1675年(延宝3)に父長友(ながとも...
地域タグ:港区
泉岳寺の赤穂義士の墓所に向かいます。義士墓入口の門この門は浅野家の鉄砲州上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築したものです。 赤穂藩主・浅野長矩の夫人・阿くり(瑤泉院)の墓瑤泉院(ようぜんいん、延宝2年(1674年) - 正徳4年6月3日(1714年7月14日)、生年については異説も)は、江戸時代中期の女性。赤穂事件で知られる赤穂藩主浅野長矩の妻。名は阿久里(あぐり/おくり)、阿久理・阿久利とも。 初代備後...
地域タグ:港区
梵鐘・鐘楼堂大正2年・41世普天霊明(ふてんれいみょう)和尚代に作られた鐘で、朝の坐禅の時と夕方の閉門の時に撞いています。また、江戸から明治まで使われていた梵鐘は、現在ウィーンの国立民族博物館に所蔵されています。 主税梅大石主税が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていた梅です。 瑤池梅義士の墓守をした堀部妙海法尼が瑤泉院から賜った鉢植えの梅を移植したものです。 血染めの梅、血染めの石浅野内匠頭が田村右...
地域タグ:港区
東京都港区高輪の泉岳寺は、慶長17年(1612年)に徳川家康が外桜田に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を招いて外桜田(現在の警視庁の近く)に創建されました。寛永18年(1641年)寛永の大火で焼失し、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、高輪の地で再建されました。 浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のもので、浅野長矩と赤穂浪士が葬られており、毎年4月初旬と12月14日には義士...
地域タグ:港区
パリ万国博覧会の会場は、シャン・ド・マルス広場で、40ヘクタールを超える敷地に、巨大な楕円形の会場が設けられました。世界42ヶ国が参加し、各国からは、エレベーターや最新式の電気電信機器、蒸気動力による機械、紡績器械、医療器具、測量器、兵器など最先端のものが出展されました。パリ万国博覧会は、日本が初めて参加した国際博覧会であり、東洋からの参加は、日本、清国、シャム(タイ)の三か国でした。幕府、薩摩藩、肥...
地域タグ:フランス
台東区東浅草の蔦屋重三郎の菩提寺正法寺を訪ねました。お寺という雰囲気はなく、いかにも都会のお寺という近代的なビルです。重三郎は寛政9年(1797) に脚気により47歳で病没し、正法寺に埋葬されました。重三郎は、寛政8年(1796年)の秋ごろより体調が悪化し、伏すようになった。重三郎は寛政9年(1797年)5月6日に47歳で没した。死因は馬琴の『近世物之本江戸作者部類』などから脚気と伝えられている。馬琴は『近世物之本江戸作...
地域タグ:台東区
門を潜ってすぐ正面に喜多川歌麿の墓があります。案内板が横に立てられているのですぐにわかりました。歌麿の墓が当寺にあるのは、専光寺が浅草にあった頃に北川家の菩提寺であったからで、「歌麿寺」としても知られています。墓は4段の石が積み重なったもので、「北川」と刻された中段の台石が本来の墓石だそう。喜多川歌麿墓喜多川歌麿(1753?~1806)は、江戸時代中期の浮世絵師で浮世絵喜多川派の祖とされています。出生地につい...
地域タグ:世田谷区
喜多川歌麿の墓がある世田谷区北烏山の浄土宗の専光寺を訪ねました。北烏山2丁目、4丁目、5丁目、6丁目のエリアは、通称「烏山寺町」と呼ばれ、26もの寺院があります。烏山寺町の中央を通る道は、「寺院通り」と呼ばれ、通りの左右に16の寺院が立ち並び、専光寺は奥から3番目に位置しています。専光寺の寺紋は、「月影杏葉(つきかげぎょよう)」創建は江戸時代初期の1604年(慶長9年)に遡り、創建当初は品川にありましたが後に馬...
地域タグ:世田谷区
本堂境内には、いろいろな説明書きが貼られています。浄栄寺のおもな歴史江戸文化人たちのサロン大田南畝ゆかりの浄栄寺南畝の他、酒井抱一にもゆかりがあるそうです。酒井抱一ゆかりの浄栄寺浄栄寺所蔵の文化財として、尺八「放下着」一式ならびに普化尺八伝授関連資料が、新宿区指定有形民俗文化財となっています。その尺八「放下着」は、江戸時代中期以前に作られたものであり、南畝も演奏を聞いたと伝えられています。 尺八「...
地域タグ:新宿区
大田南畝ゆかりの新宿の浄栄寺を訪ねました。都営大江戸線の「牛込柳町駅」で下車。外苑東通りを進み、薬王寺坂通りに入ると、甘露門と称される山門が見えてきます。こちらのお寺は、5月25日放送の「べらぼう」の紀行で紹介されました。南畝はこのお寺を甘露門と称し、度々会合を催したそうです。 浄土真宗浄栄寺の山門で、安永7年(1778)の年号をもつ扁額や建築装飾の様式等か ら、江戸時代後期の建築と推定される。形式は薬医...
地域タグ:新宿区
中央区勝どき4丁目の東陽院の前に「十返舎一九墓所」の石碑があります。碑は徳川夢声の筆によるもの。墓塔は本堂裏手にある屋内墓地の一角にあるそうです。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
地域タグ:中央区
駿府城公園の東御門前の遊歩道に立つ弥次喜多像。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』刊行200周年を記念して建てられた銅像です。東御門の手前、巽櫓を背景に弥次さん(左)喜多さん(右)が、ベンチ とセットになっている写真スポットでもあります。『東海道中膝栗毛』の作者十返舎一九(1765~1831)は、ここ駿府(現静岡市)出身で、江戸文学における戯作者の第一人者であり、日本最初の本格的な職業作家といえます。1765年、駿...
地域タグ:葵区
静岡市葵区研屋町(とぎやちょう)の顕光院。寺伝によれば、顕光院は天文元年(1532)、道翁学公律師によって真言宗の寺院として創建されました。その後、元亀2年(1571)、当時の住職の松翁龍公律師の招きにより、遠州一宮高雲寺2世揚室印播禅師が顕光院を曹洞宗に改宗したと伝えられています。本堂(御本尊 十一面観世音菩薩)無縁堂と平和観音堂(シベリヤ観音)無縁堂では、昭和40年の墓地整理の際に掘り起こされた無縁仏の遺...
地域タグ:葵区
続いて静岡県庁へ。モダンな建築物ですね。ちょうど静岡県庁別館の21階富士山展望ロビーが解放されていたので、エレベーターで上がってみました。しかし、この日は残念ながら富士山は全く見えず・・・同じ静岡県民でも、クリアな富士山を見ることはあまりないのですよ。今まで見た中では、新幹線の中から見た富士山が一番綺麗でした(^0^;)にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほん...
地域タグ:葵区
※紀行の内容に合わせて、葛飾北斎ゆかりの地を再掲します。JR総武線両国駅より徒歩4分のところに榛(はんのき)稲荷神社があります。このあたりは、本所に住む武士の弓馬の稽古をするための榛馬場とよばれた馬場のあったところで、東西102間(約185m)南北12間(約22m)ありました。この馬場の傍らに祀られていたのが榛稲荷神社で、その名の由来は、馬場を囲む土手に大きな榛があったところから来ているようです。天保8年(1837)亀...
