元を取る

私が好きになれない言葉、考え方に「元を取る」というものがあります。

 

それは私も元を取りたいです。

損はしたくありません。

問題なのは、「本当に元を取ったのか」あるいは「本当に元を取れなかったのか」ということです。

 

ひとつ例を挙げて考えてみましょう。

 

レストランで食事をしたとき。

元を取る、取った、と言えるのは、料理がおいしかった、くつろいで食事ができた、というような場合でしょう。

せっかくの外食です。

おいしい方がいいに決まっているし、ちょっと冒険してしゃれたメニューを頼み、結果おいしくないのだったら、普段よくいくおなじみの定食屋で定番のメニューを頼んだ方がよかった、そんな気持ちにもなります。

ですが。

それは結果論です。

さらに言えば、今後の選択肢に対する審美眼は向上します。

 

このくらい考えて、それでもなお対価に釣り合わない、そう思えたときは初めて元が取れなかったと言いたいです。

 

身もふたもないことを言うようですが、生きていくうえで損をすることは織り込み済みです。おいしくない料理に出会うことも織り込み済みです。

おいしくない料理との出会いは元を取れなかったわけではなく、次に出会うおいしい料理に対する前菜でしかないのです。長期的な視野が必要なのです。

 

その長期的な視野の欠如は、なんだかあさましく見える、それが私が「元を取る」という言葉が好きになれない理由です。

 

 

2025年3大ニュース 後編

2025年3大ニュース。

前編はこちらです。

 

 

前編ではひととおり3大ニュースを発表しました。

ですが、あらかた記事をまとめた後の12/29に、一気に1位に躍り出る出来事が起きました。こちらが最終順位の1位となります。

 

では発表します。

 

1位(最終)

イップスをかなり克服

これはまず、以下の記事を見ていただくのがいいでしょう。

 

 

 

この記事に書いたとおり、私は中学生のころ急にボールが投げられなくなりました。

考え込む性格が災いして、どうしたらボールが投げられるかわからなくなったのです。

ちなみに、私は右利きですが、投げられなくなったのは右腕のみです。

そうです。感性で動かすことができる左腕は、余計な思考が邪魔しないので今に至るまで普通にまっすぐ投げられます。

 

12/29、Fくんからキャッチボールのお誘いがありました。

かつて私がFくんにいつかキャッチボールをしようと呼びかけたものに対するもので、Fくんは私がイップスを患っていることも知ってのことです。

 

16:00、公園に集合します。

 

投げられるはずの左腕で投げます。

 

うまくいきました。

 

そしておそるおそる、右のアンダーハンドから投げてみます。

 

うまくいきました。

アンダーハンドではもともとイップスは発症していないのでここまでは想定内。

 

 

そして。

 

 

いよいよ問題の右腕のオーバーハンドです。

 

先ほどのアンダーハンドとは比べ物にならないくらいおそるおそる投げます。

 

 

だめでした。

怖さのあまり投球モーションを途中でストップしてしまいました。

 

仕切り直し。

 

シャドーピッチングとは比べ物にならないぎこちないフォーム。

 

投げました。

 

Fくんは胸元に飛んできたボールを、しっかりとキャッチしました。

 

成功です。

 

しかし問題はここから。

イップスの克服という意味では、反復して成功しなければなりません。

 

そして。

 

結論としては、多少の乱れはあったものの、約1時間のキャッチボールの間おおよそしっかりと、普通に投げることができました。

 

このイップスを克服するために、何が原因かしっかり考えて、分析して、その成果が出たと言えます。

 

これは大きい。

 

常日頃から、神頼みするのは自分ができることをすべてしてからだと思っているし、また、芸術においては感性という言葉を使う前に最低限の知識や技術を必要とするものと思っている私です。

得体の知れないイップスという敵に、冷静な分析、行動、そして勇気で対処したのですから価値があります。

そして、このきっかけを与えてくれたFくんのアシストも忘れてはいけません。

 

年の瀬、日が沈みもはやボールを目で追うことはできなくなった公園。

 

次はグローブを使ってキャッチボールすることをFくんと約束し、家路につきました。

 

 

 

2025年3大ニュース 前編

年末です。

極私的今年の3大ニュースを考えてみました。

 

第3位

電動歯ブラシの使い方を知る

もうおそらく15年ほど電動歯ブラシを使っています。

手動の歯ブラシより汚れが落ちる実感があり愛用しています。

 

ところがです。

私はこの15年、ずっと間違った使い方をしていました。

 

そうです。

 

電動歯ブラシを手動の歯ブラシと同じ使い方をしていた、いわばゴシゴシ磨いてしまっていたのです。

実際は、その「ゴシゴシ」という動きは電動部分が担っているので、ユーザーは歯の表面を電動歯ブラシを添わせるだけでよかった、いえ、添わせなければならなかったのです。その際に力はいらず、いえ、歯ブラシの先端で歯を磨くためには力を入れてはならず、そのことも知りませんでした。

歯茎にかけ続けた負荷を思うとやりきれません。

 

第2位

◯写真のおもしろさに少し開眼

以前もブログで書きましたが、

旅の記録などを目的に期間限定でインスタを始めました。

その結果、ぼんやりした自分の性格が故に見逃していた、日常の素敵な光景に目がいくようになりました。

かつてまったく興味のなかった絵画の世界が、「あれ?好きかも!」と急におもしろく感じたあの瞬間に似た感覚があり、写真のおもしろさに惹かれつつあります。

 

第1位

〇服装を変える

心身ともに限界を感じていた夏。

人間の認識する情報の8割は視覚、という話に基づき、仕事の際の服装をすべて変えました。

自分の目に映る自分の姿を変えて、認識に異なる回路をもらたそうと思ったのです。

月曜日から金曜日、つまり5日分の服装を変えました。5着スーツを買ってもよかったのですが、ぜいたくな気がしないでもなかったので、ネクタイのみを変えた日もあります。

そんな中、最も大きかったのは、スーツにカットソーを合わせるスタイルを導入したことです。世間的にはオフィスカジュアルとしてある程度用いられることもあるスタイルですが、私の会社では誰一人そんな人はいません。

 

ここで確信があります。

 

いずれこのスタイルを真似する同僚が絶対に出てきます。

ただし彼らが選ぶカットソーは、ユニクロ、あるいはお高いブランドだとしてもうまくコーディネートされたものではないことでしょう。

私はカットソーのみならず、靴、靴下、ベルト、肌着に至るまでこだわって今のスタイルにたどり着きました。かっこよくなろうとしてではありません。しっくりくるものを自分なりに追い求めただけなのです。

 

彼らがカットソースタイルに馴染むころ、私はどこにいるでしょうか。

よりカットソースタイルを深めているか、和服でも着ているか。

 

そんなことを考えながら、2025年3大ニュースを閉めます。

 

 

 

・・・、と思っていたところ、年末12/29、文句なしの1位となる出来事が起きました。

 

これは一つの記事として書いた方がよさそうです。

 

また改めて。

 

 

 

ソール・ライターと週間予報

先日、お試しでインスタグラムを始めました。

頑なに宣伝しないと決めていた自分のYouTubeチャンネルを、少しくらい宣伝してみてもいいのでは、と思ったためです。

始めたタイミングは折しも、先月東欧やコーカサス地方をめぐる旅に行く直前でしたので、旅の間はインスタを意識していつもより多めに写真を撮りました。

 

私がこれまでインスタをしてこなかった理由のひとつに、対象や構図を意識するのが面倒で、いわゆる「映え」を考えることが、それはあたかも仕事をしているように感じられたから、というものがあります。

実際今回の旅行でもそれは感じました。旅の流れが止まってしまうような、現実に引き戻されるような感覚です。

 

ところが思わぬ副産物がありました。

私は普段からぼーっとしている自覚があり、すぐ自分の世界に入り込んで、今何をしていたのか忘れてしまうことすらよくあります。

その間、多重人格の自分が悪さをしているのではないかと心配になるほどです。

そんな私ですが、インスタを意識していると、素敵な瞬間を見逃すまい、と感性が常にオンになるのです。実際に、かつてなら見逃していたような、一見何気ない、でもきらりと光る写真を撮れた感覚もあります。

 

なんだか写真の面白さに開眼したような気がします。

現金なもので、もっといい写真が撮りたいという欲すら出てきています。

 

ソール・ライターという写真家がいます。

雨をモチーフとした作品が印象的で以前から好きなのですが、今回の写真が好きになったことで一段とその魅力に惹かれるようになりました。

 

そこで何が起きたか。

そうです。

自分でも雨の写真が撮りたくなってきたのです。

雨の喫茶店の窓辺なんて考えただけでどきどきします。

 

雨が苦手な私ですが、雨を心待ちにしている自分がいます。

雨を待つのは小学生のころの運動会以来。違うのはあの日の期待が運動会の中止を願う寂しいものだったのに対し、今回は素敵な写真を撮りたいという前向きなもの。

 

週間予報で次に傘のマークが現れるのはいつのことでしょうか。

 

 

 

美しいということ

先日、以下の記事でとあるバンドを批判しました。

 

 

音楽や絵画、その他芸術は、おおよそ美しくなければなりません。

美しさを表現するということは難しいことで、誰もができることではありません。

ですから、少なくとも「自分はまだ未熟だが、こんな作品が美しい、かっこいいと思っており、現状できる精一杯を表現したのがこれなんだ」、と言えるものでなければなりません。

 

美しさとは、別にきれいなハーモニーや印象派風の滑らで高貴な絵である必要はありません。ときに、工事現場の騒音がグルーヴィに聞こえたり、偶然にじんだ墨汁の染みが静謐さを感じたり、形は様々です。

 

必要なのは、自分が思う美を、作品に込めることなのです。

 

長髪のギタリストがギターを弾いている姿がかっこよくて、ギターを買ってみた。

入口はそれでもいいでしょう。そして趣味で楽しむだけならそれでもいいでしょう。

 

ですが、作品として世に出すのであれば、世に評価を問うのであればそれだけではいけません。

そこには、先述の自分が思う美を込めなければならないのです。

中には感性だけでそれができる人もいます。

ですがそれはまれ。

凡人は惜しみない努力をしなければなりません。

美しさの欠如は、ばれるのです。

 

美しいということ。

それは、簡単なことではありません。

美しさの裏には、積み重ねられた泥くさい努力があるのです。