地域タグ:墨田区
※今夜の紀行で紹介されたので再掲します!「冨嶽三十六景」を描いた葛飾北斎は、宝暦10年(1760年)、本所南割下水(現在の墨田区亀沢周辺)で生まれました。90年の生涯のほとんどを墨田区内で過ごしながら、優れた作品を数多く残しました。1760(宝暦10)年9月23日、本所南割下水(墨田区亀沢)に生まれた葛飾北斎は、浮世絵の役者絵を出発点として、狩野派、光琳派、大和絵など、さまざまな流派の技法を学び、新しい画風をどんどん...
地域タグ:墨田区
葛飾北斎生誕の地を巡る(1) ひがしん北斎ギャラリー&葛飾北斎ブロンズ像
※今夜の紀行の内容に合わせて再掲します!墨田区両国の東京東信用金庫(ひがしん)両国本部ビルの正面玄関や壁面に葛飾北斎の作品が展示されています。正面玄関「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」ひがしん北斎ギャラリー「新板浮絵 両国橋夕涼花火見物之図」「両国夕涼」葛飾北斎ブロンズ像令和6(2024)年1月16日、北側に葛飾北斎のブロンズ像が設置されました。富士山をアルミエキスパンドメタルの素材で描き、重さ約300キロの葛飾北斎...
地域タグ:墨田区
府中宿は、東海道五十三次の19番目の宿場。駿府城の城下町であり、東海道の中で最大規模の宿場でした。上伝馬町・中伝馬町・下伝馬町の3つのエリアのそれぞれに本陣・脇本陣が置かれていました。本陣は、 江戸時代以降の宿場で、身分が高い者が泊まった建物で、大名や旗本、幕府役人、勅使、宮門跡らが利用しました。脇本陣は、本陣の予備的な施設で、本陣だけでは泊まりきれない場合や、藩同士が鉢合わせになった場合に格式が低い...
地域タグ:葵区
静岡市役所の北西隅に、駿府町奉行所跡の碑があります。駿府町奉行は、老中直属の組織で、町政全般の掌握から訴えの裁き、城下の警備、府中宿の管理など駿府の町民生活に直接関わる広範囲な業務を担っていました。寛永9年(1632)に大手組町奉行として駿府城大手御門前に設置され、明治元年(1866)までに旗本を主に63人が町奉行に任命されました。静岡の由来御用水と町方用水ガス燈にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加していま...
地域タグ:葵区
江戸時代から昭和20年まで、葵区の呉服町と七間町の交差点付近には「札之辻町」がありました。呉服町通りと七間町通りが交差する歩道に「札之辻跡の碑」があります。札之辻町の町名は、江戸時代ここに高札場があったことに由来します。高札は、人々の目をひきやすい市街の中心の辻や出入口、橋詰めなどに掲げられ、「札の辻」の地名は各地に残っています。高札場もこのように復元されています。にほんブログ村 歴史ブログランキン...
地域タグ:葵区
十返舎一九生家跡から両替町通りを2分ほど静岡方面に歩いて行くと、「駿府銀座発祥の地」の碑があります。駿府銀座は貨幣の鋳造を目的に慶長11(1606)年にこの地に設立されました。慶長17年(1612)に江戸へ移されましたが、その後も両替町の地名は続いています。両替町通り駿府銀座慶長11年(1606年)徳川家康の隠居の地、駿府に設立したとされる銀座。両替町六丁のうち四町を拝領し、慶長16年(1611年)より京都銀座より座人およ...
地域タグ:葵区
新宿区須賀町の戒行寺(かいぎょうじ)は、1595年(文禄4年)、玉泉院日養によって開山され、元々は現在の千代田区麹町にありましたが、江戸城拡張工事のため、現在地に移転。戒行寺坂を上ったところにあります。戒行寺坂(かいぎょうじざか)は、須賀町9番の日蓮宗戒行寺の前に始まる坂道で、東方の若葉二丁目(かつての鮫河橋谷町)に下っている。戒行寺の向かい側は曹洞宗宗福寺であり、坂道の坂下はかつて「戒行寺谷」と呼ばれ...
地域タグ:新宿区
※11月16日放送の「べらぼう」で、「源内生存説」が出てきたので、牧之原の記事を再掲します。浄心寺は、寛永元(1624)年、京都伏見の元住人で、相良湊で廻船業を営んでいた西尾源兵衛が、先祖の菩提を弔うために出家し、浄心日清と称して開創しました。江戸後期には、田沼家の祈願所として雨乞祈祷などで厚く崇敬されました。山門に施されている見事な龍の彫刻は、地元の画家・寺田洞仙によって寛政元(1789)年に作られたもので...
地域タグ:牧之原市
※11月16日放送の「べらぼう」で、「源内生存説」が出てきたので、牧之原の記事を再掲します。牧之原市には、平賀源内が住んでいたという場所がいくつか伝わっています。ステラnetによると、市内の茶畑に囲まれた須々木原に、源内が最初に住んでいたとされる草庵がありました。その後、3kmほど離れた相良城に近い前浜の屋敷に移ったといわれ、いまも地元の人々は屋敷があった通りを「源内通り」と呼んでいます。史料館のスタッフの...
地域タグ:牧之原市
佃公園から石川島公園へ向かう途中に佃島渡船場跡があります。佃島渡船場跡 佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲であった。江戸時代初期、初代将軍徳川家康の招きによって摂津国佃村(現大阪市西淀川区佃)から下ってきた漁師たちは、鉄砲洲東の干潟百間四方を埋め立てて佃島を築いた。そしてこの島と対岸の船松町(現在の佃大橋西詰付近)との間に通された渡船が佃の渡しである。佃の渡しは、佃島住民だけでなく、住吉神社への参詣...
地域タグ:中央区
丸子から再びバスに乗り、安倍川橋で下車。ここから駿府にあった遊廓跡を目指します。途中、元祖安倍川餅の「せきべや」の前を通り過ぎました。200年以上の歴史を持つそうで、風情ある佇まいをしています。こちらでは店内でも食べられるそうです。時間があれば、食べたかったのですが・・・駿府にあった遊廓は二丁町遊廓(にちょうまちゆうかく)と呼ばれ、静岡市葵区駒形通五丁目付近にありました。徳川家康の隠居の地である駿府...
地域タグ:葵区
十返舎一九は、江戸時代後期の戯作者、絵師であり、『東海道中膝栗毛』の作者です。駿府城の東御門前の弥次喜多像本名は重田貞一(しげた さだかつ)、幼名は市九。通称に与七、幾五郎。酔翁、十返舎など。家系や出生には不明な点が多く、千人同心(十人同心)の子とする説や、駿河国府中(駿府:現在の静岡市葵区)で代官丹後の子として生まれたとする説など諸説あり。生家は駿河で、駿府町奉行の重田氏に養われたことは確かなよ...
地域タグ:葵区
大江戸線「築地市場駅」改札駅外コンコースには、片岡球子の複製陶板浮世絵『江戸の浮世絵師たち』飾られています。「浮世絵師 勝川春章」「国貞 改め三代豊国」ここから松平定信の浴恩園跡(よくおんえん)に向かったのですが、ちょうど工事中で中に入れませんでした(;O;)現在、そこは中央卸売市場築地市場敷地となっていて、東京都指定の旧跡「浴恩園跡」とされています。「江戸浴恩園全圖」国立国会図書館所蔵浴恩園は、松平定...
地域タグ:中央区
深川めしをいただいた後、江東区三好にある一乗院を訪ねてきました。一乗院は、寛文10年(1670)、徳川家綱より御朱印状を拝領したこともある名刹「浄心寺」の塔頭として創建されたといいます。一乗院の墓苑には、朋誠堂喜三二(平沢 常富)のお墓があります。平沢 常富(ひらさわ つねとみ、ひらさわ つねまさ)は、朋誠堂 喜三二(ほうせいどう きさんじ)の筆名で知られる戯作者、また手柄岡持(てがらの おかもち)の狂名で知ら...
地域タグ:江東区
清澄白河の霊巌寺の見学終え、ランチタイムに。この日のランチは、深川資料館通り沿いの「深川めし」の深川釜匠でいただきました。深川めしをいただくのは初めてです。私たちは1490円の「深川めし」を注文あさりとしじみを炊き込んだタイプの物でした。ご飯も貝もたっぷり入っていて、ボリュームたっぷり!添えられた昆布の佃煮や漬物、味噌汁も美味😀あっさり目の味付けなので、どんどんいけますが、あまりに多い量で半分ほどでギ...
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また、境内には、松平定信の墓があります。松平定信の墓陸奥白河藩の第3代藩主で、寛政の改革を行った松平定信の墓。松平定信(1758~1829)は8代将軍徳川吉宗の孫、田安宗武の子として生まれ、陸奥白河藩主となり、白河楽翁を号していた。 天明7年(1787)6月に老中となり寛政の改革を断行、寛政5年(1793)老中を辞している。定信は老中になると直ちに札差統制(旗本・御家人などの借金救済)・七分積立金(江戸市民の救済)な...
地域タグ:江東区
清澄白河で下車。江東区白河の霊巌寺は、元は霊巌島(現在の東京都中央区新川)にありましたが、明暦3年(1657年)、明暦の大火により延焼し、現在地に移転。関東十八檀林(だんりん)の一つ、松平定信の菩提所としても知られています。六地蔵本堂江戸六地蔵享保2年(1717年)に造られた、江戸六地蔵の5番目。享保2年(1717年)に造られました。銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵の一つ) 指定大正10年3月江戸六地蔵の由来は、その...
地域タグ:江東区
店内には歴史資料館があり、江戸時代に実際に使われた旅人たちの道具や、丸子宿丁子屋にちなんだ芭蕉翁、十返舎一九、歌川広重の作品が展示されています。十返舎一九像蔦屋重三郎に見出された作家の1人ということで、盛大に飾られています😄一九の弁当箱特別展示のすりこ木掛け軸(友人の撮影)すりこ木のことを茶化しながらも最後には「丸くなるこそ家内安全」とまとめられているそうです。擂り粉木1 すり鉢で、物をするのに用いる...
地域タグ:駿河区
丁子屋の建物は、一見一つの家のように見えますが、実は江戸・明治・大正・昭和と時代を重ねた幾つかの古民家の集合体なのだそう。中には九つの部屋があり、それぞれ丸子宿や静岡にちなんだ名前が付けられています。各部屋には江戸当時を偲ばせる調度品や浮世絵などが飾られています。こちらは、芭蕉さんの部屋移築当時(1970年)で、すでに築300~350年が経っていたといわれるかやぶき古民家の部屋です。私たちは「歌川広重の浮世...
地域タグ:駿河区
再びバスに乗り、宇津の谷入口から丸子橋入口へ。静岡市駿河区丸子の丁子屋(ちょうじや)は、慶長元年(1596年)創業、江戸時代初期から400年以上続く、歌川広重の東海道五十三次、芭蕉の俳句、十返舎一九の東海道中膝栗毛などでも知られる静岡で最古の丸子(まりこ)の宿場のとろろ汁の店です。建物は、国の登録有形文化財になった1770年ごろの風情のあるかやぶき古民家です。店の敷地内には、十返舎一九や芭蕉の句碑があります。...
地域タグ:駿河区
道の駅宇津ノ谷峠(みちのえき うつのやとうげ)は、静岡県静岡市駿河区および藤枝市にある国道1号の道の駅。宇津ノ谷トンネルを挟んで、静岡市側(上り線・下り線)と藤枝市側(上り線のみ)の3か所に施設がある珍しい配置の道の駅と言われています。こちらは、静岡側下りの道の駅です。トイレや物産販売、軽食コーナーなど休憩や食事が出来る施設があります。この後、丸子宿へと向かうバスを待っていたのですが、新東名で大きな...
地域タグ:藤枝市
宇津ノ谷峠入口でバスを降り、少し戻って歩道橋を渡り、反対側の道の駅を目指します。丸子宿と岡部宿を結ぶ宇津ノ谷峠(うつのや とうげ)は、東海道屈指の難所で、古代から多くの人や物の往来する交通の要衝でした。ここが「蔦の細道」の入口に当たります。かつては、薄暗く、寂しい峠道で、山賊が出没したそうです(..;)怖そうなので上までは行かず、入口付近と全景だけ撮影しました。蔦の細道 宇津ノ谷峠越えの最も古い道で、7世...
地域タグ:藤枝市
柏屋の見学を終え、次の目的地に向かうため、バス停へ。岡部宿柏屋前のバス停近くに「問屋場跡」の案内板があります。問屋場跡 幕府の公用旅行者のためにつくられた施設で、人夫や馬を常備し、次の宿場まで、旅行者や荷物を無料で継ぎ送りました。しかし、公用の仕事がない時には、一般旅行者や荷物を有料で送りました。 岡部宿 には、岡部本町と加宿内谷の二か所に、問屋場がありました。(案内板より)問屋場(とんやば・といや...
地域タグ:藤枝市
大首絵(おおくびえ)は、主に江戸時代に描かれた浮世絵の様式のひとつで、歌舞伎役者や遊女、評判娘などを半身像や胸像として捉えて描いた浮世絵版画を指す。役者の演じる表情や遊女の美貌を間近で鑑賞したいという要求から生まれたものである。享保(1716年 - 1736年)頃の鳥居清信による漆絵が最も古い作品といわれるが、この時期の作品の例は極めて少ない。その後、安永(1772年 - 1781年)頃になると多く見られるようになり、...
二階の展示室関札宿泊した武士の氏名が書かれていました。岡部宿の朝食岡部宿の夕食携帯道具携帯用の煙草や硯小田原提灯紙算盤もなんてのがあったのですね。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
地域タグ:藤枝市
次に二階に上がっていきます。二の間(客間)江戸時代の旅支度交通手段江戸時代、五街道における交通手段は原則的には徒歩でしたが、人や荷物の運搬には馬が使われました。それ以外には、駕籠、輦台、舟などもありました。(案内板より)一の間江戸時代の枕陶枕にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)...
地域タグ:藤枝市
それでは、柏屋の一階の部屋から見ていきましょう。仏間柏屋の家族の生活空間7つ玉の算盤が置かれていました。算盤は出来ますが、7つ玉では未経験です(;'∀')丁寧に使い方まで紹介されています。台所中の間本座敷庭園にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
地域タグ:藤枝市
柏屋には、お風呂の歴史・文化を体験できる「お風呂の歴史体験棟」として、土日・祝日限定で足湯が体験できるスポットがあります。この日、友人が足湯体験をしたので、横から撮影させていただきました。五右衛門風呂の特徴である底板を足で押して沈めていきます。なかなかの水圧のようでした(^0^;)五右衛門風呂(ごえもんぶろ)は、日本の風呂の種類の1つ。安土桃山時代の盗賊石川五右衛門が京都の三条河原で釜茹での刑に処せられ...
地域タグ:藤枝市
次は、内野本陣史跡広場に隣接する岡部宿大旅籠柏屋へ。旅籠とは、江戸時代の宿泊施設を指し、柏屋はその規模から岡部宿の大旅籠と呼ばれました。しかし、 明治期に入り、参勤交代制度がなくなり、東海道を旅する人が減少したため、旅館経営が困難になり廃業に。文政と天保の二度に亘る岡部宿の大火で全焼したので、現在の建物は江戸時代の終わり、天保7年(1836年)に建てられた3代目のものだそう。現在は、その建物を歴史資料館と...
地域タグ:藤枝市
「べらぼう」に十返舎一九が登場するということで、弥次喜多道中でお馴染みの東海道膝栗毛に出てくる宿場町を訪ねて来ました。JR藤枝駅からバスで約39分、岡部宿柏屋前で下車、徒歩1分。岡部宿内野本陣史跡広場は、静岡県藤枝市岡部町の旧東海道岡部宿にある江戸時代の本陣跡地。「岡部宿本陣址」として藤枝市の史跡に指定されており、大旅籠柏屋とともに史跡公園になっています。本陣とは、江戸時代に大名や旗本、幕府の役人など...
地域タグ:藤枝市
聖護院門跡は、静恵法親王(後白河天皇の子)が宮門跡として入寺して以降、 代々法親王が入寺する門跡寺院。江戸時代後期には2度仮皇居となるなど、皇室と深い関わりを持ち、現在も「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されています。2016年の秋の特別公開を見に行きましたが、その時は障壁画130面や本尊の不動明王など貴重な文化財が公開されました。宸殿には狩野山楽の子・狩野永納と、狩野探幽の養子・狩野益信による金碧障...
地域タグ:左京区
台東区元浅草4丁目の東京メトロ銀座線「稲荷町駅」から徒歩で5分ほどのところにある誓教寺は、葛飾北斎ゆかりのお寺として知られています。境内には、葛飾北斎の墓、北斎の胸像、「富嶽三十六景」など北斎が好んで数多く描いた「富士」のモニュメントがあります。北斎の墓標には「画狂老人卍墓」(「卍」は北斎の雅号の一つ)とあり、辞世の句が刻まれています。毎年命日の4月18日には「北斎忌」が開かれ、法要が営まれます。東京...
吉良邸の向かい側に、飯澄稲荷神社があります。その隣りの「吉良まんじゅう」の大川屋の前に「鏡師中島伊勢住居跡」が建っています。中島伊勢は、幕府用達の鏡師で、宝暦13年 (1763年)後に葛飾北斎となる「時太郎」を養子にしたとのこと。 鏡師中島伊勢住居跡 中島伊勢の住居は、赤穂事件 の後、町人に払い下げられ、本所松坂町となったこの辺りにありました。伊勢は、幕府御用達の鏡師で、宝暦13年(1763)、後の葛飾北斎 と...
地域タグ:墨田区
JR総武線両国駅より徒歩4分のところに榛(はんのき)稲荷神社があります。このあたりは、本所に住む武士の弓馬の稽古をするための榛馬場とよばれた馬場のあったところで、東西102間(約185m)南北12間(約22m)ありました。この馬場の傍らに祀られていたのが榛稲荷神社で、その名の由来は、馬場を囲む土手に大きな榛があったところから来ているようです。天保8年(1837)亀沢町の若者が奉納した1対の木製朱塗りの奉紙立が現存してい...
地域タグ:墨田区
「冨嶽三十六景」を描いた葛飾北斎は、宝暦10年(1760年)、本所南割下水(現在の墨田区亀沢周辺)で生まれました。90年の生涯のほとんどを墨田区内で過ごしながら、優れた作品を数多く残しました。1760(宝暦10)年9月23日、本所南割下水(墨田区亀沢)に生まれた葛飾北斎は、浮世絵の役者絵を出発点として、狩野派、光琳派、大和絵など、さまざまな流派の技法を学び、新しい画風をどんどん確立させて、多君名作を遺しました。代表...
地域タグ:墨田区
葛飾北斎生誕の地を巡る(1) ひがしん北斎ギャラリー&葛飾北斎ブロンズ像
墨田区両国の東京東信用金庫(ひがしん)両国本部ビルの正面玄関や壁面に葛飾北斎の作品が展示されています。正面玄関「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」ひがしん北斎ギャラリー「新板浮絵 両国橋夕涼花火見物之図」「両国夕涼」葛飾北斎ブロンズ像令和6(2024)年1月16日、北側に葛飾北斎のブロンズ像が設置されました。富士山をアルミエキスパンドメタルの素材で描き、重さ約300キロの葛飾北斎のブロンズ像を設置したそうです。また、...
地域タグ:墨田区
蒲原に伝わる浄瑠璃姫の伝説(3)浄瑠璃姫の墓、浄瑠璃姫の碑、吹き上げの六本松
蒲原の新栄六本松公園の北側には、浄瑠璃姫の墓、浄瑠璃姫の碑、吹き上げの六本松があります。浄瑠璃姫は、義経を追ってここまで来ましたが、力尽きてここ吹き上げの浜で亡くなったといいます。浄瑠璃姫の墓浄瑠璃姫の碑里人は浄瑠璃姫を哀れんで丁重に葬り、塚の上に目印として松を6本植えたと伝えられています。 吹き上げの六本松浄瑠璃姫の碑・吹き上げの六本松浄瑠璃姫に関する伝説はいくつかあり、そのひとつがここ蒲原町に...
地域タグ:清水区
蒲原の駿河モータースの横に源義経硯水跡があります。 ここは蒲原木之内家菩提所で、1167年(仁安2年)に作られ、蒲原一族初代・清實以後と浄瑠璃姫等の五輪の墓が建てられました。 1174年(承安4年)義経が東に下る時にこの菩提所の涌き水を使って浄瑠璃姫に手紙を書いたといわれています。 手紙を読んだ浄瑠璃姫は、義経を追いかけて来たのですが、病で倒れこの地で亡くなりました。1817年(文化14年)には地蔵尊が建てられ、「...
地域タグ:清水区
静岡県の蒲原にも浄瑠璃姫伝説が伝わっています。東海道本線「新蒲原駅」より徒歩15分ほどのところにある光蓮寺光蓮寺は1620(元和6)年に開山した浄瑠璃姫を供養するお寺です。浄瑠璃姫の供養を行っていたのは、もとは慶徳寺というお寺でしたが、慶徳寺から浄瑠璃姫の位牌を引き継いだのが光蓮寺なのだそうです。浄瑠璃姫は、奥州に向かった源義経を追いかけ、富士川のあたりまで来たのですが、蒲原の地で命を落としてしまいます。...
地域タグ:清水区
墨田区両国二丁目にある回向院は、振袖火事と呼ばれる明暦3年(1657)に起きた明暦の大火の焼死者10万8千人を幕命(当時の将軍は徳川家綱)によって葬った万人塚が始まりで、のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬されました。明和5年(1768)以降には、境内で勧進相撲が興行され、これが今日の大相撲の起源となり、明治42年(1909)旧両国国技館が建てられました。回向院明暦三年(1657)、江戸史...
地域タグ:墨田区
十思公園の隣に立つ大安楽寺もかつては一帯が伝馬町牢屋敷でした。牢屋敷は、1875年(明治8年)に廃止されましたが、土地の買い手がなく、跡地は荒廃。この地で処刑された人々を慰めるため、当時が建立されました。高野山金剛峯寺より賜った弘法大師像を本尊とし、処刑された人の霊を弔うため、延命地蔵がおかれました。 新高野山大安楽寺縁起 抑も此の地伝馬町は 江戸時代 徳川幕府の牢獄の所在せし所なり。当山...
地域タグ:中央区
寛政3年(1791年)、寛政3年(1791年)寛政の改革の出版取締令により、山東京伝の黄表紙『箱入娘面屋人魚』、洒落本『仕懸文庫』『青楼昼之世界錦之裏』『娼妓絹籭』が摘発され、京伝は判決が出るまでの数日、牢屋に留め置かれました。京伝は手鎖50日で自宅謹慎、蔦屋重三郎は身上半減(家産の半分を没収される)の処分を受けました。江戸時代の牢屋は、裁判を待つ者や有罪が確定した者を刑の執行まで収容するところでした。正直で小...
地域タグ:中央区
松平定信の寛政の改革により、出版統制を受け始めると、蔦屋重三郎は、喜多川歌麿に「美人大首画」を描かせ、これが流行を呼びました。喜多川歌麿 「名所腰掛八景 鏡」大首絵(おおくびえ)は、主に江戸時代に描かれた浮世絵の様式のひとつで、歌舞伎役者や遊女、評判娘などを半身像や胸像として捉えて描いた浮世絵版画を指す。役者の演じる表情や遊女の美貌を間近で鑑賞したいという要求から生まれたものである。享保(1716年 - 1...
愛知県新城市にある鳳来寺の表参道の「歴史が歩いた坂道」には、「浄瑠璃姫と義経」の彫像があります。平成8(1996)年3月に整備され、彫像は、鈴木武右衛門氏によるものです。 源義経浄瑠璃姫数年前に見たときも思ったのですが、あまりに芸術的過ぎて、理解できなかったのですが、この苦しみもがいている様子が、二人の悲恋を表しているのでしょうか。 浄瑠璃姫と義経 平家が都で全盛を誇っていたころ、岡崎の近くの矢作...
地域タグ:新城市
岡崎の本願寺三河別院は、浄瑠璃姫が観月の宴に興じたところとされ、姫の死後、侍女・更科がここに草庵を営んで菩提を弔ったといいます。 境内には観月遺跡と更科の墓と伝わる供養塔があります。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
地域タグ:岡崎市
兼高長者は、身を投げた浄瑠璃姫を誓願寺に葬り、十王堂を建てました。本堂 十王堂そして、義経と浄瑠璃姫の木像を作り、義経が姫に贈った薄墨の笛、姫の鏡とともに堂内に安置したといいます。 2005年に浄瑠璃姫と義経のウォーキングに参加した時に、その寺宝を見せていただきました。 義経と浄瑠璃姫 色鮮やかでとても美しいですね。 義経と浄瑠璃姫の木像義経の薄墨の笛 浄瑠璃姫の墓にほんブログ村 歴史ブログランキングに...
地域タグ:岡崎市
浄瑠璃姫が、平家の目を逃れ、隠れ住んだところに建つ寺院で、通称・浄瑠璃寺と呼ばれます。元は岡崎曲輪(くるわ)付近にあったといいます。浄瑠璃姫の父・兼高長者が瑠璃光山安西寺を開いたのが始まりで、後に光明院浄瑠璃寺に改称したとされました。義経と浄瑠璃姫の画像と、浄瑠璃姫の守本尊である尊薬師如来が安置されています。2005年に来た時には、↓のような義経と浄瑠璃姫の幟が立っていたのですが、この時はなくなってい...
地域タグ:岡崎市
本日の紀行で紹介されたので再掲します!長谷川平蔵・遠山金四郎住居跡のモニュメンが、都営新宿線菊川駅からほど近い丸山歯科医院の前に建っています。この場所が、邸の東端にあたるそうです。長谷川平蔵は明和元年(1764)父の屋敷替えによって築地からこの地に移り住みました。当時の敷地面積は1,238坪(4,085)におよんだと言われています。平蔵は、寛政7年(1795)にこの地で亡くなり、後に屋敷替えとなって代わりに入ってきた...
地域タグ:墨田区
国道一号線沿いの岡崎公園大手門に入る手前の左側にも「浄瑠璃姫の墓」が残っています。なぜここにも?岡崎城天守閣の北に、浄瑠璃姫が幽閉されたというところがあるそうなのです。そこが現在どこに当たるのかわかりませでしたが。また、浄瑠璃姫の墓の前には、三河国額田郡生まれの歌舞伎役者「初代市川団蔵の碑」があります。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴...
地域タグ:岡崎市
浄瑠璃姫の菩提を弔うために、侍女の十五夜は、冷泉という尼になり、浄瑠璃姫が身を投げた淵の川岸に庵室を結び、冷泉寺としました。後にこの地に竜沢永源が、浄瑠璃姫の供養のため、創立したのが成就院とされています。境内の墓地には浄瑠璃姫の墓、 侍女・冷泉の墓、穴観音、足跡岩があります。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加し...
地域タグ:岡崎市
岡崎の安心院の創建は寿永年間(1182~83)、源義経が浄瑠璃姫の菩提を弔うため開いたのが始まりと伝えられています。 義経の念持仏で浄瑠璃姫が賜ったと伝わる十一面観世音菩薩坐像を安置しています。当初は妙大寺という七堂伽藍が立ち並ぶ大きな寺でしたが、戦火により衰退し、今では本堂と庫裡を残すのみです。 駒札によると、文安5年(1448年)に成瀬国平が大檀那になってこの寺を建立、木像の釈迦如来像を寄進し、以...
地域タグ:岡崎市
浄瑠璃姫が身を投げたという菅生川沿いの浄瑠璃広場には、浄瑠璃ヶ淵跡の句碑が建っています。浄瑠璃ヶ淵跡今からおよそ800年程前、鎌倉街道矢作の宿に「浄瑠璃姫」というそれは美しい姫がいました。姫の出生については諸説がありますが、何れにしてもこの辺りの支配的立場にあった者の家に生まれたようです。 承安四年(1174)、浄瑠璃姫十六歳の春のこと、とき、源氏再興の大望を抱き、金売り吉次を伴い東北地方きっての豪族藤原...
地域タグ:岡崎市
六所神社は37代・斉明天皇の勅願により、奥州の六所大明神を歓請し創立したと伝えられています。 松平氏が三河入国以来、代々崇敬厚く、徳川家康の産土神として江戸幕府の厚い保護を受けました。楼門は、4代将軍・徳川家綱が寄進したものといわれています。現在の社殿は寛永11年(1634年)~寛永13年にかけて三代将軍・徳川家光が再建したものです。 日光東照宮を思わせる華麗な社殿ですね。にほんブログ村 歴史ブログランキ...
地域タグ:岡崎市
浜松市頭陀寺(ずだじ)町に残る「松下屋敷」は、戦国時代の武将、松下氏の館跡と伝わる場所で、頭陀寺城とも呼ばれています。松下氏は今川氏の家臣で、引間城主飯尾氏に仕えていました。天正2年(1574年)頃、虎松(井伊直政)の母・ひよは、井伊直虎と祐椿尼の計らいにより、松下常慶の兄で、頭蛇寺城主・松下加兵衞の従兄弟である松下清景(源太郎)と再婚。清景は、鳳来寺から帰った虎松(井伊直政)を養子に迎えました。天正3...
今まで歩いてきた道、見学してきたところを対岸から眺めながら、浴龍池のまわりを歩いていきます。千歳橋松並木を通り、出口へと向かいます。急な斜面の登り下りを含め約3kmほど歩いてことになります。結構な運動をした感じでした(^^;また機会があれば、この素晴らしい修学院離宮を見学してみたいと思います。この記事をもって、修学院離宮の記事は終わりです。最後までお読みいただきありがとうございましたm(__)mにほんブログ村 ...
※修学院離宮の記事の続きです😊窮邃亭を出て、浴龍池の周りを歩いて行きます。池に映る樹々。まるで鏡のように映し出されています。土橋下離宮から歩いてきたところを上から見下ろすことができます。回遊式の庭園としてつくられているので、様々なアングルから池を中心とした景色を楽しむことができます。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキング...
豊国神社から東に約100m、妙行寺のすぐ北側にあるのが、加藤清正一族の円住院日誦上人によって秀吉をまつるために創建された太閤山・常泉寺です。境内には「秀吉手植えの柊」のほか、「秀吉産湯の井戸」、「秀吉の像」があります。しかし、常泉寺のあるところが秀吉出生地ではないという説もあります。秀吉の父・木下弥右衛門の死後、母は築阿弥と再婚しましたが、秀吉は築阿弥と折り合い悪く、いつも虐待されており、家を出て、遠...
今年の大河ドラマの主人公である豊臣秀長は、天文9年(1540年)、竹阿弥の子(一説には木下弥右衛門の子)、秀吉の異父弟(一説に同父弟)として尾張国愛知郡中村(現・名古屋市中村区)に生まれました。名古屋の中村公園駅の3番出口を出ると、すぐ目の前に、京都の平安神宮の鳥居を思わせる赤い大きな鳥居が見えます。この鳥居は豊国神社の鳥居として1929(昭和4)年に建てられたもので、豊国神社のある中村公園へと続く参道の入り...
続いて、上離宮の窮邃亭へ。窮邃亭は、創建当時から現存する唯一の建物だそうです。後水尾院によって造営された上の茶屋・下の茶屋の建物のほとんどが滅失または再建されているなかで、本建物は唯一、創建当時のものとされている。ただし、幕末頃には相当に荒廃していたようで、大幅な修理が加わっている。大きい中島の上に建ち、宝形造、杮葺、屋根頂部に瓦製の露盤を置き、その上に切子頭の宝珠を乗せる。南面と東面は縁および土...
新年あけましておめでとうございます。昨年も、たくさんの応援ありがとうございました。今年は、浜松がまた大河ドラマ「豊臣兄弟」の舞台のひとつになるかと思います。どうぞ今年もよろしくお願いしますm(__)m隣雲亭から浴龍池に向かいます。千歳橋中島と万松塢の間に架かる橋は、千歳橋という屋形橋で、東には宝形造、西には寄棟造の屋根を架け、宝形造屋根には金銅の鳳凰が飾られています。文政7年(1824年)の離宮改修時に、京...
隣雲亭は、 海抜150メートル、浴竜池との標高差10メートルのところに建っています。床、棚などの座敷飾りはなく、装飾は欄間の花菱文と釘隠にみられるほどの池を眺望するための簡素な建物です。当初の建物は延宝5年(1677年)に焼失し、現存する建物は文政7年(1824年)の再建。では、ここからの素晴らしい眺望をもう一度ご覧ください!今年も当ブログへの応援ありがとうございましたm(__)mお陰様で、また一年頑張ることができまし...
上離宮の表門に当たる御成門に到着!急な石段を上って行った先には、こんな絶景が広がっていました。眼下に巨大な人工池の浴龍池(よくりゅうち)と大刈込を中心とした庭園。浴竜池は、谷川を堰き止めて造った人工池で、堤防は高さ13メートル、延長200メートルに及んでいます。遠方には、借景の山々を望むことができます。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記...
楽只軒は、後水尾上皇の第8皇女・光子(てるこ)内親王のために1668年(寛文8年)造営された朱宮(あけのみや)御所の一部です。瓦葺、杮庇の建物。手前が「一の間」とその奥が二の間一の間は6畳で、狩野探信の「吉野山桜図」が描かれています。二の間は8畳で、「竜田川紅葉図」が描かれています。「楽只軒」の額は後水尾院の筆によるものです。上離宮に向かって、再び田園風景を眺めながら歩いて行きます。にほんブログ村 歴史ブ...
中離宮へ中離宮は、後水尾上皇の第8皇女・光子(てるこ)内親王のために1668年(寛文8年)造営された朱宮(あけのみや)御所が前身で、この地にはそれ以前、上皇の第1皇女である梅宮が出家して円照寺という尼寺を構えていました。上皇の離宮建設により、奈良八島の地へ移っていき、朱宮御所は上皇の死後、林丘寺(りんきゅうじ)という寺に改められました。1885年(明治18年)、楽只軒(らくしけん)と客殿を含む、林丘寺境内の約...
下離宮の参観を終え、松並木を眺めながら中離宮へ向かいます。明治天皇が行幸する際に、赤松を植樹し、砂利を敷き整備したことから御馬車道とも呼ばれているそうです。この辺りは、田園風景が広がり、比叡山、東山、北山が一望できます。離宮内には田んぼがあるとはびっくりでした。近くの農民が離宮内にあるた田んぼで作った米を献上していたそうで、今も宮内庁が農家と契約し、米・野菜を作っているとか。にほんブログ村 歴史ブ...
寿月観後水尾院行幸時の御座所となった建物。 当初の建物は岩倉殿(顕子内親王)の山荘から移築したものでしたが、享保年間(18世紀前半)に失われ、文政7年(1824年)に再建されました。 「寿月観」後水尾天皇の宸筆の額 東側に「一の間」、その西に「二の間」、その南に「三の間」と続き、三の間の西には5畳の茶室があります。二の間の北には4畳半、その北には10畳半の「玄関の間」が突出し、建物の北西端に式台玄関(御輿寄)が...
2015年の12月、京都の修学院離宮の見学をしてきました。早いものでそれからもう10年も経ってしまいました。なかなか予約が取れなかった離宮ですが、秋の紅葉シーズンが終わったあたりで、運よく参観予約の空きがありました。修学院離宮は、17世紀中頃、1653年(承応2年)~ 1655年(承応4年)に後水尾上皇の指示で造営された離宮で、上御茶屋(かみのおちゃや)、中御茶屋(なかのおちゃや)、下御茶屋(しものおちゃや)という3か...
泉岳寺の大石主税の墓の横に堀部安兵衛の墓があります。討ち入り後、赤穂浪士たちは4つの大名家の屋敷にお預けとなり、堀部安兵衛は、大石主税らとともに、伊予松山藩主・松平定直の江戸屋敷へ預けられました。 元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府より赤穂浪士へ切腹が命じられ、屋敷にて松平家家臣・荒川十大夫の介錯により切腹。享年34。主君・長矩と同じ江戸高輪の泉岳寺に葬られました。法名は刃雲輝剣信士。忠臣蔵:堀部...
続いて、大石主税の墓です。大石主税(大石 良金 おおいし よしかね)幼名は松之丞(まつのじょう)、通称は主税(ちから)。父は大石良雄。母はりく。元禄元年(1688年)に播磨国赤穂藩筆頭家老大石良雄の嫡男として赤穂に誕生。幼いころには疱瘡を患ったという。 元禄14年(1701年)3月14日(4月21日)、主君浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩が即日切腹、赤穂藩が改易となった時、良金は数え年で14...
大石内蔵助(良雄)の墓「良雄」は諱で、通称(仮名)は「内蔵助」。一般にはこの大石 内蔵助(おおいし くらのすけ)の名で広く知られています。 没年:元禄16.2.4(1703.3.20)生年:万治2(1659)江戸時代中期の赤穂事件の浪士47人の中心的指導者。名は正しくは「よしたか」。幼名は喜内。通称は内蔵助播磨国(兵庫県)赤穂藩の重臣の家に生まれ,父権内良昭の死後,祖父内蔵助良欽の家督を嗣ぐ。若くして家老職となった。石高1500石。...
続いて、浅野内匠頭のお墓です。冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士の戒名が読み取れます。浅野長矩あさのながのり(1667―1701) 播磨(はりま)赤穂(あこう)城主、5万3500石。広島浅野家の分家。妻は浅野長治(ながはる)の長女(瑤泉院(ようぜいいん))。1645年(正保2)浅野長直(ながなお)が常陸(ひたち)(茨城県)笠間(かさま)から赤穂に転封となり加里屋(かりや)城を築いたが、長矩はその孫で1675年(延宝3)に父長友(ながとも...
泉岳寺の赤穂義士の墓所に向かいます。義士墓入口の門この門は浅野家の鉄砲州上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築したものです。 赤穂藩主・浅野長矩の夫人・阿くり(瑤泉院)の墓瑤泉院(ようぜんいん、延宝2年(1674年) - 正徳4年6月3日(1714年7月14日)、生年については異説も)は、江戸時代中期の女性。赤穂事件で知られる赤穂藩主浅野長矩の妻。名は阿久里(あぐり/おくり)、阿久理・阿久利とも。 初代備後...
梵鐘・鐘楼堂大正2年・41世普天霊明(ふてんれいみょう)和尚代に作られた鐘で、朝の坐禅の時と夕方の閉門の時に撞いています。また、江戸から明治まで使われていた梵鐘は、現在ウィーンの国立民族博物館に所蔵されています。 主税梅大石主税が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていた梅です。 瑤池梅義士の墓守をした堀部妙海法尼が瑤泉院から賜った鉢植えの梅を移植したものです。 血染めの梅、血染めの石浅野内匠頭が田村右...
九郎助稲荷(くろすけいなり)は、江戸時代に吉原遊廓の廓内にあった稲荷社で、現在は吉原神に縁結び、所願成就、五穀豊穣の神様として祀られています。大河ドラマでは、綾瀬はるかさんが九郎助稲荷を演じていますね🦊東京都台東区千束に鎮座する吉原神社は、かつての吉原遊廓にお祀りされていた五つの稲荷神社と遊廓に隣接する吉原弁財天の合計6つの神社(神さま)が祀られています。吉原弁財天は、吉原神社と吉原弁財天本宮の2...
吉原遊郭の出入口は大門(おおもん)口だけの一方口とし、遊郭の周囲にお歯黒どぶ(御歯黒堀)と呼ばれる総堀をめぐらし、遊女が逃げないために設置されていました。お歯黒どぶという呼称は、遊女がお歯黒の汁を捨てたところからいうとする説や、お歯黒の汁のようにいつも黒く濁っていたからとする説などがあるとのこと。今では埋め立てられてしまいましたが、現在は住宅地の中に石垣跡が残っています。千束四丁目交差点の仲之町通りに...
隅田川の堤防である日本堤から、吉原遊廓(新吉原)へ下る坂を「衣紋坂(えもんさか)」といいます。衣紋坂から曲がりくねった「五十間道(ごじゅっけんみち)」が吉原の入口の大門まで続いており、この道の入口にあるの柳は、見返り柳(みかえりやなぎ)と呼ばれています。見返り柳は、遊廓の入り口付近に生えた柳のことで、遊廓で遊んだ男が、帰り道に柳のあるあたりで、名残を惜しんで後ろを振り返ったことからこの名がついたそ...
新吉原は、江戸時代、浅草の北部(東京都台東区千束四丁目)にあった遊郭で、明暦三年(1657)の大火後、日本橋葺屋町にあった吉原遊郭が移転してできました。蔦屋重三郎はこの地で育ち、新吉原に詳しく、彼の作った吉原細見は、従来のものとは異なり、大変評判になりました。吉原大門跡 吉原大門と耕書堂 吉原大門と耕書堂 明暦三年(1657年)の大火後、日本橋にあった吉原遊郭は幕府の命により浅草千束村(現台東区千束)に移され、「...
明和9年2月29日(1772年4月1日)に明暦、文化3年の両大火と並ぶ江戸の三大火事の一つ明和の大火が発生。2月29日正午過ぎ、目黒行人坂大円寺から出火した火が南西の強風にあおられ,麻布・芝から江戸城東域、さらに日本橋・神田・下谷・浅草・千住まで延焼。類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382、山王神社、神田明神、湯島天神、浅草本願寺、湯島聖堂も被災し、死者は1万4700人、行方不明者は4000人を超えたといいま...
京都市上京区に鎮座する櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)は、上賀茂神社と下鴨神社に奉仕した斎王の御所の跡地に建てられ神社です。貞観元年(859)、文徳天皇の皇后・藤原明子(染殿皇后)の所願によって春日明神を勧請したので、春日神社といわれています。社名の「七野」とは、春日、伊勢、賀茂、石清水、平野、松尾、稲荷の七社を合祀したという説、内野、北野、平野、柏野、紫野、上野、蓮台野の七野の惣社であること...
では、鹿王院の中門をくぐってみましょう。中門本庭は舎利殿前に広がる嵐山を借景とした庭園で、苔で覆われ、石組と植え込みを配した平庭式枯山水庭園。「鹿王院庭園」の名称で京都市の名勝に指定されています。庫裏寛文年間(1661年 - 1673年)の再建。客殿単層入母屋棧瓦葺の建物で、1890年(明治23年)再中興峨山和尚の代の再建。扁額「鹿王院」は、山門の『覚雄山』の額と同様、足利義満の筆。客殿から見た庭園。舎利殿へと進んで...
京都市右京区嵯峨北堀町にある鹿王院(ろくおういん)。前に紹介した曇華院に隣接しています。鹿王院は、臨済宗系単立の寺院で、山号は覚雄山。本尊は釈迦如来。開基は足利義満、開山は春屋妙葩。京都市右京区嵯峨にある臨済宗天竜寺派の寺。正称は覚雄山大福田宝幢禅寺。1379年(天授5・康暦1)足利義満が春屋妙葩(しゆんおくみようは)を開山に迎え,この地に宝幢(ほうどう)寺を開創し,さらに寺内に妙葩の塔所として開山堂を...
明けましておめでとうございます。昨年も皆様の応援のお陰で当ブログを続けることができました。2025年も皆様にとって明るく希望に溢れる1年となりますようにお祈り申し上げます。今年の大河ドラマ「べらぼう」の舞台は「江戸」が中心になりますが、各地の歴旅の記録も記事にしていく予定です。本年もどうぞよろしくお願いいたします。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブロ...
松尾大社の南400メートルの地に鎮座する松尾大社の摂社である月読神社は、月読尊のみ一柱を祀っています。 斉衡3年(856年)に水害の危険を避けるため、当地に鎮座され、以降周辺に月神信仰が広がったとされています。『源氏物語』には、第4帖「夕顔」、第6帖「末摘花」、第8帖「花宴」など、男女の逢瀬の場面に月が出てきます。神門舞殿拝殿以前、台風の被害があったようです(;_;)解穢(かいわい)の水月延石 神功皇后が筑紫に滞...
華厳寺(けごんじ)は、京都市西京区にある臨済宗の寺院。享保8(1723)、学僧鳳潭8ほうたん9上人が最福寺跡地に華厳宗の再興の為に当寺を創建。慶応4年(1868年)、慶厳が入寺して臨済宗に改められました。『源氏物語』第38帖「鈴虫」では、光源氏が、女三の宮の御殿の庭に鈴虫を放ち、彼女の気を引くという場面が描かれています。八代目住職 台巌和尚が鈴虫の音に開眼し研究を始め、鈴虫を四季を通して飼育しているため、通称「鈴...
宇治川の鵜飼は平安時代からの歴史を持っており、『蜻蛉日記』には、天禄2年(971)奈良の長谷寺に参詣した藤原道綱母が川岸から鵜飼を見物しかがり火を焚いた数え切れぬほどの鵜舟が鮎を捕る様子が記されています。蜻蛉日記(岳亭春信画)平安時代の後期になると、仏教の教えの影響をうけて次第に宇治川での殺生が戒められるようになりました。平安貴族の没落と共に 衰退しましたが、大正なって再興され、現在では宇治の夏の風物...
宇治橋の上流に位置する恵心院(えしんいん)は、境内に年中さまざまな花が咲き、「花の寺」として知られています。山号は朝日山。本尊は十一面観音。弘法大師空海によって開かれ、唐の青龍寺に似ていたため、龍泉寺と名付けられたと伝わっています。寛弘2年(1005年)、「往生要集」の著者として名高い恵心僧都源信によって再興され、恵心院と呼ばれるようになりました。源信は、宇治川に身を投げた『源氏物語』宇治十帖のヒロイン...
小御所小御所は、中世より宮中に建てられるようになった御殿で、江戸時代は天皇が幕府の使者、所司代、諸侯などを謁見した所です。上段、中段、下段という畳敷の三室を並べた部分を中心とし、江戸時代には、その四方に板敷の廂(ひさし)をつけた様々な様式に対応できる実用的なつくりとなっていました。明治維新の際、徳川慶喜の処置を決めるための「小御所会議」が開かれた場所としても知られています。御池庭小御所の東側にある池...
清涼殿清涼殿は、紫宸殿の北西にある入母屋造、檜皮葺の建物です。 平安時代の内裏においては清涼殿が天皇の居住の場でしたが、天正期に御常御殿(つねのごてん)が造られて以降、天皇の日常生活の場は御常御殿へ移り、清涼殿は天皇の執務と儀式の場となりました。天皇はここで、四方拝、小朝拝、叙位、除目 (じもく) などの公事を行ないました。今の京都御所の清涼殿は、1885年造営されたもので、平安時代の様式をほぼ復元してあり...
正殿の紫宸殿では、高御座(たかみくら)と御帳台(みちょうだい)を見学できます。紫宸殿本来は、天皇の私的な在所である内裏の殿舎の一つでしたが、平安中期以降、即位の礼や大嘗祭などの重要行事も紫宸殿で執り行うようになりました。入母屋桧皮葺の高床式宮殿建築。檜皮葺屋根実物模型『源氏物語』第1帖桐壺では、桐壺帝の第一皇子(後の朱雀帝)の元服の儀が催されています。高御座紫宸殿の中央に置かれている高御座は、即位礼...
新御車寄新御車寄とは、大正4年(1915)の大正天皇の即位の礼に際して、馬車による行幸を迎えるために新設された玄関です。天皇の行幸の際には、内裏の南側にある建礼門から出入りされるのが伝統を踏まえて新御車寄も南向きに建てられています。月華門本瓦葺丹塗十二脚門建礼門京都御所の南に位置する正門で、南御門とも呼ばれる檜皮葺切妻屋根の四脚門。天皇が行幸される際や譲位後に上皇となり仙洞御所へ遷御される際に使用され...
諸大夫の間諸大夫の間とは参内者の控えの間であり、格式の高い順に東から虎の間、鶴の間、桜の間と続く3室の総称とされています。御車寄の昇殿が許された高位の者以外は、諸大夫の間の西側にある沓脱石(くつぬぎいし)から昇降し、身分ごとに各室に控えました。古来、内裏では主要な御殿への昇殿が許される公卿・殿上人と、そうでない諸大夫との間には厳格な区別がありました。虎の間と鶴の間が小紋高麗縁の畳であり、それらの部屋...
12月初旬、京都御所の秋の特別公開「宮廷文化の紹介」に出かけて来ました。京都御所は通年公開していますが、秋と春の特別公開では普段見ることのできない部屋や調度などが公開されます。室内空間を再現した展示は35年ぶりだそう。この日は最終日でもって、日曜でしたので、大勢の見学者で列を成していました。入場口で荷物検査を受け、見学ルートに沿って進んで行きます。天皇の住まいである清涼殿の「西廂(にしびさし)」の調度...
京都市右京区嵯峨北堀町にある曇華院(どんげいん)は、単立宗教法人の尼寺。鹿王院に隣接しています。本尊は十一面観音。曇華院門跡とも呼ばれています。普段は非公開ですが、「秋の京都非公開文化財特別公開」で、本堂、庭園、茶室の他、尾形月耕(げっこう)が描いた源氏物語の錦絵など『源氏物語』にちなんだ寺宝や、源氏物語の世界が描かれている平安時代の遊び・「貝合わせ」の貝などが公開されました。かつて以仁王が住んでい...